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夢を見た。
それは、随分と懐かしい夢だった。
吐く息の白い季節。
手を繋いで並んで歩くのは、一つ年上の少女だ。
いつもは強気なその少女が、鼻と頬を真っ赤にして涙ぐむのに、ただただ必死に慰めと励ましを繰り返した。
大丈夫だから。泣かないで。側にいるよ。守ってあげるよ。
絶対に、約束するから――。
幼い誓いは、結局守られることなく、今に至っている。
そう。その誓いを立てた少女は、この出来事の数ヵ月後、遠く離れてしまったのだ。
以来、互いに連絡を取り合ったりはしていない。離れた当初は照れ臭さが先に立ち、そのままタイミングを逃して手紙も電話もできなかったのだ。
けれど、今となってはそれで何かが変わったわけではないと思えた。どうせ再会できるわけでもない。たとえ手紙や電話でのやりとりをしていたとしても、そのうちどちらからともなく途切れ、存在を忘れてしまうのだろう。相手が異性ならなおのことだ。
そう思っていたのだ。
彼女が、この街に帰ってくるまでは――。
◇ ◇ ◇
「恭平、ちょっとお隣行ってきてくれる?」
「お隣?」
退屈な日曜の昼下がり、連日の暑さに少々バテ気味だったオレは、一時の涼を求めて台所へと足を運んだ。そこで昼食の片付けをし終わったばかりの母親に言われたのが、そんな不可解な一言だった。
いや、使いを言いつけられること自体はそんなに不可解でもない。問題は、行く先だ。
「お隣って、桧山さん? まさか今岡さんの方?」
「桧山さんよ」
我が家の右隣が今岡家、そして左隣が桧山家だ。
今岡家は近所でも変わった一家で有名で、人との関わりを嫌っている。何だか怪しい宗教を信仰しているようなので、こちら側からも関わりたくないのが正直なところだ。
ということは、必然的に桧山家の方だと思うのだが、こちらはこちらで今はそれほど懇意にはしていない。
『今は』なんて言い方をすると、何だかご近所と揉めたように思うかもしれないけれど、そうではない。
もともと、桧山家と我が矢野家、そして桧山家の向かいにあたる藤川家の三家族は仲が良かった。それこそ、休みの日に家族ぐるみで出掛けたり食事をすることも頻繁にあったのだ。
けれど、六年前に桧山一家は父親の転勤で他県へと引っ越していった。せっかく買ったマイホームを手放すのは惜しいということで、残された家には桧山父の弟さん夫婦が住むことになった。
弟さん夫婦とは特別に仲が悪いわけではないが、良いわけでもない。道で出くわせば挨拶はする程度の、それなりのご近所付き合いといった感じだった。
しかも、つい先日弟さん夫婦は引っ越していったはずだった。二週間ほど前から慌ただしくしていて、どうやら引っ越すらしいという話を聞いたのが一週間前。実際の引っ越しは学校に行っていて目にしていなかったが、ここ二、三日、家の明かりがついていた様子はなかったので、もう引っ越したのだろうと思っていた。
だから、突然そんなことを言われるのが不思議でならなかったのだ。しかし、もしかしたら、数日間家を空けていただけで、まだ引っ越していなかったのかもしれない。
「いいけど、何しに? てか、桧山さん、まだ引っ越してなかったんだ?」
回覧板でも届けるのか、と思いながら、冷蔵を開け麦茶を取り出す。母親は何だかやけに楽しそうに、ニヤニヤと笑いながらコップを渡してくれた。その笑顔が、申し訳ないがかなり気持ち悪い。
「博史さん夫妻なら引っ越したわよー」
「は? じゃあ、もう桧山さんちじゃないじゃん。新しい一家が引っ越してきてんの?」
「そうよー。だから、サン・ローズでシュークリーム買ってきたし、持っていってちょうだい」
「何でオレが行かなきゃなんねーんだよ」
不満タラタラのオレに、母親はますます気味の悪い笑みを満面に浮かべた。
「だって、久しぶりに会いたいでしょ? さやかちゃん」
「さやか!?」
思いがけない名前の登場に、注ぎかけていた麦茶を零しそうになる。オレの反応に、母親は満足そうに頷いていた。
「帰って来たのよー、一家揃ってね」
「じゃあ、弟さん夫妻が引っ越したのは、その所為?」
「そうみたいねー。まあ、他にも色々事情あったみたいだけど。たまたま博史さんと聡史さんの転勤が重なったらしいわよー」
また昔みたいに仲良くできるわねー、と鼻歌でも歌いだしそうな母親に、少々呆れ混じりの溜息が洩れた。
「そんなに嬉しいんだったら、母さんが行ってくればいいだろ」
「あら、駄目よー。せっかくさやかちゃんが好きだったシュークリーム買ってきたんだものー」
「いや、だから、誰が持って行ってもシュークリームの味は変わんねぇだろうが」
「もう、すっとぼけちゃってー」
気持ち悪いを通り越して、不気味といった方が適切になってきた母親を相手にすることに、ちょっとばかり疲れを感じ始める。何が言いたいのかわからないが、意味ありげにニヤニヤと笑い続けられると相当に不愉快だった。
「ま、どうでもいいけどさ」
「じゃあ、いってらっしゃーい!」
結局母親の不可解な笑顔に追い立てられるように見送られ、オレは桧山家の門前に立った。
「しっかし、『さやか』、ねぇ……」
その名前に、幼い頃の嫌な思い出が脳裏に蘇る。
さやかは、一つ年上の気の強い女の子だった。もし男だったら、間違いなくガキ大将になっているタイプだ。
小学生の頃のオレは小柄だったし、性格的にも結構おとなしめだった。女とはいえ年上で背も高かったさやかからは、いつも子分扱いだったし、わがままを聞く側だった。時にはかなりひどい悪戯をされたこともあった。
しかし、さすがにもうお互い高校生だ。中学でバスケ部に入ってからぐんと背も伸びたオレは、今では一七九センチもある。力でも体格でも、普通の女子高生に負けるわけがなかった。
そう思うと、過去の数多ある嫌がらせ経験に、今更ながら怒りがふつふつと沸いてくる。思い出せば思い出すほど、理不尽なことばかりだった。
「よし!」
さやかに対して、何があっても断固たる態度を取るぞ、と心の中で強く誓う。
と、その瞬間、
「なに気合い入れてるの、きょうちゃん」
背後から、笑みを含んだ幼さの残る声が聞こえた。慌てて振り返ると、そこにいたのは同い年の幼なじみ・藤川穂波だった。先ほど挙げた、家族ぐるみでの付き合いがある藤川家の一員だ。
「きょうちゃんも、さやちゃんにご挨拶?」
「まあ、そう言えばそうなるのかな。コレ持っていけって言われてさ」
手に持ったシュークリームの箱を見せると、穂波の目が一瞬で歓喜の色に変わる。そういえば、穂波もこの店のシュークリームが大好きだったな。
「サン・ローズのシュークリーム! やったぁ!」
「おいおい、穂波の為に持ってきたわけじゃないぞ」
「ええー? 私の分ないのー?」
「いや、あるだろうけど」
「もう! きょうちゃんの意地悪!」
「わりぃわりぃ。ほら、さやかに会いに来たんだろ?」
一言一言に一喜一憂する穂波に苦笑が零れる。こういうところがあるから、同じ歳なのにまるで妹みたいに思えてしまうのだ。
「そうだった! きょうちゃんなんかに構ってる場合じゃなかった!」
「おまえ、『きょうちゃんなんか』ってな……」
「ピーンポーンっ!」
オレの言葉は聞いてない振りで、穂波はインターホンを押す。その際口で擬音語を発しながらというのが、ますます子供っぽいのだが、それを言ってしまうとまた怒られるんだろう。
ほどなく応対の声がインターホン越しに聞こえる。久々に聴く、懐かしいおばさんの声だった。
「こんにちはー! 穂波と恭平でーす!」
『いらっしゃい。ちょっと待っててね』
プツっと通話が途切れる音。数秒後に、玄関の扉が開いた。そこから顔を出したのは、柔和な笑顔を湛えた三〇代後半の女性だ。
「久しぶりねー。穂波ちゃんも恭平君も大きくなって!」
「お久しぶりです、おばさん。相変わらず若くてお綺麗ですね」
「あらやだ、穂波ちゃんったら、お世辞が上手になって」
穂波の言葉にまんざらでもなさそうなおばさんは、オレから見ても相変わらず可愛らしい人だった。オレの母親と五歳ほどしか違わないはずなのに、雲泥の差だ。
さらに、こんなに可愛らしい人が母親なのに、どうしてさやかはあんなに男勝りなんだろうと何度不思議に思ったことか。
「おばさん、お久しぶりです。コレ、うちの母親から」
再会を喜ぶおばさんの前に、持参した土産の箱を差し出す。それを見た瞬間、おばさんは先ほどの穂波と同じように、目を輝かせた。
「サン・ローズのシュークリーム! ひとみちゃん、うちの家族の好物、覚えててくれたのね!」
目尻が可能な限り垂れ下がった表情で、おばさんは箱を受け取る。ちなみに『ひとみちゃん』とは、オレの母親の名前だ。
「さ、入って入って! 今お茶淹れるし、みんなで頂きましょう。ついさっき真澄君も来てくれたのよ」
「はーい、おじゃましまーす!」
「お邪魔します」
促されるまま、オレと穂波は六年ぶりに桧山家に上がった。通されるままリビングに向かうと、すでにソファーを陣取っている先客が、こちらに向かって手を挙げた。
「おう、遅かったな穂波」
そう声を掛けてきたのは、穂波の兄・真澄さんだ。
そして、そのすぐ正面に座るのは、六年ぶりに見るガキ大将――ではなく。
長く伸ばした綺麗なストレートヘア。流行の服を難なく着こなし、柔らかに微笑んでいる少女。昔のヤンチャ坊主のような面影はどこにもない、幼なじみの姿だった。
「穂波、恭平、久しぶり」
「お、おう」
「きゃー! さやちゃーん!」
穂波は飼い主を見つけた仔犬のように、さやかに駆け寄り抱きつく。あまりにも想像外だったさやかの姿に、オレは呆然とその様子を見ているだけだった。
「穂波は相変わらずさやか大好きっ子だな」
「じゃあ、私がいなくなって淋しかった?」
「あったりまえだよー! お父さんに、『私もさやちゃんとおんなじとこ引っ越すー!』って駄々こねたんだから!」
「でもそうなったら、今度は恭平と離れ離れだぞって言ったら、『じゃあきょうちゃんも連れていくー!』だもんな。親父も手を焼いてたよ」
「それホントー?」
一気にリビングが賑やかになり、笑い声が溢れ返る。
けれどオレはといえば、三人の楽しそうな会話に思い切り出遅れていた。何だかオレの知っているさやかじゃないような気がしてしまったからだ。
「恭平、何ボケっと突っ立ってんだ? こっち座れよ」
立ち尽くしていたオレに気づいた真澄さんが、自分の横の空いた席をトントンと叩く。気を取り直して、オレは真澄さんの隣に腰を下ろした。
そういえば、最近真澄さんともそれほど会っていなかった。高校生のオレと大学生の真澄さんでは、生活サイクルが違うのだから当然だろう。
三つ年上の真澄さんは、昔から兄貴みたいな存在だった。色んなことを教えてもらったし、相談を聞いてもらったりもした。俺がバスケを始めたのも真澄さんの影響だし、真澄さんが大学に行くまでは、よく練習にも付き合ってもらっていた。
何だかさやかと穂波は二人で盛り上がっているみたいだし、せっかくだから真澄さんとゆっくり話したって罰は当たらないだろう。
「真澄さん、今日は部活早かったんだ?」
「まあな。さやかが帰ってきてるのもお袋から聞いてたし」
「そっか。またサボってんのかと思った」
「おいおい、ヒトをサボり魔みたいに言うなよ」
「練習はサボらないよな。授業はサボるけど」
「授業もサボらないよ。寝てるだけだ」
「それ、一緒でしょ」
「違うって。授業聞いてないのは一緒だけどな」
ポンポンと軽快に返ってくるやりとりが気持ちいい。久しぶりのその感覚が嬉しくて、二人でケラケラと笑っていると、ふとさやかの顔が視界に入った。その表情は、先ほどまでとうって変わって、かなり不機嫌そうだ。嫌な予感が、胸に湧き上がる。
「ちょっと恭平。久しぶりに会ったって言うのに、何で真澄君とばかり話してるのよ」
予想通り、怒りの対象はオレだった。昔のトラウマか、ついつい気弱に対応してしまう。門前で誓ったことなんて、綺麗さっぱり頭の中から消え失せていた。
「あ、いや、真澄さんと会うの、久しぶりだったし」
「私の方がもっと久しぶりでしょ?」
「そ、そりゃもっともだけど、穂波と楽しそうにじゃれてたから……」
「ふぅん? 私に口答えしようなんていい度胸じゃない」
前言撤回。見た目は変わっても、やっぱりさやかはさやかだった。
どうやら、オレが真澄さんを独り占めしていたのがお気に召さなかったらしい。キッと鋭い眼光が向けられる。
「お待たせー! さ、お茶も入ったし、おやつにしましょう!」
のんきなおばさんの声で、張りつめた空気が一気に緩んだ。おばさん、ナイスタイミングだ! と心の中で拍手喝采する。
「待ってましたー! シュークリームー!」
「え? もしかして、サン・ローズの!?」
運ばれてきた紅茶とシュークリームに、先ほどまでの剣幕はどこへやら。さやかの表情が一瞬で喜色に彩られた。
「そうよー。恭平君が持ってきてくれたのー」
のんびりとした口調で答えながら、おばさんはティーカップとシュークリームの皿を次々にローテーブルへと並べる。紅茶のよい香りが、ますます場の空気を和らげてくれていた。
「恭平が?」
「母さんに持ってけって言われたんだよ」
「そう。さすがおばさんね」
少々棘のある言い方だったが、それでもさやかの機嫌は回復したようだった。何とも複雑な気分だが、一応母親の気遣いのお陰で自分の身が助かったことに安堵する。
「さ、頂きましょう」
おばさんの声を合図に、五人揃って頂きますと手を合わせる。町内でも有名なシュークリームは、みんなの顔を綻ばせるのに充分だった。
シュークリームのおかげか、それともさやかが昔とさほど変わりがないことがわかったからか、それからは全員で話が弾んだ。引っ越してからの出来事や、最近はまっているものこと、部活のことなんかも話した。
楽しい時間はあっという間に過ぎ、気がつけば窓の外にはオレンジ色の空が広がっていた。
「そろそろ帰らないと、晩飯抜きになっちゃうな」
オレが立ち上がると、真澄さんと穂波も倣うように立ち上がった。
どの家もみんな似たような時間に夕食をとっている。ということは、必然的にお開きの時間なのだ。
「うちで食べていけばいいのにー」
「そうもいかないですよ。まだ引っ越しの片付けも終わってないでしょうし。これからはいつでも来れるんで、また今度ご馳走になりますね」
残念そうに引き止めるおばさんに、真澄さんが優等生のような返事を返す。
オレと穂波もおばさんにお礼を言って頭を下げ、玄関へと向かった。
靴を履き、外へ出ようとした時に、ふと思い出してオレは見送りに出てきているさやかを振り返る。
「そういや聞き忘れてたけど、どこの高校通うんだ?」
「あ、久遠だよ。恭平や穂波と一緒」
「そっか。転校初日に遅刻すんなよ」
「しないわよ。ったく、恭平のクセに私の心配するなんて十年早いわ」
「へいへい、すみませんね」
憤慨しつつも笑っているさやかに、やはりどこか奇妙な感覚を覚えた。
六年も経てば、性格だって多少変わる。女の子なら尚更色んなところが変わっていくのは、穂波や小学生の頃からの他の同級生達を見ていてもよくわかることだ。
ただ、さやかに関してはその間を見ていないから、突然変わったように感じてしまうだけなんだろうけど。
「んじゃ、またな」
未消化な気持ちを胸に収め、オレは玄関を出る。
さやかも玄関先まで出てきて、オレたち三人に手を振った。
「うん、真澄君と穂波もまたね」
「あぁ」
「またねー! さやちゃん!」
笑顔だけで返す真澄と、勢いよく手を振る穂波。
さやかはそれにもう一度だけ嬉しそうに笑って、家の中へと戻っていった。
それを見届けて、今度は藤川兄妹に振り返る。
「じゃあ、真澄さんもまた……」
「おう。暇があったら、一緒に練習しようぜ」
「えー? 私には『またな』って言ってくれないのー?」
クラスも同じ穂波には『また』と言うほどでもないだろうと思っていたら、ぷぅっと頬を膨れさせて抗議されてしまった。思わず真澄さんと顔を見合わせて吹き出し、笑い混じりの謝罪を返しながら、オレは二人と別れた。
こうして六年ぶりの幼なじみ同士の集いは、すこぶる和やかな形で終了したのだった。
◇ ◇ ◇
日に日に照りつける日差しが厳しさを増している。まだ陽のそれほど高くない朝のうちでも、風は熱気をはらみ、これからますます上がっていくだろう気温を予感させた。
オレはいつもよりも家でゆっくり寛いでから家を出た。いつもは部活の朝練があるからもっと早く出るのだが、今週からテストの一週間前にあたり、朝練が出来ないのだ。
玄関を出て数歩歩いたところで、隣の家のドアの開く音が耳に届く。丁度さやかが真新しい制服に身を包んで出てきたところだった。
「おはよう」
「あ、おはよ、恭平。ねぇ、制服変じゃない?」
さやかは初めて袖を通す制服がお気に召さないのか、少々眉間に皺を寄せ、見下ろしたり振り返ってみたりしている。
「いや、別に普通だけど? 見慣れないから違和感あるだけじゃないのか?」
「……ったく」
「え?」
特別おかしな返答をしたわけでもないのだが、何故かさやかに睨まれてしまった。その射るような視線に、思わず後退りしたい気分になってしまうのは、もはや幼い頃からの習性だろう。
「オレ、何か変なこと言ったか?」
「別に」
素っ気なく返される返事。
何が何だかわからないが、機嫌を損ねたことだけは確かなようだった。逃亡を図りたくなったのだが、学校までの道程は同じだ。逃げることは叶わない。
どうしようか戸惑っていると、
「おはよう! きょうちゃん! さやちゃん!」
背後から投げかけられた穂波の元気の良い声が、まるで天から降ってきた天使の声のように聞こえた。
穂波もちょうど家を出てきたところだったのだろう。助かったとばかりに、視線を穂波へと向ける。
「おはよう、穂波」
「おはよ。朝から元気いいわね」
「だって、さやちゃん帰ってきたんだもん! 嬉しくってどうしても元気になっちゃうよ」
少し前を行くオレたちに追いつこうと駆け足で穂波が寄ってきた。それを少し待って、並んだところで再びゆっくりと歩き始める。
「穂波はホント可愛いわよねー。どっかの誰かさんと違って」
チクチクと針で刺すような言葉に、苦笑しか返せなかった。フォローしようにも原因がわからないのなら無理な話だ。
「それにしてもこんな風にみんなで学校通えるのって、何だか懐かしいね」
「そうだな。穂波とはいつも一緒だから飽き飽きしてるけど」
「ちょっと、きょうちゃんひどーい!」
ぷーっと膨れっ面になる穂波に、さやかが少し意外そうな表情でオレを見上げる。
「いつも一緒に学校行ってるの?」
「一緒にっていうか、朝練の関係でたまたま時間帯が一緒になるんだよな」
「うん! いつもならもう少し早く家出るんだけど、今はテスト前だからね」
バレー部の穂波とバスケ部のオレとは同じく朝練がある身だ。
だから、この春高校に入学して以来、ほぼ毎日オレは穂波と一緒に登校していた。別に待ち合わせているわけではないのだが、時間的、地理的に必然的にそうなった。
別にあえて離れる必要もないし、一人淋しく通うよりは、気心の知れた相手と話しながらの方がいいに決まっている。
「……ふうん。冷やかされたりしないの?」
「ないないっ! だってきょうちゃんだよー?」
「おまえな……。オレだってどうせ勘繰られるならもっと落ち着いた大人しい女の子がいいぞ」
「私だって、もっとカッコイイ、オトナーって感じの人がいいもーん!」
オレの言葉に対抗するかのように、穂波が言い返す。
穂波は客観的に見ればそれなりに可愛いのかもしれないけれど、中身を知りすぎるほど知っている。今更『女の子』としてみる方が難しいくらいだ。
それは多分穂波もお互い様なんだろう。オレを全く『男』として見ていないのがはっきりとわかる。
だから最初のうちはクラスメイトに冷やかされたりもしたけれど、最近はみんなそんな風には見なくなった。一緒にいてもそれが『当たり前』の『いつものこと』と思われている。
「あ、そういえばさやちゃん、災難だよねー。転校早々テストだよー?」
いつも思うが、穂波は切り替えが早い。コロコロと話題が変わって、時々ついていけなくなる時がある。
その所為なのか、話が振られているにも関わらず、さやかからの返事がなかった。
「さやちゃん?」
「え? あ、何?」
全く話が耳に届いていなかったのだろう。誤魔化すように笑って訊き返す。
その表情が、何だか妙に作っているように感じて、奇妙な感覚を覚えた。
「だから、テスト! 今日から一週間前なんだってば!」
「あ、あぁ、そういえばそんな話聞いたっけ」
「でも、さやちゃん頭いいから問題ないだろうけどね」
「そんなことないわよ。学校によって進み具合だって違うんだから」
穂波が無責任なことを言うのに、さやかは呆れながらも笑顔で訂正する。そんな態度にも、やはり人が違うように感じてしまった。
(昔のさやかなら、『当然よ!』とか言って、高笑いしそうなのに……)
そんな風に違和感を抱えたまま、学校までの道程を歩いた。
その間、ほぼ会話は穂波とさやかの間でのみ発生し、オレは時々相槌を打ったり、ちょっとしたツッコミをいれたりするくらいだった。
見慣れた校門をくぐり、昇降口へと向かう。上履きに履き替えると、さやかの方へ視線を向けた。
「さやかは職員室、だよな? そこ左に曲がればすぐだから」
「うん、ありがと」
一応編入生だから、場所がわからないだろうと思って教えておく。それに親切にしておいた方が、あとあと厄介事から免れられるだろう。
廊下の左側を覗いて、案内されるまでもなくすぐ側が職員室だと確認したさやかは、素直に頷いた。それが何だか素直すぎて受け入れられないのも、やっぱり過去が原因なのだろうか?
「じゃあね、さやちゃん」
「うん。またね、穂波、恭平」
穂波が名残惜しそうに手を振るのに、さやかも応えて手を振り返す。
さやかが職員室に向かって歩き出したので、オレたちも教室に向かうことにした。
いつも通りの賑やかな教室内。けれど、テスト前だからか、若干教科書やノート、参考書なんかを開いているやつもいた。
とは言っても、まだまだ一週間前。さほど深刻さは感じられず、とりあえずテスト範囲を確認しているという程度だ。
「おはよー」
「うぃっす」
オレと穂波が声を掛けると、いつもつるんでいる何人かの男共が、一斉にこちらに視線を向けた。何だかその様子は、非常に鬼気迫るものがある。
「恭平ー! さっき一緒に来た美人は誰だー!?」
「あの美人はウチでは見たことないぞ!?」
「何だかやたら親しげだったけど、どういう関係なんだー!?」
我先にと詰め寄ってくる友人達に、思わず腰が引けた。すぐ隣で穂波もその様子に唖然としてる。
「……美人?」
「そうだ!」
「誰なんだ!?」
「編入生か!?」
「ちょっ、おまえら……っ、く、苦し……」
「村山君、藤村君、吉田君、そんなに絞めたら、きょうちゃん何も喋れないよ?」
押しつぶされ、首まで絞めつけられていたオレに穂波がのんびりと助け舟を出す。出してくれるのはいいが、出来ればもう少し機敏に助けて欲しいものだ。
「で、みんなが言ってるのって、さやちゃんのことでしょ?」
「藤川も知ってんのか!?」
穂波の声で、三人組はオレを乱暴に放り捨て、今度は穂波に向き直った。
さすがに女の穂波相手には詰め寄ったりしていないが、真剣すぎる表情は変わらない。
「うん。だって、私とさやちゃんときょうちゃん、幼なじみだもん。ねー?」
自慢げに胸を張る穂波に、脱力する。朝から必要以上に疲れてしまった気がした。
「二人の幼なじみ?」
「そうだよ。因みに性格めちゃくちゃキッツイぞ?」
「えー? そんなことないよー! さやちゃん、すっごく可愛いんだから!」
さやか信者の穂波の前では、何を言っても無駄だろう。因みに目の前の馬鹿な友人達が、穂波よりオレを信じるかどうかは、正直自信がない。
「じゃ、ただの幼なじみなのか?」
「そうだよ」
「よっしゃー!」
「いやぁ、焦ったなぁ」
「うんうん。恭平にだけあんな美人の彼女が出来たら、不公平だもんな」
「そうそう。ヌケガケはいけません」
「おまえらな……」
村山、藤村、吉田の三人は、オレと同じく彼女がいない。というより、何だか『彼女いない同盟』みたいなものを勝手に設立して、オレまで巻き込んでいる。
単に、足の引っ張り合いをして楽しんでいるようにも見えるのだが、本人たちが楽しいならそれでいいだろう。
「あ、じゃあさ、そのさやちゃん、紹介して!」
「こら藤村! ヌケガケ禁止だって!」
「そうだぞ! 紹介するなら俺に……!」
さやかの何がいいのかわからないが、紹介希望者が殺到する。それにオレは大袈裟に溜め息をついた。
「だからさ、紹介するのはいいけど、アイツ本当に性格キツイぞ?」
「それに、紹介しても絶対無理だしねー」
「え?」
「何で?」
クスクスと笑いながら穂波が後に付け加えるのに、オレも驚いて三人と一緒に振り向いた。穂波は自分の席に鞄を置いて、椅子に腰かける。
「だって、さやちゃん、好きな人いるもん」
「え? アイツに好きな奴なんていたのか? ソイツ、可哀想だなー」
そう口では言いながら、何となく面白くない気分になった。
自分でも理解できないほど、ムカムカする。
「なーに言ってんのよ、きょうちゃん。きょうちゃんがよおっく知ってる人物だよ?」
「え? オレが知ってるって……」
その瞬間、頭の中が真っ白になった。
馬鹿三人組が怒涛のような質問をしているようだったが、オレの耳には全く入っていない。
(オレが知ってるさやかの知り合いなんて……)
一人しか、いない。
オレたちと同じく、さやかと幼なじみである真澄さんしか。
確かに、真澄さんは大人だし優しいし、昔からさやかはかなり懐いていた。
昨日だってオレが真澄さんとばかり話していたら拗ねていたし、真澄さんがさやかの想い人であるのなら、すべてのことに説明がつく。容易に納得がいくのだ。
なのに――。
認めたくない。
受け入れられない。
さやかの一番が、真澄さんであるということが。
始業を告げるチャイムが鳴り響く。
いまだ未練がましく穂波に質問を続けていた三人組も、口惜しそうにそれぞれの席に向かっていく。
それら全ての感覚が、今のオレにはやけに遠く感じた。
けれど、何故その事実がそこまで受け入れ難いのか、オレ自身全く理解することが出来ぬまま、その日の授業は始まったのだった。
身の入らないまま受けた授業は当然身につかぬまま、放課後を迎えてしまった。
荷物をまとめ、悪友達にぼんやりと声をかけ、歩きなれた経路で向かった先はバスケ部の部室。体育館のすぐ脇に、バスケ部やバレー部のような体育館を利用する部活の部室が連なっている。
いつものように部室のドアを開けようとしたが、ガクンと無情な反応が返ってようやく我に返った。
「あ、今日から部活休みだっけ」
テスト前は部活動停止なことをすっかり失念していた。軽く溜め息をついて踵を返そうとすると、不意に聞き覚えのある声が耳を掠めた。
「……だから……だってば……」
「でも……」
聞こえる声は二人分。どちらも女の子だ。
そして、そのどちらも、よく知った声。
(穂波と、さやか?)
声のする方角は部室の裏側。人目を憚るような二人の様子が少々気になった。
盗み聞きなんて趣味が悪いとは思ったが、それでも気になるものは気になる。オレは足音を忍ばせて、二人の声がもう少しはっきりと聞こえる位置まで移動した。
「でもじゃなくて! ああ見えてもね、女の子に結構人気あるんだよ? ぼーっとしてたら、どこの馬の骨ともわからない女に取られちゃうんだから!」
「それは嫌だけど……。でも、やっぱり今更じゃない? 私なんてただの幼なじみで、絶対に女としてなんて見られてないよ」
聞こえてきた会話に、鼓動が跳ねあがる。
どこをどう考えても、さやかが穂波に恋愛相談しているに違いなかった。そして、やっぱりその相手は――。
「そんなことないって! さやちゃんこんなに可愛いんだもん! お兄ちゃんだって、『綺麗になったなぁ』って言ってたんだから!」
そう、その穂波の兄・真澄さんだ。
いたたまれなくなって、足早にその場から逃げるように駆け出す。中庭を通り、校門抜けても、オレはしばらく足を止めることが出来なかった。ただただ、目の前に突きつけられた事実から、逃げたかったのだ。
「おい! 恭平!?」
行きかう人にぶつかりそうになりながら疾走するオレを呼び止める声が聞こえ、ようやくゆるゆると足を止めた。
声の方に振り返ると、そこにいたのは、今一番会いたくない人だった。
真澄さんは振り返ったオレに驚き、そしてすぐに心配そうな表情になる。
「恭平? どうしたんだ?」
「……真澄さん」
「何かあったのか? そんな、泣きそうな顔して」
自分でそんなにも情けない表情をしているのに気付かなかった。すぐさま取り繕うように笑みを浮かべようとする。
けれど。
巧くはいかなくて、ひどく滑稽で歪つな笑顔になっていただろう。それでも、精一杯笑って見せた。
「何でもないよ。真澄さん、今帰り?」
「あ、あぁ。穂波とさやかは? 一緒じゃないのか?」
「違うよ。オレ、間違って部活行こうとしてたし」
「おいおい、今日から部活休止期間だろ?」
呆れるように笑う真澄さんは、それでもどこかこちらの様子を窺うような雰囲気だ。
それにもう一度笑みを浮かべる。今度はかなり自然な風に笑顔を作ることが出来たと思った。
「真澄さん、ホントに何でもないからさ」
「そう、か? おまえ、あんまり肝心なところ昔から言わないからなぁ」
「え? そう、かな?」
真澄さんにそんな風に思われていたとは思いもしなかった。問い返したオレの言葉に、真澄さんはどこか淋しげな苦笑を見せる。
「そうだよ。俺、結構頼りになると思うんだけどなぁ」
「うん、真澄さんは頼りになると思うよ。実際頼りにしてるし」
「その割りに、あんまり相談とかしてくれないよな。好きな子のこととか、友達のこととか、将来のこととか」
「え……」
そう言われてみれば、そうかもしれない。けれど、それは相談するほどのことが何もなかったからだ。
友達とも特に激しく喧嘩したりもしないし、イジメられたりとかもない。彼女が欲しいと切実に思っているわけでもないし、好きな子がいるわけでもない。将来のことにしたって、オレはまだ高校に入ったばかりで、そんなに先のことも考えていない。
そう思って反論しようとすると、
「ま、でも、おまえはそんなに心配しなくてもどれもこれも大丈夫か」
「あ、いや、まぁ……」
出鼻を挫かれ、しどろもどろな返答をしてしまった。
マヌケな顔をしているオレに、真澄さんはにこりと笑う。
「えーっと、真澄さんの大丈夫の根拠がイマイチわからないんだけど」
「ん? そうか? だっておまえ、友達付き合いもいいし、追い詰められたら実力以上の力発揮するタイプだし、何より……」
「何より?」
勿体をつけるように、真澄さんが言葉を切る。オレが先を促すと、真澄さんは不敵というか、からかうように口元を歪めた。
「女の子に関しては昔からさやか一筋だもんな」
「…………は?」
真澄さんの言った台詞の意味が、まったくわからなかった。
この言い方だと、まるでオレがさやかを好きなようじゃないか。
「おいおい、今更否定しなくたっていいって。昔っからおまえら二人が一番仲良かっただろうが」
「誰と誰が?」
「だから、恭平とさやかがだってば」
「仲、良かったっけ?」
オレの記憶の中には、さやかと仲が良かった記憶などない。いや、別に仲が悪かったわけではないのだが。
ただ、いつもさやかの我がままに振り回されていた気がするし、一番ひどい扱いを受けていたような記憶しか出てこなかった。
「さやかがなかなか帰ってこなくて三家族みんなで大騒ぎした時なんか、手分けして探しに行ったら、何故か家に残ってた筈のおまえが泣いてるさやかの手を引いて帰ってきた、なんてこともあっただろう?」
「あぁ、そんなのもあったっけ……」
そういえば、と埋もれつつあった古い記憶を掘り起こす。
それは、確か寒い寒い冬の頃のことだった。そう、丁度さやかが引っ越していくニ、三ヶ月ほど前だ。
雪がちらついていた。
吐き出される息は、次々と白い煙のようになって、宙に舞い上がっていく。
それが子供心に無性に面白くて、温まった部屋の空気が逃げることも構わず窓を開け、馬鹿みたいに何度も何度もくり返した。
そんな冬の始まりの頃。
陽も傾き始め、少しずつ夕闇が濃くなり、気温もますます下がり始めた時、我が家のインターホンが鳴った。
それに応えて玄関に向かった母に続き、オレも小走りに後を追う。
玄関にいたのは、顔色をなくしたさやかの両親と、真澄さんたちの母親だった。
「こちらに、さやかはお邪魔してないですか?」
焦る気持ちを必死に抑えようとはしているが、それでも不安を隠しきれない様子でさやかの父は訊ねた。
「いえ、来てないわ。さやかちゃん、戻ってきてないの?」
「ええ。真澄君が学校からの帰り際に校門で姿を見たとは言っているんだけど、その後どこかへ行ってしまったのか……」
「とにかく手分けして探しましょう!」
大人たちで話がまとまり、母も慌てて外へ出る用意に取り掛かる。
コートを引っ掛け玄関に向かう母についていくと、
「恭平は大人しく家で待ってなさい! ご飯はちょっと遅くなるかもしれないけれど、我慢してね! お父さん帰ってきたら、理由を説明しておいてちょうだい!」
そう早口で捲し立てられ、返答する間もないまま母は外へと出て行った。
取り残されたオレはしばし呆然としていたが、すぐさま自分の部屋に戻り、コートを羽織って家を出る。合鍵でしっかり戸締りだけはしていたのは、幼いながらになかなか上出来だったと今でも思う。
息を切らせて薄暗い道を走った。
途中、さやかを探す親たちに見つかりそうになっては隠れつつ、それでも目的の場所を目指してまっすぐに駆けていく。
辿り着いた先は、学校と家までの中間くらいに位置する公園だった。
公園を囲うコンクリートの塀の端には大きな穴が開いている。大きいと言っても、子供一人がようやく通れるくらいのもので、とても大人には入れない。
そこを入ると公園裏手の林の中に出るのだが、上手い具合に少し開けたスペースが灌木で囲われるようになっていて、更には灌木の向こう側から這うように伸びている松の木が、丁度座るにはいい高さになっていた。子供ならば絶対にワクワクしてしまう秘密基地のような場所だったのだ。
公園で遊んでいる時に偶然見つけたこの場所をさやかはいたく気に入っていた。だからもし見つからないのなら、ここにいるのではないかと直感したのだ。
そして、もしそれが当たっていたのなら、さやかを見つけられるのはオレだけしかいなかった。その秘密基地は、オレとさやかの二人しか知らなかったのだから。
コンクリートの穴をくぐる。
身体半分をもぐらせたところで、驚いたような表情でこちらを見るさやかの姿が映った。
「やっぱりここにいた」
「恭平? 何で……」
驚きを隠せない様子のさやかの目は赤く腫れ、その頬は濡れていた。
さやかはこの場所で、たった一人で泣いていたのだ。
「さやかちゃん、みんな心配してるよ? 帰ろう?」
「ヤダ」
「ヤダって、何で?」
「だって……」
さやかがぐっと唇を噛み締め、俯く。松の木でなく、冷たい地面に座ったままぎゅっと膝を抱え、またも溢れ出しそうな涙を堪えるように。
「だって、帰ったら、遠くに行かなくちゃならないもん」
「遠くに? 何で? さやかちゃん、どこかお出掛けするの?」
「お出掛けじゃない。お引っ越し。お父さんが、今のお仕事上手く行ったら、エイテンだってお母さんに話してたんだもん」
「エイテンって何?」
「知らないっ! わかんないよ! でも、でも! 引っ越すことになるって言ってたもん!」
とうとう叫ぶように声を荒げ、さやかは大粒の涙を零し始めた。泣き続けるさやかの頭を、オレは宥めるように撫でる。
「じゃあ、さやかちゃん、おじさんとおばさんにお願いしようよ! お引っ越ししなくていいようにしてねって! おじさんたちは優しいから、僕たち二人でお願いしたら聞いてくれるって!」
その頃のオレはそんな無茶苦茶な願いも真剣に頼めば叶うと信じていた。
当然『栄転』して異動になれば、引っ越さないわけにはいかないとか、そんな事情などわかるわけもないほど幼かった。
「そうだ! 真澄さんや穂波ちゃんにも、一緒にお願いしてもらおう! そしたら絶対おじさんたちもわかってくれるよ!」
「……そう、かな?」
「うん! だから早く帰っておじさんたちにお願いしよう!」
オレのどこまでも前向きな意見に、さやかはようやく頷いた。
二人そろって秘密基地を後にし、手を繋いで暗い夜道を歩く。
その間も、さやかはなかなか泣き止まず、オレは何度も何度も同じような言葉をくり返した。
「大丈夫だから。ね? さやかちゃん。だから泣かないで」
「ねぇ、恭平は、ずっと一緒にいてくれる?」
「当たり前だよ! 絶対、約束するから!」
冷え切ってしまった手をしっかりと握り、家までの道程を歩む。
いつもは強気なさやかがこんなにも弱っている姿を見て、オレは初めて「守ってあげなければ」と思ったのだ。
だから、家に辿り着くまでの道すがら、ずっと同じ約束を確認し続けた。守れないだろう約束を、そうとは知らずにくり返したのだ。
その後、家の前まで戻ってきていたさやかの両親に二人でお願いしたら、父親は苦笑しながらさやかの頭を撫でて続けた。
「お引っ越しはまだするかどうかわからないんだよ。だからさやかはまだ恭平君たちと一緒にいられるからね」
引っ越す可能性がないわけでもない言葉だったにも関わらず、『一緒にいられる』というフレーズだけに反応し、二人して飛び上がるように喜んだ。
結局その数ヵ月後には栄転が決まり、桧山一家は引っ越していった。
別れの日には、約束を守れない自分が不甲斐なくて、さやかには逢いにいけなかった。
後から知ったのだが、さやかは観念したのか泣きもせずにみんなに別れの挨拶をしたらしい。それを思うと、オレよりもやっぱりさやかの方が大人でしっかりしていたのだろう。
そんなことを思い出していると、真澄さんがクスクスと忍び笑いを洩らしてるのに気付いた。
「何だよ、真澄さん。気持ち悪い笑い方して」
「悪い悪い。いや、おまえさ、もしかして気付いてないのかなぁと思って」
「気付いてないって?」
「うん、まぁ、色々」
含みを持った真澄さんの言葉に、自然と眉間に皺が寄る。すると真澄さんはさも笑いだしたいのを我慢するかのように、微妙な笑み声で問いかけた。
「おまえさ、昔からさやかの言うこと何でも聞いてただろう?」
「うっ、さやかに逆らえなかったことは否定しないよ」
「じゃあ、何で逆らえなかったのかわかるか?」
「え?」
何で、逆らえなかったのか?
そんなこと考えたこともなく、何故そんなことを訊かれるのかもわからなかった。
再び考え込んでいると、真澄さんはポンと肩に手を置き、
「ま、いい機会だからゆっくり考えてみろよ。じゃ、先帰るから」
そう笑顔を残してその場から去っていった。
不可解に思いながらも、オレは真澄さんの背中を見送る。
しばらく立ち尽くしたままだったが、いつまでもこの場に留まっている理由もないのでゆっくりと真澄さんと同じ方向へと歩き出した。もう、前を歩く真澄さんの姿は見えない。
(何で、逆らえなかったのか)
真澄さんに言われたことをもう一度考える。
確かに逆らえなかった。それはさやかが年上で、自分よりも背も高くて、気も強くて、小さかった自分には逆らうのが怖い存在だった、ということが第一だ。
けれど、言われてみると、それほど嫌々言うことを聞いていたわけでもないことに気付く。
確かに振り回された。ひどい扱いも受けた。けれど、思い返してみるとさやかは決してオレ自身が深く傷つくようなことはしなかった。
(だったら、何で)
それでも怖かった記憶はある。
さやかの言うことを聞かなかったことはない。
何故なら。
(言うこと聞かなかったら)
あの冬の、さやかの泣き顔を思い出す。
「さやかが、泣く、から?」
そこまで思い至って、思わず頬が火照るのを感じた。その紅潮を隠すように、左手で顔を覆う。
そうだ。
オレが何故さやかの言うことに逆らえなかったのか。
さやかが泣くからだ。泣き顔を見たくなかったからだ。いや、泣き顔だけでなく、怒らせるのも嫌だった。
嫌われるのが、怖かったのだ。
「うわ。ちょっと待てオレ。何だかどうしようもなく情けないヤツだぞ、オイ」
気づいてしまえば、何のことはない。
オレにとってのさやかは、昔から『特別』だったのだ。だから、さやかの想い人の話を聞いて、自分自身でわかっていないくせにショックを受けた。
けれど、次の瞬間には、頭に上った血がすっと下がる。
哀しいことに、もう一つのことにも気づいてしまった。
さやかは真澄さんが好きなのだ。
オレは自分の気持ちに気付いた途端に、失恋していることにも気付いてしまった。
こんなことならば、気付かなければ良かった想いに、吐き捨てるように舌打ちする。
それでも胸に湧き起こった切なさは、微塵も薄れはしなかった。
◇ ◇ ◇
狙いを定め、不要な力を抜く。伸び上がるように軽く跳躍し、バネを利用して手にしていたボールを放った。オレンジに近い褐色の球体は滑らかな放物線を描き、リングに向かって落下していく。
が、ガツンと無情な音が響き、リングに嫌われたボールは俺の立つ位置よりやや右手へと弾かれていた。
思わず、ため息が零れる。
「あらあら、フリースローの名手らしくないなぁ」
「え?」
誰もいないと思っていた早朝の屋外練習用コート。声に驚いて振り向けば、そこにはバスケ部のマネージャーである岡田真由がいた。
岡田はにっこりと笑顔を浮かべると、足元に転がるボールを拾い上げ、側まで近寄ってくる。
「おはよう。朝練ないのに頑張るね」
感心したような岡田の言い方に、差し出されたボールを受け取りながら思わず苦笑いになった。
今日の朝はいつも朝練に行く時と同じ時間に家を出たのだ。
理由は簡単。昨日と同じ時間に家を出れば、さやかと遭遇する可能性が高いと思ったからだ。
気づいてしまえば苦しいだけの想い。少しでも顔を合わせないほうが気が楽だった。
「オレはこれくらいしか取り得ないしな。毎日少しずつでもやってれば、レギュラー入りも早くなるかもしれないだろ?」
「そうだねぇ。でも、ちょっと集中力なさそうだったけど?」
ちらりとこちらを窺う岡田の視線に、少しばかり案じるような色が見える。
どうやらオレがここで練習していた理由は言葉の意味だけでないと何となく気付いたようだった。
「相変わらずよく見てるな、岡田は」
少しばかり恥ずかしい思いで、苦笑を重ねた。
岡田はしっかり者のマネージャーで、練習中でも本当によく部員の一挙一動を見ている。調子の悪い部員にはアドバイスをしたり、気を紛らわせてやったり、休むように指示をしたり、本当に気の利く良いマネージャーなのだ。
「まあ、矢野君はどうしても見ちゃうからねぇ」
「おいおい、そんなにオレは鈍臭そうか?」
情けない表情でため息混じりに零すオレに、岡田は豪快に声を上げて笑った。
「あはははは! 違う違う。そういう意味じゃないよ」
「じゃあどういう意味だよ」
「それはね、好きな人はどうしても見ちゃうってこと」
さらりと。
あまりにも自然に、世間話の延長のように言われて、オレは一瞬、そうか、と納得して聞き流しかけた。
しかし、すぐにその台詞の意味を飲み込んで、固まった。手の中にあったボールが軽いバウンド音を立てて、地面に転がっていく。
「えっと、岡田、それって……」
「うん? そのままの意味だよ?」
「……オレを?」
「うん」
焦って上手く言葉の出ないオレの様子に、岡田は楽しげに目を細めている。
それにオレはますますどう対応していいのかわからず、次に言うべき言葉を見つけ出せなかった。
「えっと、その、あの……」
しどろもどろなオレに、岡田はプッと吹き出した後、堪えきれないように大爆笑した。
「ごめんね、矢野君。そんなに困らなくていいから」
「困らなくてって、冗談だったのか?」
からかわれたのかと思って憮然とすると、今度は慌てたように手を大きく横に振る岡田。
「あ、違うって! 矢野君を好きなのは本当だよ? でも、いきなりそんなこと言われても矢野君も困るでしょ?」
「まあ、それは……」
「だからね、今すぐ返事が欲しいとかいうんじゃないの。矢野君はきっとあたしを恋愛対象になんて見てないと思ったから、そういう風に見て欲しいなって思って」
岡田は笑いを納め、それでも穏やかな笑みは浮かべて、真っ直ぐな視線を寄越す。
その表情は潔くて、綺麗で、素直に告白を嬉しいと思えた。
「本当に急がないんだ。だから矢野君、ちゃんとあたしを見て、知って、それから返事ちょうだい」
「……わかった。ありがとう」
「こちらこそ。じゃ、またね」
満面の笑みを浮かべると、岡田は踵を返し、元気よく手を振って駆けていった。
「……岡田が、オレを、ねえ」
しばらくそのままぼんやりとながら呟く。
確かにただの同じ部活の部員としか思っていなかったから、突然すぎる出来事に驚くしか出来なかった。
けれど、岡田の告白は好ましく、何となく落ち込んでいた気分が少し救われたように思える。
オレは足元に転がったボールをもう一度拾い上げた。
集中を高め、数分前と同じようにゴールに向けてシュートを放つ。
ネットの擦れる軽い擦過音して、ボールはリングに当たることなくゴールに吸い込まれていった。
理想通りの軌跡に、オレは清々しい気分を覚え、軽いガッツポーズを取った。
賑やかな笑い声や会話が弾ける中、次々と校門から生徒の群れが吐き出されていく。
オレもその群れに混じりながら、カラオケに行こうと誘う三馬鹿トリオに別れを告げて自宅へと向かっていた。
今日は一日中穂波が何か言いたげだった。けれど、あまり話したくない気分だったオレは、上手く会話をしないようにして過ごした。だから今も、穂波に捕まらないように若干急いで帰宅の途についたのだった。
「恭平!」
その早足のオレを呼び止める声に、苦い気持ちを覚えながらも立ち止まる。
さやかが小走りにオレの側まで追いついてきた。
「どうしたんだ?」
「別にどうしたってわけじゃないわよ。ただ姿が見えたから一緒に帰ろうと思って」
「そうか」
歪みそうになる表情を、何とかいつも通りを装う。
気付かれてはいけないのだ。オレがさやかを好きだということは。
冷静に、冷たくなりすぎず、よそよそしすぎず、そして、それでも《幼なじみ》としての距離を保ちながら。
「授業どうだった? 前のところと似たような感じか?」
「うーん、そうね。ちょっとだけこっちの方が進んでるけど、真澄君に教えてもらえば大丈夫なんじゃないかな」
さやかが真澄さんの名を出すとチクリと胸を刺す痛みがある。それでもそれは表に出せない。ただの幼なじみは、そんな表情をするわけがないのだ。
「そういえば恭平、今日はずいぶん早く家出たのね」
「ああ、ちょっと練習したくなったからな」
思いがけない指摘に内心どきりとして、わずかばかり声が上擦った。
それを不審に思ったのか、それとも別の理由なのか、さやかはどこか訝しげに眉をひそめる。
「それ、だけ?」
「それだけって、他に何があるんだよ?」
何とか気持ちを落ち着け、何事もなかったかのように装い、反対に俺は問い返した。
さやかはしばらく考え込むように黙っていたが、やがて小さな声で呟く。
「……コートで女の子と話してるの、見たから」
「え」
それまで必死に繕っていた表情が、一瞬で崩れ去った。
岡田と一緒にいたところを誰かに見られているとは思いもしなかったのだ。しかもそれがさやかだなんて。
「彼女?」
「ち、違うよ、バスケ部のマネージャー!」
「でも、告白とか、されてたんじゃないの?」
一体どこからどこまでを知っているだろう。オレの脈拍は急速に速まり、どう説明すればいいのかもわからないほど混乱していた。
「ま、まぁ、された、けど……」
「付き合うの?」
さやかは次第に尋問するかのような口調へと変化する。それがひどく癇に障った。
「さやかには関係ないだろ」
「関係なくないわよ。幼なじみでしょ? 恭平のクセに隠しごとなんて生意気だわ」
苛立ちの混じったオレの返事に、さやかも少しいムッとしたようだった。いつもより更に上から目線な言い方になっている。その態度が、ますますオレを不機嫌にさせた。
さやかはオレのことなんて幼なじみとしか思っていない。なのに、どうしてここまで口出しをするんだろうか。
そんな思いからイライラが募り、すぐに堪えきれないほど増幅する。
「幼なじみだろうが何だろうが、必要以上に口出しすんなよ」
「口出しって……」
オレのきつい一言に、さやかが面食らったように言葉を失くし立ち尽くした。それでも後から後から湧きあがる感情のままにオレは言葉を続ける。
「ウルセェって言ってんの。もうオレたち高校生だぞ? 昔みたいにいつでも一緒にいる必要もないんだ。オレが誰と付き合おうが、さやかには関係ないし、反対にさやかが誰と付き合おうとオレには関係ない」
吐き捨てるように一息で言い放つ。完全に八つ当たりだったが、吐き出してしまえば思ったよりもすっきりとした。
けれど、そんなオレとは対照的に、さやかはオレを見つめたまま、信じられないとでも言いたげに大きな目をいっぱいに見開いていた。その瞳は潤み、生まれたばかりの雫が柔らかな薄紅の頬を伝い落ちていく。
言いすぎた。すぐさまそう思ったが、それでも謝罪の言葉は出てこない。
いっそこのまま関係が崩れてしまえば、さやかが真澄さんに笑いかけている姿も見なくて済むかもしれない。その方が、きっといくらか楽なのだ。そんな想いが胸の内をよぎる。
「……わよ」
「え?」
幾筋もの涙を流しながら、掠れた声をさやかが零す。しかし何を言っているのか全く聞き取れなかった。
「……関係なく……ないわよっ……」
涙に邪魔されて上手く言葉にできないさやかは、途切れながらも言葉を続ける。その必死な様子に、幼い頃のさやかの姿が重なった。
「恭平が、言ったん……じゃないっ……」
「オレが? 言ったって、何を……」
「ずっと……」
「ずっと?」
「ずっと一緒にいるって! 側にいるって言ったのは、恭平じゃないっ!」
叩きつけるように叫ぶと、さやかはそのまま勢いよく駆け出した。
オレは咄嗟に後を追うこともできず、遠ざかっていくさやかの後ろ姿を呆然と見送ることしかできない。
「さやか、何で……」
頭の中が整理できなかった。
さやかは真澄さんを好きなはずだ。なのに、どうしてあんなことをオレに言うのか。
あれではまるで――。
「まーたおまえはこんなとこで立ち止まって。今日は何してんだ?」
混乱したまま立ち尽くしていると、昨日と同じく大学帰りの真澄さんに見つかった。
オレは昨日のように取り繕った笑顔を浮かべることも出来ず、ただ振り返る。
「恭平? どうしたんだ? 何かあったのか?」
「……さやかを」
「さやか?」
「泣かした」
弱々しく答えると、真澄さんは仕方ないなと言うようにオレの頭を軽く撫でる。
経緯はわからないものの、オレとさやかがケンカをしたことは伝わったようだった。
「さっさと仲直りしろよ。さやか、おまえとのケンカが一番落ち込むんだから」
「何で?」
「まだわかってないのか? 恭平が一番落ち込む原因もさやかだろ? 同じ理由だよ」
「同じ理由……」
何もかもわかったような真澄さんが、帰るぞ、と背中を押して促す。加わった力の作用そのままにオレはゆっくりと真澄さんの隣を歩き出した。
オレがさやかのことで落ち込むのは、オレがさやかを好きだから。
なら――。
「なぁ、真澄さん」
「んー? 何だー?」
「穂波がさ、言ってたんだ。さやかの好きな人はオレがよく知ってる人だって」
そう。あの一言を聞いてオレは、すぐに真澄さんを思い浮かべた。それ以外に誰も思いつかなかったからだ。
「その通りだな。誰よりもおまえが一番わかってるだろ? っと、鈍感だからそうでもないか」
「オレ、真澄さんだと思った」
「それはないない。残念ながらさやかは俺を兄貴みたいにしか見てないからな」
笑み混じりに答える真澄さんの声は柔らかく、少しずつ心が落ち着いてくる。それとともに、整理されていくオレの頭の中。
さやかの言葉も、態度も、行動も、気付いてみればひどく自然で当たり前のことばかり。
オレにわがままを言うのも、真澄さんとばかり話していて拗ねたのも、岡田とのことを色々聞き出そうとしたことも、全部が簡単に納得がいく。
真澄さんの言うとおりに、さやかがオレのことで一番落ち込むのなら――それはさやかがオレを、『好き』だから。
その事実が嬉しいと同時に、申し訳ない気持ちと情けない思いでいっぱいになった。自分の勘違いからさやかにひどい言葉を投げつけ、傷つけてしまったのだ。
「真澄さん、オレさ、さやかのこと好きなんだけど」
今更過ぎる想いを、初めて声に出す。
真澄さんは呆れたように、それでも優しく背中を押すように、笑ってくれた。
「俺に告白しても仕方ないだろ。いい加減ちゃんと言ってやれよ」
「怒ってないかな?」
「怒ってたら言うのやめるのか?」
訊ね返してはいるが、真澄さんの表情は答えがわかりきっていると言わんばかりだった。それでも敢えて問い返すのは、きっと確認したいから。
オレの決意を、確かめたいからだ。
「……やめない」
試すような真澄さんの目を真っ直ぐに見つめ、静かだけれど強い声でオレは答えた。
真澄さんは笑みを深くし、それでいいという風にゆっくりと頷く。
オレはそこでようやく自然に笑うことができた。
「とりあえずオレ謝ってくる! その後でもしさやかにフラれたら、真澄さんやけ食いに付き合ってくれよな!」
「わかった。頑張れよ!」
真澄さんの応援を聞き終わらないうちに、オレは思い切り駆け出した。
いつも見慣れた学校から家までの道を一気に走り抜ける。真っ直ぐに我が家の隣の桧山家へと向かい、逸る気持ちを抑えながらインターホンを押した。
応対してくれたのはおばさんで、さやかに用があると伝えるとすぐさま玄関のドアを開けてくれた。
「良かったわぁ、恭平君が来てくれて。さやか、何だか知らないけど泣きながら帰ってきて、部屋に籠もったまま出てこないのよ」
さやかを心配している様子のおばさんに心の中で謝罪し、話もそこそこにさやかの部屋まで向かう。
部屋の前まで来ると、一気に緊張してきたが、ここまで来て引き下がることは出来ない。
意を決して、オレは拳を握り締める。コンコンと硬質なノックの音を響かせ、中にいるであろうさやかに声を掛けた。
「さやか、オレだけど……」
返事は、返らない。
けれど、微かに鼻をすするような音は耳に届く。聞こえているのは確かだろう。
「入るぞ?」
年頃の女の子の部屋に、返答もないまま入るのは少々気が引けたが、このまま部屋の外にいても仕方がない。
思い切ってドアを開けた瞬間――。
ボスンと顔面にクッションが直撃した。けれど柔らかいものだったから痛くはない。
「何しにきたのよっ」
それよりもむしろ、目を真っ赤に泣き腫らしたさやかの姿の方が、痛かった。
制服のままベッドの上に倒れ込んで、あの後も泣いていたのだろう。
オレはベッドの側までゆっくりと近づく。それにつれて、さやかは逃げるように壁際に張り付いた。
ベッド脇まで来ると、そのまま床に膝をつき、見上げるようにさやかを見つめた。
「ごめん」
「何を謝ってんのよ」
「そうだな、まずは関係ないって言ったこと。あれは単なる八つ当たりだった。それから、側にいるって約束のこと。あんな昔のこと、覚えてるとは思わなかったから。そして、最後はめちゃくちゃ今更なことを今頃言うこと」
オレの声を聞きながら、さやかが少しずつ怪訝な表情へと変わっていく。
オレが何を言いに来たのか、まだはっきりと伝わっていないようだった。
「……関係ないって言ったことは、もういいわ。誰だって機嫌悪い時はあるし」
「そうか」
「約束のことも、忘れてたなら仕方ないし」
「忘れてたわけじゃないよ。さやかの方こそ忘れてると思ってたんだけどな」
言い訳じみているが、本当のことだ。オレも真澄さんと話して思い出したくらいだし、さやかが覚えていたことの方が驚いたのだ。
「わかったわよ。で、最後の今更なことって何よ」
相変わらず傲慢とも取れるような態度で訊ねるさやか。けれど、それが彼女の精一杯の虚勢なのだと、今はわかる。
本当のさやかは強くなんてないのだ。
穂波に相談していた時の、不安を抱えて弱気な言葉を紡いでいた声音を思い出す。
まるで割れ物のように繊細で、ほんの少しの衝撃でも崩れてしまいそうなほど脆い。そんなガラスのように儚くて、透き通った心。
だから、もっとずっと傍で、守っていこうと決めた。
「さやかが好きだ」
「……ばっ、バカっ、何言ってんのよ、いきなりっ!」
「何言ってんのよって、オレ、一世一代の告白してるんだけど」
あまりにも冷たいリアクションに、少しばかり切なくなる。
突然さやかがしおらしくなっても反応に困るが、いつもと変わらなさ過ぎてせっかくの緊張感が失せてしまった。
「こ、告白するなら、もうちょっとムードとか考えなさいよ!」
「あ、ごめん。そこまで頭まわらなかったな」
「まったく……。本っ当に恭平って女心ってもんがわかってないんだから!」
それでもさやかが文句を言い続けている最中に、あることに気付いて自然と頬が緩む。
さやかの頬が真っ赤に染まっているのだ。冷たいリアクションを取っているのも、照れ隠しなのだろう。
そんな不器用で意地っ張りな姿を、可愛いと思う。
「そうだな。で、返事は?」
意地悪く促すと、さやかはうっと言葉に詰まり、視線をあらぬ方向へと逃がす。
オレは立ち上がり、ベッドの方に身を乗り出すと、さやかの顔を覗き込むようにして更に重ねた。
「返事は? さやかはオレのこと、どう思ってんの?」
「ちょ、ちょっと恭平! 近すぎるわよっ!」
「でもこうでもしないとさやか逃げるだろ?」
「べ、別に、逃げたりしないわよ!」
「じゃあ、返事は?」
なおも続くオレの要求に、さやかは俯くようにして何とか視線を外そうとする。
すでに顔は耳まで真っ赤で、初めて見る純情な反応に実はもうかなり満足していた。
「…………す」
「す?」
「……す、き」
聞こえるか聞こえないかのギリギリラインの声。
それでも嬉しくて、もう一度その言葉が聞きたくなる。
「聞こえない。もっと大きな声で言えよ」
「だ、だから、すき、だってば……」
「だからの後が聞こえないって」
「す、好きだって言ってんのよ! 本当は聞こえてるんでしょ!? 恭平のドSっ!」
意地悪が過ぎたのか、最後には半ギレになったさやかが大声で叫んだ。
多分その声は下にいるおばさんの耳にも届いたのではないかと思う。
さやかのあまりの狼狽振りに、オレは堪らず声を上げて笑ってしまった。
「何笑ってんのよ!」
「あー、ごめんごめん。さやかがあまりにも可愛いからさ」
「か……!?」
オレの突然の『可愛い』発言に、さやかが今度は絶句する。
今になって穂波がさやかを可愛いと言っていたことがわかる気がした。そして想いが通じ合った今、以前の意地っ張りな態度でさえもいじらしく可愛いと思える。
「さて、そろそろ帰るか」
「ちょっと、恭平! 何事もなかったかのように帰らないでよ! 私をからかいに来ただけみたいじゃない!」
「ん? 淋しいのか?」
ニッと笑うとさやかはまたも過剰に反応し、言葉が出ない代わりに手近にあったクッションを投げつける。
オレはそれを軽く受け止め、ベッドに戻した。
「じゃ、明日は昨日と同じ時間に家出るから」
言外に一緒に行こうと伝えると、さやかは少し照れながらも、小さく頷く。
それを確認すると、今度こそ帰ろうとドアに向かった。が、
「……っ! 恭平!」
ベッドの上のさやかが、思い出したように呼びかけてきた。
振り返ると、一転してどこか暗い色を漂わせている。
「何だ?」
「あの、今日のマネージャーの女の子は……」
「ああ。ちゃんと断わるよ。心配すんな」
オレがそう言うと明らかにホッとしたような表情になったが、すぐにその表情を改め、
「し、心配なんてしてないわよ、バカ」
そう言ってそっぽを向いてしまった。
そんなさやかにまた笑みを零し、オレはようやく自分の家へと戻ったのだった。
「そっか。やっぱりね」
翌日、オレは岡田を呼び出し、ちゃんとさやかのことを説明して断わった。
そして頂いたのが、こんな言葉だったのだ。
「やっぱりって、岡田はオレに断わられるとわかってたのか?」
「うん、何となく」
告白の時同様、自然で気負いのない岡田の態度に感心する。
けれどこの岡田の態度だって、傷ついている姿を隠す為のものかもしれない。そう思うようになったのは、さやかの本来の姿を知ったからだ。
だから本心をちゃんと伝える。傷つけないなんて無理なことだから、せめて正直に。
「でもオレ、岡田の気持ちは本当に嬉しかった。ありがとう」
「こっちこそ、ありがとう。うやむやにすることだって出来たのに、ちゃんと言ってくれて」
「だって、うやむやにしたら岡田に失礼だろ? ちゃんと言葉にしないと駄目な気持ちってのがあるんだって、よくわかったし」
真っ直ぐな想いをくれた相手だからこそ、真っ直ぐな気持ちを返したかった。
そんな思いが伝わったのか、岡田は目じりに微かに涙を浮かべながらも微笑んだ。
あの告白の時と同じように、潔く綺麗な微笑み。
「そう。じゃあ、お幸せにね。いつかふって後悔したって思わせてあげるわ」
そういい残し、最後に一際眩しく笑うと、岡田は颯爽と踵を返して、振り返らずに立ち去った。
その背中に、もう一度心の中で感謝の言葉をくり返す。
「さて、お姫様の迎えに行くか」
岡田の姿が見えなくなると、オレは小さく呟いてさやかの教室へと向かって歩き出した。
上級生の教室のある階に行くのは勇気が要ったが、タイミングよく階段の途中でさやかと出会うことができ、そのまま一緒に階段を下りる。
「帰るぞ」
「うん」
短いやりとりだけれど、それがとても愛おしく思える。
さやかはやっぱり相変わらず気は強いし、オレを振り回すこともある。
それでも、オレは構わない。
さやかが泣かないでいられるのなら、隣で笑っていてくれるのなら、それだけでいい。
その想いはいつも上手く伝えられるわけではないだろうけど、下手くそでもいいから言葉にしよう。
隣で咲き誇る愛おしい笑顔を守るように、誓いを込めて細い手をそっと握り締めた。