はなひらかねど

0523

「今日ってキスの日なんだって」
 夕食の席のこと。唐突に話題を変えた晴希に、咲子は思い切り怪訝な表情をした。そのあまりの冷たい視線に、晴希は苦笑いを零す。
「やっぱりそういう反応すると思った」
「渡辺が変なこと言うからでしょ」
「変なことってね……。一応オレ、咲子さんの彼氏のはずだけど?」
 しかも結婚前提のお付き合いなのに、と晴希はわざとらしく肩を落とした。明らかな演技だとわかるため、咲子は特に慰めは口にしないことにする。
「何? 渡辺は私とそういうことしたいわけ?」
「……どストレートに訊きますね、咲子さん」
「回りくどく言っても仕方ないじゃない」
「いや、それはそうなんだけど、ほら、その、恥じらいとかさ……」
「恥じらってる私想像してみなさいよ。とてつもなく気持ち悪いから」
 すこぶる真面目な顔でそう答える咲子に、晴希は堪え切れずふき出した。確かにそんな咲子は全く想像ができない。咲子の双子の妹・妙子だと思ったとしても、違和感は拭えなかった。
「……ちょっと渡辺。笑いすぎ」
「あ、ごめ……ちょっ、ツボ入っ……」
 なおも笑い続ける晴希に、咲子はさすがにムッとしたらしい。見事なまでの無表情になると、テーブルの上にの食器たちを無言で片付け始めた。
 それに気づいた晴希は、笑いを引きずりながらも、慌てて咲子の後を追って台所に向かう。
「ごめんって! 咲子さんがあまりにも真顔で言うからさー」
 そこでまた先ほどの咲子の表情を思い出し、晴希はまた小さく吹き出してしまった。咲子の表情が完全に固まる。しまったと思った時にはもう遅かった。
「咲子さーん? オレ、別に馬鹿にしてるとかじゃないよー?」
「そう」
「……怒ってる?」
「別に」
「いや、怒ってるでしょ」
「怒ってない」
 咲子の機嫌が悪い時は、必ず返答が簡潔なものになる。それは晴希が咲子と親しくなってから気づいた咲子の癖だ。多分、話すのも億劫だという主張なのだろう。今も見事にそれが当てはまっていた。
 咲子は淡々とした表情で、洗い物を片付けていく。その冷たい横顔を眺めながら、ふと晴希は咲子の表情を崩してみたいと思ってしまった。更に怒らせてしまうだろうとは思ったのだが、どうしても試さずにはいられない気持ちになる。
 殴られる覚悟を決めて、晴希は咲子との距離を少し詰めた。
「咲子さん、機嫌直してよ」
「別に怒ってないって――っ!?」
 振り返りかけた咲子の頬に、晴希は軽く触れるだけのキスをする。
 咲子の手から泡のついた皿が滑り落ちた。落ちた先は、幸いにも水を張った洗い桶の中。
「危ないなー。でも割れなくて良かった」
「な……」
「な?」
「何すんのよ、いきなりっ!」
「何って、仲直りのキス、かな?」
「普通そういうのは一方的にするもんじゃないでしょ!」
「じゃあ、事前に了承取ってからが良かった?」
「そういう意味じゃなくて……!」
 頬を押さえながら真っ赤になって抗議する咲子の姿に、企みが思った以上の効果を発揮したなと晴希は満足げにニヤニヤと笑う。それがまた咲子の神経を逆撫でするのだが、怒ったところで先ほどまでの無表情と比べると怖くも冷たくもなかった。
「咲子さん可愛いなー。これぞギャップ萌えだよね」
「ギャップ萌えとか気持ち悪いこと言わないでよ!」
「照れない照れない」
「照れてないっ!」
 咲子がいくら声を荒げても、晴希はニヤニヤ笑いを一向に収める気配がない。そのうち返す言葉も見つからなくなり、悔しいがだんまりを決めこむしかなくなってしまった。何とかして晴希に仕返しをしてやりたいところなのだが、残念ながらその術が何も思い浮かばない。
「それにしても、咲子さんならもっとしれっとしてるかなと思ったのに」
「……不意打ちであんなことされたら、誰だってびっくりすると思うけど?」
 羞恥の上に無愛想を塗りつけると、咲子は一息ついて何とかいつも通りに返そうとした。さすがに晴希もこれ以上咲子をからかうことはせず、穏やかな笑顔へと表情を改める。そのまま隣に並び、止まっていた片付けを手伝い始めた。
「キスってさ、場所によって意味が色々あるって知ってた?」
「意味?」
「そう。唇なら『愛情』、おでこなら『友情』みたいな感じ。何かツイッターでそんなのがまわってた」
 汚れと泡を洗い流しながら、咲子は「じゃあ、ほっぺたは?」と訊き返す。
 晴希はしばらく考え込んでいたが、すぐに微苦笑を洩らした。
「……忘れた」
「ちょっと、そこまでウンチク披露しといて何ソレ。中途半端!」
「いや、だって……。愛情とかは普通だし、オレと咲子さんの関係ならおでこが一番適切かなーとかって思ってたからさー。二十二個もあったんだから、全部も覚えてられないって」
「え、そんなにあるの? それを覚えて使い分けてる人いたら、かなりの女タラシね」
 眉間に皺を寄せて、嫌悪感を丸出しにする咲子に、晴希は「そうかもね」と笑いながら同意する。
 最後の食器を水切り籠にあげると、晴希は咲子に座って休むように促した。そして自分はゆったりとした手つきで最近買ったばかりのコーヒーメーカーを用意し始める。咲子と出掛けた際、アウトレットで見つけて割り勘で買った物だ。
 できあがったコーヒーを持って戻ると、咲子は読んでいたグルメ雑誌から顔を上げて、楽しそうに行きたいお店を指差した。それは、晴希も気になっていて、今度咲子を誘おうと思っていたイタリアンレストラン。咲子とは相変わらず食べ物の趣味が合うと思うと、自然と笑みが零れる。
 次の休みに行こうかと計画を立てながら、晴希は頬へのキスの意味を思い返していた。本当は意味を忘れていたわけではなかったのだ。
 頬へのキスの意味は、三つある。一つは『親愛』、一つは『厚意』、そしてもう一つは――『満足感』。
 晴希にとって、咲子と過ごす時間はいつも満ち足りた気持ちでいられる。相変わらず咲子に対する感情は恋愛とは言い難いのだが、それでも以前の友情の延長とはまた違う気がした。
 このままずっと、咲子とこの心地のいい時間を続けていきたい。
 そんな想いを抱きながら口に含んだコーヒーは、ブラックなのにどこかほんのりと甘かった。