禍つ月映え 清明き日影
参 疑惑 02
高原の朝は早い。目蓋を刺す強い日差しに、輝行は否応なく目を覚まさせられた。もそもそと枕元を探り、置いていた携帯電話を確認する。
時刻は朝六時。起床時間よりも一時間も早かった。上体を起こして部屋の中を見回すが、隼人を含む他の部員はまだ誰も起きてはいない様子だ。
「二度寝するにもなぁ」
残念ながらはっきりと目が覚めてしまっていた。寝直すのが無理なほどに、頭がすっきりとしている。仕方なく周りを起こさないように静かに私服へと着替え、部屋の外へと出た。
さすがにまだ眠っている人間がほとんどなのだろう。廊下には人の気配もなく、ロビーにおりるまで誰一人出くわすことがなかった。
そのまま散歩でもしようかと、玄関を出る。まだひんやりとした冷気を残した空気には、森の木々の清々しい香りもふわりと混ざっていた。都会の排気ガスや化学物質に汚染されたものとは比べ物にならないくらいに優しく自然な空気。
が、すぐにそれらに混ざって異質な匂いが漂ってきた。
視線を巡らせると何故か亨が一人、イチョウの木に背を預けて立っている。口には火のついた煙草がくわえられ、先ほどの匂いは明らかにその煙草のものだった。
思わず体に緊張が走る輝行だったが、その姿に気づいた亨はひらりと手を振って笑った。
「おー? 何だ、随分早起きさんだなー」
「……アンタこそ、こんなとこで何やってんだよ」
「空気の美味いところで吸う煙草は格別なの」
輝行の問いに、亨はヘラっと笑いながら紫煙を吐き出した。弛みきった態度に、一瞬身構えてしまった輝行もすぐに脱力感に襲われる。
「あと、面白そうなもんやってるから、それの見物も兼ねて」
「面白そうなもの?」
不思議顔の輝行に、亨は煙草を挟んだ指先をすいと並行移動させた。示されたのは広々とした庭の中央辺り。そこには、基と郁が対面して構えていた。
基が拳を握り、踏み込みながらそれを鋭く突き出す。それを郁は右腕で流しつつ掴み、左肘を鳩尾に叩き込もうとする。しかしその肘を基は左掌で受け止め押し返し、反動で右の裏拳を振るった。それをしゃがんで避けた郁は素早く足を刈るように薙ぎ――。
まるで演武のような攻防を繰り広げる基と郁の姿に、輝行はしばし見惚れてしまった。
基が武道を得意としているのは知っていたが、実際にそれを目にするのは初めてなのである。しかも、基に負けず劣らず、郁の動きも流麗だ。
「あいつらねー、アレが日課なんだとさ。変な姉弟だよなー」
「日課って、毎日あんなことを?」
「らしいよー。若いっていいねー」
「アンタもそんなに年変わんねぇだろうが」
亨の「若い」発言に輝行は呆れたように呟く。するとそれに亨は素早く反応した。
「あ、それとおれ、年上だしね。アンタじゃなくて亨さんと呼びなさい、亨さんと。間違っても織月みたいに呼び捨てとかしないよーに」
「はいはい、亨さんね」
「おー? 何だそのイヤイヤ感満載な態度はー? せーっかくデートの予定潰してこっち来てやってんのにー」
亨の恩着せがましい言い方に、輝行は思わずむっとした表情で睨みつける。しかしそれを見た亨は、ぷっと吹き出すと盛大に声を上げて笑い始めた。
「な、何だよ!」
「あ。いやいや、悪い。あんまり素直に感情出すもんで、ちょっと面白かったんだよ。その素直さ、少し織月にも分けてやってくれよ、ホント」
笑いまじりに弁解する亨に輝行は少し呆れてしまうが、その最後の言葉に少し疑問を覚えた。
輝行はまだ織月を関わるようになって日が浅い。だから織月はあんな風に感情をあまり出さずに接するのだと思っていた。けれど、亨の言い方では、誰に対してもあまり感情的にならないように感じたのだ。
「あのさ、亨さん」
「ん? 何だー?」
「各務って、誰にでもあんななのか?」
声のトーンが、自然と沈む。
自分と接する時だけ感情が薄くても嫌だが、誰に対してもそれが変わらないのもまた嫌なのだと輝行は思った。亨は輝行のそんな思いを知ってか知らずか、少しだけ表情を改める。
「あんなって?」
「だから、あんまり感情的にならないっていうか、淡々としてるっていうか……」
年相応の少女ならば、もうちょっと感情豊かなのではないかと輝行は思う。
もちろん、そういったものは個人差があるのはわかっているのだが、それにしても織月は感情を抑え過ぎているように感じていたのだ。
「ふーん、織月のこと、気になるのかー」
「べ、別に気になるとかそういうんじゃなくて……!」
気にならないと言えば嘘になるのだが、素直に認めてしまうには気恥ずかしいものがあり輝行は慌てて否定する。
しかしその輝行の態度に、亨はやたら瞳を輝かせ、嘘臭い笑みを浮かべた。
「若人よ、青春してるんだねー」
「どこのオッサンだよ、アンタはっ」
「あ、そうだー。一個忠告しとくの忘れてたなー」
「今度は何だよ!」
亨のマイペースなテンポに輝行は苛々とさせられ、次第に語気が荒くなっていく。
それに構わず、亨は少しだけ輝行に顔を近づけて囁いた。煙草の匂いが、少し濃くなる。
「……敵は、案外近くにいるようだ」
「え?」
表情は相変わらずヘラヘラとやる気のなさそうな亨だったが、その瞳だけは真剣な光を宿している。
輝行は無意識に息を詰めて亨の次の言葉を待った。亨の指先から、短くなった煙草が離れ、地面に落ちる。
「いくら信用できると思っている人物でも、気を許すな。それが累さんからの忠告だ」
「それって、誰のことを……」
「そこまではおれも聞いてない。ただ――おわっ!?」
言葉の途中で、亨と輝行の顔の間を何かがすごい勢いで通り抜けた。正確には、亨の顔の位置目がけて飛んできたのだが、間一髪亨が避けていたためその物体は背後にあったイチョウの幹に突き刺さっていた。
「おい! 殺す気かっ!?」
亨がそう非難の声をあげたのも無理もない話だろう。
何故なら今目の前の木の幹に刺さっているのは、小振りのナイフだったからだ。
けれどそれを投擲しただろう人物は穏やかな笑顔を湛えたままで、そばまで歩み寄ると、そのナイフを無言でしまう。そして、足元に落ちている亨の吸っていた煙草の吸い殻を踏み消すと、見せつけるように亨の目の前に突き出した。
「守屋亨君。私はポイ捨てが嫌いと言いましたよね? えぇ、言いましたとも」
「は、はい。仰いましたね……」
「では、これは何でしょうか? 十文字以内で答えてみて下さい」
「おれの捨てた吸い殻」
「はい、十文字ピッタリ、正解です。ということで正解者の守屋亨君には、あーら素敵、わたしから超豪華プレゼントを――」
「わかった! 悪かったって! ちゃんと灰皿に捨てるから!」
満面の笑顔でにじり寄る郁に、亨は何やら強い恐怖を覚えたらしく、悲鳴にも似た声で答える。
それに納得したのか、彼女は穏やかに微笑んだ。しかし、
「……よろしい。次見つけたら」
そう言いながら、軽く指を鳴らす。暗に先ほどの見事な技の数々を亨相手に実践すると言いたいのだろう。
「基! この人どうにかしろ!」
「あ、それ無理。姉さんいる前でポイ捨てした亨が悪い」
焦る亨が基に助けを求めるが、基は即答でそれを拒否した。どうやら、基も郁には逆らえないらしい。
「やあね、守屋亨君。私は別に貴方に暴力を振るおうなんて思ってないですよ? ちょっとばかり肉体労働してもらおうと思ってるだけなのですから。ほら、行きましょう?」
どこまでもさわやかなで、周りから見れば見惚れてしまいそうなほどの笑顔なのだが、郁のその目は一切笑っていない。彼女は逃げようとする亨の腕を取り、引きずるように歩き出した。
必死に抵抗する亨だったが、どうやら軽く関節を極められているらしく、時折悲痛な声を洩らしながら遠ざかって行く。
そのまま、二人は合宿所の中へと消えていった。
「早いな、横木」
亨と郁とのやりとりを――というよりも大半は郁の所業をだが――呆然と見送っていた輝行だったが、基の声で我に返る。
「あ、何だか目が覚めちゃって……。基先輩こそ」
「オレはいつもこんなもんだよ。姉さんの日課に付き合うようになってからずっとな」
日課という言葉に輝行は先ほどの二人の組み手を思い出した。生で迫力ある武術を見るのは初めてだった輝行にはなかなか衝撃的なシーンだったのだ。
「見てましたよ、さっきの! すごいですね、基先輩もお姉さんも」
「別にすごかないって。物心ついたときからずっとやってるだけだから」
少し興奮気味な輝行に、基は照れるでもなく、かといって驕った風でもなく、ごく自然に笑う。そして今までに見たどの基よりもずっとリラックスしている表情に気づいた。
もともと固いイメージがあるわけではないのだが、基は常に人を寄せ付けない空気を微かに放っている。誰とも社交的に話しているようで、ある一定以上のラインを誰にも超えさせない。それが輝行の持つ基の印象だったのだ。
けれど、今の基からはその踏み込みがたさがあまり感じられない。それは輝行の予想でしかないのだが、郁の存在が大きいのだろうと思えた。
「仲いいんですね、お姉さんと」
「うん? まぁ、そうかな。姉さんはオレにとっては恩人だし」
「恩人?」
思いがけない単語に引っかかりを覚える。
弟が姉を『恩人』などと称することなど滅多にない。奇妙な違和感を抱いた輝行に、基は更に強い意志を言葉にのせる。
「そう。だからオレは姉さんの為なら何だってするよ。そう、どんなことだって、ね……」
そう言って微笑みを向ける基に、輝行はぞくりと背筋に冷たいものを覚えた。
まっすぐに自分に向けられている瞳には決然としていて、毅い。そして、どこまでも深く、冷たかった。
『敵は、案外近くにいるようだ』
亨の言葉が瞬時に蘇る。
(まさか、基先輩が……?)
そんなはずはないと、頭に浮かんだ嫌な想像を振りきろうとする。けれど、なおも頭の中には亨の残した言葉が繰り返されていた。
『いくら信用できると思っている人物でも、気を許すな』
基のことは一年の頃から尊敬していて、憧れている。基の方も輝行を気に入って可愛がってくれていた。それなのに、もし基が敵に回るようなことにでもなったら……。
次々に溢れだす不快で受け入れられない想像は、自分の意志では止められそうになかった。
「あ、そうだ。おまえ姉さんに何か吹き込まれてないか?」
明るく問い掛ける基の声で、ようやく思考は途切れる。
基には先ほどのような冷淡な印象はどこにもなく、いつも通りの明るい先輩の姿でしかなかった。気の所為だったのだと無理やり納得し、輝行は基の問いに答える。
「……あ、そういえば、社がどうとか言われましたけど」
意味のわからない、何だか気になるようなことだけ残していった郁の姿を思い出した。
やはり何かあるのかと思っていたが、予想外に基は呆れとともに大きなため息を吐き出す。
「やっぱりな。ソレ、気にすんなよ? いかにも何か出そうな雰囲気の場所だから、気になるように仕向けて、そこに行ったら脅かそうって魂胆なだけだから」
「え? じゃあ何でもなかったんですか?」
「そう。あの人いたずら好きだから、あの辺に何か仕込んでたんだよ。誰かが何も知らずに来ても可哀相だからこっそり仕掛けは全部外してきたんだけど」
困ったもんだと苦笑しながら基は肩を竦める。入念に計画をしてまで人を驚かすことにかける郁の情熱はなかなか熱いモノのようだった。
「……ちょっと失礼かもしれないですけど、変わった人ですね」
「だろ? だからあの社には何もないし、気になって見に行ったりしなくてもいいぞ」
「わかりました」
輝行はホッと息を吐いて笑顔を浮かべる。
しかし、安心したのは社のことがわかったからではない。
(やっぱり、基先輩は優しいじゃん)
自分を気遣ってくれている。それがわかる。だから、基が自分に危害を加えるなんてありえない。そう結論付けることができたからだ。
「さて、そろそろ戻った方がいいんじゃないのか? 他の奴らも起き出す頃だろ?」
「あ、そうですね。朝飯の準備もやらないと」
「じゃ、オレは庭掃除と水撒きあるし」
「はい、失礼します!」
勢いよく頭を下げて、輝行は玄関に向かって走り出す。
頬を掠める高原のさわやかな空気が、後押しするように輝行の気分を軽くした。先ほどまで疑っていた自分自身が馬鹿馬鹿しくすら思えるほどに。
輝行が戻っていく背中を見つめながら、基はくっと喉の奥で噛み殺したような笑いを小さく洩らした。
「……ホント、横木は単純で扱いやすい」
久遠学院大付属高校陸上部の夏合宿が始まり、すでに四日目に突入していた。明日の夕方にはこの合宿所を後にし、本格的な夏休みに突入する。
しかし、七月末から高校総体が始まるため、浮かれた気分になる暇もなく、むしろ練習にも熱が入る一方だ。
輝行ももちろんこの四日間練習に没頭していた一人だった。亨に言われた言葉も気になってはいたのだが、何事もなく過ぎていくうちに徐々に頭の片隅に追いやられていた。
一瞬疑ってしまった基は相変わらず優しく面倒見もよく、手が空いた時には練習を見てアドバイスも与えてくれる。疑ってしまった自分に馬鹿馬鹿しさを覚えるほどだった。
何も変化がないおかげで、織月と話す機会も全くない。しかし、安心していられたのは昨日までで、今日はどうしても織月に相談しなければいけないような状況が差し迫っていた。その為に今、輝行は昼の自由時間を利用して織月の姿を探していた。
けれど、探しながらも輝行はどうやって自然な流れに持ち込もうかと考えなければならなかった。
あまり表立って話しているところは見られたくはないし、かといって周りがみんな関係者という中では誰にも見られずにというのも無理な話だ。困り果てながらも、探す足を止めるわけにもいかずに歩きまわっていると、二階の廊下に見知った顔を見つけた。そして、その隣には探していた人物までもがいる。
「基先輩」
「おう、横木。どうしたんだ?」
「あ、いや、ちょっと人を探してたんですけど」
そういってちらりと織月を見る。織月はそれに気づくが、何の表情も変えずに黙っていた。
織月の態度に特に疑問を抱きはしない輝行だったが、基と織月が一緒にいることは流石に少々不思議だった。
「何で、基先輩が各務と?」
「ああ、ちょっと気になったから話聞いてたんだ」
「気になったって……」
ほんの一瞬、輝行に訝しげな表情が滲んでしまったのか、基は少し呆れたように笑って言葉を付け足す。
「練習見てて、だよ。宮崎と一緒にするなよな」
「し、してないですよ!」
言葉では否定しつつも、その考えが僅かながら輝行の頭に浮かんだは事実だった。以前の自分ならば明らかにそんなことは考えもしなかったが、実は織月が整った容貌の持ち主であると知った今、隼人が気づいたのと同じく、基が気づいたとしても不思議はないと思えたのだ。
「悪かったな、引き留めて」
「いえ」
基がそう笑いかけるのに、織月は少し緊張したように頭を下げる。そのまま基はじゃあなと言い残してその場を去った。幸運なことに、当初望んでいたような織月と二人で話せる機会の到来だ。
ただ、やはりここは誰もが利用する廊下。他の部員やスタッフに見つかっても全くおかしくのない状況だった。
「先輩、こっちに」
「え?」
輝行が自分に用があるとわかったのか、織月が三階へと向かう階段の方へと促した。戸惑いながらも輝行は織月に続くしかなく、そのまま三階へと上がっていく。
この建物の三階には合宿所のオーナーやスタッフが利用している部屋しかないはずだった。けれど織月は躊躇うことなくその三階のある部屋のドアを開け、その中へと入り込む。
「お、おい、各務……」
「大丈夫です。ここは亨の部屋なんで」
短く説明する織月に、輝行はようやく納得してその部屋の中に踏み込んだ。
「話は、今日のオリエンテーションのこと、ですよね?」
輝行が話し合おうとしていた内容を織月は予測していたのだろう。頷くと、すでに対策を用意していたのか、織月は淀みなく説明を始めた。
「とりあえず、くじ引きでペアを決めるという話ですので、何とか先輩と私がペアになるよう細工します」
「細工って、どうやって……」
「その辺りは何とでもなりますよ。協力者もいますしね」
詳しい説明はないが、織月が大丈夫というのなら大丈夫なのだろう。そう思ってひとまず安心できる。しかし、
(各務とペアになったりしたら隼人がうるさいだろうな……)
一つ問題が解決しても、また全く別の問題が起こるであろうことが、輝行にとっては大きな悩みの種だった。むしろ、こちらの問題の方が厄介にすら思える。
「でも、一つ心配なのは、肝試しの通過地点ですね」
「通過地点?」
肝試しのルートは、毎年変わっている。その年の三年生が話し合って決めるのだ。
それを昼間のうちに顧問に確認してもらい、安全性の面でOKをもらえたら決定となる。輝行はまだそのルートについて知らなかったが、どうやら織月は誰かからその情報を手に入れていたらしい。
「ここの建物の西側に、森がありますよね」
「ああ」
「その森の入口から出発して、森の奥にある社にロウソクを立てて火をつける。それからそのまま来た道とは違う道を通って、合宿所の裏手辺りに戻ってくるというやり方らしいです」
「森の奥の社?」
基に言われていた社のことだとすぐに察しがついた。それと同時に、何となく嫌な流れに話が向かっているような気がする。
「ええ。その社ですが、どうやらあまりいいものではないと聞きました」
織月の説明に、輝行は思わず否定の言葉を吐きそうになった。しかし、寸でのところでそれを無理やりに飲み込む。
『敵は、案外近くにいるようだ』
『いくら信用できると思っている人物でも、気を許すな』
亨から受けた忠告の言葉が、頭の中を巡る。それと同じく思い浮かぶのは、基が垣間見せた、冷たい瞳。
よく考えれば、あの時の基の話も少し妙なのだ。あの社には何もないと、妙にきっぱりと言い切った。そんなこと、『特別な能力』でもない限り、わからないことのはずなのに。
(もしかして、基先輩は戻士や魔のことを知ってる?)
輝行自身、未だに異形に対する知識は少ない。実際に魔と遭遇したのは二回だけ。妖に関しては説明を聞いただけだ。
そもそも、輝行にとって敵とは何なのだろうという疑問があった。魔や妖が敵というのはわかるのだが、亨の口ぶりからはそれだけではない雰囲気が漂っていたように思えた。
「なあ、各務」
「なんですか?」
「亨さんに言われたんだけど」
「亨に?」
いつの間に二人で話をしていたのだろうとでも思っているのか、織月は少々驚いたように聞き返す。
「正確には、常磐さんからの伝言らしいけどな。『敵は案外近くにいる』って、どういう意味だと思う?」
「敵が、近くにいる?」
予想外に、織月が不審そうに眉を顰める。どうやら亨の口にした忠告は、織月の耳には入っていなかったらしい。
「各務は聞いてなかったのか?」
「ええ。残念ながら。けれど、それは……」
話に思い当たる節があるのか、織月は考え込むように口を噤んだ。しばらく考えた後、思いきったように口を開く。
「先輩、前に学校で魔蟲の大群に追いかけられたこと、覚えていますか?」
「ああ。アレだろ? 廊下が延々続いてた時の」
「そうです。その廊下が延々と続いてたことも、あの虫たちが召喚されたことも、実は魔ではなくある能力を持つもの仕業だと思われるのです」
「ある能力って、戻士とは――」
輝行が訊き返そうとした瞬間、ピピピピッと電子音が響き渡った。輝行のはめていた腕時計のアラームだ。
それに促されるように織月がベッドに備え付けの時計に目を向ける。どうやら昼の自由時間の終了五分前を知らせるアラームだったらしい。
「ああ、もう集合時間ですね。話の続きは肝試しの時にでもしましょうか」
「……わかった」
本当は気になるところで話を止められてしまうのはかなり不満が残るのだが、練習時間になっては仕方がない。それに輝行だけでなく、織月も練習に戻らなくてはいけないのだ。二人揃って姿を見せないとなると、これまた何を勘繰られるのか堪ったものではなかった。
「先輩、お先にどうぞ。私は少し時間空けてから行きますから」
「悪いな。んじゃ、また後で」
「はい」
織月の気遣いに素直に甘え、輝行は先に亨の部屋を後にした。
一、二分空けて出ても走れば間に合うなと計算しながら、織月は輝行が亨から聞いたという言葉を思い出す。
「一体、誰が……」
様々な方向から今までの件を検証しても、明らかに輝行を狙う敵を特定できる材料が少ない。
諦めるように軽くため息をつくと、織月は亨の部屋を出て、午後からの練習の集合場所へと向かった。
陽が完全に山影へと身を隠し、暗闇が重く澱む。
午後の練習も終えたあと、夕食と後片付けを済ませた者から、徐々に西の森の入り口へと集合し始めていた。
そんな中、輝行は集まっている人の群れの中に予定外の人物が混じっていることに気づいた。亨をはじめとする、合宿所スタッフの面々だ。もちろんそこには基や郁も含まれている。
(何で……)
違和感がじわりと湧き出した。そしてまたも亨の残した言葉が頭に浮かぶ。
しかし、不思議なことに亨と基はとても仲が良いように見受けられた。今も二人並んで何やら話しているのだ。
(亨さん、わかっててなのか? それともやっぱり基先輩は関係ない?)
頭の中で思考が絡まり合い、縺れ合う。
基は敵なのか、そうでないのか。亨がわざわざ忠告を寄越したということは、彼も基を怪しんでいるからなのか。それとも、もっと他にも注意すべき人物がいるというのだろうか。
「テル、くじ引けって」
「え? あ、ああ」
考え込んでいた輝行の肩を、隼人が叩いて促す。いつの間にやら部員はほぼ集合し、ペアを決めるためのくじ引きが始められていたようだった。
「なあ、隼人。基先輩たちも参加すんのか?」
「ん? ああ、そうみたいだぜ。何か、三年の女子がみんなして基先輩誘ったんだって。んでせっかくだから、今年は他のスタッフも参加したらどうかって話になったらしいぞ」
「あー、まあ、気持ちはわからんでもないか」
隼人の説明を聞いて納得はした。
基はもともと人気があった上に、他のスタッフも美形揃いだ。他のスタッフとは最初は誰もが少し距離を置いていたが、実際接してみると、誰もが親しみやすい人柄だった。日が経つにつれ少しずつ会話も発生するようになっていたこともあり、これを機会に一気に仲良くなろうと考える者たちも出てきたのだろう。
「そんなことよりテル、わかってるからなっ」
「は? 何が?」
突然声のトーンを下げて囁く隼人に、輝行は本能的に嫌なものを感じた。口元を少しニヤつかせている隼人は、きっとろくでもないことを言い出すと決まっているのだ。
「ペアだよ、ペアっ。ちゃんと各務となるようにしてあるからなっ」
「なるようにしてあるって、おまえ一体何を仕込んで……」
「いいからいいから。とりあえずクジ引いてこい!」
ドンと思い切り背中を附き飛ばされ、輝行はつんのめった形でクジを持つ部長の前に飛び出した。
「横木もまだか? 早く引けよ」
「あ、はい。すみません」
部長に促されるまま、輝行は目の前に差し出された紙袋の中に手を突っ込み、中から一枚選び出す。
その様子を少し離れた場所から祈るように見守っている隼人が、少々鬱陶しかったが気にしないことにした。取り出した紙切れを開くと、中の数字は『二十七』。順番的にはかなり後の方だ。紙自体には何の変哲もなく、どこかに細工されたようにも見えない。
(これで本当に各務とペアになるのか?)
疑問を覚えた輝行だったが、隼人が何かしなくても、織月側で何か仕組んでいるらしいと聞いている。どのみちと織月はペアになるのだろう。
それならたとえ隼人のおかげでペアになったのでなくても、「隼人のせい」ということにしておけば、変に勘繰られることもない。かえって助かるのだと結論付けた。
「んじゃ、順番に番号呼んでくから、番号順で並んでいってねー!」
女子部部長が大きな声で声を掛け、その後に男子部部長が番号を呼び始めた。
一番から順に、呼ばれた男女が一喜一憂しながら列をなしていく。毎年行われる肝試しでカップルが成立することも多いらしく、目当ての相手がいる者にとってはなかなか切実な問題なのだろう。
そんな風に他人事のように思いながら、輝行は自分の番号が呼ばれるのを待った。
しかし、当然遅い番号なので、なかなか順番が回ってこない。
「テル、何番だったんだ?」
「二十七。隼人は?」
「あ、俺その次だ」
「よかったな。まだ美少女コンビ残ってるぞ」
まだ番号を呼ばれていない女子グループの中に、二人のスタッフが残っていることを示すと、隼人は会心の笑みを浮かべた。なんだかんだと言って、やっぱり諦め切れていなかったらしい。
「そうなんだよ! 特に俺は郁さんの方が好みなんだけどな!」
「ああ、基先輩のお姉さんか」
「は? 基先輩の? 全然似てないじゃん! 第一、名字が違うし」
「名字が、違う?」
ざわりと、心の奥が騒ぐ。
「そうそう。名前訊いたら基先輩とは全く違う名字だったぞ? えーっと、確か、シノミヤ? シロヤマだったか? そんな感じ。だいたい、六条院なんて変わった名字だったら俺でも気づくって」
隼人が呆れたように続けるのに、輝行は基から直接聞いたのだと反論する。基もそう言ったし、郁もそう言っていた。
「え、じゃあもしかしてもう結婚してるとか!?」
「あの若さでか? まだ大学生だろ?」
「だったら……、もしかして何かワケありかなぁ? ほら、確か基先輩の家って結構な名家らしいし――」
「二十七番!」
話の途中で自分の番号を呼ばれて、輝行は慌てて返事をした。二十六番目のペアの後ろに並ぶと、その隣に並んだ人影にわかってはいても驚く。
隼人の功が奏したのか、それとも織月の回した手が適切だったのか――もちろん、後者の可能性が断然高いのだが――やはり輝行のペアは織月になっていた。
普段通り後輩らしく、よろしくお願いしますと頭を下げる織月に違和感を覚えなくもないが、輝行も当然常と変らない態度でこちらこそと返す。
「テル、テルっ!」
真後ろから呼びかけられて振り向くと、キラキラと瞳を輝かせた隼人が、親指を立てて満面の笑みを浮かべていた。
脱力感に襲われそうになるが、隼人が自分の功績を褒め讃えるためだけの笑顔でないことにすぐに気づく。隼人の隣には、何と先ほど噂をしていた郁の姿があったのだ。
強運なのか、それとも自分の分まで隼人が何か仕組んでいたのかはわからないが、彼の喜びようから見ると特別に何か細工をしていたわけでもないのだろう。
「宮崎。姉さんに手出すなよ」
「え?」
今度は前方からかかった声に、輝行は再度振り向いた。
どうやら二十六番目は基で、その隣にはもう一人の美少女スタッフがいる。他の部員たちの思惑が見事に外れ、スタッフ同士のペアになってしまったらしい。
「やっぱり基先輩のお姉さんだったんですかー!?」
「やっぱりって何だよ」
「あ、いや、テルに聞いてたんですけど、似てないなーって思ったんで」
「直接血は繋がってないからね」
隼人と基の会話に、さらりと郁が滑り込んだ。内容に似つかわしくない、妙に軽い口調に輝行と隼人は思わず声を失う。
「おいおい姉さん、すぐにそうやってヒトをからかうなって」
笑み混じりの基の声で、二人は詰めていた息をほっと吐き出した。
「冗談、ですか」
「姉さんの言うこと真に受けるなってこの前言っただろ?」
「そうでしたね。忘れてました」
「一瞬地雷踏んだかと思っちゃったじゃないですかー!」
「宮崎は地雷原の地雷を全部正確に踏んでいきそうだもんな」
一瞬の凍りついた空気はすぐに溶けて消え失せ、三人での会話は明るく騒がしいほどに盛り上がる。
反対に、輝行の隣の織月はどこか緊張したような面持ちで沈黙を守っていた。いつも以上に織月が無口に感じたが、自分たちが騒がしい上に前後が親しい部員というわけではないのだからそれも当然だろう。