片恋水葬

眠れる想いのいきつく先

 梅雨もとうに過ぎ去った。
 なのに、私の心の中には今もまだ、雨音が響いている。
 あの日の波音と重なるように――。


 あの人に別れを告げてから、もう一週間が過ぎていた。大学を卒業してからずっと働いていた会社の同僚には、ささやかだが送別会をしてもらったし、長らくお世話になったマンションも綺麗に掃除をして引き払った。
 実家に戻ってみれば、あまりにもすることがなくて、それなのに地元の友人たちに連絡を取る気にもなれなくて。結局、母の家事の手伝いなんかをしながら、毎日を漫然と過ごしていた。
 いい加減、両親にも呆れられるだろう。そう思っていたけれど、予想外に何も言ってこない。実家に帰るきっかけの一つである見合い話も、まだ本格的には聞いていなかった。
「ねえ、母さん。あの話はどうなったの?」
 そうせっついてみても、母は「今ちょっと忙しいの。後にして」などと何も教えてくれないのだ。これでは、私は一体何の為に帰ってきたのかがわからない。
「そういえば、明日は花火大会ね。誰かお友達でも誘って行ってきたら?」
 そんな私の気も知らずに、呑気な口調で母がそう提案した。私が訊きたいのは、そんな話じゃないのに。
「何言ってんの。今更誘ったって、きっとみんなもう予定入ってるってば」
 嘘と本音が半々の言い訳をして、私は玄関に向かった。
 今日は天気がいい。やることもないのだし、少し外をふらついて気分を変えたかった。
 上り框に腰掛けてサンダルを履いていると、母が何か言いたげな表情ですぐ横に跪く。
「何? ついでにお使いとか?」
「ねえ、千夏。向こうで何かあったの?」
「え?」
 思いもよらない問いかけに、返す言葉を完全に見失ってしまった。今日まで母は、私に何も訊こうとしなかったのに。会社や向こうでの生活について、ほんの些細なことですら。
「……何のこと?」
「何のことって、あんな今から樹海に行ってきますって顔してたら、誰だって訊きたくなるに決まってるでしょ」
 まったくもってひどい言い様だ。けれど、そこまで悲壮な顔をしていたつもりはなかっただけに、驚きで声が出なかった。
「大体あんた、彼氏いたんじゃないの? 前に一緒に帰ってきた男の子、付き合ってたんでしょ?」
 拓人のことだ。本当にそうだったなら、どれほど良かっただろう。けれど、拓人が選んだのは私じゃない。
 ただ、それを母に言ったとしてもどうにもならない。必死の思いで平気な顔を作り、冗談めかした笑みと声を作った。
「友達だって言ったでしょ。何でそうなるのよ」
「でも、ねえ……」
「何よ」
「私が千夏のことお願いねって言ったら、任せてください。千夏は俺が守ります。なんて言ってたんだよ?」
「え?」
 そんなこと、初耳だ。拓人がそんな風に言ってくれていたなんて。
 けれど、でも、それはきっと友達としてで……。
 そう自分に言い聞かせてみても、溢れ出した感情は堰止めることができなかった。もうとうに枯れてしまったと思っていた涙が、ぽたりぽたりと玄関タイルの上に水玉模様を作る。
 拓人と一緒に帰省したのは、まだ紗貴に紹介をして間もない頃だ。もしかしたら、あの頃の拓人は、私に想いを向けてくれていたのかもしれない。
 もしそうなら、私があの時に想いを告げる勇気が持てていたなら……。
「まったく、千夏は昔から自分のことには鈍臭いんだからねー」
 呆れたような母の声が、ひどく優しい。そっと頭を撫でられて、ますます涙腺が緩んでいく。
 年甲斐もなく母に縋りつき、声を殺すことも忘れて泣いた。その背中を、節くれ立った痩せた手が宥めるように、何度も何度も撫でてくれる。
 私は、自分自身の弱さが、これほどまでに恨めしいものなのだと初めて自覚した。


 さんざん泣いた所為なのか、私はしばらくぶりの清々しさを覚えていた。
 無理矢理押し込めようとしたのが、駄目だったのだ。水に沈めたと思った想いは、心の奥底に眠ったまま。そして、眠っていた想いは、静かに、少しずつ、成長し続けていた。
 それを認めてしまえば、こんなにも心が軽い。
 私は、拓人が好きだ。
 まだ、好きなのだ。
 多分、拓人と紗貴が結婚するという報告を受けても、私は好きでいると思う。
 見苦しいほど、狂おしいほど、私の心は拓人を求めていた。このままでいれば、死にたくなるほどに。
 けれど、大丈夫。
 今はまだ好きで好きで仕方がないけれど、私はきっとその想いを忘れることができる。できると、思う。
 時間はかかるだろうけれど、拓人のいないこの場所で、時間をかけてゆっくりと。
 無理矢理水に沈めるのではなく、今度は自然に、風化していくように――。

 どん、と夜空に咲く光の花から幾分遅れて、花火の爆ぜる音が聞こえる。
 どん、ぱらぱらぱら……。
 年々少なくなっていく田舎の花火大会の打ち上げ数。それでも儚く消える色とりどりの光たちは、見る者を魅了する。
 家の近くの浜辺には、その美しさを楽しもうとする近隣の住人がちらほらと集まっていた。人だかりというほどでもないので、小さいけれどのんびりと花火が見られるのはいいものだ。人混みが苦手な私は、ここから見る花火の方が好きだった。
 せっかく気持ちを切り替えたのだしと、一人で見るだけなのにわざわざ浴衣に袖を通したのがほんの数十分前。
 海風が気持ちよく、さらりと頬を撫でていく。その風に乗って、またどんどんぱらりと花火の音が耳に届く。そして、近くからは火薬の匂いも漂ってくる。見るだけでは飽き足らなくなった子供たちが、手持ちの花火を始めたのだろう。夏の風物詩が揃った海辺に、懐かしさがこみ上げた。
 ――ここが、これから私が生きていく場所だ。
 浜辺に沿って続く遊歩道の段差に腰掛け、光と音と風に身を委ねる。
 また一つ、黄色とオレンジの大輪が夜空に咲いて、きらきらと瞬きながら消えていった。
 その光とは別に、遠くの水面にもゆらゆらといくつもの明かりが漂う。向こう岸から流された灯籠が、流されてきたのだ。
 藁で編んだ土台に四角く張られた障子の中のぼんやりとした明かり。そこには亡き人への想いが乗せられ、海の彼方へと運ばれていく。
 私のこの想いも、何年かあとにはこの灯籠流しのように送り出してあげられるのだろうか?
 そうなればいい。いつまでも、どこまでも抱えてしまっては、きっと拓人や紗貴に嫌な思いをさせてしまう。悟だって心配するだろう。
 クライマックスの花火があがり始める。何十発と連続してあがる花火の群に、その付近だけ真昼のような明るさが広がっていた。
 ふとすぐ側に人の気配を感じた。
 夕食の後片づけを終えた母だろう。そう思い、振り向きもせずに夜空を眺めたままにする。
「遅かったね。もう終わっちゃうよ」
 隣に腰掛けた母にそう言うと、膝に置いていた右手に温もりが重なった。母よりももっと大きな、ごつごつとした掌。
「悪い、遅くなって」
 返ってきた声に、耳を疑った。
 そんなはずはない。あり得ない。だって、ここに、彼がいるはずなどないのだから。
 信じられない気持ちのまま、ゆっくりと隣に視線を巡らせる。
 嘘でも幻覚でもなく、そこにいたのは拓人だった。
「た、くと? どうして……」
 ぐっと握られた右手が、熱い。頭の中は真っ白で、何も言葉が出てこなかった。
「千夏のお母さんに、浜で花火見てるからって教えてもらった」
「そうじゃなくて! 何で、拓人がここにいるのよ!」
「迎えに、きた」
 その表情は笑みを浮かべているのに、眼差しだけが痛いくらい真剣だった。こんな拓人を、私は今まで一度だって見たことがない。
「迎えって……」
 声が震えて、上手く出ない。頭の中には、昼間母と話した内容が嫌でも蘇り、するつもりのない期待が頭をもたげる。
「俺の隣が千夏の指定席だったのに、それが他の誰かに取って代わられるのが嫌なんだ」
「何、言ってんの? だって、拓人は紗貴と――」
「付き合ってたよ。千夏が悟に惚れてると思ってたから、紗貴の誘いに乗った。最低だと、自分でも思ってる」
 私が、悟のことを好き? 拓人は、そんな風に見ていたの?
「何で、そこで悟が出てくるの?」
「おまえ、よく悟とこそこそ話してただろ。俺が来ると焦ったように誤魔化してたけど。だから、俺や紗貴に内緒でつきあい始めたんだと思ったんだ」
「それは――」
 違うと言いかけて、続きを飲み込む。
 言ってしまってもいいのだろうか? 悟には、相談していただけだと。拓人のことが好きで、相談に乗ってもらっていたからなのだと。
 言ってしまえば、私の想いは取り返しがつかなくなる。もう、葬り去ろうなんて考えも、どこかに行ってしまう。その勢いのまま、拓人の腕の中に飛び込んでしまうだろう。
 それで、本当にいいのだろうか?
 拓人は、私をどう想ってここまできたのだろう。
 本当に私を想ってくれて?
 それとも、私の気持ちに気づいた紗貴に背中を押されて?
 その可能性も充分ある。拓人も紗貴も、優しすぎるから。
 じっと拓人の表情を窺う。そこにある本音を探るために。そうせざるを得ないほど、私は臆病で、弱虫で、自分だけが可愛いエゴイストだった。
「俺の言葉なんか、今更信じられないか?」
 少し傷ついたように、拓人が微笑む。
 そうじゃない。信じたいのだと思っても、同時に怖くて踏み出せない自分がいる。
「まあ、自業自得だけどな。それでもいい。見合いなんて断ってほしい。俺の側に、いてほしい」
 握られていた手を強引に引かれ、抵抗する間もなく力強い腕の中に閉じ込められた。――いや、最初から抵抗する気なんてなかったのだ。抵抗できるはずがない。臆病なくせに、拓人の言葉を信じたくて仕方がなかったのだから。
 それでもまだ頭のどこかで迷う私の耳元に、熱をはらんだ吐息と声がかかる。
「千夏が好きだ。誰にも渡したくない」
 今までに何度も想像しては、けっして聞くことは叶わないと思っていた言葉が、脳裏に焼き付く。
 行き場を求めてさまよっていた腕をおずおずと伸ばすと、広い背中にそっと回した。その瞬間、拓人の腕の力がますます強くなる。もう離さないと、全身で示すかのように。
「私も……、拓人が好き」
 ようやく辿り着いたその場所は、息苦しくなるほどの幸せに満ち溢れていて、それだけ言葉にするのが精一杯だった。今までさんざん積み重ねてきた想いは、必死で殺そうとしてきた想いは、そんな一言では足りないのに。
 言葉の代わりに溢れ出した涙は、頬に当たるシャツの上を滑り落ち、吸い込まれていった。
 花火の音は、とっくにやんでいる。浜辺に集まっていた人たちも、余韻を楽しむことなくさっさと自宅へと戻っていったのだろう。はしゃいだ子供の声も、それを窘める親の声も、聞こえなくなっていた。
 そこにあるのは、誰よりも欲していた愛しい人の温もりと鼓動。
 ――そして、波音。
 包み込むような優しさに満ちた、祝福の調べだった。

片恋水葬 [fin.]