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眼鏡越しの空
蒼く高く、まっすぐに澄んだ青空は、いつだって私の『憧れ』だった。
新しい生活が始まって、もう一ヶ月ほどが経った。
少し前まで着慣れなかった制服も、最近ようやく馴染んできたように思える。
けれど。
(いまだに、馴染んでないよね)
窓際の席に座り、五月晴れの空に目を遣りながら、文奈はこっそりと溜め息をついた。
馴染んでいない、自分。
新しい、学校にも、クラスにも。
高校に進学して、まだまともに友達も出来ていないのだ。
それは、文奈自身の引っ込み思案な性格が大きく災いしている。
同じ中学出身の者も何人かいるが、最低限の会話をするだけで、親しい友達とはとてもいえなかった。
とはいえ、中学時代から、全く友達がいなかったわけではない。
中学では、幼なじみの颯子がいつも一緒だったのだ。
明るくリーダーシップのある颯子の周りには、いつもたくさんの人がいた。
だから、颯子といると、自然の他の人とも話せるようになっていった。
しかし、高校は別れてしまった。
最初は二人一緒の高校に行こうね、と約束しあっていた。
けれど、颯子は別の高校に行くことを最終的には選んだ。そして、文奈自身も、それを勧めた。
颯子は、陸上部の走り高跳びの選手として、スポーツの名門校にスカウトされたから、だ。
淋しいなんて、そんなことは言えなかった。
颯子が、どれほど高跳びを好きなのかも知っていたから。
『跳んでる瞬間はね、空になったような気持ちになるんだ』
届くはずのない空を掴むように手を伸ばし、颯子は幸せそうにそう言った。
そんな颯子に、文奈はずっと憧れていた。
颯子は、運動神経もよく、勉強も出来た。
野外の部活の為に、焼けて少し茶色くなった髪をさっぱりとしたショートカットにし、すらりと背が高く姿勢良く歩く姿は綺麗でかっこいい。
明るく姉御肌で面倒見がいいから、本当に誰からも好かれていた。
文奈はその正反対で。
運動は大の苦手。勉強も中の中。
背も低く、真っ黒な重たい色の長い髪を、いつも二つに分けて束ねていた。見た目からして、野暮ったい。
その上口下手だから、友達を作るのも上手くはなかった。
褒められるところと言えば、絵が得意なことくらいだろうか。
そんな二人だけど、何故か幼い頃から妙にウマが合った。
(ソウちゃんは、大丈夫かな?)
離れた場所に一人でいるだろう颯子のことを心配してみて。
それはすぐに苦笑に取って代わられた。
颯子は自分とは違う。
社交的だから、すぐに友達だって出来ているはずだ。
むしろ颯子の方が、自分を心配しているのではないかと文奈は思った。
(情けない、な)
帰り道、トボトボと歩きながら、溜め息が零れる。
颯子がいないと、何も出来ない自分。
颯子がいないと、何の自信も持てない自分。
『文奈、メガネやめてコンタクトにすりゃいいのに』
少し呆れも含んだような笑顔で、かつて颯子がそう言った。
『その方が可愛いのに』と。
綺麗な颯子にそんな風に言われて、恥ずかしかったけど、嬉しかった。
だから、思い切ってコンタクトを買ってもらい、中三の時からずっとソレを着けていた。
颯子に言われて自信を持てたのもある。
けれど、高校に入ってからは数えられるほどしか着けていない。
何故なら、眼鏡の方がいろいろ便利だからだ。
表情を、ちゃんと見られずに済むから。情けなく、自信のない表情を、隠すのに丁度いいから。
また一つ、溜め息をついて、玄関のドアを開ける。ただいま、と小さく呟いて、まっすぐに二階の自室に入った。階下で母親が何か言っているようだったが、気にせず制服を脱ぎ始める。
と、机においてある写真集の上に、綺麗な空の風景の封筒が置かれていた。
慌てて手に取ると、見覚えのある綺麗な文字で、『川上文奈様』と書かれている。
そして、裏面には『宇津木颯子』と。
「ソウちゃんからだ!」
引き出しからペーパーナイフを取り出し、すぐさま開封する。
封筒とおそろいの空模様の便箋には、懐かしい文字が整然と並んでいた。
『 Dear.文奈
お元気ですか? 私は相変わらず元気に走って跳んでます。
何とか寮生活にも慣れて、友達もできました。
やっぱり名門校だから、練習は厳しいし、みんなレベルが高いので、毎日練習についていくだけでかなり必死です。
でも、充実はしてるかな?
文奈はどうかな? やっぱり美術部入ったのかな?
もし文化祭とかでそっちに行けるなら、是非とも文奈の描いた絵が見たいです。
あ、力作出来たら、発表前に私にだけ写メ送ってね。
私は文奈の絵の一番のファンなんだから!
じゃあ、今回はこれくらいで。
また手紙書きます。
お互い頑張ろうね。
From.颯子』
「ソウちゃん……」
呟くと、ぽたりと涙が零れた。
情けない自分。
自信がない自分。
颯子みたいになりたいと思うばかりで、何も踏み出そうとしない、自分。
それでは駄目なのだと、わかっていても踏み出せない。
そんな自分を、颯子は応援してくれている。
きっと、颯子のことだから、今の文奈が陥っている状況を少なからず想像しているのだろう。
手紙を封筒にしまい、机の上に置く。そのまま、その横に置かれたままの蒼い写真集を手に取った。
いくつもの、空ばかりを収めた写真集。
颯子の大好きな、空、ソラ、そら……。
「ソウちゃんも、頑張ってるんだよね?」
颯子ならどこででもやっていける。
勝手にそう決めつけていた。
けれど、颯子だって、独りだ。
文奈のように顔見知り程度の存在さえいない場所で、一から歩き始めたのだ。
家族からも離れ、初めての寮生活で。
手紙にも、練習についていくのに必死だと書いてあった。当然だ。颯子のいる場所は、颯子のような存在が沢山集まっているんだから。
それでも颯子は、今もキツイ練習に耐えながら、自らの力で少しでも空に近づけるように頑張っているのだ。
ならば、自分も変わらないと。
そう、文奈は思った。
少しずつでいい。
颯子が一日で出来ることでも、文奈には一週間かかってしまうかもしれない。それでも、やらないよりは、マシだ。
「まずは、『キミ』から、だね」
呟いて、文奈はかけていた眼鏡をそっと外し、写真集の上に置いた。
少し髪も切ろう。
もっと自分から話しかけてみよう。
いつまでも友達も作らずにいたら、颯子が心配するだけだ。
颯子に憧れるだけで終わるのでなく。颯子のように、自分も強くなろう。
次に逢ったときに、お互いに笑い合えるように。
その日から、文奈は眼鏡からコンタクトへ変えた。
初めて、雑誌なんかで話題に上がるような有名な美容院を予約して、髪を切ってもらった。
野暮ったかった髪型は、すっきりとした今風のセミロングになって、文奈自身も髪型でこれほどまで印象が変わるのかと驚いたほどだった。
切ってくれた美容師自身も、『可愛いですよ』と褒めてくれた。社交辞令でも、文奈は嬉しかった。
翌日登校すると、クラスメートがそろって驚いたような表情をした。
隣の席の少女・沢木悦子に、にっこりと笑って挨拶をする。
「お、おはよう、川上さん」
戸惑いがちに返ってきた挨拶の後、悦子は驚きも隠さずに続けた。
「髪、切ったの?」
「うん。これから暑くなるし」
「眼鏡も辞めたんだ? コンタクト?」
「そう。暑くなってくると、ここに汗が溜まるのよねー」
苦笑しながら、文奈は眼鏡の鼻当てのあたる部分を触った。
すると、悦子がぷっと吹き出す。
「確かに! 私も眼鏡だった時、夏場に困ったのよー!」
「だよね。汗で、眼鏡がずり落ちてくるの」
「そうそう!」
予想以上に話が盛り上がり、それに気付いた悦子の友人も二人の周りに集まり始めた。
みんながそれぞれに文奈の変身の感想を口にする。
「川上さん、絶対今の方がいいよ!」
「そ、そう? ありがとう」
「うんうん。ホントはね、川上さんってずっと話しかけづらかったんだー」
「そうよね~。何か、落ち着いてるし、頭も良さそうだし……」
「え!? 全然そんなことないよ!」
ただ、根暗そうで敬遠されていると思っていた文奈は、クラスメート達の言葉に慌てて否定した。
「勉強も全然だし、運動も苦手だし、いっつもソウちゃんに手伝ってもらってばっかりで!」
「ソウちゃん?」
「あ、あのね。私の幼なじみで親友なの。今は違う学校で走り高跳びの選手で頑張ってるの」
つい口に出てしまった颯子の名を、今度はみんなに説明する。偶然にもこの中に同じ中学の出身者はいなかった。
文奈は思い切って、思っていることを吐き出した。
「家族からも離れて、独りで頑張ってるの。だから、私もソウちゃんに負けないように頑張ろうと思って」
こんなことを言うと馬鹿にされるかもしれないけれど。
今の自分を変えるなら、これくらいは出来なきゃいけないと、自分で叱咤する。
「私、面白い話も出来ないし、頭も悪いし、流行なんかにも疎いけど……。でも、みんなと仲良くなりたいなって思うの。だから、友達になってくださいっ!」
最後には叫ぶように言って頭を下げた文奈に、ぷっと誰かが吹き出した。
途端に、恥ずかしくなって、顔を上げられなくなる。
「今時、友達になってくださいなんて、宣言するヒトいないよー?」
「ホントホント」
「川上さんって、おっかしー」
馬鹿にされてる。
やっぱり自分は駄目なんだ。
そう思うと、涙が滲みそうになる。
けれど、それをぐっと堪え、顔を上げると。
意外にも、優しい笑顔ばかりがあった。
「でも、エライね、川上さん」
「うん、エライ。話すの、苦手なんでしょ?」
「そんなに畏まらなくたって、大丈夫だよ」
「そうそう、せっかく同じクラスになったんだもん」
踏み出してみれば、それはむしろあっけないほどで。
文奈は予想していたよりもずっと、みんなは身近な場所にいてくれたのだと気付いた。
今までは感じていた壁は、自ら作り出していただけだったのだ、と。
「ありがとう」
今度は嬉しくて、泣きそうになった。
わかってくれた。
努力を認めてくれた。
それが本当に嬉しくて嬉しくて。
ほんの少しだけ、自分に自信を持つことが出来た。
自分一人の力でも、世界は変えられるのだと。
そうして、ようやく出来た友人達とのおしゃべりは、始業のベルが鳴り響くまで続いた。
放課後、文奈は美術室にいた。勿論、部活動の為だ。
秋にはコンクールや文化祭があるが、その準備にはまだ少し早い。学校側もさほど美術部に力を入れているわけではないので、今は自由に好きなものを作って良かった。
活動日もまちまちで、毎週火曜日は必ず出ないといけなかったが、それ以外の日は出たい人間だけ出ればよいという、半分帰宅部のような部活だった。
今日も定期活動日ではない為、美術室には顧問と部長くらいしかいなかった。
文奈は顧問に頼んで新しいキャンバスを貰う。
今、とても描きたい絵があったのだ。
家から持ってきた、資料代わりの写真を幾つも並べ、鉛筆で下絵を始める。
「……それは、高跳び?」
下絵がそこそこ進んだ頃、離れた場所から見ていた部長が、興味深そうに声を掛けてきた。
文奈は目を細めて、軽く首を横に振った。
「少し、違います」
「少し?」
「確かに、高跳びなんですけど……」
手元の写真に視線を落とす。
そこには、軽やかに宙に舞っている、颯子の姿。中学時代の、陸上大会の時のものだ。
「描きたいのは、『空』なんです」
「へぇ」
文奈の意味不明な説明に、部長はますます興味をそそられたように相槌を打った。
「私の憧れてる、目指している、『空』なんです」
綺麗に、空に溶けるように跳ぶ颯子は、文奈にとっては『空』そのもの。
届かなくても、掴もうと努力することで、少しは近くに行けるのだと。
そんな想いを絵にしたかった。
これからの自分の為に。
「……あぁ、だから『空』を掴もうとしてるの?」
「あ、そう見えましたか? なら良かった」
「うん。なかなか出来上がりが楽しみな絵だね。頑張ってね」
「はい!」
明るく答えて、文奈は再び下書きを続ける。
少しずつでいい。
空に近づこう。
そう決めた心を、キャンバスへと写していく。
出来上がる頃には、もっと友達も増えて、自分に自信も持って、胸を張って颯子に逢えるように。
颯子のように。
空のように。
強くて綺麗な、自分になれるように。