夢のあとさきそめし朝

第一幕 あるいは、絵空事

第三話 のべつ幕なしオフステージ  01

 問題だらけの舞踏会から数日。私はこれといって変わりのない日々を送っていた。
 いつも通り、家事をしたり、キースから色々教わったり、一緒にご飯を食べたり。ダンスの練習はしていないけれど、一人の時間には筋トレも続けている。
 その変わらなさ過ぎる日常が、不気味でしかなかった。

 ――そなたには相応の地位を与えてやる。

 含みを持った笑み。何をどこからどう判断したのかわからないけれど、あの男は間違いなく私が『アマビト』なのだと気づいていた。そうでなければ、何の力も持たないただの異国民に何がしかの地位を与えるなんてことは言わないだろう。
 だからこそ、舞踏会の翌日からずっと、何か仕掛けてくるんじゃないかと気を張り続けていた。なのに、それがない。
 シヴァは、力を欲している。だからこそ、私が『アマビト』だということを知られてはいけない人間の筆頭がシヴァなのだ。キースやアルゼさんは揃ってそう言っていた。
 ベルティリアは元々軍事力の強い国で、シヴァ以前の聖帝も概ね好戦的だったそうだ。だが、先代の聖帝、つまりシヴァの父であるハガルは、どちらかといえば穏健派だったらしい。隣国であるリブロマギアやシーチェンとも同盟や協定を結んで、友好的な外交をしていたのだという。
 ところが、そのハガルが急死した。表向きは病死ということらしいけれども、暗殺だったのではないかという噂もあるらしい。そして、シヴァが即位すると同時に、新たな徴兵や騎士団の再編成が行われ始めた。誰の目から見ても明らかな、軍事増強だ。反乱勢力が活発に活動し始めたのは、それが大きな原因らしい。
 まだ隣国との同盟や協定などは形式的には保たれているけれど、シヴァがその二国の領土を狙っているのはほぼ間違いないだろうとキースとアルゼさんは言う。
 『アマビト』が現れるということは、そのシヴァの野心に大きな拍車をかけることになる。数々の困難を退け、国を安寧に導く存在。戦乱を治め、勝利に導く象徴。そんな風に言い伝えられる者が存在したならば、あの男が利用しないはずがないのだから。
 舞踏会の日のことを思い出すたびに、大きなため息が零れる。
 シヴァとのやりとりを思い出すと、恐らくこの辺が不味かったのだろうと思い当たるところはあった。
 だが、今の私にはアマビトに対する知識がほとんどないようなもなのだ。回避するのはどのみち無理だっただろう。
 舞踏会に行かなければよかった。ビスティから売られたケンカなんてスルーすればよかった。そう思ってみてももう遅い。今はとにかく、シヴァの出方を待つしかなかった。
 はぁ、とため息がまた洩れる。
「八回目」
「え?」
 目の前に座るキースから、謎の数字が言い渡された。意味がわからず首を傾げると、キースが困ったように微笑む。
「今朝会ってからのため息の数。ちなみに、昨日は家を出るまでに十二回だったかな」
「う……。そんなの数えてないでよ」
 恥ずかしくなって、つい上目遣いでキースを睨んでしまった。とはいえ、私の幸せは一族郎党揃って夜逃げしているんじゃないだろうかという勢いでため息をついてしまっていたらしい。それほどの回数なら、数えたくもなるのもが人情ってもんじゃないだろうか。そして、そのため息の原因がどこにあるのかも、もちろんキースにはお見通しだった。
「心配するな。陛下が何を言ってこようと、サクヤのことは絶対に守ってやるから」
 傍から聴くと歯の浮くような台詞だけれど、今の私には心強いことこの上ない。
 実際にはキースはシヴァに仕える身で、逆らうなんて無謀以外のなにものでもない。キースには守ってくれる意思があったとしてもどうにもならないこともあると思う。けれど、その言葉があるだけで私の心はいくらか冷静になれるのだ。
「ありがとう。でも、全面的にキースを頼るつもりはないからね」
「わかってるって。けど、サクヤ一人だけで頑張る必要だってないんだからな」
 本当に、キースはどこまでも優しい。そして、その穏やかな笑みが向けられるときにはいつも、微かに切なそうな色が滲む。
 すでにこの世界に来てからひと月近くが経とうとしているのに、キースには訊けずにいることがまだ沢山あった。
 訊いていいのかわからない。キースからは自身のことを何も話してくれないから、やっぱり知られたくないことなのかもしれない。
 それでもいつか、少しくらいは教えてくれればいいなと思う。色んな意味で救ってくれているキースに、少しでも恩返しがしたいから。
「それじゃあ、そろそろ行ってくる」
 立ち上がるキースに続いて私も席を立ち、玄関まで見送りに出る。
「気をつけてね」
「サクヤこそ、な。今日は市場まで行く気だろう? 本当にマミヤを呼ばなくてもよかったのか?」
 毎度のことながら心配性なキースに、私は自信満々に胸を張る。
「大丈夫! さすがに何度もマミヤさんの手間を取らせるわけにはいかないし。それに、マミヤさんのおかげで、お店のおじさんやおばさんとも顔見知りになったんだから」
「そうか。でも、何があるかわからないんだし、充分に気をつけろよ」
「はいはい、気をつけます」
 軽く請け負う私に、キースは苦笑しながらも行ってきますと残して家を出ていった。
 キースの背中を見送ると、これから行う家事のために気合を入れる。腕まくりをし、準備はOK。いつも通りの、ハウスキーパーのような日常が始まろうとしていた。
 ――はず、だった。



 朝食の後片付けから掃除へと移行し、その後は庭に水を撒き、洗濯物を洗って干して。
庭に生えた雑草が気になって草むしりまでしていたら、陽が随分高くなっていることに気づいた。もう完全に正午は回っているだろう。慌てて昼食をとり、一息ついた。
「あとは市場で買い物して、キースが帰ってくるまでにご飯を作って……。それ以外に何かすることあったっけ?」
 食後のお茶を楽しみながら、一人ぶつぶつと午後の計画を立てていく。
 今まで私が買い物に行く場合は、ずっとマミヤさんがついてきてくれていた。そしてその後は決まって、二人でお茶をしながら夕方前までの時間を過ごすのが恒例になっていたのだ。
 けれど、今日からは私一人。マミヤさんと一緒のときと同じ感覚で買い物を済ませたなら、きっと一人の時間を持て余してしまうだろう。
 舞踏会前ならばワルツの練習に回していただろうけども、今となってはその必要もない。筋トレをしてもいいけれど、何となくそんな気分じゃない。
 本でも読めればいいけれど、ちらっと本棚にあったものを拝借してみたら、まったく意味不明の文字列が並んでいてとても読めそうになかった。話し言葉が通じるんだから、文字だって読めるようにしてくれたっていいのに。神様なのか何なのかわからないけれど、私をこちらに連れてきた存在は結構ケチだ。
「せっかくだし、ちょっと散策でもしようかな」
 実は今まで、あまり街中を歩きまわったことがなかったのだ。マミヤさんと一緒の買い出し以外で出掛けたといえば、あの舞踏会くらい。もっと色々と出歩いて街の中の構造を覚えた方がいいんだろうけれど、よく知らないまま一人で歩き回っていいものかと今まで躊躇していた。キースの心配性を考えるとなおさらだ。
「まあ、アルゼさんもこの辺はそんなに危なくないみたいなこと言ってたし、寂れた場所行かなきゃに大丈夫でしょ」
 一度好奇心が主張しだすと、それを抑えるのはちょっとばかり難しい。
 ちゃんと周囲の地理を頭に入れておいた方が、何かあったときに役に立つしね。などと自分とキースを納得させる言い訳を準備し、市場に向かうまでに寄り道しようと決めた。
 そうと決まればさっさと支度を整える。使った食器を手早く洗い、しっかりと戸締りをして家を出た。
 幸いにも本日は上天気。長袖のシャツでちょうどいいくらいの気温だ。頬を撫でる風もさらりとしていて心地いい。歩む足取りも、自然と軽やかなものになっていた。
「えっと、こっちだったっけ?」
 キースの家からさほど離れていない辺りで、きょろきょろと道を確認する。
 市場への道のりは、もう何度も往復しているので完璧に覚えていた。今私が目的地としていたのは、その途中の道から見えた公園のような場所だ。
 マミヤさんと一緒に市場に向かうとき、使わない道についても簡単に説明を受けた。その際、絶対に行ってはいけない場所というものも教えられていたのだが、その公園みたいな場所はそれに含まれていなかったはずだ。そう思って市場に向かう道から筋をそれ、あやふやな記憶ながらも無事にその公園へと辿り着いた。
 入口まで来て、ちらりと奥を窺う。人の姿はまばらだったが、やっぱり『公園』という表現が適切な気がした。
 綺麗にならされた地面。小さな池があって、木陰には木製のベンチがいくつか置かれている。大きな円形の花壇の中央には、天使みたいな翼を持った女の人の石像が立っていて可愛らしく咲き誇る花々に囲まれていた。
 両手を胸の前で組んで祈るような姿の像に、惹かれるように公園内に足を踏み入れる。側まで来ると結構大きい。二メートルくらいはあるだろうか。土台の部分だけでも五十センチ以上ありそうだから、自然と見上げる形になった。
 優しい表情だ。けれど、どこか淋しそうにも悲しそうにも見える。そういえば、こんなような像をどこかで見たような気がしたけれど、どこだったっけ?
 そんなことを考えながら視線をゆっくりと下げていくと、台座の部分に文字が彫られているのに気付いた。が、残念ながら、キースの家の本と同様、全く読めない。仕方なく読むのは諦めて、もう一度像を見上げた。
「羽根があるってことは、天使、とか?」
 そもそもこの国の宗教に私たちの世界の天使みたいなものが存在するのかどうかは謎だけど。その辺はキースが詳しそうだし、今度訊いてみよう。
「普通の人ではないよなぁ。もしや、翼のある種族とか……?」
「フェイ族ではない。それは『天の御使い』だ」
 誰も聴くはずのない独り言に、答える声。慌てて振り返ると、そこには赤を基調とした騎士団の制服を身に纏った女性が一人。陽光にきらめく豊かな金の髪を穏やかな風に遊ばせ、宝石みたいな透き通ったグリーンの瞳が笑みの形に細められていた。
「ソフィアさん」
「久しぶりだな、サクヤ」
 舞踏会で一度会ったきりだったけれど、ソフィアさんはちゃんと私のことを覚えていてくれたらしい。嬉しくなって自然とほころぶ顔のまま、こんにちはと挨拶を返した。
「こんなところで何をしているんだ?」
「市場に行くついでに、ちょっとしたお散歩ですね。ソフィアさんは?」
「私は所用の傍ら、城下の……見回りのようなものだな」
「え? 騎士団長さんでも見回りなんてするんですか?」
 騎士団長ということは、騎士団で一番偉い人で、指示をする側の人だ。言い方は悪いけれども、見回りなんてのは下っ端の部下にやらせるものなんじゃないかなと思っていたから、ソフィアさんの答えが意外でならなかった。
「見回りのようなもの、と言っただろう? たまたま城下に用事があったから、そのついでに見て回っているだけだ。サクヤの散歩と同じだな。さすがに普段から私自身が見回りをしなければならないほど、人材が足りていないわけではない」
「あ、なるほど」
 納得しつつ、こうやってメインのお仕事のついでに見回りなんかしちゃうソフィアさんって、本当に寝っからの超生真面目さんなんだろうなぁと思ってしまった。
 と、思考が落ち着いたところで、最初のソフィアさんの発言を思い出す。突然の再会でびっくりして頭の中からふっとんでいたけれど、ソフィアさんは『天の御使い』という言葉を発していたのだ。
「あの、ソフィアさん。『天の御使い』って……?」
「ん? ああ、そういえばサクヤは異国から来たのだったな。その名の通り、天から使わされた使者で戦乱を治める不思議な力を持つという伝承があってな。この像は建国の際に現れた御使いに似せて作られたと言われている」
 アルゼさんから説明されたものとほぼ同じ説明がソフィアさんの口から紡ぎ出される。が、とりあえず、初めて聞いたような反応をしておかなければ変に思われるかもと思い、感心したように相槌を打った。と同時に、もう一個気になったことを質問する。
「フェイ族ってのは?」
「何だ、フェイ族のことも知らなかったのか。背に翼を持った種族のことだ。争い事を嫌う性質らしく、ベルティリアにはあまり住んでいないから、私も会ったことはないがな」
「え? じゃあ、天の御使いって実はそのフェイ族とかってことじゃないんですか? 同じように翼も持ってることですし」
 ソフィアさんの話を聴いていると、伝承のアマビトと私が本当に一致するのか不安になってきた。そもそも、私は翼なんて持ってないぞーと思ったことはもちろん黙っておく。
「そう言われればそうだな。だが、私が知っている伝承では、御使いに翼があったという記述はなかった気がするのだが……」
 今まであまり気にしたことがなかったな、とソフィアさんは思案顔になる。
「サクヤはそういった伝承に興味があるのか?」
「え? あ、はい、まあそうですね。いろんな国の伝承とか知るのは面白いし好きです」
 ここはあくまでもただの好奇心だと主張しておかないと駄目なところだろう。
 個人的には、ソフィアさんを疑いたくなんてない。かなり真面目で悪いこととかできなさそうな人だし、そこまで警戒しなくてもいい気がする。が、何度も言うが私はこの国やアマビトに関して知らなさ過ぎるのだ。用心はしすぎるくらいした方がいい。これ以上失敗して、キースに負担をかけないためにも。
 内心緊張しているのが表情に出ていないか心配だったけれど、運のいいことにソフィアさんの視線は石像へと向けられていた。その凛とした横顔は、どこか愁いを帯びている。
「もし本当に『御使い』が存在するならば、今まさに現れてほしいところだな」
 それは多分きっと、独り言の類。けれど、私の心臓を跳ね上がらせるには充分だった。
「ソフィアさん?」
「……いや、何でもない」
 ソフィアさんの視線が、石像から私へと移る。その表情は穏やかで笑みを含んでいたけれど、胸の内に生まれたわずかな不安は消えなかった。
「そろそろ私は戻るよ。サクヤはこれから市場に行くのだろう?」
「はい」
「あまり遅くならないうちに行った方がいい。帝都の中心部とはいえ、一つ通りを外れたら柄の良くない連中が集まっているからな。若い女性が一人歩きするには少々物騒だ」
「大丈夫ですよ。こう見えても逃げ足は速いんです」
 不安を振り払い自慢するように胸を張ると、ソフィアさんはクスクスと笑いながら「またな」と残して踵を返した。颯爽と歩いていくソフィアさんの先には、彼女を同じ色の制服の騎士が待っている。わざわざ部下を待たせてまで私を気に掛けてくれたことが嬉しくなった。
 けれど、ソフィアさんの姿が見えなくなると、途端に大きなため息が洩れてしまう。そのままもう一度、『天の御使い』の石像を見上げた。
 ソフィアさんの口から零れた御使いに対する期待の言葉。そんなものが思わず口をついて出てしまうほど、反乱勢力の力は拡大しているのだろうか。それとも、キースたちが危惧していたように、他国への侵略が本格的に進められようとしているのだろうか。
 その辺に関してキースはあまり語らない。キースのことだから、むやみに私を不安にさせないようにしているという可能性もある。そして、私自身も自分のことで精一杯で、頭の片隅にはあれど真剣に考えたりはしていなかった。
 けれど、私には関係ない、なんて放置できることでもない。反乱にしろ他国侵略にしろ、本格化すればキースも戦地に赴くことになるだろう。そうなった時、私はどうすればいいのか。キース以外に頼れる人などいないのに。
 そして、キースの身に何かあったとき、私はそれに耐えられるだろうか? 親しい人を突然亡くすなんてことは、もう二度と味わいたくないのに。
 そこまで考えて、我に返り顔を顰める。
「……やだな。何か私、自分のことばっかりじゃん」
 今のは、何もかもが自己中心的な考え方でしかなかった。キースの力になりたいと思っているのは本当なのに、それ以上に自分可愛さが勝っていることに浅ましさを覚える。キースはいつだって、私のことを思って行動してくれているのに、何一つ報いてないどころか二の次にしてしまっている自分に嫌気がさした。
 深呼吸を一つ。ぱちんと両手で自分の頬を打って、嫌いな自分の性根を叩き潰す。
「今私がやるべきなのは、市場で食材を調達すること!」
 自分自身の醜さに気づくと落ち込んでしまうのは仕方がない。けれど、それを引きずっていても何かが変わるわけじゃない。
 私にできることなんて、もともと皆無に等しいのだ。
 あるとすれば、家の中を整えて、疲れて帰ってきたキースが気持ちよく過ごせるようにしておくくらい。だったら、今はそれを一生懸命やるしかない。
 開き直りにも近い気持ちで、私は市場に向かって歩き出した。



 女の二十二歳って厄年だったっけ? 違うよね。違ったはずだ。
 でも、もしかするとベルティリアでは厄年なんじゃないだろうか。いや、この国に厄年というものが存在するのかという問題は置いといて。
 むしろ私が二十二歳を厄年だと制定したい。してもいいと思う。先日からの色々と今のこの状況を思うと、厄年だという理由でもつけないと納得できないから。
 廃屋探検が好きな人には堪らないだろう朽ちた洋館の一室。屋根の一部が壊れているのか、ところどころに陽が射し込んでいる。おかげで薄暗い部屋の内装も元がそれなりに高価なんだろうなというのが見てとれた。
 そして、そんな部屋の中ほどに置かれた椅子に、今私は腰掛けている。いや、より正確に言うと、腰掛けさせられていた。両手を後ろ手に縛られ、足首も縛られて。
 どうしてこうなっているのかというのは、正直はっきりとはわからない。完全に暗転からの場面転換だった。記憶を辿って思い出せるのは、買い物をして市場を出た後、小さな子どもに助けを求められたこと。そしてそれに応じて路地に入った途端、後ろから誰かに抱えられるように捕まえられ、その瞬間に意識が遠のいたということだった。
「……つまり、拉致られた、ってことだよね」
 部屋の中には、今のところ誰もいない。が、ドアの向こうで何事か話している声が聴こえていた。ひとまず、拉致した犯人は一人ではないということだろう。
 それにしても、子ども相手だったから完全に油断していた。あの子もこの犯行グループの仲間なんだろうか? それとも、私をおびき寄せるために利用されただけだろうか? できれば後者の方がいいけれど、どちらにしろ小さな子どもに犯罪の片棒を担がせる時点で、首謀者はろくでもない人間だとしか言い様がないだろう。
 さっさとそのふざけた面を拝ませてほしいところけれど、なかなかその機会が来てくれなかった。陽の射し込み方から、私が市場を出てからまだそれほど時間は経っていないようにも思える。せいぜい、一時間かそこらだろう。
 相手が姿を現さないとなると、目的もわからない。
 そうだ、目的。それが一番重要だった。
――何の為に私を攫ったのか。
 真っ先に思い浮かんだのは、陰険聖帝陛下の顔。けれども、その可能性はかなり薄いとすぐさま否定する。
 シヴァなら、こんな風にこそこそとする必要がないのだ。何せあの悪人面はこの国で一番のお偉いさんなんだから。キースに私を連れて来いと命令したら、キースは逆らえない。例えキースが抵抗したとしても、力づくで私を手元に置くことができる。
 だったら、他の人間だ。私を攫って、何らかの益がある人間。
 ……っていうか、私を攫って何かメリットってある?
 私はキースに庇護されているとはいえ、今の段階では特別な地位を持っているわけではない。そもそも私がどういう素性なのかも知らない人がほとんどだろう。市場で顔見知りになった人たちなんかは、キースのお家の新しい住み込みメイドくらいに思っているみたいだ。
 となると、舞踏会の出席者絡み? その可能性なら有り得る。キースが連れていたくらいだから、それなりの家柄の娘とでも思われたのかもしれない。その上どこぞの悪人面のダンスのお相手をしたおかげで、不必要に注目されてしまったし。
 いや、でも待てよ。たったそれだけのことで、私を誘拐しようだなんて思うだろうか? この世界であるのかどうかは知らないけれど、いわゆる身代金目的の誘拐みたいなものだとしたら、私にその価値があるのか詳しく調べるはずだ。そして、調べたならば私がキースの家の住み込みメイドみたいなものだとすぐにわかるだろう。身内や恋人とかならまだしも、たかがメイドもどき一人のために大枚を身代金として支払う貴族なんていないと考えるのは自然なこと。その上、いくら舞踏会に同伴していたとはいえ、婚約者だとか恋人だとか明言したわけでもない。キースにとっての私の価値があまりにも不明瞭すぎて、人質にする決め手に欠けるだろう。もし私が犯人なら、私を人質には選ばない。
 ならば――ああ、そうか。だからこそ、か。
 やることがない所為でつらつらと思考を積み上げていると、唐突に腑に落ちる。
 その瞬間、入口のドアがきぃと軋んだ音を立てた。人影が、室内に踏み込んでくる。薄暗くて顔の判別がしづらいと思っていると、その人影はわざわざ陽の射し込んでいる位置に立ってくれた。私が主役だと言わんばかりのピンスポだ。
「ごきげんよう」
 ゆるやかに波打つ金の髪を揺らし、澄んだ蒼の瞳を弧に歪ませて、優雅に微笑む少女。
 その顔には見覚えがある。ある、にはある。が、どこで? 舞踏会? 正直舞踏会の会場にいた女性で顔を覚えているのなんて、皇女様にソフィアさん、アルゼさんの奥さんとナンパ騎士団長殿の妹君の四人くらい。その他にももちろんたくさん女性はいたけれども、会話どころか挨拶一つだって交わしてないのだ。特に注意も払っていないエキストラの顔に見覚えがある方がおかしい。
ならばどこで、と目まぐるしく記憶を漁っていると、不意に回路が繋がった。
「あなた、ビスティの……」
 舞踏会よりも更に前。市場のすぐ側でナンパ騎士団長殿の妹君に絡まれたとき、一緒にいた取り巻きのお嬢様たち。皆似たり寄ったりの表情をする中、唯一気弱そうで、おろおろとしていた少女がいた。「ああ、この気の強いお嬢様に無理やり付き合わされてるんだろうな」なんて、その時は同情したものだ。
今目の前にいる彼女が、その気弱そうな少女だった。あの時とはうって変わって、今は余裕に満ちた堂々とした態度を纏っている。その所為ですぐに思い出せなかったのだ。
「一応、初めまして、と言っておきましょうか。とはいえ、今後会うことなどないでしょうから、挨拶など無意味だとは思いますけれども」
 口調だけは温和に少女は一礼をした。貴族のご令嬢だけあって、その所作は大変美しい。やっていることと台詞の内容は、全く美しくもなんともないけれど。
「貴女にお似合いの場所に招待させていただいたのだけれども、ご気分はいかが?」
「……最っ低ね」
「それは良かったわ。貴女を喜ばせても仕方がないもの」
 ふわりと穏やかな微笑みを少女は浮かべる。けれど、笑顔とは裏腹の明らかな悪意が、言葉だけでなく空気にまで滲み出ていた。
身動きできないまま、私は彼女を睨みつける。
「それで、こんな手の込んだことしてまで私に何の用? ビスティの腰巾着さん」
 笑顔には笑顔を。余裕には余裕を。ここで狼狽えたり怯えたりしたら、この少女を喜ばせるだけだ。だから私は、こんな状況でも――いや、こんな状況だからこそ、強い女の仮面を被る。
 そんな私の態度が気に入らなかったのか、それとも腰巾着という言葉が気に障ったのか、ピクリと彼女の頬が引き攣った。
「まだご自分の立場というものをおわかりでないようね」
「そうだね。わからないから丁寧に教えていただけるとありがたいんだけど」
 一時は苛立ちと戸惑いを見せた彼女だったが、私が身動きの取れない状況だということを思い出したのだろう。まあいいわ、と気を取り直したように表情を改めた。
「貴女、とても目障りなの」
 それは、半ば予想していた答えだった。
「キース様にどうやって取り入ったの? ビスティ様の忠告を無視して舞踏会に同伴するだなんて、恥知らずもいいところだわ。それに、舞踏会では聖帝陛下にも色目を使ったそうではない。一体どこでどんな風に育てば、それほど浅ましくなれるのかしら」
 流れるように紡ぎ出される非難の言葉。そこそこの長さのこの台詞を噛まずに言えたのは素晴らしいとお芝居の中なら褒めたところだろう。もちろん、勝手な言いがかりに腹が立たないわけがなく、返す言葉は決まっていた。
「いくらお家柄や育ちが良くたって、いたいけな子ども使って騙し打ちして拉致監禁するような人間よりはマシだと思うけどね」
 言い終わった途端、パシンと左の頬に熱が走る。口で勝てないとなったら手が出るとか子どもですか。ああ、でも、ぱっと見の印象的に、大人と言えるような年齢ではないだろうから、そんなものなのかもしれない。上に見積もってもせいぜい女子高生くらいじゃないだろうか。
「身の程を知りなさいと言っているでしょう。貴女なんかキース様に相応しくないのよ。ビスティ様のように家柄も良く品のある方でないと隣に立つ資格なんてないのに……!」
 言葉の最後には抑えきれない憤りが溢れ出していた。必死に冷静で余裕ある態度を保とうとしているのに、感情が昂りすぎて綻びが見え始めている。そして、彼女が熱くなっていくほど、私の心は冷静になっていた。
そういえば、先ほど彼女がこの部屋に入ってくる前、廊下で誰かと話している声が聴こえた。私よりも小柄で生粋のお嬢様である彼女が私を一人でここに運べるはずもないし、協力者が一人以上はいるはずなのだ。
「で、私がキースに相応しくないから何? 拉致監禁していい理由にはならないし、こんなことをしたことがバレたら、あなたの立場も危ういんじゃないの?」
 どうにも違和感が付きまとう。いくら彼女が私の存在を疎ましく思っていたとして、ここまでの行動をする理由にはならないんじゃないかって。
それよりも、姿を現さない協力者の方に裏がある気がして何とか探りを入れようとする。
「あら、私の心配をできるほどの余裕がまだあるのね。でもそれは杞憂というものだわ。だって貴女は、勝手にキース様のお屋敷から出ていっただけのお話ですもの」
「勝手に出ていったなんて、キースは考えないと思うけど?」
「それは、『何もなければ』でしょう? 書き置きの一つでもあれば、キース様もわざわざ探したりはなさらないわ」
「書き置き? そんなもの、どうやって……」
 手紙など、本人の目に触れなければ何の意味もなさない。宮城のキースの元に届けるのかもしれないけれど、私がそんな方法知るわけないのでその時点でキースは怪しむだろう。
あからさまに怪訝に思っているのが表情に出ていた私に、彼女は多少の余裕を取り戻した様子で自慢気に口元を歪めた。
「こうすればいいだけの話よ」
 どこからか取り出した一枚の便箋。そこには相変わらず読めない文字でつらつらと何ごとか書かれていた。白くて華奢な指先から、それははらりと滑り落ちる。重力に従ってひらりひらりと落ちていく途中で、不意に一羽の白い小鳥に姿を変えた。そのまま天井に空いた穴から抜け、外へと飛び出していく。まるで手品だ。
「あの鳥は、キース様のお屋敷に向かったわ。そのままお屋敷の中に入ってまた手紙の姿に戻るの。だから、貴女は安心して、いなくなればいいわ」
 にっこりと朗らかな笑みを浮かべるが、その彼女の瞳はどこまでも昏かった。蒼のはずなのに、晴れた空の色にも澄んだ湖の色にも見えない。光の届かない深海のような底知れなさだ。
「いなくなればって、私をどうする気? このままここに放置しておいて、餓死でもさせるの?」
「殺すだなんて物騒なこと言わないで。貴女は然るべき場所に送られるだけよ」
 言葉と同時に、彼女はドアの方へと視線を向ける。今やってることも充分に物騒だと思いつつ、彼女の視線につられるようにドアに目をやった。すると、見計らったかのように、如何にも柄の良くなさそうな男が数人姿を現す。
この男たちがさっき彼女が廊下で話していた協力者? こんな脳筋集団っぽいのが?
「へぇ? こんな小娘一人運ぶだけで、あんだけの報酬もらえるのか? お貴族様の考えることはさっぱりわかんねぇな」
「貴方たちが理解する必要なんてないの。黙って言われたとおりにこの女を運んでちょうだい」
「へいへい。ま、諦めな、お嬢ちゃん」
 顔を近づけられ、品定めされるような視線が男から向けられる。その口元からは酒気が漂ってきて、吐き気がしそうだった。
 まずい。このままでは何もできないまま、どこかに連れて行かれてしまう。連れて行かれた先に真っ当な生活が待っているはずもなし。気になることはまだまだあるけれど、それより先にどうにか時間を稼いで打開策を考えなければいけない。
「それで、満足なの?」
 私を連れて行こうとする男たちを無視して、お嬢様に言葉を投げかける。今の私が唯一使える武器は言葉だ。だから、即興でも何でも、言葉を繋ぐことを辞めるわけにはいかない。どんな話題でもいいから、少しでも長くこの場に留まるための話題が必要だった。
「私がいなくなったからって、キースがあなたのものになるわけでもないでしょう?」
 彼女の眉間に、深い皺が刻まれる。地雷を踏んだと確信できる表情だ。もちろん、あえて踏んだんだけど。
「私がいなくなってそれで? キースの隣に並ぶのは誰なんでしょうね? あなたが言ったとおり、ビスティ辺り? わざわざ危険を冒してまで厄介者の私を排除して、他の女の子へのお膳立てをしてあげるなんて、あなた優しいんだねー」
 立て続けに彼女の神経を逆撫でしそうな言葉を選んで投げかける。功を奏して、彼女は軽く手を振って男たちに待つよう指示した。男たちは素直に少し引いた場所に移動する。依頼主の機嫌を損ねたくはないのだろう。
「よく回る口ね。その話術でキース様や聖帝陛下を陥落したの? 残念ながらキース様は身分にはこだわらない方だと聞いたわ。私が選ばれない理由にはならないの」
「あら? ビスティみたいな上流のお嬢様じゃないと相応しくないとか言ってたのに? じゃあ、私がキースの傍にいたっていいわけじゃない。随分と言ってることが矛盾してるんだね」
「そ、れは……」
 返す言葉が見つからないのか、お嬢様は言い淀む。彼女自身、矛盾していることに気づいていたのだろう。そして、それまでずっと比較対象に出していたビスティに対して、抱いている感情も垣間見えた。
「単なる言いがかりでしょ? それとも負け惜しみ? やたらと家柄云々言いつつビスティの名前出してたけど、自分が選ばれる自信がないからビスティのお家柄を言い訳にしてただけよね?」
「自信がないわけじゃないわ! 私の方が……! 私の方がビスティなんかよりもずっと努力してきたのに!」
 それまで抑え込んでいただろう本音が堰を切ったように溢れ出した。そう、ビスティの名前を出すたびに、紗幕越しのように見え隠れしていた劣等感。
「私はずっとあの方を見てきたの! そしてアリストクラート家に相応しいと思われるように、毎日自分を磨いてきたわ! 淑女として何だってできるように! 貴女なんかより、ビスティなんかより、ずっとずっと私の方が相応しいに決まっているのに!」
 溢れて止まらない叫びは、まさに激情と言えるものだった。それくらい、彼女はキースへの想いを日々募らせていたのだろう。それと同じだけ、ビスティへの劣等感も。いや、劣等感だけじゃない。努力してきたと言ったのだ。ビスティにはできないこと、やらないようなことも、彼女は習得してきただろう。
 なのに、家柄では絶対に敵わない。努力では覆せない壁がある。それが、余計に彼女を追い詰めた。こんなことをしでかすほどまでに。それはそれで、哀れかもしれない。
一気にまくし立てた彼女は、肩で大きく息をしていた。少し呼吸を落ち着けると、何かを思い付いたようにドアの外へとまた視線を向けた。
「……そういえば、生きてさえいれば問題なかったのよね?」
 独り言、ではなかった。廊下で微かな衣擦れの音がする。やっぱり、もう一人誰かがいたのだ。
「悠長にしている暇はないのですが」
 男性なのか女性なのかよくわからない、不思議な響きの声が返る。若干、苛立ちが混じっているようにも聴こえた。
「ほんの少し、痛い目をみてもらうだけよ。貴方たち、ナイフを持っていたでしょう? 貸しなさい」
 言われてごろつき男たちが顔を見合わせたあと、一人が彼女の足元にナイフを一つ放る。床にあたって響いた硬質な音が耳障りだ。
丁寧に手入れをされた真っ白で滑らかな手が、装飾のほとんどない実用的なナイフを拾い上げる。その不似合さが、禍々しく目に映った。