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祈りしずめる森の神子

 静謐とした森の奥。静かに跪き祈る彼女のその姿は、央都(おうと)一の絵師が技術の全てを費やしても描き切れないほど美しく完成されていた。
 俯くにしたがってさらさらと流れ落ちるのは、一見すると黒にも見える深い翠の髪。その上に幾筋もの木漏れ陽が柔らかく降り注ぎ、風で梢がざわめくたびにきらきらと緑晶石のような輝きがちりばめられる。
 長い睫毛に縁取られた両の眼は静かに閉じられ、その奥に隠された瞳の色を窺い知ることはできなかった。
 優しく包み込むように組まれた白い両の指先に、祈りが吐息となって零れ落ちる。
 彼女と彼女をとりまく全ての要素があまりにも清らかで、声をかけるどころかほんの一歩先に歩みを進めることすらも憚られた。
 どれほどその場で見惚れていただろう。
 ゆったりと組んだ細指が解け、伏せられていた瞼が開いた。裾の汚れを軽く払いながら立ち上がり、踵を返そうとしてこちらに気づく。
 刹那の驚きの表情の後、花のような笑みが綻んだ。
「あら珍しい。こんなところにお客様がいらっしゃるなんて」
 大きな瞳は、髪と同じく闇夜の森の色。
 それが示す意味を、自分は充分すぎるほど知っていた。
「申し訳ありません。お邪魔をしてしまったようで」
「そんなことはありませんよ。お気になさらないでくださいな」
 小鳥がさえずるように軽やかな声が返る。それで、と彼女は言葉を繋げた。
「この村には、どのようなご用向きで?」
 艶やかな髪を揺らしながら小首を傾げる彼女に目を奪われつつも、一つの単語が引っかかる。惜しみながらも彼女から視線を引きはがし、それを周囲に巡らせた。
 目に入るのは、朽ちて生活感が失われた家屋たち。同じく空になった家畜小屋。行きかう人などただの一人も見えず、それどころか虫や小鳥の羽音すら聞こえない。
「村、なのですか? ここは」
 失礼を承知でそう訊ねると、彼女はこちらの視線をなぞるように見渡した。
「そう、ですね。村でした。ほんの少し前までは」
 変わらず湛えられた笑みに、諦観が添えられる。
 自分が央都で耳にした噂はやはり真実だったのだと、このとき確信した。
「何があったのか教えていただけませんか?」
「構いませんが、あの、その前にあなたは?」
 躊躇いがちに問われ、名乗りもせぬまま立ち話をしていたのだと遅ればせながらに気づく。
 この村は、彼女が旅人を珍しいと言うのも頷ける思えるほど辺鄙なところにあった。突然現れた自分が怪しまれるのも無理はないことだろう。
 上着の内ポケットを探り、細い鎖に繋がれた徽章を取り出した。白銀のそれは、中央に大樹が刻まれ、その周囲に十二色の石が配されている。央都直属の研究機関に所属している証だ。
「僕は央都で働いている者で、アルンといいます。こちらには神聖樹を調査するために来ました」
「神聖樹を……」
 途端に彼女の表情が曇る。彼女は何か知っているのだ。この付近に現れている様々な異常の原因について。
「教えてください。一体、この村に何が起きたのか」
「……わかりました。どうぞこちらへ」
 彼女の右手が、奥まったところに佇む一軒の民家を指し示す。唯一、外観も損なわれず、軒先には香草らしきものが干されていた。彼女の家なのだろう。
「私はタニリカと申します。この村が護る神聖樹――」
 言葉とともに、視線が先ほど彼女が祈りを向けていた方角へと向いた。呼応するように樹々が揺らぎ、枝葉がざわめく。花など見当たらないのに、甘い蜜の香りが鼻先を掠めた。
 風に飛ばされた葉が一枚、ひらりと頬を撫でる。その緑を追うように彼女――タニリカがこちらに向き直った。
 荒廃した村とは対照的に、陽光に透けた髪と瞳が瑞々しくきらめく。
 その清冽なまでの美しさに魅入られていると、タニリカは覚悟を決めたように深く息を吸った。
「タラクシャンディラに仕える神子でございます」


 村を滅びに導いたのは、神聖樹なのだとタニリカは語った。
 この村の民が神聖樹の怒りを買ったのだと。
 ある日突然、井戸は涸れ、風はやみ、土地は痩せ衰えた。人々にも原因不明の奇病が降りかかり、死者が相次いだ。病を恐れて村を逃げ出すものも後を絶たず、あっという間に村は廃れ、残されたのはタニリカだけになってしまったという。
「タニリカは、大丈夫なのですか?」
 真っ先に浮かんだ疑問を口にすると、タニリカは淡い笑みとともに、あたたかな湯気の揺らぐ椀を目の前に置いた。
「この村特産の香草茶です。旅の疲れが取れますよ」
 彼女が身動きするたびに漂う甘やかな芳香。速まる鼓動を必死に抑えながら、礼を返し椀を取った。鼻に抜けるような爽やかな香気と、口に広がる苦味、その奥に隠された仄かな甘味が気持ちを落ち着かせてくれるようだ。
「私には、神聖樹の加護があるのです」
 唐突に返った言葉に、椀を持つ手が止まった。
 そうだ。失念していたが、彼女は神聖樹の神子なのだ。
 しかし同時に、別の疑問が浮上する。
 この世界には十二の神聖樹がある。そのそれぞれに仕える神子が存在し、六年毎に神子は交代するのだ。
 しかし、本来神子になった者は外部のものと接触することは許されない。例え身内であっても、一生会うことは叶わないはずだった。
 ならば何故、彼女は今自分の目の前に存在するのか。
 思考とともに、椀の中の薄緑が渦を巻く。
 ――彼女は、本当に神子なのか?
「お疑いですか?」
 こちらの考えを見透かすようなタニリカの問いに、ハッと顔を上げた。
 彼女の悲哀を含んだ深い翠に吸い込まれそうになる。
 そう、この翠は、間違いなく神子の証。神子になるべきものにしか現れないものだ。
「疑っているわけでは……とは言い切れません。貴女の瞳も髪も、神子だと示すものだとわかっています。ですが、貴女が本当に神子だというのならば、僕は貴女に出逢えるはずがなかったのではないですか?」
「仰る通りです。本来ならば、神子は神聖樹の元で一生を終えるもの。私は神子として不完全なのです」
「不完全?」
 どういう意味かと訊ねると、タニリカは少し考え込むように目を伏せた。
 ややあってこちらに視線を戻すと、苦しそうに眉根を寄せる。
「次の儀式で、私は神子となる予定でした。村の長老方から教えを受け、潔斎も済ませ、あとは儀式の日が来るのを待つだけの身でした。ですが、その日は訪れませんでした」
「何故……? 確か、こちらの儀式の日取りは、ひと月ほど前だったはずですよね?」
 訊ねながらも彼女から聞いた話と符合する点に気づく。儀式の日取りと、異変が起きた時期が重なっているのだ。
 自ら辿り着いた答えを肯定するように、タニリカの瞳が揺らいだ。
 じわと生まれた透明な雫が、みるみるうちに溢れ出し、緩やかな弧を描いて頬を滑り落ちる。
 それを受け止めることも拭うこともせず、タニリカは笑みを浮かべた。
「一人の、愚かな男がおりました。男は幼なじみの少女と将来を誓い合った仲でした」
 昔話のように、タニリカは淡々と語る。
 だが、その物語の冒頭部分だけで、何があったのかをそれとなく察してしまった。
「男は結婚資金を稼ぐため、六年前に村を離れ出稼ぎに出ていました。男が村を出て少しあとに、少女は神子に選ばれ、儀式を受けました」
 耳を塞ぎたくなる。この物語の結末には、悲劇しか待ち受けていないとわかるからだ。
 けれど、意に反してタニリカの紡ぐ物語を身動ぎもせず聴き入ってしまっていた。
「村へと帰ってきた男は、その事実を知り深く悲しみ嘆きました。そしてその夜、男は禁を犯し、禁域の奥のタラクシャンディラへと向かいました。神子となった恋人を、取り戻すために」
 そこで、タニリカは今一度ためらいを見せる。
 その先の悲劇を話したくないのだろうか。
 それともやはり余所者には聴かせたくないのだろうか。
 そのどちらも正解のようであり、間違っているようにも感じる。
「……禁域と神聖樹は穢され、神子は失われました」
 慎重に選ばれただろう言葉は、ひどく唐突でもやもやと胸の奥にわだかまるものだった。
 穢されたとは、神子が失われたとは、どういう意味なのだろう。禁を犯した男はどうなったのか。
 聴きたくないと思っていたことは、実際あやふやにしか語られないと途端に訊きたくなる。
 タニリカ、と呼びかけると、彼女は泣き顔のまま頭を深く下げた。
「すみません。もう少しだけ、お時間をください」
「え?」
「時が来れば、全てをお話しいたします。前の神子のことも、神聖樹のことも、私のことも。ですから、今はこれ以上、お訊きにならないでください」
 儚げな少女に切ない声で願われて、否と言える者などいないだろう。
 短くわかりましたと返すと、タニリカはゆるりと顔を上げ、ようやく涙を拭った。
「ありがとうございます」
 礼を言うタニリカの潤んだ瞳が、より一層深く色づいたように見えた。


 勧められるまま、しばらくタニリカの家に世話になることになった。
 村には宿がない。代わりにかなりの数の空き家はあるが、どれも住めるような状態ではないとタニリカに諭されたからだった。
 彼女が提供してくれた部屋は、彼女の兄のものだったらしい。もう主はいないというのに清潔に保たれていたことが、彼女の寂しさを思わせた。
 朽ちた村の中、彼女はどれほどの孤独を味わってきたのだろう。きっと、他の村人のように村の外へと逃げ出したかったに違いない。
 それでも逃げなかったのは、彼女が神子だからだ。いや、神子になるはずだったから、が正しいのか。
 正式な神子ではない彼女は、それでもその勤めを果たそうとしているかのようだった。
「いつも、何をしているのですか?」
 彼女の家で世話になり始めて数日。偶然森の傍らに佇んでいたタニリカにそう問いかけたのも、そんな思いからだった。
 一日のうちに何度か、タニリカは出かけていく。ふと気づけば、彼女は姿を消しているのだ。
まるで森の精のようだ。もしあの日、タニリカがこちらの姿を見つけた途端に逃げ出していたなら、きっとそう信じたことだろう。
 タニリカは森に溶け込むような美しい髪を揺らして微笑むと、背後の森へと振り返った。
「……お祈りを」
「祈り?」
「この先には、村人たちの墓所があるのです。そして、そのさらに奥には……」
 タニリカの頼りない声を、樹々のざわめきがさらう。木立を揺らした風はぬるく、ねっとりとまとわりつくようだった。
 反射的に顔を顰める。同時に、タニリカの表情も引きつったように強張っていた。
「タニリカ?」
「……森には、近づかないでくださいね」
 笑顔を見せて告げるタニリカだったが、その声はわずかに震えている。
 彼女の怯えの原因は明白だった。
 ――神聖樹・タラクシャンディラ。今もなお、禁を犯したことに怒りを募らせているのだろう。
 きっとタニリカは、村人たちを悼むだけでなく、神聖樹の怒りを鎮めるために祈っていたのだ。
 しかし、いつまでそうしているつもりなのだろうか。
 この村には、もう彼女以外の人間はいない。つまり、タニリカの次の神子も、神子の儀式を遂行するための人員もいないということだ。
 彼女はまだ若い。このままここにいては、無駄に生を費やすだけにしかならない。
 そう思うと、居てもたってもいられなくなった。
「タニリカ、僕と一緒に央都に行きましょう」
「え?」 
 深い翠の双眸が、零れ落ちそうなほど見開かれる。が、すぐに伏せられ、彼女は力なく頭を振った。
「それは、できません」
「どうして! 貴女はまだ正式な神子とはなっていない。央都に行けば、この地に起きた異変を解決する方法も見つかるかもしれないのですよ?」
 自分はまだまだ半人前だが、央都に戻れば神聖樹に詳しい研究者はたくさんいる。彼らの力を借りれば、彼女とこの村を救う方法も見つかる可能性も充分あった。
 今すぐにでもこの村を出よう。そう提案し、彼女の手を引こうとした。
 けれど、彼女の白く華奢な手は、握ろうとしたこちらの手をしなやかにすり抜ける。
 タニリカは数歩後ずさると、おもむろに頭を下げた。
「お願いです。もう少し、あとほんの数日でいいのです。待ってください」
「だが……!」
「それが、神聖樹の望みなのです」
「……それは、一体」
 神託を享けたということなのだろうか。
 儀式を済ませていない、仮初めの神子が?
「信じていただけないことはわかっております。けれど、私には彼の声が聴こえるのです。ですからせめて、次の月が満ちるまでは……」
 次の満月の夜は二日後だ。そのたったの二日で、何が変わるというのだろう。そうは思ったが、タニリカのあまりの必死さに頷く以外できなかった。
 触れるだけで壊れてしまいそうな肩にそっと手を置く。呼応して、彼女が顔を上げた。
「では、三日後の朝、この村を発つつもりでいてください」
 安心させるように笑んでみせる。けれども、あまりうまくはいかなかったようで、タニリカの瞳は暗く翳っていた。
「大丈夫です。僕が貴女を精一杯守りますから」
 さらに力強く請け負うと、ようやくタニリカは表情を和らげる。
 ふわりと顔を綻ばせた彼女からまた、甘い蜜のような香りが弾けた気がした。


 ひやりと、何かが頬に触れた。
 柔らかく、冷たい。けれど熱を失っているわけではない。
 それが誰かの指先だと気付くと同時に、意識が浮上した。
「タニリカ?」
 辺りはまだ夜の帳を纏っている。闇に慣れない目では朧げでしかない人影だったが、そもそもここにいるのはタニリカと自分だけだ。
 寝台から起き上がり、手探りで枕元の灯りを探す。ややあって掴まえた蝋燭を持つ手を、冷えた指が押し留めた。
 灯りはつけないでほしいと言外に訴えられ、おずおずと我が手を元に戻す。
 彼女の触れた箇所が、熱を帯びているような気にさせられた。
「どうしたのですか? こんな夜更けに」
 平静さと穏やかさをかき集め、改めて問う。
 夜が明ければ、先日約束した通り央都へと旅立つことになっていた。長旅になることは明白なのだから、しっかりと睡眠をとっておくべきなのは彼女もわかっているはずだろう。
 疑問は、すぐに氷解した。
「以前、お約束しましたよね? 全てお話しすると」
 強い覚悟が、声音に潜んでいた。
 時が来れば。タニリカはそう言っていた。
 今がその時だということなのだ。
「ついてきてください」
 感情を推し量れない静かな言葉を残すと、タニリカはこちらを振り返る素振りすらなく部屋を出ていく。
 慌てて靴を履き、椅子に掛けたままになっていた上着を羽織って後を追った。
 タニリカは、迷うことない足取りで進む。
 目指す先がどこなのか、すぐに勘付いた。彼女と初めて出会った場所――森の入り口だ。
 こんなところで何を、と訊ねようとしたが、予想を覆してタニリカの足は止まらない。そのまま鬱蒼とした森へと踏み込んでいった。
「タ、タニリカ、この先は――」
 森に近づくなと彼女自身が口にしたはずだ。
 ほんの数日前の発言を忘れたかのような振る舞いに、不安と疑心がわき上がる。
 ――『彼女』は、誰だ? 本当にタニリカなのか?
 そう思ってはみたものの、ついてきてほしいと請われたからには放っておくわけにもいかない。自らを叱咤しながら、怯んだ足を前に進めた。怯える自分を、樹々のざわめきと踏みしだかれた落葉が嘲笑う。
 頭上まで梢に覆われた森の中は、月明りも届かない。にもかかわらず、前を歩くタニリカの歩調は乱れることもなく、何かに導かれているかのようだ。
「アルンさんは、神聖樹がどういったものなのかご存知ですか?」
 唐突に投げかけられた問いに、安堵する。声にいつものタニリカらしさが見えたからだ。
 生まれた安心感から、わざと開けていた距離を縮めるために早足になる。
「この世界を支えるために存在している十二の神の樹、ですよね?」
「その通りです。神聖樹は、天を支え大地を繋ぐ楔。この世界の全ての均衡を司る存在。そして、神子はそれが正しく行われる為に自らの身を捧げ、祈り続けなければいけない」
 澱みなく紡がれるタニリカの言葉は、央都で研究しているときに何度も耳にしたものだった。例え研究者でなくとも、神聖樹と関わりの深い土地に住んでいる者ならば、当たり前の知識だろう。
「けれど、神子の本当の姿を、どれほどの人が知っているのでしょう?」
「本当の、姿……?」
「着きました」
 投げかけられた疑問の返答はなく、代わりに淡々とした声で状況を伝えられた。
 目の前に広がるのは、底の見えない澱んだ泉。その中央、水の中から直接そびえ立つ巨大な樹が神聖樹・タラクシャンディラなのだろう。
 その姿に、背筋を冷たい汗が伝う。
 これが、本当に神聖樹なのだろうか?
 確かに、神聖樹は限られた者しか目にすることができないため、噂や想像でしか知らない。それでも、今目の前にそびえ立つ巨樹がそれだと、にわかには信じられなかった。
 それほどに、禍々しい。
「タニリカ、これが本当に……」
「タラクシャンディラ。かつて、神聖樹と呼ばれていたものです」
「かつて?」
 混乱する自分の目の前に、タニリカの白い手が差し出される。
 握れということだろうか。
 躊躇っていると、タニリカの手が伸ばされ、こちらの手を取った。そのまま引かれて歩き出す。
 タニリカは臆することなく泉に足を踏み入れた。
 ぬるりと粘度のある汚水は冷たく、水分を吸った衣服が鉛のように重くまとわりつく。
「一人の、愚かな男がおりました」
 ざっざっと水を切る音に紛れるような、弱々しい声音でタニリカが呟いた。
 それは、数日前に彼女が語った先代神子とその恋人の物語。
「男は幼なじみの少女と将来を誓い合った仲でした。しかし、男が出稼ぎに行っている間に、少女は神子の儀式を受けてしまいました。村へと戻り事実を知った男は、少女を取り戻すために禁を犯し、タラクシャンディラの元へとやってきました。しかし」
 タニリカの足が止まった。
 目の前には、枯れた蔦をまとったタラクシャンディラの幹がどっしりと鎮座している。
 彼女が促すのに従い隣に並ぶと、根元に大きな洞が見えた。そして、さらにその中を覗き込み、
「ひっ……」
 喉の奥が引きつる。足元から悪寒がにじり寄り、震えが脚から全身へと伝播していった。
 目に飛び込んできたのは、腰から下と両腕の肘から先を幹に埋めた、干乾びた体。元は純白であっただろう薄布の装束には、赤黒い染みが広がっている。
 そして、その汚れた装束の上に本来あるべきはずの物は、失われていた。
「これが、先代の神子です」
 ぎくしゃくと首だけをタニリカに向ける。
 タニリカは、ふわりと微笑んだ。
「男は、神子となった少女を取り戻すことはできないと悟りました。そして、それならばと少女を殺め、その首を切り落としたのです」
 冷たく澄んだタニリカの声音に、肌が粟立つ。
 だが、逃げ出したくとも自らの手はタニリカに握られている上、情けなくも足腰がいうことをきいてくれなかった。
「男の名はアドハヤ。……私の、兄です」
「タニ、リカ……」
 すいと、タニリカの頬を一筋の涙が伝った。
 その涙に、どんな想いが含まれていたのだろう。兄への思慕か、次期神子としての責務か、はたまた幼なじみへの哀悼か。
「神子を失い、血に穢れた神聖樹は、死に絶えようとしていました。けれど、最期の力を振り絞り、新たな神子として私をここに呼んだのです」
 また一筋、涙が頬の丸みをなぞって滑り落ちる。泉にゆるやかな波紋が広がった。
「私が辿り着いたとき、兄はとても幸せそうでした。彼女の首を本当に愛おしそうに抱き締めながら。そんな兄を、私は神聖樹の声に導かれるまま……」
 この先を言わせてはいけない。
 そう思ったのと、彼女を抱き締めたのはどちらが先だっただろう。
 腕の中に閉じ込めた彼女の痩躯は、枯れ木のように脆弱で熱を感じさせない。それなのに漂う、甘い花蜜の香り。
「それ以上は、聞きたくありません」
 更に腕の力を強める。むせかえるほどの芳香に、くらりと眩暈を覚えた。
 おかしい。指先が、痺れる。頭の奥も、靄がかかったようだ。
「私は、兄を贄として神聖樹に捧げました」
 タニリカの声がどこか遠い。
 緩やかに、身体が泉の中へと横たえられた。抗うこともできずにそれを受け入れると、とぷんと粘度の高い水音が耳元で跳ねる。
「兄だけではありません。この村からいなくなった者は全て」
 彼女の告白を聞いて、ようやく全てを理解した。
 不治の病はあったのかもしれない。だが、病を恐れて逃げ出した村人などいなかったのだ。
 あったのはただ、狂った神聖樹とその樹に見初められた神子。そして神子の手で贄とされた沢山の村人たちだけ。
「この泉に、皆沈みました。ここは、私が手にかけた者たちの墓場なのです」
 タニリカは毎日祈っていた。
 密やかにこの『墓場』に向かい、自らが沈めた多くの者たちの為に。
 自分もそのうちの一人になるのだろう。このまま、暗くぬめった水の中に沈められて。
 それも、いいかもしれない。自分の命一つで、彼女の望みが果たされるのならば。
 諦観が生まれると、不快に感じる穢れた水でさえ母親の羊水のようだった。
「……ごめん、なさい」
 ぽたりと、頬の上にぬくもりが落ちた。
 謝らなくていいのに。考えなくても、タニリカが誰よりもつらかったのは明白だ。
 幼なじみを失い、兄をはじめとする多くの人間を殺めた。そうまでして神聖樹の意思に従ったのに、神子になることも叶わない。
 ――そうして、彼女には何が残されるのだろう? この呪われた地に狂った樹とともに取り残され、それから、どうなる?
 神聖樹は贄を求めている。けれど、もうこの村にはタニリカ以外存在しない。
 旅人を狙うのか? しかし、タニリカは言っていたではないか。旅人など珍しいと。
 埋もれそうな意識を必死に呼び起こす。痺れる指先で忍び持っていた刃を手に取ると、自分の脚めがけて力いっぱい振り下ろした。
 痛烈な痛みが神経を走り抜ける。お陰で視界に立ちこめていた霧が一気に晴れた。痺れは残っているが、動けないほどではない。
「アルンさん、何を……」
「タニリカ、やはり貴女はここにいてはいけない」
「無理です」
「無理じゃない! 僕が、貴女を救います!」
 こうなったら力付くで連れていくしかない。決心して彼女の肩を強引に引き寄せ、泉の外に向かって歩きだす。自分でつけた脚の傷が激しく痛むが、それが意識を保つのに一役買ってくれた。
「放してください」
「貴女はどうしてそんなに頑ななのです。狂ってしまった神聖樹に、貴女が仕える義理などもうないはずです」
「義理などではありません。私は既に……手遅れなのです」
 手遅れとはどういう意味と訊ねる前に、タニリカの手が動く。ゆったりとした服の胸元を、タニリカは恥じらいもなくはだけてみせた。反射的に目を逸らしかけるが、細い指先がそれを阻む。
 誘われた視線の先には、闇に浮かび上がる白いふくらみと、それを覆うように肌を這う細い枝のようなものがあった。ところどころに可憐な白い花が綻び、幽香が溢れ返る。
「これ、は……」
「タラクシャンディラです。私はもう、囚われているのです」
「……こんなもの!」
 こみ上げる怒りに任せてむしりとろうとすると、タニリカは小さく悲鳴を上げた。彼女の体から生えた枝は、びくともしない。
「もう体中にこれは根付いています。いずれ……遠くないうちに私は第二のタラクシャンディラとなるのでしょう。けれど、それでいいのです」
「何がいいのですか! こんな……惨い……」
 彼女を救う手立てが、見つけられない。たとえどれほどの知識があろうとも、全身に根を張ったあの樹を取り除く術などないだろう。
 できることがあるとすれば、タラクシャンディラの呪縛を強制的に排除することくらいだ。
 そう、彼女の兄と同じように。
「そんな顔をしないでください」
 タニリカは微笑む。絶望に満ちた未来しかないはずなのに、ここぞとばかりに美しく。
「世界の全ての均衡を司る神聖樹。その一つが欠け、均衡は崩れ始めている。だから、代わりが必要なのです」
 その代償に、彼女はなろうというのか。
 神聖樹の神子ではなく、依代として。
 生きたまま、彼女は神聖樹そのものになるつもりなのだ。
 けれど、それでは納得のいかないことが一つある。
「なぜ、貴女はもう用がないはずの樹に従ったのです? 樹に命じられるまま、捧げたくもない贄を捧げたのですか?」
 彼女が樹を受け継ぐなら贄など要らなかったのではないか。彼女が手を汚し、余計に苦しむ必要はなかったのではないか。
 そんな疑問も予想通りだっただろう。タニリカはふっと軽く息を吐き出すと、近くの樹の根元に腰を下ろす。
 そのまま背をもたせかけると「繋ぎ、です」と疲れを滲ませて呟いた。暗闇に浮かぶ彼女の肌は、生気を感じさせないほど青白かった。
「私が神聖樹になるには時間が必要でした。その間にタラクシャンディラが完全に枯れてしまえば、崩壊は止められなくなる。狂っていようと、あの樹は必要だったのです。でも、それももう……」
 不意に、タニリカが頭上を見上げる。
 空を埋めつくすように繁った枝葉がざわめくと、微かな隙間から淡く滲んだ満月が覗いた。
「タニリカ……?」
「私は、神聖樹だったタラクシャンディラの、最期の良心(たね)です。だから、ここに置いていってください」
「それは!」
 できないと言い切る前に、彼女の異変に気づいた。
 横座りになった脚から、白く細長い紐のようなものが伸びている。
 いや、紐ではない。あれは、根だ。タニリカの体から根が伸び、地面へと繋がっている。それも、一本や二本ではない。彼女の脚を絡めとりながら無数に伸び、地面に縫い止めていた。
「ほら、私はもう動けません。それとも、私の脚を切ってでも央都へ連れていきますか?」
 タニリカは、全てを見透かした深い翠の瞳で見つめる。
 できるわけがない。そんなことをしたとしても、徒にタニリカの命を奪うだけにしかならないだろう。
 それでは、今まで必死に世界を守ろうとしてきたタニリカの苦しみが、無に返ってしまうだけだ。
「アルンさんは、優しい人ですね」
「違う。優しいのは……貴女だ……」
「いいえ。だって、私はアルンさんを贄にしようとした人間ですよ?」
 そう嘯くタニリカに、ただ首を振るしかできなかった。
 贄にする気があったならば、とうに自分は水底に沈んでいたはずだ。
「……行ってください。そして、貴方はここでのことを全て忘れて、今まで通り生きてください」
神聖樹(あなた)に、神子は必要ないのですか?」
 神聖樹にはそれぞれ神子が必要だ。ならばと訊ねてみるも、タニリカは笑み声で返す。出会った時と同じ、小鳥のさえずりのように軽やかに。
「要りません。私は、神子など欲しくない。誰も選びたくなどありません。だから……」
 タニリカの瞳は、揺らがない。哀しいほどに、真っ直ぐだった。
「――わかりました」
 それだけ答えるのが、精一杯だった。
 暗い森の中、何の手がかりもないまま独り歩き出す。
 一度だけ振り返ると、神聖樹に相応しい美しい少女が慈愛に満ちた瞳でこちらを見つめていた。


 静かな森の奥で、小鳥たちが楽しそうにさえずる。それに交わるように、細々とした歌声が耳に届いた。
 優しく降り注ぐ木洩れ日の中に、目指すものを見つけて足を速める。
 不意に、歌声が止まった。
「……アルン、さん?」
「お久しぶりです、タニリカ」
 かなりの大きさの樹へと育っていたタニリカは、それでもまだ上半身のほとんどが人の形を保っていた。深い翠の瞳も髪も、変わらない。
 けれど、荒んだ土地は以前とは比べものにならないほど清められていた。
 たった一人の優しい少女の祈りが、この地を、そしてこの世界を救ったのだ。
「どうして……」
 驚くタニリカの傍らに跪き、目線を合わせる。
「仕える神子は必要ないでしょう。けれど、何も知らずにここを訪れた者が大切な新しい神聖樹を傷つけない保証もない」
「こんなところ誰も来ませんよ。現にアルンさんが来るまで誰一人として現れなかった」
「それは僕が色々と細工をしたからですよ」
 村を出て央都に戻るまでの間、奇病の噂を振りまいた。央都に戻ると、今度は機関から正式に通達を出してもらい、村から完全に人を遠ざけた。
 そう説明すると、タニリカは深翠の瞳を丸くする。
「でも、流石にそろそろ噂や通達も通用しなくなるかもしれない。もしかすると、僕のような変わり者が現れてしまうかもしれない」
 なすべきことを全て終えるのに、半年ほどかかってしまった。その間に、ここに誰か踏み込まないかと気が気ではなかったが、何とか間に合ったようだ。
「ですから、僕は守り人になることにしました。若くか弱い神聖樹と、墓標となった古い神聖樹の」
 タニリカの祈りを守りたかった。そして、タニリカ一人に全てを背負わせてしまうのが嫌だった。
 自己満足と言われようと、最期まで彼女の側にいたかったのだ。
「貴女が立派な神聖樹になるまで、きっとまだたくさんの時間が必要でしょう。それまで退屈しないようにお話でもしませんか?」
 ずっと黙っていたタニリカが、呆れたように溜息を零した。
「……アルンさん、私は貴方に優しい人だと言いましたよね」
「そうでしたね」
「訂正します。貴方は優しい人です。けれど……愚かな人です」
 掠れて滲んだ罵倒に、お互い様ですよと笑みで返す。
 甘く香る森の風に誘われて彼女の髪を一房手に取る。誓いの言葉を紡ぐ代わりに、そっと深翠へと口づけを落とした。

【Epitaph;墓参りアンソロジー】参加作品