Song for Snow

#6 Sterile Relation

 早川が槇野にゆきと貴久の関係に気付いたことを告げてから、数日後。
 ほんの少し前まで、店内には大学生らしき女の子の三人組と、互いにスーツ姿のカップルの姿があったが、平日ということもあり早々に店を後にしていた。
 今、店内にはゆきと早川の二人きり。槇野は休みで、貴久も一時間ほど前から所用で外に出ていた。
 閉店時間までもういくらも時間がないということで、ゆきが表の看板の明かりを落として戻ってくると、早川は思いきって口を開いた。
 それは、槇野に口止めをされていたものの、ずっと心に引っ掛かっていたことだ。
「トエちゃん」
「店長とのこと、訊きたいんですか?」
 本題を切り出す前にゆきに先回りされてしまい、早川は二の句を告げられなくなってしまった。
 そんな早川を見て、ゆきはくすくすと笑いながら、目の前に新しくバーボンのグラスを差し出す。どうやら、ゆきの奢りということらしい。
「早川さん、わかりやす過ぎ」
 年下の女の子にそう笑われて、早川は気恥ずかしさを誤魔化すように煙草をくわえた。形勢を立て直す為に、ゆっくりと肺を紫煙で満たしていく。そして溜め息にも思えるような深い息とともにそれを吐き出した。
「いつから?」
 簡潔な質問は、それでも意図を過たずゆきに届いた。
 ゆきは自分用にアイスティーを作り始めながら答える。
「二人で会うようになったのは、ここで働くよりも前」
「え? じゃあ」
「違いますよ。ここが貴久さんのお店だと知ったのは、面接に来た時が初めてです」
 すごい偶然でしょ、とゆきは苦笑混じりに続けた。
 いつもは『店長』と呼ぶゆきが、貴久の名前を当たり前のように口にする姿に、胸の奥がキリと痛んだ。
 そして、その面接の時にどんなやりとりがあったのかはわからないが、ごく普通の面接の会話でなかったのは確かだろうと早川は想像する。
 それがまた、新たな痛みを生んだ。
「出逢ったのは、冬でした」
 少しの沈黙の後、ゆきがおもむろに語り始めた。早川はただ黙ってその続きを待つ。
 一口、出来あがったばかりのアイスティーで喉を潤すと、ゆきは懐かしむような表情で続けた。
「私が夜道を歩いてる時に、貴久さんの車に思いっきり泥水をひっかけられたんです。貴久さん、かなり慌てて、お店に持ってくるつもりだったタオル貸してくれたり、家まで送るって言ってくれたり。後から聞いたら、お店に急いでるところだったらしいです」
 薄い笑みとともに淡々と話しながら、ゆきはマドラーで意味もなくアイスティーをかき混ぜる。カラカラと、場に似合わないほど涼やかなで軽やかな音が響いた。
「『また会えるかな?』って貴久さんから言われました。でもね、早川さん。それは早川さんが思ってるような意味じゃないんですよ」
「俺がアイツの親友だからって気を遣わなくてもいいよ」
「そんなんじゃないです。本当にそうなんです。だって貴久さん、私に指一本触れないんですよ?」
 ゆきの告白に、早川は正直驚いた。
 それなりの歳の男女が、二人きりで隠れて会っている。しかも、一般的には「不倫」と呼ばれてしまう関係だ。当然、それなりの行為も発生しているだろうと早川が思ってしまうのも無理もない話だろう。
 しかし、ゆきはそれをきっぱりと否定したのだ。
「傍から見れば『不倫』だって言われるのはわかっています。でも、私と貴久さんの関係はそんなんじゃないんです。お互い、『男』と『女』って見方じゃないんです」
 ゆきの説明を聞いて、早川の中に言い知れぬ感情が湧き上がる。
 彼女の言う通りならば、不道徳な関係ではないのだろう。
 しかし、恋愛感情でもなく、ましてや身体だけの関係でもないとするのならば、この二人は何を求めて一緒にいるのだろうか。
 そこには、目に見えない不思議な絆のようなものがあるように感じ、胸中にじわりと嫉妬が滲むのを感じた。
「貴久さん、私のことを『ゆき』って呼ぶでしょう。今の私には、それが大切なことだったりするんですよ」
「『ゆき』って呼んで欲しいなら、俺だって呼ぶよ」
 切実な想いでそう伝える。
 何も既婚の三十路男でなくてもいいだろうと。
 よりによって、自分の親友でなくてもいいだろうと、本当に心からそう思った。
「まっきーにも同じこと言われました」
「俺は槇野と同レベルか」
 ゆきが苦笑に乗せて返した言葉に、早川はますます情けない気分にさせられた。
 早川の落ち込んだ様子に、ゆきは申し訳なさそうに微笑むと、「ごめんなさい」と小さく呟く。
「早川さんが私や貴久さんのことを心配してくれてることはよくわかります。でも、ごめんなさい」
「トエちゃん、俺は――」
「言わないで下さいね」
 勢いで気持ちを吐き出そうとした瞬間、静かな、けれど強い響きを持った声に遮られた。
 ゆきは作り物めいた笑顔で、早川を見つめていた。
「それ以上は言わないで下さい」
 その瞬間、早川はゆきが自分の想いに気付いていることを悟った。それと同時に、早川の想いをゆきが受け入れはしないだろうことも。
 それくらい完璧に、ゆきは早川との間に線を引いていた。ゆきの笑顔が、ラインを踏み越えることを許さなかった。
「そろそろ店長が戻ってくる頃ですね」
 この話はここで終わりだと言わんばかりに、ゆきは話を切り替える。
 時計を確認すると、閉店時間はとうに過ぎ、貴久がいつ帰ってきてもおかしくはなかった。
 こんな話をした後では貴久と顔を合わせにくいと思い、早川は席を立つ。
 じゃあと短い言葉で精算を頼むと、いたたまれない思いを引きずったまま店を出た。ゆきも早川を引き留めようとはしなかった。

 通い慣れた道をとぼとぼと歩き出す。十メートルほど離れた頃、後方にある店の駐車場に車が入っていくのに気付いた。上手いタイミングで貴久とすれ違うことができたようで安堵する。
 しかし、この後貴久が店に戻り、ゆきと二人きりになるという事実に、再び苦い思いを噛み締めた。
 恋でもなく、欲求だけでもない関係。
 不毛としか思えないのにそう言い切れないのは、ゆきの言葉から二人だけにしか通じないと思えるような何かを感じたからだろう。
 もう一度だけ、早川は店の方角を振り返る。
 大きな溜め息が一つ零れた。
 やがて、すべてを振り切るように身を翻すと、ゆっくりと歩き出す。
 振り返らず、まっすぐに――。