禍つ月映え 清明き日影

章之壱 清輝に惑う

肆 逆賊  02

 時間は少し戻り――。
 基に頼まれた輝行が最初の座敷に戻った時には、基の言った通りに郁たちと守屋兄弟との話は終わっていたらしく、郁は尚志と二人だけで話をしていた。
 話の内容はどうやら他愛もない日常の会話のようだったが、あまりにも容貌の整った二人が仲睦まじく話している様子に、輝行は少々気遅れして話しかけるのを躊躇ってしまう。そんな輝行に気付いたのは、尚志の方だった。
「郁、行くぞ」
「え? ああ、横木君。戻ってきたんやったら呼んでくれたらええのに」
 やにわに立ち上がった尚志に、郁も遅れて輝行の存在に気付いた。続いて立ち上がると、部屋の入口に立ち竦んでいた輝行の傍まで歩み寄る。
「す、すいません」
 謝る輝行の肩を尚志が気にするなといった風に軽く叩き、前に立って歩き出した。その後ろについていくと、郁が輝行の隣に並んでくる。
「さて、これから横木君色々と大変になるでー。覚悟しといてなー」
「あの、もう今まででも十分に大変なことばかりなんですけど……」
「あ、そらそやなー」
 納得して郁は豪快に笑い出す。
 その郁の様子に、輝行はやはり納得できないような不思議な感覚に陥った。
 合宿所で見た郁や基の容貌は、明らかな異相で織月と同じく戻士であるとは理解できる。
そして、郁はその中でも最も力の強い『嫦宮』と呼ばれる存在なのだと聞いた。
 しかし、その嫦宮とは何なのかがいまいちよくわからない。
 何より、宗主である要がいるのにどうして郁が最高責任者なのか。本来宗主というものが一番偉い立場のはずではないのだろうか。
「何や気になることでもあるん?」
「え? あ、いえ」
 考え込んでいた輝行を窺うように、郁が覗き込む。半端なく整った顔が、目の前に現れたことに焦って、輝行は一歩退いた。
 そんな輝行の様子に、不思議そうな顔をしつつも郁は続ける。
「わからんことあったら、気にせんと聞いてくれてええんやで?」
「あの、じゃあ、すごくどうでもいいことなのかもしれないですけど、いいですか?」
「なになにー?」
「嫦宮って、何なんですか?」
 最強の戻士。それだけで説明できないものがある。そう感じたのは、織月や響の態度が、『最高責任者』という立場に対する以上ものに思えたからだった。
「まあ、簡単に言えば……『生き神様』かな」
「いき、がみ?」
 突然飛び出した単語は仰々しく、それ以上に胡散臭い。しかし同時に、織月や響の態度の説明には充分になっているように感じた。
 言葉を発した当の本人は、自嘲とも呆れともとれるような、曖昧な薄い笑みを浮かべ、言葉を繋ぐ。
「そうそう。祟られるくらいなら祀り上げとけってもん」
「祟るって……戻士だってただの人間じゃないですか」
「将門だって道真だって、元はただの人間やろ?」
 郁の言うことはもっともなのだが、だからといって納得のできる答えでもなかった。
 結局、答えを求めて出した質問は、更なる謎に包まれて返されただけ。そうして考え込んでいる間に、目的の部屋に辿り着いてしまった。
 気を取り直し、基と待っていた織月の隣に腰を下ろそうとする。その一瞬、ふと織月の様子が先ほどと違うように感じた。見た目が大きく違うわけではない。いつも通り、あまり感情を感じさせない薄い表情だ。けれど、何かを堪えるような、そんな気配を僅かだが感じる。
「各務?」
「はい。何ですか?」
 返事とともに顔を上げる織月だったが、いつも真っ直ぐ過ぎるくらいの視線を向けるのに何故か視線を合わせようとはしない。
 輝行にとって、そんな織月を見るのは初めてだった。自分がいない間に基と何か話でもしたのだろうかと思うが、今ここでそれを問い質すことも出来ない。「いや」とだけ返してその場に正座をした。
「あ、足崩してええで。かしこまられるとこっちも話しにくいわ」
 そういう郁はすでに片膝を立て、寛いだ様子だ。素直に好意に甘え、輝行は胡坐をかいた。
 さて、と郁が一言前置きのように呟いて、表情から笑みを消す。
「率直に言うわ。横木君、君の持つ力は貴重なもんや」
「貴重、ですか?」
 いきなりそんなことを言われても輝行自身はピンとこなかった。けれど、郁はそれに小さく頷く。
「そう。しーちゃんから少しは説明聞いたやろ? 戻士の能力の種類」
「えっと、『魔』と『妖』とそれから『時』と……」
「あとは『モン』二つやな。戻士全体の数も少ないけど、その中でも特に妖の戻士は少ない」
 郁の言葉に素直に頷くが、すぐさま言われている言葉の意味を理解して、輝行は愕然とした。
「じゃ、じゃあ、もしかして俺は妖の戻士だって言うんですか?」
「うん、そやな」
 輝行の驚きを余所に、郁は何ともあっさりとした返事だった。どうにも彼女のノリは軽過ぎるように感じたのだが、輝行がそれにモノ申す暇もなく郁はさっさと話を進めていく。
「で、ただでさえ少ない妖の戻士は送魂師にとっても欲しい逸材やねん。それから、魔と妖それぞれからも」
「あの、魔はどうしてわざわざ付紋してまで俺を狙うんですか?」
 織月に助けられて以来、それなりにこの世界に関しての知識はついていた。しかし、付紋の理由が、考えてみても思いつかない。織月に聞こうと思ったことも何度かあったのだが、いつも機会を逸してここまできてしまっていた。
 輝行がただの人間であるのならば、取り逃がしたからと言って魔の方にも損害はないだろう。それでもしつこく追ってくる理由があるとすれば、今日知らされた事実――自分自身が戻士の力を持っているということに、あのトカゲのような魔が気付いたからなのではないだろうか。
 そう思うと、能力を発揮できるようになる前に、その芽を摘むという意味で納得できると思ったのだが――。
「ヤツらが人間を襲う理由は二つある。一つは、自分達の糧とすること。もう一つは、より強い『器』を手に入れること」
「強い、『器』?」
 理解の及ばない輝行に、郁の表情から軽さが失せる。真剣というほどではないが、明らかに纏う空気の重量感が増していた。それでも笑みを消さずに話し続けるが故に、輝行は恐怖にも似た感覚を覚える。
「魔はな、より強い生物の身体を奪って同化することで自分の能力を強化すんねん。せやから、何の能力も持たん一般人よりも、特殊能力を持った人間を狙う。特に、戻士は狙われやすいんや。妖の場合は、そもそも実体がないから、実体を欲する。そして、コイツも同じくより高い能力を持つ方が都合いいらしい」
 その説明で、ふと思い出した。初めて魔に襲われた時の、あの台詞。
《ナカナカノ拾い物ダ》
 あのトカゲの獣魔は確かにそう言った。それは、器としての輝行自身の素質に気付いたということだろう。
 そして、もし輝行が器とされていたならば、今目の前にいる人間すべてから敵とみなされて排除されていたのだ。そう思うと、あの時助けてくれた織月に心から感謝したい気持ちだった。
「それで、だ」
 それまで黙っていた尚志が唐突に口を開いた。今まであまり彼の発言を耳にしなかった為に、輝行も思わず身構えて言葉を待つ。
「君には晄具の扱いを覚える、一人である程度戦えるようになる、妖の戻士としての能力を発揮できるようになるという三つの課題をこなしてもらわないといけない」
「はい」
「そして、その為の修行をする場所だけど、京都まで行ってもらう」
「きょ、京都ですか!?」
 六条院宗家の本邸は京都にあると聞いてはいたが、まさか自分自身が京都まで行かなければならないとは思いもしなかった。と言うよりも、修行といってもこちらで行うものだと思い込んでいたからだ。
「それと織月にも、新しい晄具の扱いを覚えてもらう。六辺香も月虹も接近戦には向かないし、送魂師が関わる以上は妖と相対することも増えるだろう。今のままでは戦力として数えるのは厳しい」
「はい。ですが、晄鍛冶師(コウカジシ)に新しい物を依頼している暇はないのでは……」
 織月がそう問い返した丁度その時、カタンと障子の桟が鳴った。静かな摩擦音が聴こえ、障子が開く。そこには席を外していた茉莉の姿があった。
「失礼いたします。姉様、兄様、」
 礼儀正しく正座して頭を下げる茉莉のすぐ隣には、江戸紫の布に包まれた二つの細長い物が置かれている。茉莉は頭を上げると、慎重な手つきでその包みを抱え上げ、郁と尚志の並んで座る隣まで移動して跪いた。
「『天魁(テンカイ)』と『開陽(カイヨウ)』、お持ちいたしました」
「ありがとう」
「お待ち下さい!」
 茉莉から包みを受け取り、礼を述べる郁に、織月は顔色を変えて叫んでいた。片手を前につき、今にも身を乗り出さんばかりの格好だ。
「それは……、郁様の『七星(シチショウ)』ではないのですか?」
「そうや。何か問題あるん?」
 焦るような表情の織月に対し、郁は不思議そうに首を傾げる。織月が気を揉む理由を理解していない様子だった。それに一瞬言葉に詰まった織月ではあったが、すぐに気を取り直して言葉を続けた。
「勿論です。『七星』は、歴代の嫦宮がお使いになられる為に奉納された由緒正しきもの。本来ならば、揺光も他人に貸し与えられるようなものではないはずです」
 織月の言葉に、輝行は常磐事務所で揺光を渡されたときの彼女の様子を思い出す。あのときも織月は累に対して何か言いたげだった。そして、累の「持ち主の了承は得ている」という一言に言葉を飲み込んだのだ。
 織月の言葉のとおりなら――そして、嫦宮が『生き神』として扱われているのならば、彼女が問題視するのも頷ける話だった。それに、輝行自身もそんな大層なものを貸し与えられることに少々躊躇いを覚える。
 しかし、それに答えた郁は全く意に介さない様子だ。
「んー。でも、使わんと置いとくんは宝の持ち腐れやろ? それに、天魁は前に基も使っとったし、茉莉にも『天権(テンケン)』を渡しとる」
「基様は郁様の弟君ですし、茉莉様もご身内同然ではないですか。しかし、私や横木先輩は違います」
「しーちゃん、真面目すぎやで。んなもん、誰も気にせえへんって」
「私は気にします」
 気楽に構えている郁に、きっぱりと織月は言い切った。頑として引こうとしない織月に、郁は珍しく困ったように溜め息をつき、頭を抱える。
「まあ、織月と響あたりは気にするとは思ってたけどな」
 郁と織月のやりとりを黙って見ていた尚志が、堪え切れないようにくくっと喉を鳴らして笑った。更に尚志につられるように笑う基と茉莉に、織月は真剣な表情で「笑いごとではありません」と不貞腐れている。
 滅多に見ない織月の感情豊かな顔を、輝行は少しばかり驚きを伴って見つめるばかりだった。
「織月が言いたいことはわかった。じゃあ、妥協案を出そう」
 まだ笑いの治まり切らないままで、尚志が口を開いた。
 織月は少しだけ安堵の色を浮かべて、尚志へと視線を向ける。だが、
「これを受け取らないならば、君達二人の身辺警護として郁を側につけるよ」
 尚志の新たな提案に、織月は先ほど以上に慌てることとなった。
「そんな……! 郁様のお手を煩わせるわけには参りません!」
「じゃあ基がいいか?」
「基様でも同じことです!」
「別にそれでもええやん。いっそ二人ともつける? 役に立つでー」
「郁様!」
 尚志の意図を理解した上で便乗し、さも楽しげに茶化す郁。織月は諫言しようとするが、それ以上言葉が続かなかった。
「じゃあ織月、これを受け取るか?」
「……何も七星でなくても良いのではないですか? 宗家ならば、他の晄具もあるはずでは――」
「残念ながら、今はない。あってもガラクタみたいなもんや」
 何とか回避できないものかと発した織月の言葉を、すっぱりと郁が一刀両断した。その途端に、織月は眉根を寄せて俯き、返す言葉もなくなってしまった。
 考えあぐねる織月に、郁は包みを手に取って歩み寄ると、その目の前でしゃがみこんだ。そのまま包みの一つを差し出す。
「それに、大事な命守る為のモンは質が良いに越したことはないやろ?」
「郁様」
「しょうもないことに捕われてる暇ないんとちゃうか? 静生君、取り戻すんやろ?」
 言葉の最後で、織月の顔が跳ね上がる。そこにあったのは、痛みと愁いの入り混じった表情だ。
 郁は優しさと厳しさを併せ持った微笑みで、織月を見つめ返しゆっくりと頷く。
 やがて、織月は深々と頭を下げると、差し出されている包みに手を伸ばした。
「有り難く、お借りいたします」
「うん。それでええ」
 郁はにっこりと満足げに笑うと、今度は輝行に向き直った。そして、同じくもう一つの包みを輝行に向け、
「今度は、ちゃんと使ってや」
 言外に揺光を使えなかったことを皮肉る。
 輝行は苦笑を浮かべるしかなかった。けれど同時に、今度は失敗しないという気持ちを込めて、それをしっかりと受け取り、握り締めた。
「頑張ります。各務に迷惑かけてばっかりじゃいられませんから」
「せやな。女の子に守られてばっかりもヘコむもんなぁ」
 からかうようにニヤと笑う郁に、全くその通りだと自分自身でも思った。確かに織月は自分よりもずっと強いのだろう。けれどやはり輝行から見れば年下で、女の子で、そして時折、ひどく儚げに映る。
 更に、あの合宿の日の出来事が、いつまで経っても頭から離れずにある。妖に対抗できる力がないにも関わらず、織月は輝行を守ろうと立ち向かい、傷を負ったあの時のことが。
 肩から流れ出た鮮血。整った容貌が苦痛に歪んでいた。宗家方の計画上のことだったとはいえ、もう少し基の登場が遅ければ織月の命はなかったかもしれない。それに自分に少しでも力があれば、もう少し違った結果が表れていただろう。基に言われた「織月の怪我はおまえの責任」という言葉が、時間が経つほどに胸を苛んでいた。
 だからこそ、もし自分に闘える能力があるのなら、そしてそれを引き出してもらえる機会があるのならば、精一杯それを身につけるべきなのだ。一人心の中で決意しながら、包みを自らの横にそっと置く。そして輝行は中途半端になっている話を元に戻すことにした。
「……あの、でも、一応未成年なんで、京都に行くとかって簡単にはいかないんですけど」
「ああ、それは照一朗さんに協力してもらおうと思っとるんやけど」
「照一朗?」
 一瞬誰のことかと思うが、妙に心に引っかかった。どこかで聞き覚えのある名前だったのだ。しかし、それをどこで聞いたのかを輝行は一向に思い出せない。
 気の所為でも何でもなく、絶対に知っているはずなのに、とやきもきした気持ちが頭の中に充満した。
「こらこら、横木君。自分のお祖父さんの名前くらいちゃんと覚えといたってや」
「って、うちのじいちゃんですかっ!?」
 呆れたように言い放たれた言葉に、輝行は素っ頓狂な声を上げた。
 そういえば、祖父の名前は横木照一朗だ。しかし、家族は名前で呼ぶこともないし、他の人でも名前で呼ぶ者は滅多にいない。その為、咄嗟に思いつかなかった。
「何で、郁さんがじいちゃんのこと……」
「ん? お友達やし」
「友達って」
 照一朗はもう還暦もとうに過ぎている。それなのに一体どこで郁と友人関係になったのかと疑問は深まるばかりだった。しかし、そんな輝行の疑問に答えてくれる親切心などないのだろう。郁はそのまま織月に話しかける。
「しーちゃんも予定ちゃんと空けといてな」
「わかりました。ですが、私も母が許してくれるとは思えないのですが」
「沙織ちゃんな。そっちの工作も大丈夫。なあ?」
 僅かに暗い表情を見せた織月に、郁は自信満々な様子で尚志に同意を求めた。それに尚志は無言の笑顔で応えるが、それでも織月の表情は晴れない。
 そんなに織月の家は厳しいのかと輝行は思ったのだが、どうやらそんな単純な理由ではなさそうだった。その証拠に、織月の表情はいつになく不安げだ。
(そういえば、さっきもちょっと様子がおかしかったよな)
 郁と尚志を呼びに行き、戻ってきた時の織月の様子は、今とはまた違った風に奇妙に感じた。上手く言い表せなかったが、どこか彼女らしくないと感じたのだ。
(って、大体各務『らしい』って言うほど知らねぇけどさ)
 ふとそう思い至り、自分はどれだけの織月のことを知っているのだろうかと疑問が浮かぶ。そうして改めて考えてみると、自分でも驚くほど織月のことを何も知らないことに気付いた。
 自分自身の知る『各務織月』とは、陸上部の後輩で、魔の戻士で、常磐事務所や宗家と繋がりがあって。
 しかし、他に何を知っているのだろうか。
 家族のことも知らなければ、陸上部や常磐事務所の面々と一緒にいる時以外ではどんな風なのかも知らない。そして、織月自身に付紋されている経緯も、まだ知らなかった。織月に守られるようになって、以前に比べて話す機会が圧倒的に増えたのに、彼女に関することの知識は何一つ増えてはいないのだ。
 何故なら、織月が教えてくれるのは彼女自身のことではなく、戻士や魔に関わるものばかりだからだ。確かにそれらの知識は今の輝行にとっては必要なもので、優先的に話すべき事柄ではあるのだろう。
 けれどそう考えると、何だか現在の関係が非常に事務的かつ淡泊に思えた。
 ただ、織月に今考えているようなことを言ったとしたら、「知る必要がありますか?」と逆に訊かれてしまいそうだ。
(確かに、知る必要がないと言われればそうかもしんねぇけどさ)
 それでも、気にはなる。隼人が言うような意味ではないけれど、輝行にとって織月は今一番気になる存在なのだ。
 何より、織月は自分に告白をしてきたという忘れ難い事実もある。織月本人にそんな素振りはまったく見えないのだが、あの告白が現実であるということは、変えようもなかった。
「心配せんでも大丈夫やって。尚志は悪知恵働くんやから」
「悪知恵じゃなくて、計略と言え」
「おんなじやん」
 考えに耽る輝行をよそに、織月を安心させようしているのか、郁と尚志が軽口を叩き合っている。
 織月は少し考えた後、わかりましたと呟いた。その表情にはまだ不安が隠しきれない様子が窺えたが、それでも郁や尚志に対する信頼が勝ったのだろう。覚悟を決めたように口を引き結んでいた。
「ほな、詳細は後でメールでもするわ。基、しーちゃんと横木君送ったってくれる?」
 郁に促されて、基が了承の言葉と共に立ち上がった。そのまま尚志から車のキーを受け取ると、濡れ縁に向かう。
「行くぞ、横木、織月」
「あの、基様」
 早々と行こうとする基に、織月が申し訳なさそうに声を上げた。表情は、今なお硬い。
「私は電車で帰りますので」
 織月はそう短く断りを入れた。
 宗家の人間の手をこれ以上煩わせたくないのか、それとも何か思うことがあるのか、或いはその両方かもしれない。
 それに気付いた基は、しばし考え込むような素振りの後、わかったと答えて輝行に視線を向ける。
「んじゃ、横木、責任もって織月を送ってくこと」
 基の予期せぬ提案に、織月も、そして突然指名された輝行も意表をつかれた。
「え、あの、一人でも大丈夫ですけど」
「ダーメ。変な男にひっかかりでもしたら困るだろ。横木も一応男だから、ナンパ避けくらいにはなるだろうし」
「ナンパなんてされないと思いますし、されたとしてもついていったりしませんよ」
 基の説明する理由に、織月は呆れも含んだ苦笑を浮かべる。輝行から見れば基の言うことはもっともだと思うのだが、どうやら織月はまったくそういった心配をしていないようだった。
「あのな、織月。性質が悪いのは、複数人で強引に連れて行こうとしたりすんの」
「そうそう。基が正しい。おとなし言うこと聞いときや」
 基だけでなく、郁にまで言われて、織月が逆らえるはずがなかった。渋々といった態で了承し、ちらと輝行に視線を向ける。輝行の都合を窺おうとしたのだろう。
 輝行には断る理由もない。それ以前に断ろうとしたところで、基と郁に言いくるめられるだろうことは火を見るよりも明らかだった。今までの経験上、この姉弟二人には敵うはずがないと自覚している。
「横木も大丈夫だろう?」
 案の定、基が満面の笑みでそう念を押してきた。一体、この笑顔一つで、何人の女性が心を奪われるのだろうなどと、思わず考えさせられるほど完璧な表情だ。
 それに今は、どうあっても断れないような威圧感まで付け加えられているものだから、輝行に「はい」以外の返事を選択できるはずがなかった。引き攣ったような笑顔で頷き、渡された天魁を手に取って立ち上がった。
 輝行が断ることを期待はしていなかったのか、織月も大人しく輝行と共に帰る気になったらしい。脇に置いていた開陽の包みを、手に取っていた。
 しかし、そのまま立ち上がるかと思っていた次の瞬間、突然その包みを開き始める。止める間もなく、黒呂塗の鞘と臙脂の柄紐の巻かれた小振りの刀が現れ、そして次の瞬間にはその姿がかき消えた。
「こちらだけ、お返ししておきます」
 刀を包んでいた刀袋を丁寧に畳んで、郁の前に差し出す。それを見て輝行も、自分自身もそれに倣った方がいいのかと思い、側にいる基に視線を向けた。基はその視線の意味をすぐさま理解し、柔らかな微笑を浮かべる。
「横木もできたら中身だけ持って帰る方がいいんじゃないか? ご家族に見られたら、説明に困るだろう」
「そうですね。本来俺には縁のないものですし」
 促されるまま、輝行は織月と同じく中身を取り出した。こちらも同じく黒呂塗の鞘、柄紐は濃縹の太刀だ。が、触れるだけで消えるはずの太刀は、いつまで経っても輝行の手の中に残っている。
「えっと、あれ? 何かしないといけませんでしたっけ?」
 どうしていいのかわからなくなった輝行は、戸惑いも露わに基へと助けを求めた。
 その瞬間、基は腹を抱えて豪快に笑い出す。それを聞いて、尚志が大仰に溜め息をついた。
「おい、基。性格悪過ぎるぞ」
「いや……わかってて、止めなかった……尚志さんたちも同罪でしょ」
 笑いを堪えながら途切れ途切れに反論する基に、輝行は茫然とするしかなかった。何が何だか、全く意味がわからない。
「まあ、そうやけどな。ごめんなぁ、横木君。天魁は七星の中でも一番気難しいヤツでなぁ、なっかなか言うこときかへんねん」
「えっと、それって、オレに扱えないってことですか?」
 それは大いに問題があるのではないだろうか。使えない武器を持っていても、何の役にも立たない。大体、武器なのに「気難しい」と人間のように扱う意味がよくわからなかった。
「今のところは、な。扱えるようになってもらわなこっちが困るわ」
「その通り。とりあえず今日はその包みのまま持って帰れよ。家族に訊かれたら『友達から預かってほしいって頼まれた』とでも言っとけ」
 家族に対する言い訳がするりと出てくる時点で、基は端から輝行が天魁を扱いあぐねることを予想していたのだろう。尚志の「性格悪過ぎる」という言葉に、輝行は心底同意したかった。
「ほら、不貞腐れてないで行くぞ。駅までは送ってくから。織月もそれならいいだろう?」
「……わかりました。行きましょうか、先輩」
 淡々と織月に促され、輝行は何とか仏頂面を収めて立ち上がった。そのまま基に続いて出ていこうとして、ふと思い出したように郁達に向き直った。そして、勢いよく頭を下げる。
「あの、ありがとうございます! オレ、まだ全然何もわかってないですし、満足に闘うこともできないですけど、見捨てずにいてくれて感謝してます!」
 突然の輝行の謝辞に、その場にいた誰もが目を丸くした。
 勢い込んで言ったものの、周りの面々の唖然とした姿に気恥ずかしさがこみ上げてくる。それも手伝って、輝行は失礼します早口で言い捨て、軽く会釈をするとそそくさと基と織月と共にその場を後にした。
 部屋に残された郁、尚志、茉莉の三人は、しばらく呆気にとられて、輝行が立っていた辺りの濡れ縁を見つめていた。が、プッと小さく吹き出した郁に、尚志と茉莉が我に返る。
「びっくりするわー、横木君には」
 心底おかしくて堪らないと言ったように、郁は声をあげてケラケラと笑い出した。
 それを眺めながら、尚志は小さく溜め息をつき、誰もいなくなった濡れ縁に視線を向ける。脳裏には、先ほどまでその場にいた人物、そして全くこの件に関係のない人物が思い浮かんでいた。
「まあ、扱いやすいと言えば扱いやすいんだろうけどな」
「いやいや、あかんでー、余裕ぶっこいとったら、ああいうタイプは時々想定範囲外のことすんねんから。どっかの誰かさんの後輩みたいになぁ?」
 尚志が頭の中に思い描いていた人物のことをまさに言い当てられ、途端に尚志の表情が渋くなる。
「どこかの誰かさんの友達でもあるんだが?」
「んー、そやねー。そのお友達にちょっくら電話してくるわ」
 尚志の切り返しをさらりと流し、郁は携帯電話を片手に立ち上がり、少しだけその場を離れた。
 話が途切れたのを見計らい、茉莉が尚志に「兄様」と呼び掛ける。
 いつものことながら、火急の用事でもない限り、茉莉は決して郁と尚志の会話に割って入るようなことはしない。全く実のない会話も多々あるので、そこまで徹底しなくてもと尚志は思うのだが、一応二人に対する配慮なのだろう。
 もちろん、実の兄に対してそんな態度を取ってしまうのは、尚志自身にも問題があるのだとは思う。だが、最近はその過剰な気遣いを素直に受け止めてやることが、茉莉に対する返礼になるのかもしれないと思い始めていた。
 言葉短く用件を問うと、茉莉は少しばかり苦い表情で響の名を出した。それだけで尚志には響の話の内容に何となく予想がついた。思わず微苦笑が零れ落ちるのを隠せない。
「……面倒臭いな」
「そう思いましたので、それとなくお断りはしたのですが……」
 茉莉が断り切れなかったことに関して、すまなそうに柳眉を顰める。尚志は億劫そうに立ち上がると、沈んでいる茉莉の頭を通り過ぎ様にそっと撫でた。
「気にするな。もとよりそういう面倒臭いことは俺の役目だ」
「兄様……」
「それに、郁の婚約者になるって時点で面倒事のフルコースだろ。それを承知で選んだ道だ」
 尚志には、たかが戻士一人の相手に手を焼くほど自分は無能ではないという自負がある。それが言動の端々に表れていた。
 その自信に溢れた表情を見る度に、茉莉は自分の兄に対してますますの尊敬の念を強めていく。特殊な能力が何一つないにも関わらず、誰よりも堂々と、そして誰よりも郁の支えとなっている兄は、茉莉にとってこの上ない誇りであった。
「茉莉は面倒なことは無視してろ。そして、おまえの信じるように動けばいい」
「はい、兄様」
「じゃあ、行ってくる。さっきの座敷だな?」
 響の所在を確かめる言葉に、茉莉は軽やかに頷き、歯切れよくはいと答えた。
 妹に笑顔が戻ったことに安堵し、もう一度だけ頭を撫でると、尚志は響の待つ座敷へと向かったのだった。



 焼けたアスファルトの上を、黒のスカイラインが滑るように疾走している。それは駅前のターミナルに入ると緩やかに速度を落とし、ハザードランプを点滅させた後、静かに停車した。
 助手席側のドアが開き、先に出てきたのは織月だ。続いて、そのシートを倒し、後部座席から輝行が這い出るような姿勢で降車した。
「大丈夫ですか?」
「まあ、何とか……」
 この車の後部座席は明らかに狭い。
 本来ならば、より身体の小さい織月が後部座席に乗るべきなのだが、基の強い意向で助手席は織月のものとなったのだ。基曰く、女の子より男の方が楽をするのは良くないとのことだった。しかし、
「基先輩、もうちょっと乗りやすい車買って下さいよー」
 行きは助手席だったので、ここまで後部座席が狭いとは思いもしていなかった輝行は、つい泣き言を言ってしまった。送ってもらっておいて文句を言うのも悪いとは思ったのだが、短い距離だったから良かったもののこれが自宅までの道程だったとしたら、とうてい我慢できなかっただろう。今更ながら、織月が電車で帰ると言い出してくれて助かったという気持ちになっていた。
「文句は直接姉さんに言ってくれ。これ、オレの車じゃないし」
「え? 郁さんの車なんですか?」
「いや、尚志さん。でも、選ぶのは姉さん権限だからさ」
「……吉良さんって、めちゃくちゃ郁さんに甘いですよね」
「バカップルだからね、あの二人は」
 半ば呆れにも似た気持ちだった輝行に、基も同意を示す。が、その中には姉の幸せを喜ぶ感情がありありと見て取れた。
(本当に郁さんのこと、大切なんだな……)
 しみじみそう感じて基を見つめていると、織月が隣で頭を下げた。
「それでは基様、失礼いたします。送って頂き、ありがとうございました」
「気をつけて帰れよ」
「はい」
「あ、ありがとうございました!」
 出遅れてしまった輝行は、慌てて自分も礼を述べる。笑顔と共に短い返事を返すと、基の操るスカイラインはターミナルからゆっくりと滑り出していった。
「さて、帰るか」
「はい。すみません、先輩まで付き合わせる形になってしまって」
「気にすんなよ。基先輩達の言うこともわかるし」
 織月に失礼ではあるが、いつも学校でしているような格好ならば、多分ナンパだとかそういうものに遭遇する確率はそんなにないだろうと思う。しかし、今の織月は自らの容貌を隠すようなことは一切していない。以前に喫茶店で待ち合わせたときも思ったのだが、野暮ったい髪形や分厚いレンズの眼鏡をしていない彼女の姿は、ひとかたならぬ存在感を放っていた。
(そういや、何であんな風にわざと目立たないようにしてるんだ?)
 変装と言ってしまっていいほど、学校とプライベートでは姿が違うのは、きっと何か理由があるのだろうとしか思えない。それは戻士としての理由なのだろうか、それとももっと別の理由なのだろうか。
「横木先輩? 切符買わないんですか?」
「え? あ、悪い。すぐ買う」
 さっさと自分の分の切符を買った織月に不思議そうに問われ、輝行は慌てて券売機へと向かった。が、運賃表を確認して、どこまで買えばいいのかがわからないことに気付く。
「各務、いくら?」
「え? 先輩の家なら東――」
「各務んちまでに決まってんだろ。送ってくんだから」
 言葉を途中で遮って答えると、織月は驚いたようにそのまま固まってしまった。送ると言っても、家までだとは思っていなかったらしい。
 輝行は一旦織月の側まで戻り、その手に握られている切符を確認する。そして同じ金額分の切符を買うと、呆然としている織月を促した。そこでようやく織月は我に返る。
「あ、あの、先輩。そこまでしてもらわなくても大丈夫ですよ」
「でも、もう切符買ったし、勿体ない」
 幸か不幸か、輝行の最寄り駅の方が織月の家よりも近かった。輝行の方が遠ければ乗り越し精算すればいいだけだと反論されただろう。それのできない織月は、それでもまだ何とか食い下がろうと口を開く。
「でも、また反対方向の電車に乗る方が勿体ないじゃないですか」
「いいから気にすんなって。たまには立場が逆ってのもいいだろ?」
 反論を試みる織月を強引に押し切り、輝行はさっさと改札を抜けてホームに向かった。
 織月には悪いが、ここで中途半端なことをしては、後で基や郁に叱られることは目に見えている。
 それだけでなく、もう少し織月と話がしてみたい思いが膨らんでいた。織月のことを知らなさ過ぎることが、ささやかな不満となっていたのだ。
 ホームについて電光案内板を確認すると、乗る予定の電車はあと五分ほど待たなければならない。その間、それこそ織月の話を聞く絶好のチャンスなのだが、何をどこから切り出せばいいのかがわからなかった。黙っていては気まずさが増すだけ。世間話でも何でもいいから話題がないかと探すのだが、なかなか出てこない自分の頭が恨めしくなった。
(せっかく、二人っきりなのに……)
 そう考えた途端、今度は自分自身の思考に動揺が走る。今更ながらに、二人きりという状況を改めて実感したからだ。
 確かに二人きりになったことは今までにも何度かある。しかし、そのほとんどが戻士や魔に関しての説明を受けたりしていたわけで、他愛もない会話とはほど遠いものだった。
 実際には訊いてみたいことがないわけではない。気になることなら、いくらでもある。けれど、それはあまりにもプライベートに踏み込み過ぎていて、まだ輝行にはそこまでの勇気もなければ、そんな立場でもないと思えた。そう、せめて、気軽に悪ふざけが言える程度の関係築いてからでなければ。
 (てか、やっぱり各務って綺麗だよな……)
 ちらりと横目で、隣に並ぶ織月を窺う。艶やかな黒髪を背に流し、凛と口元を引き結ぶその表情は、毅然とした美しさがある。また、シンプルな服装だからこそ際立つすらりとした細身の身体は、ファッション雑誌を華やかに飾るモデルにもひけを取らないだろう。
 もし友人たちが、今の織月の姿を見て、さらに告白を断った事実を知ろうものならば、「勿体ないことするなよ!」と激怒するに違いない。
「……どうかしましたか?」
「え? あ、いや……」
 つい不躾な視線を送ってしまっていた輝行は、織月に思い切り訝しそうな表情を向けられた。誤魔化そうと焦った末、
「その、いや、あの……」
「先輩?」
「いや、だからさ、各務綺麗なのに、何で学校ではあんなに地味にしてるのかなぁと思って……」
 結局巧い言葉が出て来ず、観念して思っていることをそのまま訊ねてしまった。が、織月はふいと視線を外し、それに答えもしない。
 てっきりいつも通り淡々と説明してくれるか、それとも適当にはぐらかされると思っていたのだが、そのどれでもない反応に輝行は驚いてしまった。
「各務?」
「……別に、大した理由じゃないです。目立つと色々と面倒だと思ってるだけですし。それに、私は綺麗でも何でもないですから……」
 早口でそう言う織月の横顔が、少し紅潮しているのがわかった。まさかとは思ったのだが、どうやら照れているらしい。
 と同時に、自分自身でも結構恥ずかしいことを言っていたのだと遅れて気付いた。これでは口説いているのと変わりはない気がする。
(うわぁー、オレの馬鹿! もうちょっと考えて喋れよ!)
 数分前の自分を激しく呪いながら、どうにか話題を変えてなかったことにするしかない。そう思い口を開こうとした瞬間、、ホームに乗る予定の電車が滑り込んできた。
 織月が来ましたねと素っ気なく告げるのに、曖昧な相槌で返す。しかし、それ以上の会話が続かない。それは電車に乗った後も、そして目的の駅に着いた後も、さらには輝行が織月の家まで送り届けるまでも続いた。
 非常に気まずい空気の中、織月が一軒の門前で立ち止まり、輝行に振り返る。どうやら、そのこぢんまりとした家が、彼女の自宅のようだった。
「ありがとうございました。先輩も気をつけて帰って下さいね」
「ああ、んじゃな」
 ようやく拷問のような雰囲気から解放されると思うと、安堵の息が洩れた。織月もどこかホッとしたような様子が窺える。それを見て、輝行が踵を返そうとした。
「あー! お姉ちゃん、彼氏と一緒ー!?」
 元気がいいを通り越して、騒がしいとも言えるような声が響いた。声の発生源は、織月の家の玄関辺り。視線を向けると、ドアの隙間から自分たちより幾分年下の女の子が驚きと喜びを混ぜたような表情で覗き見ていた。顔立ちが何となく似ていることからも、織月の妹だということは容易に想像できる。
「ちょっと、凪沙(なぎさ)! 先輩はそんなんじゃ……っ!」
「隠す方があーやしいんだー! お母さんに報告してこよー!」
「待っ――!」
 織月が止める間もなく、織月の妹――凪沙は玄関の奥へと引っ込み、織月の追跡を阻むかのように勢いよくドアを閉めた。
「えっと、その、すみません、騒がしい妹で……。あとでちゃんと誤解は解いておきますから」
「ああ……、うん……」
 凪沙の発言のお陰で、せっかく薄れていた居心地の悪さが再来し、互いにまともに顔を見られない。
 視線を外したまま、輝行はじゃあと短く別れの言葉を告げると、ぎくしゃくとした足取りで駅へと戻る道を歩き出した。角を曲がり、織月の家が見えなくなった辺りで足を止め、振り返る。同時に盛大な溜め息が零れ落ちた。
「はぁー。何か、心臓に悪いっつーか……」
 織月と輝行の関係はそんな甘いものではない。けれど、織月が輝行に好意を持ち、告白をしてきた事実は変わらない。だからこそ、こんな風に互いの関係をからかわれることは本当に困る。今現在、織月がどういう心情でいるのかは、計り知ることができない分、余計にだ。
(各務はああいうの、どう思ってんのかな)
 焦るように妹を追いかけていった織月の様子は、迷惑に感じているというより申し訳なさと恥ずかしさが勝っているようだった。今までの織月の言動の端々にも、どちらかというと輝行に対して迷惑にならないように配慮しているとしかとれないものが多い。
 そう思うと、織月はまだ、自分に対して好意を抱いてくれているのではないかと思ってしまう。
「いや、まあ、悪い気はしないけどな」
 無意識にそう呟いて、はっと口を噤んだ。素直な気持ちな分だけ恥ずかしさが生まれる。
「てか、何考えてんだ、オレは! 何か今日はおかしいぞ!? 落ち着けオレ!」
 周りから見ればかなり激しい独り言を吐きつつ、自らの頬にペシッと一喝入れる。通り過ぎる人が幾分不審な目で輝行を見ているが、自分を落ち着かせることに精一杯な輝行はそんな人々の冷たい視線には全く気付いてはいなかった。