Song for Snow

#5 Vivid Desire

 その名を呼ぶだけで、温かな気持ちに包み込まれる。
 ユキはそんな相手なのだと、リツは心の奥底で思っていた。
 線が細く頼りなげに見えて、実際はしっかり者で頼りになるのがユキ。
 三人兄弟の一番上だからだろうか。同じく三人兄弟でも、末っ子のリツは年下のように扱われてしまうことがよくあった。
 だから、余計に……。
「『好き』だとか、今更言えないっつーの」
 一人戻ったマンションで、ここにはいない友人に対してのぼやきを、リツは苦笑いとともに零した。
 自分の想いなど告げられない。
 だからこそ、リツは詞を書くのだ。
 歌にしてしまえば、吐き出せない想いを口にしても許されるから。
「ったく、ヨシノはヒトの気も知らないで」
 更に愚痴紛いの言葉が口をついて出るが、ヨシノ自身に悪意があっての発言ではないこともわかっていた。

 それは、数日前のライブの打ち上げの時のこと。
 ユキとシュウが同時に席を立った瞬間、狙っていたかのように――というよりも狙い澄まして、ヨシノが訊いてきた。「いつから付き合ってんの?」と。
 あまりにもストレート過ぎる問いに、リツは驚くを通り越して笑ってしまった。
「付き合ってなんかねぇよ」
 ごく簡潔に答えると、ヨシノは心底驚いた様子で「うそ!」と「マジで?」を何度も繰り返した。
 本当だと言ってもなかなか信じてもらえず、二人が戻ってくるまでしつこく同じ質問を確認し続けたのだった。


 ユキは、昔から傍にいた。
 お互いに同級生たちとは誰とでも仲良くできる性格であったが、ユキは他の誰よりも気が合ったし、一緒にいて自然体でいられた。
 だから、ユキに一緒にバンドをしないかと誘われた時も、ごく当たり前のように受け入れていた。
 自分の友達が、ハルが、ユキを好きだと知るまでは――。

 ハルからユキへの想いを打ち明けられた時、リツはひどく戸惑ったことを覚えている。
 ハルは、リツもユキを好きなことを知っていたからだ。知っていたからこそ黙っていられなかったのだと、ハルは申し訳なさげに、けれど潔く言い切った。
 リツにとってのハルは当時同性で一番仲が良く、ユキといる以外はハルと行動することがほとんどだった。親友だと思えるほど信頼していたし、失いたくはなかった。
 だから、気持ちを偽った。「今更、どうこうしようなんて思ってない」と。

 恋より友情をとった。そう言ってしまえば聞こえはいいかもしれない。
 けれど、実際はそうではなかった。
 リツはユキに想いを告げる勇気が持てず、ただ逃げただけだった。フラれてしまえば、もう隣に立って歌うことすらできなくなってしまうから。
 そうなるくらいなら、親友と好きな人との恋路を応援する方が幾らかマシに思えたのだ。

 けれど、今になって思えば、それは大きな間違いだったのだと気付いた。
 ユキは、ハルの告白を断った。
 どんな言葉で断ったのかは知らないが、その日を境にハルのリツに対する態度が変わった。それとなくリツを避けるようになったのだ。
 また、ハルとの仲を取り持とうとしたことは、ユキとの関係をぎくしゃくとした居心地の悪いものにさせた。
 三人の間に走ったほんの小さな亀裂は、時間の経過とともに埋めがたい大きな溝になっていった。
 いつしかバンドは解体し、リツは二人ともと疎遠になったまま卒業を迎えた。
 最善だと思った選択は、リツに何も残してはくれなかった。

 ユキのバンドを辞めると同時に、リツは歌うことも辞めた。
 もちろん、友人たちとの付き合いでカラオケに誘われることもあったが、何かと理由をつけては断り、やむを得ない場合で参加させられても、極力歌わないようにしていた。
 否、歌わないのではなく、『歌えなかった』。
 マイクを握れば、ユキの優しいギターの旋律が耳に甦る。
 歌うことを意識する度に、嫌でもユキと一緒に音を作っていたことを思い出す。
 それは当時のリツにとっては苦痛でしかなく、歌から遠ざかるしか逃れる術がなかったのだ。


 そんなリツが、ユキと再会したのはいくつもの偶然が重なって生まれたことだった。
 バンドなどに縁も興味もないと思っていたゼミの友人――ヨシノが、実は昔から音楽活動を活発に行っていたこと。
 そして、ヨシノが一緒にバンド活動をしているのが、ユキと同じ大学に通っているシュウだったこと。
 更に、シュウの所属する軽音部にユキが入部し、シュウと意気投合してしまったこと。
 けれど、それだけならば、多分、再会は果たされなかっただろう。
 三つの偶然が上手く噛み合う為の、大きなきっかけが必要だった。
 そのきっかけが、リツとヨシノの所属するゼミのコンパの二次会だった。
 二次会がカラオケと聞かされて、リツは毎度の如く辞退しようと思っていた。しかし、入学当初からゼミでの世話焼き役になっていたヨシノに強引に却下されてしまったのだ。
 リツがあまり積極的に交流しようとしていないのを良しとしなかったのだろう。
 強引なヨシノに引きずられるように連れて行かれ、ほぼ無理やり歌わされたのだった。
 そんな強制カラオケの途中、さすがに堪え切れなくなったリツは、「明日朝早いから」と嘘をついて逃げ出した。
 店を出て、酔っぱらった中年サラリーマンや、大学生同士らしき仲睦まじいカップルとすれ違いながら駅に向かう。
「リッちゃん!」
 背後から追いかけてくる声に、リツは反射的に振り返った。ヨシノだ。
 連れ戻されるのかと思ったけれど、だからと言って逃げ出すわけにもいかない。
 仕方なくその場に立ち止まり、ヨシノが近くに来るまで待つしかなかった。
「あのさ、リッちゃん、明日の夕方暇?」
「え?」
 予想していた言葉とは全く違った為、間の抜けた声を洩らしてしまう。
 けれど、ヨシノは妙に力の籠った目でリツを見つめ、表情も真剣そのものだった。
「何か用事あるの?」
「あ、いや、ないけど」
「じゃあ、付き合って! 四講目終わったら、西門前ね!」
「え? あ、はい」
 理由も目的も全く告げられなかったのだが、ヨシノの気迫に圧されて気付けば承諾の返事をしていた。
 それを確認すると、ヨシノは満面の笑みを浮かべ、「じゃあ、また明日」と踵を返し、元気よくもと来た道を走り去っていったのだった。


 翌日、待ち合わせ通りの時間に西門へと向かうと、ヨシノは既に待ち構えていた。
 そのままどこへ行くとも告げられず、辿り着いた先は他大学のキャンパス。
 そう、ユキとシュウの通う大学だった。しかし、当時のリツはユキの進学先など知らない為に、再会の可能性など微塵も考えていなかった。
 慣れた足取りでヨシノはキャンパス内を横切り、ユキたち軽音部が使用している練習用のスタジオまでリツを連行した。
「ユッキー! 最高のヴォーカル連れてきたよー!」
 スタジオの重い扉も蹴飛ばさんばかりの勢いで、ヨシノは中に入っていく、リツはそんなヨシノに引っ張られて転びそうになりながら、中にいた二人と対面した。
「……リツ?」
「ユ、キ……」
 互いに、どうしてここにいるのかと、呆然とするしかなかった。
 顔を見るのは卒業式以来。言葉を交わすのは、それよりさらに前のバンド解散以来だった。
「え? ユッキーとリッちゃん、知り合いなの?」
「うん、まあ」
 驚き混じりのヨシノの問いに、ユキは歯切れの悪い返答をした。気まずさを誤魔化すような作り笑顔に、リツは気付かぬうちに詰めていた息を大きく吐き出す。
「幼なじみだよ」
 戸惑いを隠せない様子のユキに、リツはできる限りの笑顔を向けた。
 けれど、二人の間に流れる空気は、どこか重い。
 リツを連れてきた張本人であるヨシノも、ユキと一緒に練習をしていたシュウも、その雰囲気に口を挟むことも出来ず、ただ見守るだけだった。
「久しぶり」
「うん。……まだ、歌ってたんだ?」
「もう歌ってないよ。ヨシノ、ちょっとユキ借りていい?」
「あ、うん、どうぞ」
「サンキュ」
 ヨシノに短く礼を告げると、リツは躊躇いがちなユキの手を、少し強引に引いて外に出た。たまたま目にとまった、雨風に晒されて色褪せたベンチに腰掛ける。
 ユキは、リツの前に立ち尽くしていた。
 思ってもみなかった再会はお互い様だというのに、心底困り果てた顔で、ただ立ち尽くす。
「ユキも座れば?」
 何とか話の糸口を掴もうと、またも無理やり浮かべた笑顔をユキに向ける。けれど、ユキの表情は冴えないままだった。
「リツ」
「何て顔してんの。何か周りから見たら、ユキを苛めてるように見えるじゃん」
「ごめん」
「いや、謝んなくていいからさ」
「ごめんっ!」
 勢いよくユキが頭を下げた。真剣に、心から許しを請うように。
 何一つ誤魔化さずに。
 その謝罪の向けられる先に気づき、リツはようやく笑顔を作るのを辞めた。
 何も偽らないユキに、作った笑顔では駄目なのだ。
「ユキ」
「あの時のこと――」
「ユキ、もういいから」
 リツは立ち上がり、ユキの柔らかな髪にくしゃと指を絡めた。そのまま少しばかり強引に顔を上げさせる。
 あまりにも悲壮な表情をしているユキに、ぷっと小さく吹き出した。
「ヒドイ顔」
「リツ」
「……こっちこそごめん。ユキは何も悪くなかったのに」
「悪くないとは言い切れないでしょ。それこそリツは何も悪くないし」
「んじゃ、喧嘩両成敗で謝りっこなし。それでいい?」
 リツ自身も強引な決着の付け方だと思った。けれど、そうでもしないとユキはきっと謝り続けるだろう。
 謝罪は、もう要らない。
 リツが欲しいものは、そんなものではなかった。
「相変わらず、乱暴なまとめ方するなぁ」
 くしゃりと、ユキが呆れを含んだ笑顔になった。懐かしい、笑い方。
 求めていたものが得られて、リツも自然と破顔する。
「ユキこそ、相変わらず辛気臭く考え過ぎ。そんなんじゃ若いうちにハゲるよ?」
「ハゲません。まったく、リツはいつも適当すぎなんだから……」
 そう言いながら、ユキはリツの隣に腰を下ろした。
 その距離は、あの頃と変わらない、触れそうで触れない微妙なもの。けれど、それは二人にとっては最も居心地の良い間合いだった。
 離れていた時間は長かったはずなのに、隣に並ぶとそんな時間などなかったかのように自然で、当たり前で。
 欠けていたパズルのピースが、上手くはまったような、そんな感覚。
 それでも、まだどこか不完全な気がして仕方がなかった。
 あと一つ、どうしても足りない、埋まらない部分がある。

 その最後のピースは、すぐに見つかった。

 空白の時間を埋めるように、それぞれの近況などを話して十数分が過ぎた頃、二人は揃ってスタジオへと戻った。
 スタジオの重い鉄のドアを開けると同時に、音が流れ出してくる。
 ヨシノとシュウ、そしてリツの知らない女性が、ギター片手に歌っていた。
 リツの、よく知る歌を。
(ユキの、歌だ)
 かつて、ユキのギターでリツ自身が歌った曲を聴いて、眉間に皺が刻まれる。
 ユキの作った曲を、見知らぬ人間が歌う不思議さと、不愉快さ。
「違うよ、それ」
 気付かぬうちに、リツは口に出していた。言わずには、いられなかった。
 驚いたヨシノとシュウの手が、女性の歌が、止まる。
「リツ」
「違うだろ、ユキ。その歌は、そんな風に歌う歌じゃない」
 言いながら、まっすぐに女性に向かっていく。彼女はリツの持つ雰囲気に気圧されたように、マイクスタンドの前から退いた。
 もう何年も遠ざかっていたマイクの前に、リツは自らの意思で再び立つ。
 そして、ユキに向けて、一言だけ放った。
「弾いて」
 それだけで、充分だった。
 ユキは黙ってギターを抱え、いつものポジションに向かう。シュウに向かって片手で合図を送ると、カウントが始まった。
 耳に馴染んだ優しい旋律に、リツは瞳を閉じ、身を委ねる。
 重なる音と音、声と声。
 ぴたりと、ピースがはまった。

 ようやく、リツは気付いた。
 ずっと歌いたかった自分に。
 ユキのギターで、ユキの曲を歌いたかった自分に。
 すべてのピースが揃ったパズルには、二人並び立って音を作る姿が描かれていたのだった。

 そしてリツはこの日、『Weiβer Schnee』の正式なヴォーカリストに任命された。


 再会を思い返しながら、リツは自室のベッドに身を投げた。
「今更、変えられっかよ」
 乱暴に、苦い言葉を吐き捨てる。
 ユキへの想いは、今も変わっていない。それどころか、かつてよりももっとずっと、強いだろう。
 けれどリツは、その想いを封印するにしたのだ。
 あの再会の日に、自ら誓いを立てた。
 恋愛感情などがあるから、つまらないイザコザが起きるのだと、そう思えたから。
 そんなことで、ユキとまた離れてしまいたくなどなかった。

 だからただ、ユキの作った歌を、ユキのギターに合わせて歌えればいい。
 それが、リツの一番の望みだった。
 何よりも強い、望みだった――。