禍つ月映え 清明き日影
伍 約束 01
一年のうち、もっとも暑い季節が訪れる。それは輝行にとって大きな意味を持つものでもあった。
全国高等学校総合体育大会陸上競技大会。学校対抗で行われるこの大会に、陸上強豪校として全国的に有名な久遠学院大付属高校も出場することになっていた。
輝行はもちろん男子一〇〇mと同時に四×一〇〇mのリレーの選手に選出されている。また隼人は五〇〇〇mの選手、そして輝行は総体直前まで気付いていなかったが、織月も女子の四×一〇〇mリレーの選手になっていた。
その他の競技に出場する選手だけでなく、出場しない部員も全員がサポート役として参加する遠征試合。合宿よりも更に長距離での移動ということで、新幹線を利用し遠く離れた西の地に赴いた。
既に大会初日を終え、輝行と織月はリレーの予選を終えていた。翌日には、それぞれリレーの準決勝と、男子の一〇〇mが控えている。その日の全ての競技が終了し、宿泊先のホテルに戻った部員たちは、明日の競技に備えて最後の指導やマッサージを受けていた。
さすがに全国大会常連校で、更には中学時代から大きな大会を経験している者が多いことから、必要以上に緊張している空気はない。しかし、緊張感が全くないというわけでもなく、口数が減る者も少なからずあった。
輝行は一人になりたいと思い、同室の部員に声を掛けてから部屋を出た。
緊張しているから、ではない。ただ、大会前、特に個人種目に出場する前は昔から一人の時間が欲しくなるのだ。誰の邪魔も入らない静かな場所で、トラックに立つ自分を想像し、最高の走りが出来るようにイメージする。その瞬間は必要不可欠であり、同時にとても好きな時間でもあった。
その為の場所を探してホテルの中を歩き回っていると、ロビーから中庭へと繋がるガラス製のドアに気付いた。中庭と言ってもかなりの広さがあり、少し奥まった先にはほのかな明かりでライトアップされたガラス張りの建物がある。しかし、神秘的な雰囲気を漂わせている割に辺りに愛を語り合うような恋人同士の姿もなく、それ以外にも全く人気はない。イメージトレーニングをしても邪魔は入りそうにないのではないかと思えた。
ただ、勝手に中庭に出ても良いものかが悩むところではあったので、フロントスタッフに声を掛けることにする。
「あの、スミマセン」
「はい、何でございましょうか?」
濃いグレーの制服に身を包んだフロントの女性が、柔和な笑みと共に応えてくれる。輝行は、中庭へと続くドアの方を指差しながら、あそこから外に出ても大丈夫なのかを尋ねた。
「大丈夫ですよ。ただ、夜の十時を過ぎますと、ライトアップされている照明が落とされますので、少々暗くなってしまうとは思いますが」
「あ、大丈夫です。それまでには部屋に戻りますから」
「では、お足元にお気を付け下さいませ」
丁寧なスタッフの応対に自然に笑みが零れる。輝行は気持ちよく礼を言って頭を下げ、先ほどのドアへと向かった。
中庭へ出ると、ガラス越しに見るよりもはっきりと外の建物が見えた。
どうやらそこは結婚式の行われるチャペルのようで、建物まで続くタイル張りの通路以外は一面緑の美しい芝生が植えられ、時折飛び石のように大小の天然石が配置されている。近くには、結婚式のセレモニー用と思われる小さな釣鐘が下がっていた。
「結婚式場かあ。さすがにオレにはまだまだ縁がないなぁ」
高校生だからというだけでなく、見事に恋愛から遠ざかっている自分に苦笑じみたものが浮かぶ。だが、それは自分自身で仕向けたことであり、陸上最優先で考えてきたことを後悔したことなど一度もなかった。
気を取り直し、ドアからより離れた建物の裏側へと回る。出来る限り人目に付かず、誰も来ないような場所でなければ、せっかくの集中も途切れてしまうだろう。
だが、そう思って回り込んだ先には、思いがけない人影があった。
織月、だ。
闇に溶け込むように密やかに、織月は膝ほどの高さの岩に座り目を閉じていた。その姿は、今から自分が行おうとしていたものと酷似している。そう思うと迂闊に声を掛けられず、輝行は静かにその場を立ち去ろうと踵を返した。が、
「うわっ」
最悪のタイミングで、足元の小ぶりな岩に躓いてしまった。今更ながらに、フロントの女性の「お足元にお気をつけて」という注意が頭を過ぎる。持ち前の反射神経で何とか転びはしなかったが、思わず上げてしまった声に、案の定織月は気付いてしまった。
「横木先輩?」
「あ、わりぃ。邪魔するつもりなかったんだけど……」
恥ずかしさを誤魔化すように空笑いすると、思いの外穏やかな笑顔が返った。どうやら気分を害してはいないようである。
「大丈夫ですよ。私はもう戻ろうと思っていたところなんで」
「そ、そっか。各務も明日準決あるもんな」
「先輩こそ、一〇〇があるじゃないですか。その為にここに来たんじゃないんですか?」
ずばりと自分の行動パターンを読まれていることに驚いたが、その言い草から織月もやはり、同じようにイメージトレーニング、もしくは精神統一をしようとしてこの場を選んだのだと確信できた。
「各務、いつもこういうことやってんのか?」
「いつもというか……、そうですね。昔、ある人に教わったんです。走る前に、自分の一番の走りが出来るように想像しておけって。そうしたら、本番ではよりいい走りが出来るからと……」
どこか懐かしそうに語る織月は、いつになく柔らかな空気を纏っている。語る言葉の端々からも、その教えを受けた相手に対する強い信頼が、そしてそれと共に陸上に対する真剣さが窺えた。
じゃあ、と言い置いてその場を譲ろうとする織月を、輝行は慌てて呼び止める。
昼間、競技場にいる時から少し気にかかっていたことがあったのだ。今までそれは気の所為かもしれないと思っていたが、今この状況を目の当たりにして、はっきりとした疑問の形を取っていた。
「何ですか?」
呼び止められた理由のわからない織月は、不思議そうに首を傾げる。
「……各務さ、走るの好きだよな?」
あまりに当たり前と思える質問に、織月はますますわからないといった表情だ。
「好きじゃなきゃ、陸上部なんて入ってませんよ」
「じゃあ、何で最後で力抜くんだ?」
そう言われて、織月は息を呑み、表情が一気に固くなる。
輝行の疑問。それは、リレーの予選で見せた織月の走りだった。
部活では男女の練習がわかれている為、今までじっくりと織月の走っている姿を見たことはなかった。だが、予選での織月の走りはバトンを受け渡す手前で不自然に減速したように感じたのだ。それは周りから見てすぐに気付くものではないほど些細な違いではあったが、輝行には何故かはっきりとわかってしまった。
しかし、織月は輝行と同じようにちゃんと陸上を好きで、真剣に取り組んでいるように見える。だから、どうしても手を抜くことが納得できなかったのだ。
「各務さ、本気出せば一〇〇の代表にだってなれるだろ? 合宿で妖に襲われた時の走りからみても、おまえもっと走れるはずだ」
「それは……」
織月から返る言葉には、いつもの力強さも自信もない。それは、輝行の言葉を肯定していることを示していた。
「目立つのが困るとかいうのがあるからか?」
「……それもないとは言いません」
「じゃあ、他には何なんだよ?」
「……私は、『戻士』です」
「んなこと知ってるって」
「戻士は、その血の所為で普通の人間よりも運動神経に優れるんですよ?」
その言葉の意味を察し、輝行は言おうとしていた言葉を飲み込むしかなかった。
戻士だから、運動神経に優れる。自らが望んでその血を受け継いだわけではないが、明らかに異質な血を持つが故に好成績が出せるのだとしたら、それはある意味ドーピングと変わらないのではないか。織月はそんな風に考えていたのだ。
「私も、昔はただ走ることが好きで、無我夢中で練習してました。大きな大会にも出場しましたし、より良い成績を出せるようにいつでも全力で走ってました。でも……」
織月の戻士として力が目覚めたのは、中学の後半だった。そして、必要な知識を得るに従って、本気で走ることへの抵抗が生まれ始めた。本気で陸上に取り組めば取り組むほど、自分が全力で走ることに対して罪悪感が生まれる。それは、日を追って強くなる一方だった。
「意識して、力を抜いているつもりはないんです。ただ、いつもゴールに近づくにつれて妙に冷めた目で自分自身を見つめているもう一人の私がいて、気がつけば力をセーブしてしまっているんです」
淡々と語ってはいたが、その声音には明らかな苦痛の色があった。そして、輝行は同じことがそのまま自分に当てはまってしまうことを見て見ぬふりはできなかった。
(じゃあ、今までオレが成績出せてたのも、この血の所為、なのか?)
輝行もまた、覚醒はしてないものの戻士の血を引いていることは確かだ。だとしたら、他の高校生たちよりも運動能力に優れているのも当然だと言えるのだろう。今まで、努力で勝ち取ってきたと思っていたものが、実は生まれつき持っていた『血筋』の所為だとしたら――。
「すみません。今の話は忘れて下さい」
輝行がショックを受けていることに気付き、織月は今更と思いながらも謝罪を口にする。織月としても、輝行にこんな話をするつもりはなかった。言えば、輝行が気にしてしまうことは易々と想像できたからだ。
しかし、思う存分走れないことに対する鬱憤が、心のどこかに溜まっていたのだろう。そして、同じく戻士であるのに、心底走ることを楽しんでいる輝行を羨む気持ちがあったことも事実だった。
放心したような表情の輝行から返答はなく、しばらくそのまま沈黙が続いた。
何も大事な試合の直前に言わなくても良かったのにと、心底自分の浅はかさを後悔していると、各務、とようやく輝行が口を開く。
その瞳には、先ほどよりも幾分しっかりとした光が宿っていた。
「はい」
「戻士の血筋持ったヤツってさ、オレたちの他にもいるよな?」
「そうですね。血の濃い薄いはありますけど、先輩の親戚の方だって戻家筋ということになりますし」
「じゃあさ、そこまで自分を抑えつけなくたっていいんじゃないか?」
「え?」
にこと屈託なく笑う輝行に、織月は呆気にとられる。先ほどまでショックを受けていたようにはとても思えないほどに晴れ晴れとした笑顔だったのだ。
「ほら、外国人だって、日本人より身体能力高いだろ? 黒人選手とかすげぇじゃん。けど、日本人じゃないからって日本人に遠慮するわけじゃないし。それに、いくらオレたち戻士が身体能力高いって言ったってさ、結局は同じ人間じゃん」
「それは、そうですけど……」
あまりにも乱暴なまとめ方に、織月はそういう問題ではないと思うのだが、それを反論する暇もなく輝行は語り続けた。
「確かに戻士の血のおかげで今まで勝ってきたのかもしれない。けど、オレだって全力出して負けたことはあるし、各務だってそうだろう? それに、オレみたいに戻家筋だって知らずにいる人間だって世の中にはいっぱいいると思ったらさ、遠慮すんのもおかしくねぇ?」
真剣な表情でそう同意を求める輝行の姿に、織月はしばし呆然とした後、プッと小さくふき出し、そのままくすくすと笑い出した。
今までの悩んでいたことが馬鹿馬鹿しく思え、ついこみ上げる笑いを堪えられなくなったのだ。一年以上ずっと悩みながらも陸上を辞められずにいたのに、この目の前の人物はたった数分で何とも前向きな答えを出してしまった。そして、その答えはいかにも輝行らしく、それでいて意外に説得力のあるものだった。
「先輩のポジティブさには敵いませんね」
「あ、おまえ、馬鹿にしてんだろ」
「してないですよ。ある意味尊敬に値します」
「……絶対嘘だ」
なおも笑いながら答える織月の言葉を、輝行は真っ向から否定する。だがそこには不機嫌さはなく、織月の胸の内の葛藤を和らげることができたことに対する満足が滲み出ていた。以前に亨や郁が織月のことを「真面目すぎる」と評していたが、陸上に関しても真面目すぎるが故に悩み続けていたのだろうと思うと、それが吹っ切れたことが純粋に嬉しい。
「先輩、ありがとうございます」
笑いをおさめて織月が晴れやかな笑顔を見せた。今までに見た中で、一番清々しさを感じる表情に、輝行も自然に顔が綻ぶ。
「礼なんかいいからさ、これからは全力で走れよ」
「はい」
輝行に向かってしっかりと頷き、織月はおやすみなさいと残して踵を返した。その後ろ姿を眺めながら、輝行はもう一度一人笑む。
織月の姿が見えなくなると、先ほどまで織月が座っていた場所に腰掛け、静かに瞳を閉じた。その瞬間から脳裏には、もはや真っ直ぐに伸びるトラックの平行線と、その先に見えるゴールだけ。ただ、自分の思うような走りが出来るように、イメージするだけだった。
輝行と織月が中庭で話している頃、その二人の姿を二階の窓から見下ろしているものがあった。陸上部に所属する女子部員の一人だ。その少女は今大会の選手ではなく、サポートとして参加している部員だった。
そして――。
(……何で、横木君があんな子と仲良くしてるのよ)
少女は輝行と同学年であり、輝行に想いを寄せている一人でもあった。しかし、輝行は基本的に恋愛事に疎い。異性と付き合うどうこうよりも、男友達とわいわい騒いでいる方が好きだろうことは、周りの誰の目にも明らかだった。実際、告白してもフラれたという話が少女の耳にもいくつか届いていた。自然と輝行に片想いはするものの、告白はできないでいる女子生徒は多くなる。それは同時に輝行が特定の女生徒と仲良くなることはないとの安心感も与えていた。
だが、今少女の目の前の光景ではそれが否定されているように見えた。湧き上がってくるのは、「どうして?」という疑問と、一緒にいる織月に対しての嫉妬心だ。
(よりによって、あんな地味で暗そうな子と仲良くしなくたっていいじゃない)
ギリと奥歯を噛み締める。窓に押し当てている手に知らず力が籠もり、今にも怒りのままに殴りつけてしまいそうだった。
「あ、いたいた。河野ちゃーん」
少し離れた廊下の先から名前を呼ばれ、少女は振り返る。そこにいたのは同学年の、そして輝行の親友である宮崎隼人だった。
隼人は輝行と違い、男女問わず仲良く接するタイプではあるが、それでも普段そんなに話す方ではない。わざわざ自分を呼びに来ることに少女は疑問を感じた。
「宮崎君、どうしたの?」
「あのさ、みどりちゃんが探してたよ。何か話があるけど、部屋にいないからって。んで、俺もテル探してるついでに探しますよーってなったわけ」
輝行の名に、少女は思わず眉を顰め、窓の外へと視線を戻してしまった。そこには、先ほどと変わらずに話し続けている輝行と織月の姿がある。
少女の視線につられて、隼人も窓の方へと目を向けた。そこに親友の姿を見つけ、更には一緒にいる相手にニヤと笑みを浮かべる。
「あらー、テルってば、こんな時に逢引きなんてやるなぁー。こりゃあ後で詳しい事情を訊いとかないと……」
からかうネタが出来たとばかりに喜ぶ隼人だったが、少女の方は強張った表情のまま。輝行たちに向けられた視線は暗い憎悪に彩られていた。
「ねえ、宮崎君」
「ん?」
「横木君って、各務さんと仲がいいの?」
「うーん、どうなんだろうなー? テルはその辺はっきりとは教えてくれないしさ。でも、明らかに意識はしてるよなー」
「あのテルにもとうとう彼女が出来るのかー」と楽しげに語る隼人を後目に、少女は無言で窓際から離れ、歩き出す。
それに慌てて、隼人は後ろから声を掛けた。
「あ、みどりちゃんはエレベーターホールのとこにいたからねー」
みどりの居場所をそう教えたが、少女から返事は返らなかった。聞こえているのかが心配になったが、大丈夫だろうと判断し、隼人はもう一度窓の外、ライトアップされたチャペルの側へと視線を落とす。
いつの間にか織月の姿はなく、今はただ静かに佇む輝行の姿しかなかった。輝行が試合前には一人でイメージトレーニングをすることは知っていたので、今もそれをしているのだろうとすぐに想像がつく。
「さてと、もうちょっと待ったらテルを迎えに行くか」
今この状況で行けば、輝行の邪魔になることは目に見えている。それに、あの場から去った織月と鉢合わせしてしまうかもしれない。それはそれで隼人としては面白いのだが、輝行にあとで責められても困るので思い止まった。
「しっかし、テルばっか上手くいってズルイなー。おれも郁さんに会いたいぜ」
自分の恋愛の上手くいかないことを嘆きつつ、隼人は今来たばかりの廊下をもう一度引き返していくのだった。
静寂に満ちた中庭で、輝行はゆっくりと目を開いた。
目の前には光に包まれた洒落た造りのチャペル。青々と広がる芝生に、一瞬自分がどこにいるのかを忘れてしまっていた。それほどに自分の内に集中していたのだ。
しばらくぼんやりとした後、自分が宿泊先のホテルの中庭にいることを思い出す。どれくらいの時間が経ったのかと左腕の時計に目を遣ると、九時半をとうに過ぎていることがわかった。
「っと、さすがにそろそろ戻らないとな」
もうじきここの照明も落とされ、真っ暗になってしまう。それに自分たちの消灯時間も丁度同じ十時であった。戻らなければ、間違いなくみどりのお説教をくらってしまう。
もう躓かないようにと足元を気にしながら進み、建物内へと戻るガラスのドアを開けた。それと同時に、聞き慣れた声が自分の名を呼ぶ。隼人がこちらに向かって小走りに向かってきていた。
「あ、わりぃ。もしかして探してたか?」
「んー、まあな。でも、どうせ『いつもの』だろ?」
わかっていると言わんばかりの隼人に、輝行の表情も綻ぶ。やはり隼人は自分のことを理解してくれるかけがえのない親友なのだと実感した。
(こんな隼人が、敵のはずないじゃないですか)
心の中で、ここにはいない尊敬する先輩へと語りかけ、隼人と並んで部屋へと戻ろうと歩き出す。が、早く行かなければ消灯時間ぎりぎりになってしまうというのに、隼人の歩む足が遅い。見ると、何だか妙にそわそわとして落ち着きがなかった。
「どうしたんだ? 部屋に戻らないのか?」
「戻るけど、部屋に戻る前に訊いときたいことあってさ」
「何だよ?」
輝行が促した途端、隼人の表情が妙に嬉しそうになり、好奇心を抑えきれないように瞳を輝かせた。
その瞬間、ろくでもない質問が来るだろうと輝行は身構える。残念なことに今まで、その予感が外れたことはなかった。
「さっきさ、各務と一緒にいるところ見たんだけどー?」
「あ、あれは……!」
隼人が期待しているようなことは何もないはずなのだが、そこで狼狽えてしまうのが輝行である。その態度に、隼人はますます表情をニヤけさせた。
「お? 何か進展あったわけ? 告白でもした? それともされた?」
「ちーがーうー! たまたまイメトレしようと思って行ったら各務がいただけだよ!」
「ホントかよー? てか、そんな大チャンスなのに、何もせずに戻ってきたのかー?」
「何もって何だよ! んなことしてる時じゃねえだろうが!」
陸上馬鹿の輝行らしい言葉に、隼人は納得がいくものの、それでも不服そうだった。チッと舌打ちし、面白くない、と呟く。
「面白くないも何もないだろー? オレも各務も明日走るんだしさ。隼人はまだ本番先だから気楽だろうけど」
「先って言っても明後日だからな! おれだって多少は緊張してるぞ?」
「……それはわかるけど、その緊張ほぐす為にオレを使うなよ」
「あ、バレた?」
隼人は悪戯が見つかった子供のように空笑いして誤魔化した。それに輝行は溜め息を零すしかできない。
「あ、それともう一個訊きたかったんだけどさ」
「今度は何だ?」
「テル、この間すっげぇ綺麗な子と歩いてただろ?」
「え?」
次なる隼人の疑問には、咄嗟に反応ができなかった。少し考えて、それが六条院家から織月を送っていった時のことだと思い至る。それ以外に、「すっげぇ綺麗」に当てはまるような人物と出歩いた記憶は皆無なのだ。おそらく、駅から織月の家に着くまでの間をどこかで見られていたということだろう。
「あの子誰? まさか、彼女とかじゃないよな? 各務と二股かけようとか思ってたら、おれ本気で怒るぞー?」
「んなわけねぇだろうが。アイツは……親戚だよ、親戚!」
彼女が織月と同一人物だと言うわけにもいかず、思いついたまま出まかせを口にした。織月は同じ戻士の血を引くわけだし、あながち間違ってもいないだろう。
すると隼人はなるほどと納得したのか、しかめっ面をすぐにしまう。それどころか安心したようににこにこ笑顔だ。
「何だ、そっかー。そうだよな、テルに二股なんて器用な真似できるはずないもんな」
「それ以前に、オレと各務は何でもないっての」
「うーん、とりあえず今はそういうことにしといてやるよ。でも、進展したらちゃんと教えろよー?」
人の話をまったく聞かない隼人に、もはや溜め息すら出てこなかった。
とにかく、もうすぐ消灯時間が迫っている。部屋に戻ることが先決だと言わんばかりに輝行が足を速めると、隼人もそれに合わせてスピードを上げた。
「それにしてもさ、テルの親戚って本気で美人だったよなー。今度紹介してくれよ」
「郁さんはどうしたんだよ」
「郁さんは別腹!」
「仮にも先輩のお姉さんを食いもんみたいに言うなよ」
あんまりな隼人の言い様に、輝行は大きく息をつくと、言葉を繋げた。
「だいたい、こんなこと言うのも何だけど、おまえ結構モテるだろ? オレが紹介なんてする必要ないだろうが」
他の陸上部員などから聞いた話によると、隼人はそれなりに人気があるらしい。輝行から見ても、隼人の顔はそこそこ整っているし、明るく社交的な性格の為に男女問わず好かれやすいタイプだと思う。何度か女の子から呼びだされているのも目撃したことがあるので、告白だってされているはずだろう。
けれど、何故か隼人は一向に誰かと付き合う気配はない。可愛い女の子がどうのと騒いでいるくせに、その辺りが矛盾しているように感じたのだ。
そんな輝行の疑問にも、隼人は真面目に答えようとはせず、へらへらと締まりのない表情で笑う。
「いやいやー。輝行君ほどじゃないですよー」
「オレはモテないっての。てか、マジで何で? 誤魔化しても今までに何度もおまえが告白されてることくらい、知ってんだからな」
ほんのりと怒ったような色を滲ませて問い詰めると、隼人はふっと珍しく穏やかな笑みを浮かべた。そこには何故か寂しげな気配も寄り添っている。
「……実はさ、おれ、昔すっげぇ好きな子がいてさ」
「え?」
突然の隼人の恋愛話に、輝行は戸惑うばかりだった。普段はふざけて後輩やクラスの女子で誰が可愛いかなどを話したりはしているが、こうやって真面目に恋愛の話をしたことなど、一度もなかったのだ。
「かなりちっちゃい頃であんまり覚えてないんだけど、親父に連れて行ってもらった家にいた女の子でさ、すっげぇ可愛かったし良い子だったの。で、一目惚れしちゃった若き日の隼人君は、その女の子に『大きくなったらお嫁さんにしてあげる』って言ったわけ。そしたらさ、その女の子、『その時まで私が生きてたらね』って哀しそうに笑ったんだ」
そこまで聞いて、輝行は続きを聞くことに抵抗を覚えてしまった。隼人の話がよくある可愛らしい初恋の話で終わらないことに、気付いてしまったからだ。
けれど、隼人をとどめることも出来ずに、ただ黙っていることしかできない。
「その子に会ったのは、その一回きりだった。家に帰った後、親父に『今度あの子といつ会えるの?』って訊いたら、『またそのうちな』って言われた。おれしつこいからさ、毎日同じこと訊いてたけど、ある日親父が『そのうちな』って言わなくなってさ、ただ黙って笑ってるんだ。それで幼心に、『もう会えないんだ』って悟っちゃって……」
笑顔のままで語り続ける隼人に、胸が塞がれるような思いを覚える。いつも馬鹿がつくほど明るい隼人に、そんな暗い恋愛の経験があるなどとは思いもしなかった。輝行自身にはほとんど恋愛経験というものがないので、その辛さが如何ほどのものかは測りかねるが、隼人が女好きのように装っているのはその幼い頃の経験の反動かもしれない。深く考えもせずに不用意な質問をしてしまった自分を叱りつけたい気分になった。
「……ワリぃ。変なこと――」
「なーんちゃって!」
「は?」
それまでの悲哀に満ちた雰囲気をぶち壊す勢いの隼人の一声。隣を見ると、いつもと変わらぬニヤついた笑いを浮かべる隼人の顔があった。
「嘘だよーん。そんなマジ恋愛、おれがするわけないじゃーん! え? あれ? テル、マジに受けちゃった?」
「はーやーとー!」
同情したのも束の間、隼人の悪ふざけだったらしく、輝行は心底目の前の親友を殴り倒したくなった。いや、むしろ殴りたいのは、隼人の性格を熟知しながらもあっさりと作り話を信じてしまった己自身かもしれない。
「テルってほんっと素直だよなー。ま、そういうところが女心をくすぐるんだろうけどさ」
「ふざけんな! マジで悪いこと訊いたって思ってたのに!」
「ごめんってー。でもさ、正直な話、おれなんかよりテルの方がモテるんだぞ」
誤魔化し笑いで話題を変えようとする隼人を輝行はジトと睨みつける。しかしさほど効果はなく、少し上を向いて考え込むような素振りで、隼人は指折り数え始めた。
「おれが知ってるだけでも、……えーっと、四、五人はいるしー」
「……それ、絶対根拠ないだろ」
「あるって! あ、河野ちゃんは確実な。さっきテルと各務が一緒にいたの見て、怖い顔してたから」
「げっ! おまえ以外にも見られてたのかっ?」
同じ部活内の女子部員の名前を挙げられたことに驚きはしたのだが、それよりも隼人の言葉の後半に輝行は反応した。
誰が自分に想いを寄せているのかなどということよりも、ありもしない噂を立てられて、織月と気まずくなってしまう方が問題だった。
しかし、輝行の事情など知りうるはずもない隼人は、案の定輝行の反応を自分に都合の良いように捉えてしまったようだ。
「え? 何、その反応。見られたら困るようなことでもしてたわけ?」
「違うっつーの! 勘違いされて言いふらされたりしたら嫌だし、各務も困るだろうが」
「やーだ、輝行君。やっぱり各務のことそれだけ大事なのねー!」
「だから、何ですぐそういう方向に持っていこうとするんだよ!」
「こら、そこのバカ二人」
次第に声が大きくなる輝行と隼人の背後から、低く押し殺したような女性の声が投げかけられた。その聞き慣れた声に、二人は恐る恐る振り返る。
予想通り、そこには般若の如き形相のみどりの姿があった。
「もう十時になってるんだけど。消灯時間がいつだったのか忘れちゃったのかなー?」
片頬をひくつかせながら、それでも笑顔を浮かべようとするみどりに、二人は背筋を凍りつかせる。幸い、ホテルの廊下とあって大声で怒鳴られることはなさそうだが、その分表情に怒りが滲み出ていた。
「あ、えっと、はいっ。す、すみませんっ」
「今すぐ部屋に戻りまーっす」
これ以上みどりを刺激しないようにと、簡潔に返事をし、二人はそそくさと自分達に割り当てられている部屋へと廊下を急ぐ。
その少し前を一人の少女が歩いていた。タイミングがいいのか悪いのか、先程話題に上がっていた河野という女子部員だ。
「河野ちゃーん、早く部屋戻らないとみどりちゃんに怒られるぞー」
自分たちのことは棚に上げ、隼人が冗談と本気が半々な口調で河野に声を掛ける。
しかし、河野の反応は薄く、小さく頷いただけで輝行達のように急ぐ素振りもなかった。どことなく奇妙な反応ではあったが、彼女が輝行に対して恋心を抱いているという隼人からの情報が頭にちらついて気まずさを覚え、そのまま自分たちの部屋へと急ぐことを優先した。
もしその時振り返っていれば、きっと気付くことができただろう。彼女が冥い光に彩られた視線で、輝行の背中を見つめていたことに――。