はなひらかねど
第四章 はな さとりたり
晴希と咲子の関係は、周囲の声とは裏腹に、変わらず友人としてのものだった。そして二年も経てば、かつては二人の仲を怪しんだ者でも、本当に友達なのだと納得するに至っていた。
二人は大学を卒業後、当然ではあるが、それぞれの道を歩み始めた。
晴希は以前から働いていた店で本格的に修行を始め、咲子は小さな広告代理店へと就職。
学生時代と違い、生活のサイクルは大きくずれ、会う時間は少ない。それでも、二人の距離は変わらなかった。
料理に関しても、大学時代から変わらず、咲子に食べてもらっている。妙子ともあの一件以後は打ち解け、今では時々料理対決なるものをしていたりするほどだった。どうやら妙子の方も、晴希の存在が良い刺激となっているようだ。
卒業してからは、晴希が夕食当番制に参加できる機会は減ったのだが、それでも休みの日ともなると、積極的に参加をしていた。
今日は、ちょうどその晴希の当番に当たっており、咲子が家に来ることになっている。当初は妙子も来る予定だったのだが、仕事が忙しく来られないというメールが届いていた。
狭い台所で料理の仕込みをしていると、インターホンが鳴る。
咲子が来るには少し早いようにも思ったのだが、仕事が早く終わったのだろうと勝手に納得し、玄関のドアを開けた。
だが、そこにいたのは、咲子ではなかった。
「……何?」
悪いと思いながらも、そんな言葉が口をついて出ていた。
目の前に立つのは、かつて自分が付き合っていた、真面目で大人しげな――そして、最終的に晴希が恋愛を嫌になってしまった原因の女性だった。
実は、別れてからも何度も電話やメールがあったのだ。けれど、その内容は復縁を迫るようなものではなく、むしろ友達関係に戻ろうとしているような雰囲気だった。
もともと彼女は晴希と同じサークルに属していたし、別れたからと言ってどちらかがサークルを抜けたわけでもなかった。
その為晴希の方も彼女を邪険に扱うができなかったし、そうするつもりもなかった。
元通り、ただのサークルの仲間として接してきたつもりだったのだ。
だから、まさか今更、約束や連絡もなしに、自分のマンションにまで押しかけてくるとは思いもしなかった。
「晴希君に、話があって……」
彼女は消え入りそうな声で、そう告げる。
きっと、こういう姿を見て、守ってあげたいと思う男もいるのだろう。だが、晴希には残念ながらそんな感情は湧いてこなかった。
それよりも、こちらの都合もお構いなしに来ないで欲しいという思いの方が強い。もう少し、相手を気遣うことのできる性格だったはずなのに、と残念に感じてしまった。
「話って、電話とかメールじゃ駄目だったわけ? いきなり来られると、さすがに困るんだけど」
「あ、ごめんなさい」
強い口調ではなかったが、彼女は身を縮めて頭を下げる。少しばかりいたたまれなくなり、優しく聞こえるように努めて、晴希は続けた。
「もうすぐ友達来るから、手短に済む? そうじゃないなら、また別の日でいいかな」
「あの」
すぐに帰るかと思ったが、彼女は予想外にもそのまま話を続けるつもりのようだった。
何を言われるのかと身構えていると、「あの人と付き合ってるの?」と短く問いが寄越される。
『あの人』に該当する相手は、どう考えても咲子しか思い浮かばなかった。
本当に今更だと内心呆れ返ってしまう。大学時代の友人たちも、すでに咲子との関係は友情なのだと理解してくれているというのに、彼女は未だにそれを信じていないらしい。
それに、そんなことを聞いて何になるのだろう。
晴希は、今、自分の将来のために多くの時間を費やしている。もし恋人がいたとしても、相手のために時間を裂いている余裕はなかった。
そのことを、きっと彼女はわかっていないし、懇切丁寧に説明してやる気もなかった。
「咲子さんのことなら、友達だって随分前にも言ったと思うけど? それ以外の人なら、思い当る人いないし、大体、今は彼女いないから」
「でも、この間も、二人で歩いてるのを見掛けたわ」
「友達だったら一緒にいてもおかしくないだろ。それに、仮に俺が咲子さんと付き合ってても、関係ないよな?」
「そう、だけど……」
知らずきつい口調になっていた晴希に、彼女は徐々に項垂れ、声も萎んでいく。
同情心がないわけでもなかったが、それ以上に自分の生活に口を出されることの苛立ちの方が上だった。
「悪いけど、もう帰ってくれる? それから、今は誰とも付き合う気ないから」
「……わかった。本当に、ごめんなさい」
そう言って彼女が踵を返すのと、咲子が階段を上がってきたのが同時だった。
咲子と彼女の視線がばっちりぶつかる。
間が悪いと思った瞬間、彼女は弾かれるように駆け出し、咲子を突き飛ばすような勢いで階段を駆け下りていった。
晴希は慌てて咲子に近寄ると、呆然と手すりに掴まっている咲子を助け起こす。
「咲子さん、大丈夫?」
「う、うん。何? 修羅場?」
茶化すような咲子が訊ねる。下手に気遣われるより、冗談まじりのストレートな言葉の方が、晴希の気持ちを何倍も楽にした。「そんなもん」と苦笑を返すと、咲子を部屋へと促す。
「咲子さんと付き合ってるのかって訊かれた」
「今更? いい加減、みんなもわかってるでしょ」
「って俺も思ってたんだけどねー」
咲子を部屋に入れると、まずはお茶を用意し、二人揃ってローテーブルを囲んだ。
熱いお茶に気持ちが寛いでくるが、それでも苦々しさが拭い去れない。
彼女に悪意はないのだろうが、想いが真摯であればある程、晴希にとっては重過ぎるのだ。
彼女と自分は合わない。決定的に。
もし今また付き合ったとしても、大切に出来る自信は皆無で、彼女自身も常に晴希の顔色を窺うようになるのではないかと思う。そんな関係に、果たして意味があるのだろうか。
「もう、何で女ってこんな面倒なんだろー」
「モテる男は辛いわねー」
「笑い事じゃないって。あの子と別れたの、二年も前だぞ? もう、とっくにただの友達だと思ってたのに」
盛大に晴希が愚痴を零すのを、咲子はお茶をすすりながら涼しい顔で聞いている。
その表情に、晴希はそこはかとなく安堵を覚えた。
咲子は変わらない。
淡々として、冷静で、中立かつ公正な意見をくれる。押し付けもしないし、頭ごなしの否定もしない。頑張れと無責任な応援もしないし、過度の期待を寄せるわけでもない。
その居心地の良さが、今までの二人の関係を保ってこられた要因であり、とてもかけがえのないもののように思えた。
「咲子さんはそのままでいてね」
「……言われなくても、あんなに可愛らしくなれないわよ」
憮然と言い返す咲子が、どこか拗ねているようにも感じる。
確かに、晴希から見ても咲子はしっかり者で、何でもそつなくこなして、非の打ちどころがない。仕事の愚痴などもほとんど口にしないし、弱音も滅多に吐かない。
しかし、見る人によっては可愛げがないと思われたりもするだろう。
もしかしたら、咲子は自分でも気付かぬうちに、それをコンプレックスのように感じているのかもしれないと思うと、逆に可愛らしく思えてきた。
ただし、それを口にするときっと咲子は不機嫌になるだろうと思い、話を本題へと切り替える。
「それより、今日は期待してよ。かなりの自信作だから」
「そうなの? それは楽しみね」
「この間妙子さんが作ったヤツからヒント貰ったんだけどさ」
「それって、タエが悔しがるわよ。『私のアイデアー!』って」
「うん。そう言わせたくて作ったんだけどね」
咲子と話しているだけで、もやもやと胸の内を漂っていたマイナス感情がほどけていく。
気付けば、彼女との再会などすっかり忘れ、料理の話で盛り上がっていた。
PM10:30。
仕事を終え、大将への挨拶も済ませて、晴希は店を後にした。
白い息を吐きながら歩む道すがら携帯を確認すると、二件のメール表示がある。
一件は高校時代の友人からで、もう一件は例の彼女だった。内容は、先日の謝罪ではあったが、文末には「気が変わるまでいつまでも待ってるから」という一文。
大きく溜め息が零れてしまうのも無理はなかった。
申し訳ないのだが、たとえ今後誰かと恋愛する気になったとしても、彼女がその対象になることはないと断言できた。根本的に、合わないのだ。
一緒にいて苦痛だと感じた相手と、もう一度やり直したいとは到底思えなかった。
どうすれば、諦めてくれるのか。そんなことを考えながら、帰宅する。
上着をハンガーにかけ、コーヒーでも飲もうとお湯を沸かし始めた。
その瞬間、インターホンが鳴り、更に少々乱暴なノックの音が続く。驚いて固まってしまった晴希だったが、続いて聞こえてくるのは、「渡辺ぇ、いるんでしょお!」という明らかに酔っぱらった声。
慌てて玄関を開けると、アルコール臭の漂う咲子が倒れ込んできた。
「やっぱりいたぁ!」
「さ、咲子さん、声大きいって」
深夜とは言わないまでも、すでに十分遅い時間だ。声を抑えるようにと窘めると、咲子はあからさまに不機嫌そうな顔になる。
それでも近所迷惑になることはわかったのか、口を噤み、代わりに晴希の背中をバシバシと叩いた。
「痛っ! ど、どうしたの、咲子さん。何かあったわけ?」
こんな風にひどく酔った咲子は一度も見たことがなかった。酒が特別強いわけでもないのだが、自分の限界をしっかり把握して、自分を乱すほど飲んだりはしないのが咲子だ。
ましてや、非常識ともとれる時間に突然訪問するなど、咲子らしからぬ行動としか思えなかった。
「ちょっと、聞いてよぉ、渡辺ぇ」
頼りなく寄りかかる咲子の目が、完全に据わっている。支えながら奥に連れていき、座布団の上に座らせると、身体を支えきれないのかベッドに寄りかかり、今度は布団を殴り始めた。
「あんのハゲオヤジぃ、『女は大人しくお茶淹れてコピーとってりゃいい』だってぇ。一体いつの時代の話よ、それぇ。アンモナイトかシーラカンスかってぇの! しかも、私が提案した企画をさぁ、横取りして、さも『自分が考えましたぁ』みたいな顔しやがってさぁ」
呂律の怪しい言葉ながら、咲子がここまで酒を飲んだ原因がはっきりとわかった。
残念ながら、咲子は職場の上司や環境に恵まれていないらしい。今までは愚痴を吐き出さなかった分、ずっと自分の中に溜めこんでいたのだろう。そして、企画の横取りという行為に、咲子の不満が爆発したのだ。
咲子の内面に気付いてやれなかったことが、晴希は悔しかった。
けれど、それと同じくらい、今の咲子の姿を見られることが嬉しいとも感じていた。
「ほんっと、あのオヤジ、残りの髪の毛全部毟ってやりたいぃ!」
「うん、じゃんじゃん毟っちゃっていいよ。はい咲子さん、お茶」
熱いお茶を淹れて差し出すと、酔ってはいてもちゃんと礼を返してから飲む咲子に、思わず笑みが零れる。
しばらく咲子は管を巻いていたが、やがて睡魔に負けてしまったのか、そのままベッドにもたれて眠ってしまった。
仕方なくジャケットだけは脱がせて、咲子を布団の中へと移動させる。
咲子は気持ちよさそうに、無防備な寝顔を晒していた。
「……普通は、完全な据え膳状態なんだけどなー」
寝息を立てる咲子の顔を見つめながら、まったくそんな気が起こらないことに笑いがこみ上げる。
異性として充分に魅力があると思うのだが、どうしても『女』という括りで咲子を見たくない自分がいるのだ。
甘え合う関係も、尽くし合う関係も、それはそれでいいところはあるのだと思う。けれど、晴希の望む形ではけっしてなかった。
それよりも、今の咲子との距離感が、一番心地いい。男女の関係ではなく、対等で同志とも思えるような、そんな関係をずっと続けていきたい。
この先も、ずっと――。
そう考えて、ふとあることに晴希は気付いた。
「何だ、俺って結構偏見の塊だったんだな」
自分自身を鼻で笑うと、晴希は手早く寝間着に着替え、押入れから毛布を一枚取り出した。ローテーブルを脇によけ、電気を消すと、ベッドの横でそれにくるまる。
明日の朝、目覚めた咲子に朝ご飯を作ってやろうと思いながら、どこか満ち足りた気持ちを抱き締めて、ゆっくりと目を閉じた。
翌朝晴希が目を覚ました時には、まだ咲子は深い眠りの中にいるようだった。
起こしてしまわないようにと静かに着替えを済ませ、毛布を片付ける。それから冷蔵庫の中身を確認すると、朝食のメニューを素早く考え、その支度にとりかかった。
料理を始めて少し経った頃、ベッドの方から布団の擦れる音が聞こえてきた。
視線を向けると、まだ寝惚けた表情の咲子が、上半身を起こして晴希の方を眺めていた。
「おはよう、咲子さん。もうすぐできるし、顔洗ってきたら? あ、タオルは適当に使っていいよ」
晴希の声に、咲子は無言で頷く。まだ目が覚めきっていないのだろう。緩慢な動きで洗面所に向かっていった。
それを横目で見送り、晴希は朝食の仕上げに入る。
しばしの水音の後、洗面所から出てきた咲子は、うって変わっていつも通りのしっかりとした表情に戻っていた。
「すっきりした?」
「うん、ごめん。ありがと」
昨日の醜態を覚えているのか、咲子は少し気恥ずかしそうに微笑む。
晴希は出来あがった朝食をローテーブルに運びながら、気にしていないと明るく返した。
「それに、咲子さんのああいう姿、滅多に見れないから、嬉しかったし」
「それ以上言わないで。思い出すと恥ずかし過ぎるから」
「別に恥ずかしいことでもないだろ。大体、咲子さんは自分の中に溜めこみ過ぎ。もっと俺に吐き出していいんだからさ」
咲子を座らせると、晴希もその正面に胡坐をかき、さあ食べようと促す。
言われるまま咲子は手を合わせ、箸を手に取った。
思えば、咲子と今まで何度も食事を共にしてきたが、朝食は初めてだった。
一夜を共に過ごすことなどなかったので当然なのだが、少しばかり照れ臭い。けれど、悪い気分ではなかった。
「俺はさ、いつでも咲子さんの傍にいるから、もっと頼っていいよ」
咲子は自分一人で何でも解決しようとする。それが晴希には少し寂しかった。
自分は咲子に色々と力になってもらっているのに、咲子は晴希に協力を求めようとはしないのだ。
そういえば、咲子が何を目指し、どんな将来を思い描いているのかも聞いたことがない。
愚痴や不満も含め、そういうところでもう少し相談などをしてくれてもいいのにと、真剣に思っての言葉だった。
しかし、当の咲子は、「何か、プロポーズみたいよ、それ」と笑いながら茶化した。
頼られることが多かった咲子は、頼ることに慣れていないのだろう。そんなところばかり不器用なのだ。
「そう取ってもいいよ」
「え?」
茶化した咲子の言葉を、晴希はさらりと肯定した。
咲子は絶句し、茶碗を持ったままの姿勢で止まってしまう。
そんな咲子に笑みを向け、晴希は常と変らぬ口調で昨夜辿り着いた一つの結論を語り始めた。
「俺さ、色々考えたんだけど、結婚って恋愛感情じゃなくてもアリなんじゃないかなと思って。咲子さんなら一緒にいて楽しいし、気も合うし楽だし、ずっと一緒にいられる気がする。咲子さん的には、無理?」
問われた咲子は、呆然としたまま晴希の表情をまじまじと見つめていた。そこには晴希の言葉に対する嫌悪感などはなく、ただただ驚きの感情ばかり。
確かに唐突ではあると自分でも思ったのだが、不思議と咲子から拒絶されはしない予感があった。
やがて、考えが纏まったのか、手にしていた茶碗を置くと、ゆっくりと首を横に振る。
「無理、じゃないと思う。渡辺のご飯、美味しいし」
「って、そこ!?」
思わずツッコむ口調になった晴希に、咲子はくすりと小さな笑いを零した。
そして、出逢った頃に似たようなやり取りをしたなと思い出し、くすぐったい思いを感じながら、晴希も誘われるように笑い出す。
「あーあ、胃袋掴まれちゃったわ」
咲子の本心と裏腹のぼやきが、晴希の耳に優しく響いた。