はなひらかねど

第三章 はな ならなくに

 大学構内にあるカフェの一席で、咲子はレポート用の資料を広げながら晴希を待っていた。次の講義が晴希と一緒であり、その講義で課題として出されているレポートに関して、意見を交換しようという話になったのだ。
 咲子は丁度前の講義が休講だった為に、先に待ち合わせ場所であるこのカフェに来ていたが、晴希はまだ講義中なので、しばらくは現れないだろう。
 ぼんやりと待っているもの手持無沙汰ということで、専門用語満載の分厚い書籍と授業で配布されたレジュメ、丁寧に板書を写したノートなどを広げていた。
 その勉強道具で溢れ返ったテーブルの上に、突然二つのカップが置かれる。
 怪訝な表情で顔を上げると、知らない男子学生が立っていて、にっこりと微笑まれた。
「ここ、いいかな」
「席なら他に幾らでも空いてますけど」
 今は講義時間中の為、カフェ内には充分過ぎるほどの空席がある。それなのに、わざわざ咲子に相席を求めてくる時点で、ろくな男ではないと判断した。
 咲子の言葉が聞こえていないかのように、その男は正面の席に座り込む。テーブルに置いたカップの片方を差し出し、「これ、あげる」とまたも微笑んだ。
「結構です。知らない人におごってもらう謂れはないですから。それより、私はまだその席が空いてるとは言ってませんけど?」
「晴希、待ってるんでしょ? 岡本咲子さん」
 待っている相手を言い当てられ、加えてフルネームまで呼ばれてしまい、咲子は驚くよりもますます警戒して相手を睨みつけた。
 晴希のことを知っているということは、何がしかの繋がりがあるということは間違いないだろう。しかし、だからといって彼が咲子に話しかけてくる理由にはならない。
「そうですけど、それが貴方に何か関係ありますか?」
「晴希と付き合ってんの?」
 咲子の質問には全く答えず、そればかりか不躾な質問を寄越す男に、思わず咲子は怒鳴り返したくなった。が、公共の場であることをわきまえ、ぐっと怒りを我慢する。
「貴方、渡辺の知り合いなんでしょ? だったら渡辺に訊けばいいじゃない」
「アイツは、『彼女じゃない、友達だ』って言ってたよ」
「だったら、今更私に確認しなくてもいいんじゃないの? そういう質問が相手に不快感を与えるって、どうしてわからないのかしら」
 苛立ちの為、途中から丁寧な言葉遣いもなくなり、あからさまに棘のある台詞が口をついて出た。
 それでもその男は堪えていないのか、むしろニヤついた表情を増加させた。
「じゃあさ、俺と付き合わない?」
「ばっ……」
 口から飛び出しそうになった、「馬鹿じゃないの?」という言葉を無理やり飲み込むと、自らの冷静さを取り戻す為に、一旦深く呼吸する。
 それから咲子は相手をじっくりと観察した。
 顔立ちは整っている部類に入るだろう。もう少し爽やかに笑えば、女の子は騒ぐタイプなのかもしれない。
 ただし、自分が女性から好意を持たれやすいのだと自信があるらしく、その自信過剰さが見え隠れして品の欠片もなかった。
 今も、咲子に断られることなど、微塵も予想していないように思える。
 同時に、咲子に対して純粋な好意があるわけではなく、興味本位、もしくは外見などから判断して声をかけてきたにすぎないのだろうとわかった。
「どうして?」
「え?」
 咲子の淡々とした返事は、男の期待を大きく裏切ったのだろう。それどころか、何を言われているのかもいまいち理解していないようだった。
「『どうして』って、何が?」
「だから、どうして私が『はい』って返事をすると思うの?」
「い、いや、別にそんなことは思ってないけど……」
「そう? 私にはそんな風には思えなかったけどね。まあいいわ。答えはNOよ。はい、終わり」
 強引に話を打ち切ると、咲子は再び資料に目を落とし、ポイントとなる部分をノートにメモし始めた。
 男はしばし呆然としていたが、すぐに焦りを滲ませてテーブルに手をつき、咲子の顔を覗き込むように話しかけてくる。
「お、終わりって……。別に晴希と付き合ってないんだろ?」
「そうよ。渡辺は友達。でもそれと、貴方と付き合わないことには何の関連性もないじゃない」
「彼氏いないから、晴希とつるんでるんじゃないのかよ?」
「彼氏がいようといまいと、渡辺は友達。それに何か問題でも?」
「友達とか言って、本当は晴希のこと好きで一緒にいたいだけだろ」
 咲子の冷淡な対応に腹が立ったのか、男は馬鹿にするような視線と口調で言い放つ。
 妙子よりも性質が悪いと、呆れとともに溜め息を吐き出すと、まっすぐに男を見つめた。
「そうやって、何でもかんでも恋愛と結び付けないと考えられないわけ? とんだ色ボケね。渡辺には友達選ぶようにアドバイスしとくわ」
「なっ!」
 逆上した男が立ち上がり、拳を振り上げる。けれど、その拳が振り下ろされるより早く、その手を掴んだ者がいた。晴希だ。
「何してんの、おまえ」
 低い声音と鋭い視線で男を威圧すると、男は苛立ちをぶつけるように晴希の手を振り払い、その場を後にした。
 時計を確認すると、講義終了時間よりわずかに早い。
「もう終わったの?」
「うん。教授がこの後用事あるって早めに終わったんだ。おかげで助かったよ」
「助かったのは、渡辺じゃなくて私でしょ。ありがと」
 素直に礼を言うと、晴希は照れを隠すように笑い、先程まで無礼者が座っていた席へと腰を下ろす。
 鞄から咲子と同じように資料やノートを取り出しながら、それにしても、と感心するように話し出した。
「咲子さん、強いなー。殴られそうになってんのに、全然動じてなかっただろ」
「渡辺が歩いてきてるの見えてたしね。渡辺なら、絶対止めてくれるでしょ」
「お! 俺信頼されてるー。何か嬉しいなー」
 満面の笑みを見せる晴希に、咲子も思わず笑顔になる。
 しかし、すぐに晴希の笑顔はしゅんと萎れてしまった。
「どうしたの?」
「いや、咲子さんに悪いことしたなーって思ってさ」
「別に渡辺は何もしてないじゃない。さっきの馬鹿男が勝手に言い寄ってきただけなんだし」
 あの男の行動に対し、晴希が謝罪をするのはおかしいだろうと咲子は思うのだが、どうやら晴希はそれでは納得できないようだった。
 咲子の言葉に首を振り、更に申し訳なさそうに眉尻を下げる。
「実はさ、アイツがちょっと前から咲子さんのこと気にしてるの知ってたんだよ。結構しつこく訊いてくるから適当にあしらってたんだけど、咲子さんが恋愛する気ないこととかまでは言ってなかったからさ。もし言ってたらこんな風にならなかったかなーって……」
 確かに晴希の言うことも一理あるのだが、それでも咲子は同意することはできなかった。
 何より、咲子の見た限りでは、晴希の一言があったからといって、それが防止策になったとは思えなかったのだ。
「でもアイツ、自分に自信があるんでしょ? そういうタイプは、落とそうと思った相手が恋愛に興味ないとか言ってたら、余計に躍起になって口説くに決まってんだから」
 かつて似たようなタイプの男から言い寄られたことがあった為にそう言うと、晴希は一瞬考え込むような素振りをする。
 そして、妙に納得した表情で、苦笑した。
「確かにアイツ、そういう性格だわ」
「ほら。だから渡辺が気にしなくたっていいわよ」
「あ、でもさ、咲子さんが俺のツレの所為で嫌な思いしたってのには変わりないから、お詫びさせて!」
「いいわよ、そんなの」
「てのは口実で、前に言ってたけど、俺の作った料理食べてくれない?」
 料理と言われて、出逢った当初にそんな話をしていたことを思い出した。
 もう数カ月も前の話ではあったが、そういえばお店に食べに行くことはあっても、手料理を振る舞ってもらったことはまだない。
 晴希が自分の腕に自信を持っているのは重々承知していたので、咲子にとっては楽しみな提案であった。当然、一も二もなく了解したいところではあったが、一つ気がかりなことがある。
「ねえ、それっていつ? 今日だとちょっと都合悪いんだけど」
「あ、ごめん、何か用事入ってた?」
「用事ってわけじゃないけど、今日は私が晩ご飯作る番なのよ」
「そっか。交代で作ってるんだっけ」
 すぐに納得した様子の晴希だったが、しばらく考えると、じゃあさと新たな提案をした。
 違う日の誘いだと思っていた咲子だったが、その提案は予想を大きく外れていた。
「咲子さん家で、俺が作るとか駄目? もちろん、妙子さんの分も」
「え? いいけど、別に今日でなくたっていいのよ? 他に空いてる日ないの?」
「なくはないけど、実は昨日の内に仕込みしちゃった材料があるんだよね。また次にって言ってたら、いつになるかわからないし、それに妙子さんって学校行ってるんだろ?」
 なるほど、と晴希の考えをすぐに理解できた。
 仕込み云々もあるけれど、晴希にとってはちゃんと学校で学んでいる妙子にも食べてもらえるというのは、魅力的なことなのだ。
 確かに、咲子は美味しいか美味しくないかの判断はできる。しかしそれは、あくまでも個人的好みの範囲でしかない。
 だが、妙子ならば、その料理の長所だけでなく短所にも気付けるだろうし、それを指摘した上で改善案を示してくれる可能性もあるのだ。
 ただ一つ、気がかりなことは、妙子の性格だった。
「タエ、渡辺が来たら多分うるさいけど、それでも大丈夫?」
「覚悟しとくよ。それに、俺もサークルの面子から結構うるさくつっこまれてるしね」
 お互い苦労するよねと晴希が苦笑いすると、咲子も溜め息まじりの笑いを零すしかなかった。


 その日の講義が終わると、まずは晴希の住むアパートに二人で向かった。仕込みが終わっているという材料を取りに行くためだ。
 足りない食材は、途中でスーパーに寄って買い足し、それから咲子の自宅へと向かう。
 家に辿り着くと、まだ帰宅していないと思っていた妙子が、奥から顔を出した。
「もう帰ってたの? 火曜は遅いんじゃなかった?」
「今日は実習が早く終わった……って、サキが男連れてるぅ!」
 目敏く晴希の姿に気付いた妙子が、途端に声を上げる。咲子は顔を顰め、空いている左手で煩げに耳を塞いだ。
「タエ、声落としてよ。近所迷惑」
「初めまして。咲子さんの大学の友人で、渡辺です」
「あっ、君が噂の渡辺君なのねぇ! かっこいいじゃなぁい!」
「だから、声落とせって言ってるでしょ。それから、今日の晩ご飯は渡辺が作ってくれることになったから」
 咲子に鋭く睨まれて身を竦ませた妙子だったが、後半の言葉に唖然としてしまった。
 晴希は客であり、もてなされる側の人間だ。本来ならば、逆なのではと当然ながら思ったのだろう。
 そんな妙子を余所に、咲子はさっさと靴を脱ぎ、晴希にも上がるように促した。
「渡辺、こっちが台所」
 案内する咲子の声に、ようやく我に返った妙子は「どうぞ」と晴希を奥へと招き入れた。
 礼儀正しく会釈し、咲子の後を追う晴希の背中を、妙子は物珍しそうな視線で眺める。
 奥まで晴希を通すと、咲子は台所の中身を説明し始めた。
 ここに調理器具、ここに調味料と、細かく場所を教える咲子に、一つ一つ確かめながら晴希は頷いている。
 一人取り残された妙子が、二人の姿をダイニングの椅子に腰かけ眺めていると、説明を終えた咲子も同じく、妙子の隣に腰を落ち着けた。
「ねぇ、サキ。何で渡辺君がご飯作るとかって話になったのぉ? 普通はサキが手料理を振る舞うもんじゃなぁい?」
「渡辺、お店持ちたいんだって。だから自分の作った料理を試食して欲しいのよ。アンタ、専門で勉強してるんだから、少しは役に立てるでしょ?」
「まぁ、多少ならねぇ」
 どこか奥歯に物の挟まったような言い方をする妙子に、咲子は僅かに表情を曇らせる。
「何よ。まだ渡辺との関係を疑ってるわけ?」
「ううん、それはもうわかったわ。何か、普通に友達過ぎて、否定のしようもないんだもん」
 テーブルに頬杖をついた姿勢で、妙子は包丁を握る晴希の後ろ姿をつまらなさそうに見つめている。
 それでも、何か引っ掛かるものがあるのか、その口調は納得しきれていない様子だった。
「だから、友達だって何回も言ったじゃない」
「でも、サキの友達にしては、やっぱり異質な気がするのよねぇ」
「それは渡辺が男だからでしょ? マリとかと同じに考えたら、そんなにおかしくないと思うわよ」
「うーん、そうなのかなぁ?」
 半信半疑といった感じではあったが、それでも妙子は晴希が友達であるという部分は認めてくれたようだった。これでもう煩く言われなくなると思うと、咲子は内心ほっとする。
「でも、ようやくサキにも彼氏ができるんだと思ったのにぃ。そこだけはやっぱり残念」
 がっかりとした口調でぼやく妙子の言葉に、咲子は安堵したのも束の間、まだ言うのかと溜め息が零れた。
「いつも思うんだけど、何でそんなに私に彼氏を作らせたがるの? アンタには何の得もないでしょうが」
「だってぇ、このままいったらサキは絶対いき遅れちゃうでしょう? そうなったら、大変じゃなぁい。それに、自分の子供に従兄弟がいないとか可哀想だしぃ」
「……一体、どれだけ先の話してんのよ」
 実際は、咲子達の年齢から考えれば、言うほど未来の話でもないだろう。けれど、咲子にとってはまだまだ先というよりも、一生縁のないような話だった。
 余計なお世話とでも言いたくなるような妙子の心配を一笑すると、
「お生憎様。私はこの先も彼氏なんて要らないし、結婚もする気ないわよ」
 きっぱりとそう宣言する。
 その様子に、妙子はぷぅと頬を膨らませたが、すぐにつられるように笑い出した。
 そのまま二人はしばらく笑い続け、その後は他愛ない会話を楽しみながら、晴希の料理が出来あがるのを待った。

 数十分が過ぎ、台所からは食欲をそそる香りが流れ出ていた。
 咲子が声を掛けると、笑顔を湛えた晴希が顔を出す。手には出来たての料理があった。
「お待たせしました。もうできたから、あとちょっとだけ待ってて」
 手にした料理をテーブルに慣れた手つきで並べると、それだけ言い残してまた台所へと消えていく。
 妙子にお茶の準備を頼むと、咲子は立ち上がり、晴希の手伝いに向かった。
「これも運べばいいの?」
「うん、サンキュー」
「作ってもらったんだから、これくらいはしないとね」
「こっちは強引に押しかけて、アドバイスもらおうって腹なんだけどね」
 だからお礼を言うべきなのは、やっぱり自分の方なのだと、晴希は咲子に微笑んだ。
 残りの料理を全て並べ終わり、食事の準備が整うと、咲子と妙子は先程までの席に腰を下ろした。
 晴希も勧められるままに、空いていた二人の正面の席へと座る。
「意外ぃ。もっとアバウトな感じで出てくるかと思ってたぁ」
 妙子の感心した声の通り、晴希の作った料理は綺麗に盛りつけられていた。
 小料理屋で働いているのも伊達ではなく、洒落っ気のない器にも品良く盛られた料理たちは、見るからに美味しそうだ。
「料理は見た目も大事だしね。では、公正な判断をお願いいたします」
 冗談っぽく言いながらも、晴希は少し緊張したような面持ちで頭を下げた。
 メニューは居酒屋でも定番の揚げ物やサラダもあったが、夕食ということで、汁物や煮物も添えられている。野菜の量も充分にあったので、栄養バランスも考えて作られたのだろうと思われた。
 二人揃って手を合わせると、思い思いの料理を口へと運ぶ。
「美味しい! 何コレ? 何の唐揚げ?」
「卯の花。ヘルシー志向の人にどうかなと思って」
「うん、いいと思う。ソースもさっぱりしてるし、でも食べごたえもあるし」
 感想を述べながらも、咲子は次の料理に箸をつけ、またその美味しさに感動しながら感想を伝える。予想以上の料理の出来に、咲子の食はどんどん進んでいた。
 しかし、一方で妙子は黙々と箸と口を動かすだけ。常は食事中もやかましいくらいに話すのに、不気味なほど大人しい。そして、普段を知らなくても、晴希は咲子からよく妙子の話は聞いている。その態度を気にしないはずはなかった。
「妙子さん、美味しくない?」
「え? あ、ううん! そんなことない! すっごく美味しいよ。びっくりした!」
 晴希に問われ、妙子は慌てて取り繕うように料理を褒め始める。
「お店で働いてるだけで、学校とかには行ってないんだよね? なのに、基礎もしっかりしてるし、ありがちなメニューに見えて、ちゃんと工夫してるのがわかるわ」
「マジで? お世辞じゃなくて?」
「うん。ちゃんとお店で出てきてもおかしくないと思う」
 妙子からの太鼓判を貰い、晴希は緊張が解けて満面の笑みへと変わった。
 そこにたたみかけるように咲子も続ける。
「ホント、美味しいわよ。渡辺がお店出したら、行きつけになっちゃうわね」
「まあ、それはまだまだ先の話だけどね。資金も貯めないと駄目だし。あ、でも、これからも俺の作った料理食べてくれる? まだ他にも試行錯誤中のメニューとかあってさ」
「こんなに美味しいならいつでも大歓迎よ。けど、これからはタエが当番の日にした方がいいかもね。その方がタエも楽でしょ?」
 そう咲子が振り向いた瞬間、妙子はガタンと椅子を鳴らして突然立ち上がった。
 その顔は、うって変わった無表情。
「タエ?」
「……ごちそうさま」
 小さく呟くと、妙子はダイニングから出ていこうとする。
 慌てて咲子は妙子の手を捕まえた。
「ごちそうさまって、まだ残ってるじゃない。せっかく渡辺が作ってくれたのに、失礼でしょ」
「そんなに渡辺君の料理がいいなら、サキが全部食べればいいじゃない」
「は? 何言ってんのよ、アンタ」
「私より渡辺君が作る方がいいんでしょ! サキの馬鹿っ!」
 叩きつけるように言い捨てると、妙子は廊下へと飛び出し、数秒後には勢いよく閉まるドアの音が響き渡った。
 残された咲子と晴希は、呆然とそれを見送るしかできなかった。
「……意味わかんない」
 ほんの数分前まで笑っていたところなのに、咲子にはそのあまりの豹変ぶりが理解できなかった。
 それに、咲子が妙子に堪りかねて怒りを向けることはあっても、妙子が咲子に怒鳴るなど滅多にない。
 一体何が妙子の気に障ったというのだろうか。それほど、晴希の料理を褒めたことが気に入らなかったのだろうか。けれど、妙子自身も晴希の料理を褒めていたのに、と腑に落ちないことばかりが頭に溢れ返った。
「もしかしてさ」
 考えに沈んでいた咲子は、晴希の控え目な声にゆっくりと振り返る。
 晴希は、ひどく申し訳なさそうな微笑を浮かべていた。
「妙子さん、咲子さんを俺に取られちゃうとか思ったんじゃない?」
「取られるって……、そんな子供じゃあるまいし」
「でも、どう考えても嫉妬だろ、あれは。咲子さんが『妙子さんの当番の日にしよう』って言ったのも、妙子さんからしたら、咲子さんが俺の料理を優先したって風に思えたんじゃないかな」
「でも、やたら私に彼氏を作らせたがってたのよ? なのに、今更友達とご飯食べることで怒るって……」
「だから、それも咲子さんから『彼氏は要らない』って言葉を聞いて、安心したかったのかなと。絶対そう言われるってわかっててね」
 確かに晴希の言うように考えてみると、すんなりと理解できる。
 料理の感想を言っていた時には、どこかぼんやりとはしていたが、怒っている様子はなかった妙子。それが、晴希の料理をこれからも食べる約束になった途端に機嫌が悪くなった。
 となると、原因はやはりその会話自体に他ならないだろう。
「そんなつもり全然ないのに」
「妙子さんも冷静になればわかったと思うんだけどね。いきなり過ぎてカッとしちゃったのかな」
「……ちょっと行ってくる」
 咲子はそう言うと、ダイニングを出て妙子の部屋へと向かった。
 軽くノックをしてみるが、返事はない。けれど、中にいることは確かだと思い、廊下から話し掛けた。
「タエ、聞こえてるんでしょ? あのね、別にタエのご飯が食べたくないとかそういう意味で言ったんじゃないのよ? 私が当番の日にしたら、不公平だと思ったから……」
 咲子の声にも、妙子の反応は返らない。まるで目の前のドアに話し掛けているような気分だった。せめて反論でも何でもしてくれれば良いのだが、無反応ではこちらもこれ以上どうしていいのかわからない。
「ちょっと、聞いてるんでしょ。返事くらい返したらどうなの?」
 もどかしさが苛立ちへと変わり、ついいつものように叱るような口調になってしまう。
 そんな態度では妙子も頑なになるだけだとわかってはいるのだが、それでも抑えることはできなかった。
 見かねた晴希が、咲子を宥めながら、代わりにもう一度ノックする。当然、応える声はない。
「妙子さん、提案があるんだけどさ」
 晴希は返事がないのも気にせず、話し始めた。
 どんな提案を出すのかと、咲子は黙って晴希の横顔を見守る。
「咲子さんと妙子さんの当番制に、俺も混ぜてくれない?」
「渡辺?」
「って言っても、俺はバイトの都合とかあるから、週に一、二回とかでいいんだけど。俺がまた作りに来させてもらってもいいし、二人が一緒に俺の家に来てくれてもいいしさ。あ、出来れば俺も妙子さんの料理を食べてみたいんだけど、駄目かな?」
 間接的に、咲子と妙子の仲を裂くようなつもりはないと、晴希は言いたかったのだろう。
 何とか懐柔しようという言い方ではなく、純粋に妙子の料理に対する興味があることも伝わってきた。
 それでも、やはり妙子からの返事はなかった。部屋の中から微かに動く気配は感じるものの、それ以外は何も聞こえてこない。
 晴希は諦めて咲子の肩に軽く手を置き、戻ることを促す。
 再度妙子の部屋のドアに目を遣る咲子だったが、変化のないことに溜め息をつき、晴希に従った。
「ごめん、渡辺」
「いいよ。でも妙子さん、相当咲子さんを好きなんだな。もしかして、口では文句言いながら、結構甘やかしてる?」
 そんなことはない、と言いかけたが、万里江に言われたことを思い出して、咲子は反論を諦めた。
 かわりに、苦々しく唇を噛み締める。
「……私はそんなつもりなかったけど、友達にはタエに甘いって言われたわ」
「やっぱりそうか。咲子さん、優しいもんな」
「優しくないわよ、別に」
「優しいよ。自分に害意のない相手にはね。でなきゃ、初めて逢った時も俺の話なんて聞いてくれなかっただろ?」
 自信満々に言い切る晴希に、咲子は「あの時はたまたまよ」と言い訳をするが、晴希はいい加減な相槌で話を終わらせると、食事に戻ろうと先に席に着いた。
 このまま立ち尽くしていても何の解決にもならないので、咲子も席に戻り箸を取る。
 けれど、会話が弾むわけもなく、少し冷めてしまった料理がさらに気まずさを募らせた。二人一緒の食事で、ここまで暗い雰囲気なのは初めてだと思いながら、それでも料理の感想を伝え、晴希もそれに答えて、何とか会話は成立していた。
 食べ終わると、咲子は後片付けを請け負って、晴希をそのまま帰らせることにした。
 晴希の方も、申し訳ない気持ちはありながらも、いつまでも自分がいては、妙子が居づらいだろうと思ったようで、素直に従って帰っていった。
 食べかけの料理にラップを掛け、二人分の食器を流しに運ぶ。調理に使った器具などは、すでに晴希が綺麗に洗ってくれていたので、それほど多くの洗い物はなかった。
 泡のたっぷりついたスポンジで汚れを落としながら、今のこの憂鬱な気持ちも一緒に流れ去ってくれればいいのにと思ってしまう。
 ふと、流れる水の音に混じって、背後からカタンと小さな音が聞こえた気がした。
 手を止めて振り返ると、目と鼻を赤くした妙子が台所の入口に立っていた。
「……渡辺君、もう帰っちゃった?」
「ついさっきね」
 冷静になり、反省もしたのだろう。妙子の瞳は不安そうに揺れていた。
「私のこと、怒ってた?」
「そんなに心の狭いヤツじゃないわよ」
 素っ気ない口調ではあるが安心させるつもりでそう言うと、もう妙子が取り乱しはしないだろうと判断してそのまま洗い物に手を戻した。
 次の瞬間、背後からきゅっと抱きつかれる。
「タエ?」
「ねえ、サキ。私と渡辺君の料理、どっちが好き?」
「どっちがっていうのはないわよ。渡辺の料理も美味しいし、タエの料理も美味しい。個性が違うんだから、比べようがないでしょ。それに、アンタだって渡辺の料理褒めてたじゃない」
「うん。美味しかった。だから……ちょっと悔しい」
 自分の料理に対するプライドもあったのだろう。言葉の終わりは、こみ上げてくるものを抑えるような声音になっていた。
 洗い終えた咲子はタオルで手を拭くと、真後ろにある妙子の頭を軽く叩く。
「だったら、今度は渡辺にタエの料理食べさせて、唸らせてやればいいのよ」
「サキ……」
「あとで渡辺に、『さっきの提案、タエはOKです』ってメールしとくから。それでいいでしょ?」
「……うん」
 咲子が笑顔で振り返ると、妙子もようやく泣き腫らした顔を緩ませた。
 妙子の表情に明るさが戻ったことにほっとしながら、これでは甘いと言われても仕方がないかと、自分自身に苦笑の洩れる咲子だった。