禍つ月映え 清明き日影
参 疑惑 03
「横木君と宮崎君は仲がいいんだね」
輝行たちのやりとりを見て、郁が微笑ましそうに会話に加わってきた。
当然、隼人がそんなチャンスを放っておくはずがない。真っ直ぐに郁に向き直ると、大胆にもその細い両手を握り締めた。
「ええ! はい! 大親友です! でも、おれは郁さんの為ならばその友情すら捨てます!」
「おい、宮崎。その手は何だ、その手――」
「痛っ!」
基が全てを言い切る前に、隼人の手の甲を何かが弾いた。何がぶつかったのかはわからないが、その痛みに隼人は顔をしかめる。
「……気安く、姉様に触らないで下さいましね」
鈴を転がすような声音とともに、にっこりと日本人形のように整った笑顔が隼人へと向けられた。
その横で基は困ったように大きくため息をつく。隼人の隣の基の姉も苦笑とともに肩を竦めた。
「コラコラ、茉莉。これくらいのことで怒っちゃダメでしょ」
「あら、姉様。私は兄様の代わりに申し上げただけですわよ? 兄様がこの場にいらっしゃったら、この程度のことでは済まないでしょう?」
美少女二人の会話に、またも輝行と隼人は絶句した。この茉莉と呼ばれた少女も、基と兄弟なのだろうかという疑問が生じる。
しかし、思わず見比べた輝行の視線に気づいて、基がすぐさま訂正をした。
「ああ、勘違いするなよ。コイツは親戚。昔から一緒にいるから確かに妹みたいなモンだけどな。ついでに極度のブラコンでシスコン」
「基兄様には言われたくありません」
「どっちもどっちでしょ」
呆れたように笑う基に、茉莉は拗ねたように愛らしい頬を膨らませる。そんな二人をからかうような、けれど見守るような優しい眼差しで見つめる郁。言葉の通り、三人はまるで兄弟のような雰囲気を醸し出していた。
そうして、今度は茉莉も含む五人で話が弾んでいたのだが、輝行は常に隣の織月が気になっていた。
自分たちばかりが会話が盛り上がっているが、織月には傍に話すような人もいない。だからと言って強引に話に巻き込むわけにもいかないので、気にはなるのだが何もできずにいた。
いつもなら強引に隼人辺りが話に巻き込みそうなものなのだが、どうやら今回は郁を前にして舞い上がっているらしい。余計なことを言われないのは助かるのだが、織月が居心地の悪い思いをしているのではないかと心配になってきた。
そんなことを考えていると、いつの間にか列が進み、とうとう基たちのペアが肝試しへと出発する番となる。
「じゃあ、行ってくるよ。途中で隠れておまえら待っててやるから」
「兄様、そういうことは黙っていた方が効果的なのではないですか?」
「あ、そうか」
どこまで本気なのかわからない基と茉莉の会話に笑いながら、輝行たちは出発を見送った。
人数が二人減ったことで、一気にその場が静かになる。出発地点に残っているのは、輝行たちのペアと、隼人たちのペア。そして出発を知らせる役目の男子部長と一応目付役の顧問・芦田だけ。
部長は時計と携帯片手に出発したペアの進み具合を確認したりしていて、なかなかに忙しそうだ。反対に芦田はというと、芝生に座って煙草を吸いながら新聞を読んでいる。とりあえず監督しなければいけないという理由だけでこの場にいるようだった。
「それにしても、彼女おとなしいね」
「え?」
不意に郁が触れた話題が誰のことを指すのかが一瞬わからなかった。しかし、『彼女』と表現される人物はたった一人しかいない。
「ごめんね、うるさくして」
「あ、い、いえ。別に、大丈夫です……」
突然話しかけられた織月は、戸惑いも露わに首を振る。意外に人見知りなのか、それとも演技なのか、困ったように俯いてしまった。
「可愛いなぁ。そんなに怯えなくても取って食ったりしないよー?」
「そ、そんなこと思ってません」
頬をほんのり赤く染め、ますます表情を隠すように顔を伏せる織月に、輝行は少々意外なものを見た気分でいた。
戻士としての彼女はいつも毅然としているし、学校で見る姿は大人しくしてはいるものの物怖じしている様子はない。
まるで自分に告白してきた時のようだと考えついた瞬間、慌てて自分の思考を振り切った。今から二人きりになることはわかりきっているのに、そんな話を思い出してしまうと妙に意識してしまう。
けれど、そう思ったものの一度思い出してしまうとなかなかあの告白シーンが頭から離れなくなってしまった。
「次、二十七番出発!」
「はい」
「え? あ、はい!」
織月がほっとしたように歩き始めるのに、輝行は我に返って慌ててそれに続いた。
森の入口で男子部長からろうそくと雰囲気を出すためなのか提灯を渡される。提灯とはいっても、中はろうそくではなく小さめの電球が入っていて、途中で消えたりはしないものだった。
隼人の頑張れよという声援に、何を頑張るんだと心の中でつっこみつつ歩き出す。郁は気を付けてね、と小さく手を振っていた。
森の中は暗く、提灯のぼんやりとした明かりではかなり心許ない。しかし一応道らしきものがある為に、足場はさほど悪くはなかった。ただ、風にガサガサと揺らされる葉擦れの音が妙に落ち着かない気分にさせる。
スタート地点から十分に離れた辺りで、織月が先に口を開いた。
「先輩、これから先は警戒しながら進んでくださいね」
「わかってるって。それにしても、さっきは各務には珍しくかなり困ってたみたいだな」
「そ、それは……」
織月が輝行の指摘にまた少し困ったように口籠る。
「あー、あれか? 基先輩のお姉さんみたいなタイプが苦手だとか?」
「そんなんじゃないです。ただ、間近で見ると本当に綺麗な方なんで、緊張するというか」
「ま、半端じゃなく美形なのは確かだな」
「宮崎先輩、完全に舞い上がってましたしね」
織月が隼人の有頂天ぶりを思い出したのか、くすと小さく笑った。
輝行はそれに疲れたように大きなため息を吐く。美少女の為ならば友情など捨てるとあっさり言い捨てられると、さすがに少々切なく感じたのだ。友達甲斐のない奴だと思いつつも、気持ちを切り替えて昼休みの話をすることにした。
「で、昼の話の続きだけどさ」
「はい。例の能力を持つ者のことを、『送魂師』といいます。能力的に言えば、戻士と非常に近い力を持っています」
「戻士と? じゃあ商売敵みたいなもんなのか?」
「まあ、単純に言えばそうですけど」
輝行の短絡的な思考に織月は一瞬苦笑めいた表情を見せつつ、すぐに表情を改めた。
そこには、今までに見たことないほど厳しさが漂っている。
「以前お話しした時、戻士は摂理に反することは行わないと説明しましたよね」
「ああ。でも、摂理に反しても、大したペナルティはないって……まさか?」
「そうです。送魂師とは、摂理に反することも平気で行う『元戻士』のことなんです」
「じゃあ、あの虫が出てきたのは……」
「門の能力を持つ送魂師が、日隅を作りだしたものと思われます」
ざわと、風が鳴る。同じように、輝行の心の奥にも、ざわめきが生まれた。
「そもそも、最初に先輩が襲われた時からしておかしかったんです」
「え?」
「あの空き地の日隅と路地は、先輩が襲われる数日前に、亨が宵子さんからもらった封咒で封じていました。本来なら、一般人からは路地自体が見えなくなっているはず。なのに、先輩は迷い込んでしまった上に、獣魔から襲われた」
そこまで聞いて、輝行はようやくあの日の織月と亨の態度に納得がいった。
いるはずのない場所に、自分はいたのだ。そして、いるはずのない獣魔に襲われた。二人に訝しまれて当然だったのだ。
「じゃあ、あれも、送魂師が封じてあったものを解放したってことか?」
「その可能性が非常に高いです」
神妙な面持ちで織月は頷いた。その横顔を見つめながら、輝行は頭の中で情報を整理する。が、いくら考えてもいまひとつ腑に落ちない。
「あのさ、その空き地の件だけど、送魂師がやったんだとしたら、何の為に解放したんだ?」
織月に問い掛けてはいたが、心の中では何となく答えの予想はついていた。ただ、予想はついてはいても、その理由がよくわからない。そして、理由がわからないからこそ、不安が増していった。
「目的は多分……」
織月が先の言葉を躊躇う。その時点で、自分の予想は確信へと変わった。
「はっきり言えよ。今更何言われても多少のことじゃ動じねぇから」
「多分、先輩です。初めから、先輩を狙っていたんだと思います」
やっぱり、と溜め息混じりの呟きが零れる。と同時に、納得できる理由も当然聞きたくなった。
「で、その理由は? 送魂師がオレみたいな一般人狙って、何かメリットがあんのか?」
「それは、……今はお話しできません」
「何でだよ!」
肝心な部分でだんまりを決め込む織月に、思わず声を荒げてしまう。だが、織月の表情は常と変わらず淡々としていた。
「まだ、確信を持ってお話しできる段階ではないんです。けれど、近いうちには必ず」
近いうちとはいつなのかと詰め寄りたい気分ではあったが、輝行は辛うじてそれを抑えた。問い詰めたところで、きっと織月は話さないだろう。確固たる意志が、その表情から読み取れた。
互いの間の空気が、一瞬で重くなる。他の話題に変えでもしないと、この気まずさは払拭できないかと考えかけて、ふと輝行は些細な疑問が浮かんだ。
それは織月の髪と瞳の色のこと。戻士としての織月と会ったときは、必ず完全な銀髪と紫眼だった。そのことが、今になって不思議に思えたのだ。
「なあ、各務の髪と目の色って、どうなってんだ?」
「え? ……ああ」
突然の話題転換に一瞬取り残されたような織月だったが、すぐに質問の意図を解したようだった。
「戻士の中でも、魔や妖の戻士は特に血が濃いとされています。なので、そういった戻士の多くは能力を使う際に髪や瞳の色が変わるんです」
「へえ、そういうもんなのか」
「なので戻士といっても亨は何も変わらなかったでしょう?」
「ああ、確かに。でも各務以外に、そういう人っているのか?」
織月が答えようとした瞬間、何かに気づいたように言葉を飲み込んだ。それと同時に足を止め、輝行を背に庇うようにして立つ。
「……先輩、下がって下さい」
織月の警告の声と同時に、生温かい風が輝行の顔を撫でて吹き抜けた。同時に肌が粟立つような感覚を覚え、自然と体が後退する。
織月が先にある澱んだ闇を睨みつけると、そこにぼんやりとした人影のようなものが現れた。
ゆっくりと近づいてくるそれは、確かに人間の女性の形を取ってはいるのだが、輪郭はひどく朧げであやふやだった。背後に見える景色が透けて見えることからも、明らかに人間でないことがわかる。
見た目が人間のようだからこそ、かえって禍々しく感じた。
「な、何だよ、コイツ」
「妖、ですね」
「妖って……!」
「走りますよ」
言うが早いか、織月は輝行の腕を引いて促した。そのまま並んで走りながら、輝行は疑問を織月にぶつける。
「どうする気だよ!?」
妖は織月の――魔の戻士の力では対処できない。ということは、今は逃げるしかないのだろう。だが、簡単に逃げられるとは思えなかった。
初めて遭遇する妖の存在は、一言でいうとおぞましい。一見存在感が希薄だが、それにもかかわらず、向けられる感情のようなものが、魔よりも強く生々しかった。
本来なら体で包まれて隠されているはずの感情や想いが剥き出しだからだろう。感情そのものの塊。隠すことも憚ることもない、もっとも素の部分の、結晶のようなもの。それが妖だった。
「できる限りのことはしますよ」
「できる限りって……!」
そう叫んだ瞬間、不気味な気配が濃度を増したように感じた。それは吐き気を催すほど醜悪な空気。妖が攻撃を仕掛けようとしていた。
それに応じて織月は自らの胸元から銀色のプレートのついたネックレスを取り出し、素早く外した。一瞬で髪が銀色に輝き、瞳が紫暗の光を宿す。
「『月虹』」
織月が小さく呟くと、その右手には白銀に輝く三日月形の刃――『月虹』が現れた。それを追ってくる妖に向かって投げ打つが、無情にもその体をすり抜け、そのまま弧を描いて織月の手に戻ってくる。月虹は対魔専用に作られている為に通用しないのだ。
チッと微かな舌打ちが洩れるが、そうしている間にも妖の右手の爪が二十センチほども伸び、織月の顔面に向かって繰り出された。背後に飛んでかわすが、今度は左の爪先が襲ってくる。咄嗟にもう一つの武器である小刀を召喚し、その爪先を弾いた。
妖が織月の反撃に一瞬怯む。少し警戒するように距離を置いた。
「先輩、今のうちに先へ行ってください」
妖から視線を外さぬまま、織月は言い放つ。
輝行は妖の禍々しい気配にあてられていたが、織月の一言で我に返った。
「先にって、おまえ置いて逃げるわけにはいかねぇだろうが!」
「そんなこと言っている場合ですか! 私には妖を倒すことはできないんですよ!?」
「でも――!」
「先輩がいる方が戦いづらいんです!」
足手まといだとはっきり告げられ、輝行は反論する力を失う。確かに輝行を庇いながら戦うのは、ただでさえ厳しい戦況をますます悪化させることにしかならなかった。
「先輩の足なら、前のペアに追い付くのもすぐでしょう」
様子を窺っていた妖がふらりと動き出し、またも織月に襲いかかる。それを小刀で応戦しながら、織月は早く、と輝行を促した。輝行はその声に追いやられるように走り出す。
(情けねぇ)
暗い森の中を駆け出しながら、輝行は悔しさを噛みしめていた。自分よりも年下の女の子が命懸けで闘っているというのに、自分は何と無力なのかと。ただ逃げることしかできないという、無様さに腹が立つ。
「先輩! 避けて!」
突然背後から投げかけられた声に振り返ると同時に、輝行は転びながら凶刃から免れた。
目の前には、先ほどの妖の姿。しかし、視線を織月に向けると、今なお彼女も妖と対峙していた。
まったく同じ姿の妖が二体。
「んだよ、分裂とかって卑怯だろっ」
思わず悪態をつく輝行に応えるように、目の前の妖がニヤリと口元を歪めた。そして地面に尻もちをついた格好の輝行に、鋭い爪が振り下ろされる。
何とか横に避ける。だが、その先にあった大きな樹の幹に追い込まれる体勢になってしまった。その前に、妖が立ち塞がる。逃げ場は、ない。
一方、織月はもう一体の妖と攻防を繰り広げながらも、輝行の傍に急ごうとしていた。だが、焦りから思うように体が動かない。
妖の研ぎ澄まされた爪が、織月の頬や腕、肩を掠めていく。徐々に増える傷と疲労。それでも、何とか凌ぎながら、織月は『待って』いた。
(必ず、来るはず)
視界の端に、輝行が追い詰められているのがわかる。更なる焦りに、一瞬大きな隙ができた。それを妖は見逃さず、渾身の力で爪を突き出す。
「ぐっ!」
右肩を貫かれ、痛みと反動で小刀が手から滑り落ちた。
「しまっ……!」
織月が落ちた武器に手を伸ばすより早く、妖の斬撃が振り下ろされる。
ほぼ同時に、輝行にも妖の魔手が振りかざされた。襲いくるはずの痛みに堪えようと、輝行は身を強張らせる。
刹那、一陣の風が吹き抜けるのを感じた。それは清冽にして鋭利な烈風。
いつまで待っても襲ってこない妖を不思議に思い見上げると、その右の肩から胸の辺りまでがごっそりと無くなっていた。
「おまえね、揺光持ってんだから『召喚べ』よ」
直後に呆れたように響いた声に輝行は耳を疑った。その声は前から知っている、自分の尊敬する人のものだったからだ。
声の方角は、織月のいる辺り。見ると、今にも織月を襲おうとしていた妖の右腕が銀糸の髪を持つ青年に背後から掴み止められていた。
「基、先輩……?」
輝行の知っている姿とは明らかに違う。けれど、それは間違いなく六条院基でしかなかった。輝行の声に振り返った基の瞳は、何故か右目だけが蒼く、輝行は思わず息を呑む。
そんな輝行の傍にもガサと下草を踏みならして人影が現れた。しなやかな黒髪をポニーテールにした少女――茉莉だ。
「悪いな、織月。遅くなって」
「基、様……」
異相の基が、そう織月に笑いかけると、織月は痛めた右肩を押さえながら首を左右に振る。
輝行の頭の中は完全に混乱しきっていた。基の姿が違うこと。織月に親しげに話しかけていること。織月が基を『様』付けで呼んでいること。何もかもが突拍子もなさ過ぎて、上手く自分の中で纏められない。
基は織月を安心させるように笑み零すと、茉莉に視線を送った。
「茉莉」
「はい、基兄様」
茉莉は素直に応じと、輝行を庇うように体の一部を失った妖の前に立つ。右手を軽く持ち上げた。
「『朱飆』」
短く茉莉が術名を紡ぐと、その手の先から苛烈な熱風が生み出され、妖は基のいる方角へと吹き飛ばされる。
「『天狼』」
基が冷たい声音を響かせると同時に、自分に向かってくる妖を薙ぐように左手を振るった。一瞬でその妖の姿形が崩れ去る。仲良く二体とも、だ。
基の左手には蒼く透明に光る刀身を持った刀が握られていた。その刀はどこまでも冷たく美しく、神々しい。そしてどこか今の基の持つ空気と同質のものを持っているように感じた。
基は刀――天狼を地面に突き刺すと、柄頭に右手を置く。軽く息を吸い込むと、静かに口を開いた。
そこから紡ぎ出されるのは、先ほどまで妖に向けられていた冷淡なものではなく、穏やかな慈愛を感じさせるような、詠唱。
「ヒサカタノ ヒカリフリサスワダツミニ……」
基の声に反応するように、辺りの空気が淡い光を帯び始める。小さな光の粒が幾つも生まれ、暗いはずの森の中が徐々に明るく照らされ始めた。
滔々と流れることのはに導かれ、光は寄せ集まり天へと昇る。
「……ネガイタマヒシ カノヨノヤスキヲ」
最後のひとことを詠い終えた頃には、光は遙か高処へと溶け込んでいった。静謐で清浄な気配で辺りは埋め尽くされ、今まで妖が放っていた禍々しい気は微塵も感じられなくなっている。
輝行は茫然と一部始終を見つめるだけだった。
ようやく我に返ったのは、茉莉に至近距離で顔を覗きこまれ、大丈夫ですかと問い掛けられてから。
「あ、は、はい。大丈夫です」
慌てて答える輝行に、茉莉はくすと笑うと、基と織月の方へと近づいていく。
織月が基に支えられるようにして立ち上がるのに気付き、輝行はようやく彼女が負傷していることに気付いた。
「各務! 大丈夫か!?」
茉莉の後を追うように、織月の傍まで駆けつける。右肩を抑える織月の指の隙間からは、赤い液体が伝っていた。
「大丈夫です」
「んなわけないだろ。とりあえず応急処置はするけど、明日は大人しく休んどけ」
気丈な織月の言葉を、基は不機嫌そうに否定する。そしてそのまま厳しい視線を輝行に向けた。
「横木、織月の怪我はおまえの所為でもあるんだぞ」
「え……」
「え、じゃない。何の為に累が揺光を渡したと思ってんだ?」
今までに見たこともないほどの基のきつい眼差しに、輝行は返す言葉も見つからなかった。
闘えと言われていきなり闘えるわけはないのだが、それでも護身用にと揺光を累から渡されていたことは確かだ。それをちゃんと思い出して使用することができていたら、戦況はもう少し変わったかもしれないということは輝行にもわかった。完全に存在を失念していたのだから、基に責められても当然だと項垂れる。
「基、それくらいにしとき」
宥めるような透明な声が、落ち込む輝行の鼓膜に優しく響いた。
ゆるりと顔を上げると、そこには漆黒の長い髪と右目が紅、左目が基と同じ蒼という異相の女性。妖しいほど艶麗で凛としたその顔立ちが誰かに似ていると思うが、すぐにはわからなかった。
「それよりしーちゃんの手当てが先やろ?」
「そりゃそうだけど……」
基が少々不満げにその女性を見つめる。輝行はなおもその正体を探るようにじっと女性を見つめていると、それ気付いた相手ににっこりと微笑まれた。
「何や、横木君わかっとらんのか。ま、コレじゃしゃーないやろけど」
悪戯な笑みを浮かべられ、女性が艶やかな長髪の毛先を軽くいじる。そしてそれを軽くかきあげたかと思うと、次の瞬間には短くなった髪が肩よりも上で揺れていた。
瞳も両方とも、黒い。
「え……、か、おるさん……?」
瞬く間に外見の変わったその姿を見て、呆気に取られることしかできなかった。
似ていると思ったのは間違いであった。似ているのでなく、彼女自身を輝行は知っていたのだから。
「改めて自己紹介しとくわ。城宮郁、戻士の宗家・六条院家の最高責任者や」
五日間にわたった合宿ももう間もなく終わりを告げる。最終日は世話になった合宿所の掃除や整備がある為に、練習は午前中で切り上げられた。
輝行は隼人たち男子部員数人と、食堂の掃除の担当だった。幾つもあるテーブルを全て端に寄せ、掃き掃除のあと、雑巾がけをする。
その作業のさなかも、昨日の一件に関することばかりが頭を占めていた。時々話しかける隼人にも、生返事しか返せない。
輝行と織月は途中で道を間違えて道に迷い、その途中で織月の具合が悪くなったということにされていた。その為、織月は今日の練習も休み、今の清掃にも参加していない。基にも言われたように、大人しく休んでいるようだった。
どうやら基たちが上手くみどりや部長、他の部員たちを言いくるめた結果なのだろう。
(基先輩たちが戻士宗家……)
何とか頭の中を整理しようと試みる。
敵かもしれないと思っていた基が実は味方だった。それだけでなく、あの後三階のスタッフルームにこっそりと呼ばれた輝行が知ったのは衝撃的な事実ばかりだった。
スタッフ全員が六条院宗家に連なる家系で、合宿所のオーナーも実は宗家の長たる宗主だという。その上、今回の肝試しに関しても彼らが一枚噛んでいたらしい。
「悪いな、横木。あの妖は用心深くて、オレ達が近付くと絶対に出てこなかったんだよ」
さほど悪いと思ってなさそうに、基がそう説明した。輝行のマーキングで誘き出されるだろうと踏んでのことらしい。
しかし、それだけでは納得できないことも幾つかあり、一つ一つ説明を求めるには余りにも時間が足りないと輝行には思えた。
それを理解した基は、合宿が終わった後、六条院宗家で説明すると約束をした。
そして、まだ、一番肝心なことを話していないとも。
「テルー! 一体何回同じところ拭いてんだよ!」
「え? あ、すまん」
隼人の一言で現実に引き戻され、輝行は自分がまったく掃除を進められていないことに気付いた。隼人の小言を聞き流しながら、まだ拭き終わっていない場所へと移動する。
「なー、テルー」
「何だよ」
「……昨日、肝試しの時に何かあったのか?」
興味津々な様子の隼人に、つい鼓動が速くなるが、何もねぇよと素っ気なく返す。
しかし、やはり隼人は隼人であって、妙な方向へと勘繰るのは当然だった。
「ホントかぁ? もしかして、どさくさに紛れて各務襲っちゃったとか」
「そんなことするわけねえだろうが!」
「あ、そうだよな。嫌われちゃったら元も子もないもんな」
「……隼人、いい加減オレも怒るぞ?」
何も理解できていないことへの苛立ちと、織月に怪我を負わせてしまった罪悪感も相俟って、いつもなら適当に流せる隼人とのやりとりも、今の輝行には不愉快で仕方がなかった。
珍しく本気でキレそうな輝行の口調に、隼人はようやく口を噤む。「ごめん」と珍しく殊勝な態度の隼人を見て、輝行は八つ当たりをしてしまったことを自覚した。
「いいから、さっさと掃除終わらそうぜ」
少しだけ口調を和らげると、隼人の表情が途端に明るくなる。そして、今度は嬉しそうに昨日の肝試しの自分の戦果を話し始めた。
そういえば、隼人は郁と、輝行たちより後に出発したはずだった。基の説明によれば、あの妖が出現した辺りは空間的に隔離されていた為、隼人たちは輝行や妖には気付かなかったはずだと言う。
そこでふと疑問が浮かんだ。
隼人はともかく、郁は戻士の頂点に立つものだ。その彼女が輝行や妖に気付かないはずがない。
「んでさー、郁さんって本当に綺麗でさー。せっかくお近づきになれたから、できれば今後もお付き合いしたいなーとか思ったりさー」
デレデレと表情を崩す隼人の言葉に、輝行は適当な相槌を打つ。
「だからさー、テルは基先輩とも仲いいしー、協力してくれよー? なー?」
「そうだなー」
「マジか!? 約束だぞ、テル!」
隼人が突然両手を掴んで叫んだことで、輝行は自分が何と答えたのかを思い返した。と、同時に、面倒くさい話になったと溜め息が零れる。
「あー、いや、今のナシ」
「何でナシだよ!」
「無理だろ、あんだけの美人じゃ」
率直な輝行の感想に、隼人は頬を膨らませる。しかし、輝行にとっては隼人を思う気持ちがあっての発言でもあった。
郁は戻士であり、その中でも最上位。けれど隼人はごく普通の高校生なのである。明らかに住む世界が違うのだ。
何より輝行は、親友をこの非日常的な状況に巻き込みたくなどなかった。隼人と過ごす当たり前の日常が壊れてしまうのが嫌だったのだ。
「そんなことないだろー。テルのケチー」
「誰がケチだ、誰が」
「おれだって恋がしたいぞー! 郁さんラブー!」
恥ずかしげもなく大声を上げる隼人に、輝行は自分の方こそ恥ずかしくなる。
と、ガンと隼人の脳天をハードカバーの書籍が直撃した。
「……ったー! 何すんだ! ……すか、基先輩ぃ」
途中から相手に気付き、隼人は無理やり語尾を敬語に変える。が、基は見た目だけは優しげな笑顔を浮かべると、つい今しがた自分が落とした本を拾い上げた。
「宮崎、残念ながら姉さんは売約済みだ」
「え?」
「婚約してるんだよ、尚志さんと」
ちらと基が目線だけでとある人物を示す。それは合宿所スタッフの一人の赤茶の髪の青年だった。昨日聞いた話によると、彼――吉良尚志は茉莉の実の兄だそうだ。
「えー? 美男美女ってずるいじゃないっすかー!」
「ま、例え尚志さんがいなくても、おまえに姉さんはやれないよ。絶対に、ね」
にこと笑顔を作る基だったが、その視線は言葉以上に冷たいものがあった。やはり基は極度のシスコンらしいと、輝行は結論付ける。
「ほら、姉さんのことは素直に諦めて、掃除掃除!」
「はーい」
「横木もぼーっとしてんなよ」
ついでといった感じで、基が輝行の額を軽く小突いた。どうやら上の空で掃除をしていたことがバレバレだったらしい。
輝行は隼人が雑巾がけの続きを始めたのを見計らってから、こっそりと基に問い掛けた。
「基先輩、各務は……」
「心配すんな。昨日の内に帆香に治療してもらったし、総体の頃には完治してるだろう」
「そうですか。よかった。あ、すみません、掃除に戻りますね」
ほっと一息つくと、輝行は思い出したように雑巾がけの続きへと向かった。少々隼人とじゃれあいつつも、先ほどよりはよほどしっかりと掃除に取り組んでいる。
基はその様子を、僅かばかり眉をしかめて見つめていた。
「……『覚醒める』が先か、『絡めとられる』が先か……」
誰にも聞こえないほどの小さな呟きは、賑やかに片づけを続ける部員たちの声に至極簡単にかき消されていった。
基はそのまま踵を返すと食堂を後にし、三階へと向かう。最奥の部屋のドアをノックもなしに開けると、そこには総勢五名の六条院家に連なる者たちが揃っていた。
「おかえり、基。どうやった?」
全開の出窓に腰掛けていた郁が、主語を省いて問うのに、基は苦笑を浮かべて頭を振る。その様子に、全員が同じく苦笑いになった。
「せーっかく姫さんまで出てきたのに、無駄足だったなー」
だらしなく椅子に跨って背もたれに寄りかかり、茶化すような言葉を吐く亨だったが、郁はさして残念そうでもなく窓の外の森に目線を遣った。
「そうでもないやろ。一応面倒くさいヤツは還したし、横木君に宗家をちょっとは知ってもらえたやろし」
そこまで言って、郁はくるりと振り返るとさも楽しそうに好戦的な笑みを浮かべる。
「それに――」
「『目星』はついたし?」
郁が言い終える前に、尚志が言葉の先を読んで繋げた。それに郁は一瞬驚いたものの、すぐさま目を細めて頷く。
「動いとるんは最低二人。どっちも大体見当ついた。あとは、こっちがどう動くかやけど……」
郁が尚志にもう一度視線を送ると、尚志は心得たように笑みで応えた。それを確認すると、郁は基、茉莉と順に視線を巡らせる。
「基、しーちゃん復活するまで横木君頼むわ。自分が一番適役やろ」
「了解」
「茉莉は引き続き基のサポート」
「承知しましたわ」
了承する基と茉莉に、郁はそれまで張り詰めていた空気をふっと解いて微笑んだ。さきほど見せたものとは違う、柔和で神秘的な笑みだ。
「ええ加減、終わらせてあげんとね。宗家と、『嫦宮裂』の関係を……」
微かに憐れみを含んだ声はとてもささやかなものだったが、どこまでも静かで、どこまでも澄みわたり、その場にいた者たちの耳にもしっかりと届いていた。