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今日と明日の、その間

 ふうわりと頬撫でて吹き抜ける風が、初秋の香りをのせ始めている。
 長めの前髪がその風に弄られて額や頬を掠めるのを、彼女はくすぐったそうにけれど心地よさそうに目を細めた。
 季節の変わり目なのだろうと感じさせる空気である。

  秋来ぬと 目にはさやかに見えねども 風の音にぞ 驚かれぬる

 確かそんな歌があったなと、少し文学少女ぶって彼女は思い出した。けれど、すぐさま自分の年が『文学少女』というのにはかなり無理があることに気づいて少し笑う。
「目に見えんモンの方がようわかる、ね……」
「何が?」
 ぼんやりと誰に問うわけでもない呟きに、不思議そうな声が答えた。
 彼女の背後には一人の青年が立っている。
「アカンよ、兄さん。不用意に背後に立ったら撃たれるで?」
「どこのスナイパーやねん、おまえは」
 見事なツッコミをいれる相方にケラケラと声を立てて笑うと、次の瞬間にはそのまま背後から回された腕に包まれていた。
 二人の眼下には、片道二車線の道路。赤いテールランプと、白いヘッドライトが尾を引きながらまばらに流れている。
 五階建てマンションの最上階の部屋のベランダで、時刻はすでに昨日と今日と明日とが曖昧に混在する頃合い。
 眼前を遮るような高い建物もなく視界は開けていて、盆地に密集した建造物から生み出される人工の光がそれなりの夜景を作り上げていた。
「何かおもろいモンでも見える?」
「うーん? せやなぁ……。おもろくはないけど――」
「ないけど?」
「……安心する」
「安心?」
 青年は頭一つ分低い彼女の顔を見下ろす。と、いうよりも、横から覗き込むと言ったほうが近いだろうか。そして彼女の言葉の意味が質問に対する答えではないと、遅からず気づいた。
 彼女は青年の胸にゆったりと背中を預け、自分の前で組み合わされている日に焼けた腕をぐっと抱き締めている。
 そっと瞳を閉じたままで。
「なぁ」
「何や?」
「『今日』と『明日』、今どっち?」
「は?」
 『今』というからには『今日』に決まっている。
 けれど、彼女の言いたいことがそんなことではないとすぐに青年もわかった。
 だから、答えは急がずにゆっくりと彼女の次の言葉を待つ。
「今は『今日』?」
「とちゃう?」
「んじゃ、さっきまでの『今日』はもう『昨日』? で、『明日』が『今日』?」
「理論上はそうやな」
 つい先ほど、部屋で流していたラジオの時報が鳴り、午前零時ちょうどを告げた。
 日付としてはもう九月最初の日となり、数分が経過しているだろう。
 彼女の言うとおり、『今日』は『昨日』となり、『明日』は『今日』へと変化したところだ。
「『理論上は』って言い方が兄さんらしいな」
「まだ寝て起きてへんから、『明日』が『今日』に変わった感じはせんやろ?」
「その通り」
 彼女は青年を見上げ、苦笑めいた微笑を返す。それを受けた青年も穏やかな笑みを返した。
 季節と同じく、日にちの境目は見えない。だから、別の何かで感じるしかないのだ。
「今日と明日の境目は、睡眠によって区切られるわけですか」
「寝ぇへんかったら、『朝やぁ!』って思った瞬間やな」
「ははは。確かに徹夜明けってそんなんやわ」
 青年の説明に、二人揃って納得して笑い合う。
 そしてふと、夜風に制されるように彼女が笑いを収めた。
「ほな、寝とる間って今日と明日のどっちでもないことない?」
「あー、そうなるんかなぁ?」
「……それ、ええな」
 一人うんうんと頷いて納得している彼女に、「何が?」と青年は訝しむような表情になる。
 それに彼女は満足そうな表情を向けた。
「今日と明日の間は、他人の入り込む余地なし、やから」
「……俺も?」
 彼女の言葉に、青年は少々不満そうに拗ねた表情を見せる。
 それにすかさず彼女は悪戯な笑みを浮かべ、
「あれ? 他人なん?」
 そう問いに問いで返した。「ならよろしい」と少し照れた青年の声に、くすくすと嬉しそうな彼女の忍び笑いが重なり、夜風に溶ける。
 少し肌寒さを覚えた青年は、抱き締める腕を解き彼女を室内へと促した。

 時刻は午前零時過ぎ。
 曖昧な境界の時間。

 できればずっと、
 今日と明日の、その間の時間を、
 キミと過ごせたらいい――。

 彼女はささやかにそう願いながら、今またその狭間の世界へとゆるやかに誘われていった。