タダイマ

 弱くて、小さくて、惨めな自分。
 そんな私でも、受け止めてくれますか?


《三番線に○○行き特急電車が到着します。白線の内側までお下がり下さい》
 いかにも作り物らしい女声のアナウンスと注意を促すようなメロディーが、そこここから聞こえてくる。
 改札前は、帰省シーズンのお蔭でなかなかの混雑具合。
 家族揃っての外出や小旅行のようないでたちの者が多いようだ。
 まだ、目当ての人物が到着しないのを、文奈はもどかしい気持ちで待ちわびていた。
 最近、一気に朝晩の冷え込みが激しくなり、今も吐く息が白い。
 寒さを誤魔化す為に買ったホットの缶コーヒーだけが、今の文奈にとって唯一暖を取る手段となっていた。
「……まだ、かな?」
 待ち人は、なかなか姿を現さない。
 昨日の夕方、帰宅すると留守番電話にメッセージが残されていた。
 両親は揃って出掛けており、学校から帰ってきたばかりの文奈が、そのメッセージを真っ先に聞いたのだ。
『颯子です。明日の朝、七時四十七分に着く電車で帰ります』
 短いメッセージ。
 けれど、それにはいつもの親友らしさのない、弱々しい嗚咽混じりの声音だった。

 高校が分かれてから、手紙のやりとりもしていたけれど、次第に間隔が開いていっていた。
 忙しいのだろうと、そう思っていたけれど、それだけではないことにも気付いていた。
 颯子の通う私立高校は、陸上の名門校。
 言ってみれば、颯子のように陸上に秀でたものばかりが集まっているエリート集団だ。その中で、それなりの成績を出さなければならないというのは、相当なプレッシャーだろう。
 現に、最後に届いた手紙には、成績が伸び悩んでいることが少しだけ書かれていた。
 何て言えばいいのか、正直わからなかった。
 文奈は、颯子の跳んでいる姿を見るのは大好きだったが、陸上に関しては完全な素人だから。勿論、アドバイスなんて出来るはずもない。
 けれど。
 無条件に「頑張って」とも言えない。颯子が頑張っているのを充分知っているから。
 さんざん悩んだ結果、今、こうして改札口で彼女を待っている。
 時計を見れば、もう七時四十七分を過ぎていた。
 彼女が、もうすぐ、帰ってくる。
《一番線に○○行き特急電車が到着します。白線の内側までお下がり下さい》
 アナウンスが、颯子の載せた電車の到着を告げる。
 目の前のホームに、徐々に速度を落とした電車が、ゆっくりと進入してきた。やがて、完全に停止すると、開いた乗降口から次々と人の群れが吐き出される。
 あまり身長の高くない文奈は、必死に背伸びして親友の姿を探した。
「……あ、いたっ!」
 大きな荷物を持った、颯子の姿。
 久しぶりに見る颯子は、少し痩せたように感じた。
「ソウちゃんっ!」
 声を張り上げ、缶コーヒーを持ったままの右手をブンブンと勢いよく振った。


 ガタンガタンと、規則的な音がイヤホン越しに聞こえる。
 早起きして乗り込んだ特急電車は、思ったよりもずっと空いていた。お蔭で二人がけの座席に一人でゆったりと座れ、一時間ほどの道行きは誰にも気兼ねすることなく過ごせた。
《次はー△△ー、△△ー》
 独特の鼻にかかったようなアナウンスが、到着駅が間もなくだということを教えてくれる。
 颯子は聴いていた音楽を止め、鞄の中にプレイヤーをしまった。
 もうすぐ、大切な人に逢える。
 そう思うと、嬉しいような、少し気恥ずかしいような、複雑な想いが胸に浮かんだ。
(文奈は……、どんな表情で出迎えてくれるだろう……)
 ふと、昨日自分が留守電に残したメッセージを思い返して、苦笑が洩れた。
 今思えば、もう少し自分自身を落ち着けてから電話をすれば良かったとも思う。
 けれど、そんなことも思いつかないほど、颯子はショックを受けていたのだ。陸上部の顧問から言われた台詞に。
『高跳びはやめて、短距離に転向してみたら?』
 成績の伸び悩んでいた颯子は、休みに入る直前の部活で顧問からそう訊かれた。
 顧問自身、颯子が上手く記録を出せないことに悩んでいるのを知っていたから、決して積極的な言い方ではなかった。むしろ、深く考え込む性質の颯子を気遣ったような物言いですらあった。
 けれど。
 颯子は中学時代から、高跳び一筋できた。
 短距離は嫌いじゃないし、得意といえば得意ではあるのだが、それでも「どちらかと言えば、好き」という程度のものだ。
 しかし、高跳びはそうではない。
 颯子は、「跳びたい」のだ。
 あの、バーを越える瞬間に、空に近づく気持ちよさ。
 高い高い空を、掴みとるかのように。
 青い青い空に、溶け込むかのように。
 跳んでいる瞬間が、何より幸せだと感じるのだ。
 だから、やめたくはない。
 なのに、記録が出せない。
 ショックを押し隠しつつ、とりあえず顧問には休みの間に考えておくとだけ返事した。
 そんな気持ちのまま文奈の家に電話をしたものだから、何とも情けない、泣き出しそうな声になっていただろう。
 それに文奈は気付いていると思う。
 前に手紙で、記録が出せないことも少し書いたから、そのことだと見当がついているかも知れない。
 どんな表情で逢えばいいのか、正直わからない。
 文奈が、自分に憧れていることはわかっていたから。
(やっぱり、文奈の前では、『毅くて綺麗なソウちゃん』でなきゃ、駄目かな……?)
 そう思うと、また自嘲気味な苦笑が洩れた。
 もしかしたら、文奈をがっかりさせてしまうかもしれない。
 そんな自分が情けなくて、嗤うしかなかった。
《△△ー、△△です。お降りのお客様はー……》
 車掌のアナウンスで、我に返る。
 今の颯子の気持ちが反映されたように重い荷物を持ち上げ、乗り換え案内を聞きながら出口へと向かった。
 降りたホームは、改札の丁度真正面。お蔭で他の電車を利用する客でごった返していた。
 電車に乗っていた時より、圧倒的に多い人に軽く溜め息が洩れる。
 人の流れに乗って、左手に荷物、右手に切符を持って自動改札を抜けようとした時だった。
「ソウちゃんっ!」
 大きな声を張り上げ、何かを握り締めた右手をブンブンと勢いよく振る小柄な人影が見えた。
 その変わらない姿に思わず笑みを洩らすと、文奈は嬉しそうに満面の笑顔になった。
 文奈の笑顔に、自然と颯子の笑みも深くなる。
 人混みに押されながら改札を抜け、壁際で待つ文奈の元に早足で向かった。
「久しぶり、文奈」
「うん、久しぶりだね、ソウちゃん。はい、寒かったしあったかいコーヒー買っといた」
「ありがと」
 文奈が握り締めていたのは缶コーヒーだったらしい。両手に一つずつ持つそれを、颯子は片方受け取った。
 もうすでに温くなり始めていたが、それでもその温もりに颯子はほっと息を吐く。持っていた荷物を地面に置き、二人並んで壁にもたれかかり、プルトップを開けた。一口含むと、仄かに苦味の混ざった甘味が口の中に広がる。
「……温いね」
「うん、かなり」
 二人で顔を見合わせ、ぷっと吹き出した。
 こうやって笑いあうのも、随分久しぶりだ。
「……けど」
 つい先ほどまで、どんな表情で逢えばと悩んでいたのに、実際に顔を合わせたら、驚くほど自然に笑顔が浮かんでくる。
 それは颯子にとって、涙が出るほど嬉しいことだった。
 笑いの名残を残しながら、颯子は続ける。
「あったまる、よ」
 文奈がくれたことが。
 文奈がいてくれることが。
 凍えそうな心を、温めてくれる。
「そう? ならいいけど」
 颯子の想いも知らず、文奈は首を傾げながらコーヒーを飲み干した。
 そんな文奈にまた笑みを零し、颯子もコーヒーを飲み干す。
 そうして二人並んで家までの道を歩き始めようとすると。
「その荷物重そうだね、片方貸して」
「え、いいよ」
「いいの!」
 遠慮する颯子に構わず、文奈は半ば強引に鞄の持ち手を片方奪った。その途端に、文奈はうっ、と苦しそうな声を洩らす。
 颯子の荷物は、数日分の着替えだけでなく、自主トレ用の道具まで入っていたのだから、当然のことだった。
 頬がほんのり上気し始める文奈に、颯子は声を立てて笑う。
「ほらー、重いでしょ? 私は鍛えてるから、コレくらい大丈夫だよー?」
「だって、二人で持った方が軽くなるじゃない」
 文奈はそう言って一向に譲る気配がなさそうなので、仕方なく二人で荷物を持ったままゆっくりと歩き出す。
「何だってそうでしょ? 重いモノは二人で半分こすれば楽になるんだよ」
「文奈」
 文奈の言葉に、トクンと微かに鼓動が跳ねた。
 何のことを言おうとしているのか、颯子にはすぐにわかったから。
 返す言葉がなくて、知らぬ間に視線が地面に落ちていた。
「あ! そうだ! ソウちゃんに報告することがあったんだ!」
 気持ちの沈んでいる颯子を知ってか知らずか、文奈はいつになくはしゃいだ様子で話し出す。
 嬉しそうに話す文奈に、落ち込んでいることを気付かれてはいけないと思い、颯子は何とか視線を上げて笑顔を浮かべた。それに促されたように、文奈はニコニコ顔で続けた。
「あのね、夏休み使って描いた絵があったんだけどね」
「うん」
「部長と顧問の先生が、いい出来だからコンクールに出してみれば言ってくれて」
「うん」
「そしたらね、何と秋のコンクールで賞もらっちゃったんだ!」
「え? ……スゴイじゃない! 文奈!」
 自慢げに、けれどどこか照れ臭そうに告げる文奈に、颯子は一瞬考えてから大声で叫んでしまった。
「へへぇ。でしょ? でしょ?」
「うん! スゴイ! で、その絵は今何処にあるの!?」
「実はぁ、すぐそこ!」
 そう言って文奈は、空いている左手で道路の向かい側を指差す。
 そこは、市が運営している古びたレンガ造りの小さな美術館だった。以前からよく絵画や書道などのコンクール作品の展示もしていたことを、颯子は思い出す。
「よし、行こう!」
「え、行こうって……」
「だって、文奈の絵、見たいもの! ほらほら、早く!」
「ソウちゃん、多分、まだ開館してないよ」
「あ……」
 よくよく考えると、まだ午前八時になるかならないかの時刻。
 そんな朝早くから開いているわけがないという考えをすっとばしていた颯子に、文奈はクスクスと笑いを零した。
「とにかく、一度荷物も置いてこないとね。おじさんとおばさんも待ってるだろうし」
「そ、だね。じゃあ文奈、お昼から一緒に見に行こう!」
 気を取り直して颯子が提案すると、文奈は照れ笑いしながら頷いた。
 そうしてもう一度、二人で一つの鞄を持ち、他愛のない会話を重ねながら、懐かしい故郷の道を歩いた。



「……ホント、スゴイな文奈は」
 家に戻り、久しぶりに家族揃っての昼食を取った颯子は、約束の時間の五分前に家を出た。数分も待たずに文奈も家から出てきたので、すぐに並んで美術館へと向かった。
 その道すがら、颯子は心底そう呟いたのだった。
 颯子の知っている文奈は、内気で引っ込み思案で、何かと言えば颯子の背中に隠れているような性格だった。
 けれど、久しぶりに逢った文奈は、変わらない笑顔の中にも、どこか以前にはなかった毅さを秘めていた。
 そう、毅くなった。
 それにひきかえ、自分は……。
 そんな思いが胸中を占める。
 文奈自身が毅くなったことも、才能を認められていることも、ひどく羨ましく感じた。そして、文奈を羨む気持ちを持つ自分に、ますます失望感が涌いてくる。
「そんなことないよ」
「そんなことあるって。で、どんな絵を描いたの?」
「それは見てのお楽しみ」
 語尾にハートマークか音符マークでもつきそうなほどに浮かれている文奈。それに微かな苛立ちを覚えそうな自分を心の中で叱りつけ、颯子は何とか笑顔を保ちながら美術館のエントランスに踏み込んだ。
 受付を済ませると、文奈がひっぱるようにして颯子を連れて行く。
 人も疎らな通路を進み、コンクール入賞作品の集められた一角の手前まで辿り着くと、文奈が突然足を止めた。
「ソウちゃん、目瞑って?」
「文奈、どこまで勿体つける気ー?」
「いいから! ほら、早く目瞑って! 良いって言うまで開けちゃ駄目だからね?」
「はいはい。わかりましたよ、文奈大先生」
 子供のように無邪気な文奈に苦笑しつつ、颯子は言うとおりに目を閉じた。そのまま文奈に手を引かれ、ゆるゆると歩みを進める。
 さほど歩かないうちに文奈が立ち止まり、颯子の後ろ側に立ってくるりと颯子の体の向きを回転させた。
「いいよ、ソウちゃん」
 文奈の合図で、颯子は目を開ける。
 その視界に真っ先に飛び込んできたのは、
 蒼、だった。
 抜けるように高く澄み渡った夏空。
 そこに、まるで空を掴もうとしているかのように手を伸ばし、しなやかに身を躍らせ、バーを越えようとしている一人の少女。
 その姿には、明らかに見覚えがあった。
「こ、れ……、私?」
「うん、ソウちゃんだよ」
 照れたように笑う文奈に振り向きもせず、颯子はただ、その絵に釘付けになっていた。
 文奈の描いた絵の中の颯子は、
 ただただ綺麗で、
 ただただ毅くて、
 ただただ、真摯だった。
 すい……と、颯子の頬を温かいものが伝って落ちる。
「ソウちゃん?」
「これ、ホントに、私……?」
「……うん、そうだよ。私の一番大好きで憧れてる、空みたいに綺麗なソウちゃん」
 文奈のゆっくりと言い聞かせるような声音に、後から後から涙が溢れ出して視界を歪ませていった。
 そのまますぐに、涙で絵は見えなくなってしまったけれど、鮮烈に脳裏には焼きつけられている。
 文奈の目に、これほど自分は毅く美しく映っているのだと。
 自分がこうありたいと望んでいるように映っているのだと。
 そう思うと、涙が止まらなかった。
「ソウちゃん……」
 後ろにいた文奈が、きゅっと背中から腕を回してくる。
「ソウちゃんは、いつだって綺麗で、かっこよくて、強くって、私の憧れそのものだよ」
「ふみ……な……っ」
「泣いたっていい。情けなくたっていい。それでもソウちゃんは私の憧れだから」
 文奈は、かっこつけて背伸びしている自分に気付いてくれていたのだ。
 そう思うと、一気に肩の力が抜け落ちる。
「だから、ね……?」
 背中越しに、文奈の優しい声が胸に響く。
「疲れたなら、いつでも戻ってきて休めばいいんだよ? いつだって、ソウちゃんの居場所はココにあるんだから」
「……うん」
 鼻をすすり上げながら、颯子は手の甲でごしごしと涙を拭った。
 もう一度、文奈の描いた、美しく跳躍している自分の姿を見つめる。
「……文奈、ありがと」
「ううん。ソウちゃんこそ、ありがとう。ソウちゃんいなかったら、私はこの絵描けなかったもの。賞を取れたのもソウちゃんのお蔭」
 本当に心底そう思っているだろう文奈に、颯子はもう一度「ありがとう」とくり返した。
 お互いに向き合って、照れた笑みを交し合う。
「あ、そうだ。言い忘れてた」
「何?」
「オカエリ、ソウちゃん」
 にっこりと笑って、文奈が短く告げた。
 何を今更と一瞬思った。
 けれども、すぐさま、まだ微かに涙の痕の残る顔で、ようやく本心から安堵した笑みを浮かべて、
「……タダイマ」
 颯子は、微笑った。

 タダイマと言える人がいる。
 オカエリと言ってくれる人がいる。

 だから、私はまた向かっていける。

 辛くても、泣きたくても。
 挑んでいくことが出来る。

 疲れたら、またココに戻って。
 少し休んで。

 そうして、癒されたら、また空を目指せばいい。

 さぁ、助走をつけて。
 高く、遠く、澄み渡る青空を目指して――。

タダイマ [fin.] テーマ楽曲:タダイマ Do As Infinity


©Shinobu Kiyohisa