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初恋そよぐ夕暮れに

 二月の夕暮れ時は、ひどく物寂しい気分にさせられる。この季節、この時間になるたびに、俺の脳裏には苦い思い出が浮かび上がるのだ。
 今日もそうだった。せっかくの休日も、部屋の掃除や溜まっていた洗濯物の処理でほぼ潰れ、気づけば外が暗くなり始めている。
 傾き始めた陽の光が目を刺した。庇うように目を閉じると、目蓋の奥が白む。ちかちかと瞬く光の中に、痛みを伴う残像がちらついた。
 このまま部屋に一人でいるのが、落ち着かなくなる。気を紛らわせるために、コーヒーでも飲みに行くかと億劫な身体を持ち上げた。

 この街の冬は冷える。今年の冬はまた格別で、厚手のコートに手編みのマフラーを巻きしっかり防寒したにもかかわらず、肌がひりつくような冷気だった。すれ違う人々も、みなマフラーに顔をうずめるようにして歩いている。
 今年に入ってから、あっという間に一月が過ぎていった。一月は行く、二月は逃げる、三月は去る、などと、誰が最初に巧く言ったものだろう。年が変わってもうそんなに経つのかと焦るような気持ちと、まだそんななのかと焦れるような気持ち。そんな字面だけならよく似た正反対の言葉が、ここ最近ずっと心の中に同居していた。
 現在俺は、自分の人生の中でもかなり大きな岐路に立たされている。
 だからだろうか。今までに何度も思い出してきたかつての選択ミスを、今まで以上に苦く感じてしまう。そして、そんな感情を抱くことに、罪悪感さえ覚えてしまうのだ。
 そんなことを考えながら、足を運んだ繁華街。目の前に出現した現在の状況に、俺は少しばかり戸惑っていた。
「……久しぶり」
 戸惑いの原因が、ふわりと微笑む。
 少し高めの、けれど柔らかさを持った声。優しく穏やかな笑顔。それはひどく懐かしくて、ひどく切ない気持ちを呼び起こす。
 ――ああ、綺麗になったな。
 単純に、そう思った。
 目の前に立つ、彼女を見て。
 もう十年ほども会っていなかった、初恋の人を見て。
「うん、久しぶり」
 ようやっと押し出した声は、思っていたよりもずっと自然なものになった。俺の声に、彼女は少し笑みを深くする。
「何やこんなところで会うと、変な感じするなー」
「せやな」
 こんなところというのは、ここが地元から遠く離れた街だったからだ。
 俺たちの地元はかなり田舎で、大学に進学するものと、そのまま地元で就職するものとが半々くらいだった。俺も彼女も進学組だったけれど、志望する学部からして違ったし、最終的に進んだ大学も関西と関東。それなのに、互いの進学先の所在地とは全く違うこの土地で出逢ったのだから不思議なものだ。
 だが、戸惑った理由はそれだけではない。
 俺は彼女とは中学時代にあることがきっかけで疎遠になっていたからだ。それ以来、まともに口をきいていない。家の場所は歩いていけるほど近くても、高校も同じでクラスもすぐ隣でも、すれ違ったときに挨拶どころか、目を合わすことすらなかった。
 だから、こんな突然の再会で、彼女から声をかけてきてくれるとは思いもしなかったのだ。
「これから、どっか行くん?」
「いや、コーヒーでも飲もうかと。自分は?」
「私も別に。用事済んだし、帰ろっかなーって思っとったとこ」
 彼女の肩にはブランドのロゴが入った紙袋が二つほどかかっている。休日の気ままなショッピング、といったところなのだろう。
「そっか……。寄ってくか?」
 本来の目的であったコーヒーショップは、ほんの数十メートルほど先だ。せっかくの再会を、このまま無駄にしてしまいたくはなくて、そちらを指差して短く問う。断られるかと思ったが、彼女はしばらく考えたあと、せやな、と同意してくれた。
 並んで歩き始め、ふと気づく。昔より、十センチほど身長差が縮んでいた。
 その原因は、彼女の背が伸びたわけでもなければ、俺が縮んだわけでもない。彼女が、ヒールの高いブーツを履いているからだった。それでも、小柄な彼女は頭一つ分低い。
 ――昔は、スニーカーばっかりやったのにな。
 心の中に浮かんだ言葉が、妙に寂しさを募らせる。
 そんな俺の心中など知る由もない彼女は、カツカツとヒールの音を響かせて軽快に歩いていた。
「仕事、何してん?」
「んー、まあ普通に、会社員?」
「ふぅん」
 かつての出来事がなかったかのように、彼女は普通に話を続ける。俺の知らないうちに身につけた薄いメイクの下に、素顔を隠しているかのようだ。もちろん、それは単なる俺の思い込みに過ぎないのかもしれないけれど。
「そっちは?」
「……んー、まあ普通に、好き勝手?」
「らしいな」
 俺の口調を真似して答える彼女に、昔を思い出して笑みが零れた。よくこんな風に口真似をされたのだ。
 彼女はいつも自由奔放で、好きなものには一直線だった。その揺るぎない眼差しに、尊敬すら覚えるときがあったものだ。
 そして、思い出す。そのまっすぐな眼差しが、揺らいだ瞬間を。
「なあ」
「なに?」
「俺な、ホンマはずっと謝りたかってん」
 目的の場所に辿り着き、カウンターでオーダーをした後、俺は切り出した。彼女は正面から俺の視線を受け止め、僅かに苦笑を浮かべる。
「それは、中学んときのこと?」
「ああ。あのときは、ホンマにガキやったなと思ってな……」
 俺と彼女が疎遠になった理由。
 それは、学校帰りに彼女から受け取った手紙を、男友達で回し読みしてしまったことだった。その手紙というのは、いわゆる『ラブレター』だ。ただし、差出人は彼女ではなく、彼女の友達だった。彼女は、友達から頼まれて、俺に手紙を渡しただけだった。
 好きな相手から手紙を貰ったという幸せは、一瞬にして地に落ちて粉々に砕け散った。そして、そのどん底な気分が、俺に最低な行動を取らせたのだった。
 事実を知った彼女は、当然俺を放っておくはずはなかった。彼女を含めた二、三人の女子から、放課後に呼び出しをくらった。
 だが、その呼び出しに俺は応じなかった。謝る勇気もなかったし、彼女の顔を見たくはなかった。そして、当時の彼女はきっと、謝ったとしても許してくれるほど寛大ではなかったと思う。
 そうしてその出来事以降、俺は彼女の存在を避けるようになっていた。
「でも、それを謝るんなら私にちゃうやん?」
「せやけど……、自分の友達やん」
「友達、ね。もう連絡とっとらんけどね」
「そうなん? めっちゃ仲良かったのに?」
「高校の途中まではね。その後は結構いろいろとゴチャゴチャしとって……」
 苦笑いを重ねながら、彼女は出来あがった二人分のコーヒーを受け取る。窓際の席を選んで腰を下ろすと、軽く息をついた。
「ま、私もガキやった、ちゅうことかな」
 微かに自嘲の色を残したものの、その笑顔に屈託はなかった。
 お互いにガキだった。だからもういいよ。
 そう、言ってくれている気がした。
「そっか」
 あの日から鉛のように重く胸に絡みついていた鎖が、するりと解けてなくなる。熱いコーヒーに入れた砂糖ほどに、あっけなく。
 小さく零した返事には、知らず喜びが滲んでいた。それを誤魔化そうと、無造作にコーヒーをすする。
「あつっ」
「何やってん」
 よく冷まさずに慌てて口に含んだせいで、舌をやけどしてしまった。そんな俺に呆れた表情をしながらも、彼女はすぐにスタッフに頼んで冷たい水を貰ってきてくれる。こんな風に気が利くのも、昔から変わらない。
「助かった」
「猫舌は相変わらずなんやなー」
 懐かしそうに目を細める彼女に、自然と笑みが浮かんだ。
「でも、何であんなことしたん? 平気で人の好意を踏みにじるようなタイプちゃうと思っとったんやけど」
 昔の話を蒸し返せば、当然訊かれるだろうと思っていたことが、案の定彼女の口から出てくる。そこには特に責める様子はなく、ただ純粋に疑問を持っているだけのようだった。コーヒーにミルクと砂糖を入れ、かき混ぜながら彼女は小首を傾げる。
 ――もう、時効でええよな。
 過ぎ去った時間は、もう戻せない。そのときの感情も。
 だからこそ、言ってしまいたい想いがあった。ずっと捨てることも消すこともできずに、ふわふわと自分の中で彷徨い続けていた想い。
「まあ、ショックやったいうんが一番の理由やな」
「ショック? なにが?」
「好きな子に手紙もらったと思ったら、別の女の子からやったから」
「……え?」
 ぐるぐるとかき回されていたコーヒーから、彼女の視線が跳ね上がった。その驚きに満ちた表情に、少し満足する。
 あの頃よりずっと大人びて綺麗になった彼女に、俺はニッと笑みを浮かべて続けた。
「俺な、あんとき自分のこと、好きやってん」
「……えーっと、それは……」
 困ったような、照れたような、複雑な表情。昔からハキハキしていたはずの彼女が、見事に口籠った。
「それは?」
 その今までにあまり見たことのない表情をもっと見てみたくて、意地悪く続きを促す。きまりが悪そうに、彼女は微苦笑を洩らすと、
「……ソレハ、奇遇デスネ」
 そう、呟いた。
 奇遇? 何が? 俺が彼女を好きだったことが? それの何がどう奇遇……。
 かなりの時間、俺は彼女の言葉の意味を考えていたと思う。その末に辿り着いた結論に、思わずぷっと吹き出してしまった。
「何やソレ!」
 激しく可笑しくなる。どうしようもなく、腹の底から笑いがこみ上げる。
「何やソレって何やねん!」
 照れを隠すように頬を膨らませる彼女を、やはり可愛いなと思った。確かに綺麗な大人の女性にはなっていたけれど、あの頃と変わらない意地っ張りで強がりな一面が愛おしい。
「自分、エライ自虐的やなー!」
 笑いを噛み殺しながらそう言うと、彼女はぷいと顔を窓の方へと背けた。
「うっさいなー。だって今更やんか」
 彼女も、俺のことを好きでいてくれたのだ。けれど、あの頃の俺たちは互いの距離が近過ぎた。当たり前のように傍にいて、当たり前のように笑い合って、当たり前過ぎる状況に、甘んじていたかった。だから、想いを口にできなかったのだ。
 俺と同じように。
「うん、まあ、今更やな。俺もそう思っとったし」
「やろ?」
 視線だけを俺に戻し、彼女はコーヒーを口に運ぶ。照れの残る横顔を見つめながら、俺は念を押すように繰り返した。
「うん。今更や」
「そう、今更」
 同じく彼女も繰り返す。そして、残っていたコーヒーを一気に飲み干すと、今度は真っ直ぐに俺の方を見た。
「でも、好きやってん。私も」
 懐かしむように、彼女が微笑う。
「うん、俺も」
 本当に好きだった。
 男勝りで、リーダーシップがあって、常に真っ直ぐだった彼女が。
 いつも元気で明るくて、周りを引きつけてやまない満開の花のような彼女が。
「……そろそろ出よか」
「せやな」
 おもむろに席を立つ彼女に続き、俺も残りのコーヒーを片づけて立ち上がる。
 店を出て、しばらく無言で黄昏時の街を歩いた。言葉はないけれど、何とも離れがたい思いに絡め取られる。
 それは、ずっと燻っていた気持ちが、思いがけずに遂げられてしまったから、なのだろう。だからと言って、彼女とそんな関係になることはありえない。お互いが言った通り、それこそ『今更』なのだ。
「……私な」
 どれほど歩いた頃だろうか。気づけば駅のすぐ側まで来ていた。突然口を開いた彼女が足を止め、それに倣って俺も止まる。
「結婚、すんねん」
 俺の方を見ずに、彼女が静かに告げた。その言葉に、すとんと納得が舞い降りる。
 彼女が綺麗になったのは、きっとその相手のため。時の流れの所為だけではなかったのだ。
「そうなんや。おめでとう」
 自分で驚くほどすんなりと、祝福の言葉が滑り出た。それに彼女は満面の笑みで振り返り、ありがとうと答える。そして、次の瞬間――
「え? お、い……?」
 ふわりと、彼女の腕が俺の首の後ろに回っていた。
「ありがとう。私の初恋、ちゃんと終わらせてくれて」
 耳元に響く、柔らかく澄んだ声音。切なくなるほど優しく、甘く、そして儚い。
「アホ……」
 毒づきながら、俺も彼女の背中に腕を回した。
 たった一度きりの抱擁。最初で最後の、忘れようとしても忘れられなかった人との。
 そのわずかな時間の中で、ひとときの両想いを大切に胸にしまいこむ。
「自分に言われたないわ」
「せやな」
 くすくすと笑いながら、互いの腕を離した。
 離れることを惜しいと思いながら、今ここで、通じたばかりの恋は、また終わる。
「幸せに、なれよ?」
 心の底からの願いだ。
 彼女には、幸せになってほしい。いつまでも、その笑顔を絶やさないでほしい。
 たとえ、側にいるのが自分でなくても。
「なるに決まってるやん。ってか、むしろもう幸せやし」
 そう返した彼女は、本当に心の底から幸せそうだった。切なさと嬉しさが、混ざり合って胸中に拡がる。
「おいおい、ノロケは遠慮しとくわ」
「めっちゃええ人やねん」
「はいはい」
「優しいし、頼りになるし、傍にいて安心するし」
「わかったわかった」
 俺が適当な相槌を打っても、彼女はノロケ話を辞めない。そしてようやく言葉を途切れさせたかと思うと、あからさまに呆れる俺に向かって、極上の笑みを見せた。
「幸せやから、自分も幸せになってな?」
 ああ、同じ気持ちなのだ。俺が彼女の幸せを願っているように、彼女も同じ願いを持ってくれている。
 幼すぎた時代には、お互いに想いを告げ、遂げることはできなかったけれど、今でも大切に思う気持ちがここにある。もう、それだけで充分だ。
 俺は彼女に負けないくらいの満面の笑みを返す。
「奇遇やな。俺ももう幸せやねん」
 実は俺にも、近々結婚する予定があった。彼女に負けず、大切な存在があるのだ。
「そっか、よかった」
 そんなあっさりとした言葉を放って、彼女は笑みを濃くする。だが、あれほどのノロケを聞かされた後にこれだけで終わらされるのは不公平だ。
「コラ、俺にはノロケさせん気か?」
「人のノロケ話なんて聞きたないわー」
「オイっ!」
 コロコロと軽快に笑う彼女にツッコミを入れた。その感覚が懐かしくて、更に笑みを誘う。夕闇沈む雑踏に響く笑い声は、あの頃と何ひとつ変わらない。
「ほな、もう行くわ」
 不意に笑いを収め、彼女が俺に相変わらずストレートな視線を向けた。俺はそれを受け止め、短く応じる。
 互いの距離は、一メートルほど。
 けれどその距離は、過ぎ去ってしまったときの分だけ、遠い。
「元気でな」
「自分もな」
「うん。またね」
「またな」
 また、なんて多分ないだろう。それでも、そう言いたかった。
 地下鉄の階段へと消えてゆく彼女の背中は、昔と変わらずにしゃきっと伸び、凛という言葉がよく似合う。その背中に、届かぬ声で、ありがとうと呟いた。
 ずっと胸の奥で燻っていた想いが、鈍い痛みを伴った想いが、今日の再会で優しく綺麗な思い出に変わった。いや、変えてくれたのだ、彼女が。
 夕暮れが押し寄せる空を見上げると、薄くたなびく雲が残照に照らされながらゆるやかに流れてゆく。その薄雲は、やがて風に千切れ、小さくなって消えていくのだろう。
 けれど、それはきっともう少し先のこと。今はただ、風にそよぐあの雲を見えなくなるまで眺めていたかった。

音楽をお題に小説を書く企画【Write about Music】参加作品
テーマ楽曲:Before Sunset 伴都美子