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Madderangeric

 深く沈むような緑の海の、その中心にその樹はあった。
 樹齢など意味をなさないほどの年月を重ね、けれどもいつまで経っても瑞々しさを失わない、若木の如き古木だった。
 それは、この世界を支える十二の神聖樹の一つ――タラクシャンディラ。
 大人が十人ほども集まって、ようやく抱え込めるほどの太い幹には、まるで王を守らんとする近衛のように、幾重にも蔦が絡まっている。
 根元には大きな洞があり、そこから湧き出した透明な水が、膝まで浸かるほどの深さの泉を作り出していた。
 見上げれば、鬱蒼と広がる梢が視界を覆い尽くし、空の色を臨むことも出来ない。
 辛うじて差し込む木漏れ日が、しっとりと濡れたような翡翠色の葉に零れてはきらめき、荘厳な空気に更なる聖性を加えていた。
 『限りなく天上に近い場所』
 かつてそう喩えた者があった。
 そう喩えたくなるのも無理はなく、また同時にそれは喩えというよりも真実に近いものだった。
 神聖樹は、天と地とを結ぶ階。天を支える御柱でもあり、地を繋ぎ止める鎹でもあった。
 その神聖樹・タラクシャンディラを守る為に、今日も樹々や蔦達は森を閉ざすのだ。
 深く、蒼く、密やかに――。

 青年は、その森に踏み込んだ瞬間から、重苦しいほどの清浄さに押し潰されそうだった。
 見渡す限りの、樹木に蔦。花らしい花はなく、鳥や動物も姿どころか泣き声すら聴こえない。
 耳に入るのは、風に揺られる樹々の、囁くような声音だけ。前後左右、三六〇度を取り囲む静寂の緑は、青年の心の内を侵食し、歩む速度を緩ませた。
 本来ならば、この森は安易に足を踏み入れてはならない場所。
 六年に一度行われる神事の時以外は、けっして侵してはならない禁域だと、幼い頃から何度も言い聞かされてきた。
 しかも、その神事の時ですら、村の長や祭司など、ごく限られた数人しか森に入ることを許されない。
 今、自分は禁忌を犯している。その思いが、足枷となり、立ち止まらせるのだった。

 ――何をしている。急がないといけないだろう。

 何度も自らを叱咤しながら、青年は鈍い足を前へと運ぶ。
 青年には、少しでも早く目的の場所――神聖樹・タラクシャンディラ――へと辿り着かなければならない理由があった。
 禁忌を犯してでも、タラクシャンディラへと向かう理由が。

 彼には、幼い頃から将来を誓い合った幼馴染みの少女がいた。
 一見すると黒に見えるが、陽の光に照らされると鮮やかな翠色に輝く、美しい髪と瞳を持った少女だった。
 いつも屈託のない笑みを向けてくれる少女を、彼は誰よりも慈しみ、大切に守ってきた。
 ――はずだった。

 六年前、成人した彼は村を離れ、街へと出稼ぎに出た。
 彼の生まれ育った村では、それはごく当たり前の通過儀礼のようなものであったし、彼自身は少女を自分の妻へと迎え入れる為の、資金準備の意味も含めていた。
 街で懸命に働き、やっと村へと戻ってきたのがほんの二日前。
 そして、彼が村を出た数ヵ月後に、少女がタラクシャンディラに仕える神子姫として選ばれてしまったことを知ったのも同じ日だった。
 神子姫は神事の度毎に選ばれ、一生を神聖樹に仕えることで終えてしまう。

 彼は、一晩中悩んだ。
 少女のことだけを想い、少女との明るい将来だけを夢見て、辛い出稼ぎ生活を終えてきたのだ。
 それなのに、いざ村に戻ってみれば、肝心の少女はいない。
 何の為に自分は六年間働き続けてきたのか。そんな空しさと悔しさばかりが胸を占める。
 ――どうにかして、彼女を取り戻したい。
 言い知れぬ虚脱感が頂点に達した時、不意に浮かんだ思いだった。
 しかし、同時にそれが意味することは、この村で生まれ育った彼には重過ぎた。
 踏み込んではならない禁域たる森。
 そこに侵入したことが誰かに知られてしまえば、自らだけでなく一族郎党全てに咎が科せられてしまうだろう。
 それでも、一度浮かんだ思いを打ち消すことはできず、彼は夜明けを待たずにひっそりと家を抜け出した。
 心の内で家族に何度も謝り、愛しい少女を想いながら、タラクシャンディラを目指したのだ。

 歩くこと一昼夜。
 タラクシャンディラまでの正確な道程など知らなかったが、それなりに広くなっている場所を選んで通っていると上手く辿り着くことができた。
 おそらく、神事の際に神子姫を輿に乗せて運ぶ為だろう。明らかに人の手が加えられていることがわかり、藪を切り開く為に用意してきた切れ味鋭い鉈も、ほとんど必要がなかった。
 そうしてわずかに拓けた場所が見えたと思った瞬間に、その光景は現れた。
 目の前に広がる清らかな泉。そしてその中央、清水の中から直にそびえ立つのは、大きく両翼を広げた神聖樹・タラクシャンディラ。
 実物を見るのは初めてだったが、一目でそれとわかった青年は息を呑んで立ち竦んだ。
 圧倒的な存在感。
 周りを取り囲む泉も、樹々も、蔦も、空気でさえもが、神聖樹の神々しさをより高めるための装飾でしかなかった。
 冷ややかな風が翡翠の葉を揺らし、泉に漣を起こして、青年の頬をなぶってゆく。
 まるで、不躾な侵入者に対して、警鐘を鳴らすかのように。
 背筋をかけ上がるような悪寒に、思わず平伏し、赦しを請いたくなった。そうしてそのまま身を翻し、今まで歩んだ道程を引き返し――。

 そんな一瞬の衝動も、脳裏に浮かんだ愛しい少女の微笑みが綺麗に掻き消してしまった。
 少女の為にここまで来たのに、今更引き返すことなどできない。
 ぐるりと辺りに視線を巡らせるが、人の住めそうな建物などは見当たらなかった。
 今までにここに連れてこられた神子姫たちは、どこで過ごしているのだろうという疑問が頭に浮かぶ。
 少女を案じる想いが声となり、樹々のざわめきにも消えそうなほど小さく名を呼んだ時だった。
 誰かに、否、少女に呼ばれたような気がした。
 導かれるように向かった先は、泉の中央。タラクシャンディラだった。
 畏怖に身体を震わせながらも、一歩また一歩と水の中へ踏み入れる。
 清水に波紋が広がる度に、凍りつくほどの冷気が足元から這い上がり、徐々に体温を奪ってゆく。それでも青年は、無心に神の樹を目指した。

 あともう少しで辿り着く。
 そんな安堵感が生まれた瞬間、青年は水中を蛇のように這うタラクシャンディラの根に足を取られ、転びそうになった。
 危うく近くに垂れ下がっていた蔦に掴まり、何とか水浸しになるのは免れる。
 だが、ほっとしたのも束の間、崩れた体勢のそのままに、青年は凍りついた。
 今青年のいる位置よりもやや右手、蔦に覆われたタラクシャンディラのその根元に見える暗い洞。
 その洞から、見覚えのある濃い翠の髪が覗いていたのだ。

 ――まさか、彼女がそこに?

 少女は神聖樹に仕える神子姫だ。
 ならば、神聖樹たるタラクシャンディラの側にいたとしても、何もおかしくはない。
 けれど、けれども……。
 理由のわからない恐怖が、青年の心を蝕んでゆく。
 見てはいけない。きっと後悔をする。
 頭の中で、そう理性が告げるのに、身体は引き寄せられるように洞へと向かっていた。
 ぱしゃり、ぱしゃりと、一歩ずつ水を蹴る。その度に、鼓動が速まっていく。
 そうして目的の洞を正面から捉えた瞬間、激しく打ち続けていた鼓動が、一際大きく鳴った。
「……ど、うして……、こんな……」
 それ以上、言葉が続かなかった。
 青年の恋焦がれた少女は、確かにそこにいた。純白の薄布で仕立てられた姫神子の装束を身に纏って。
 六年が経ち、昔の面影を残しながらも美しく成長した少女の頬に、冷え切った掌を恐る恐る伸ばす。
 その指先が触れるか触れないかのところで、少女の目蓋が微かに震え、ややあってゆうるりと開いた。懐かしい、優しさを湛えた翠の瞳が、今はタラクシャンディラの葉の色のように見えた。
「あ……、どうして、貴方が……」
「君を取り戻す為に来たんだ! だけど、まさか、こんな――っ」
 詰まる言葉の代わりに、青年の瞳からは絶望の涙が零れ落ちた。
 取り戻したかった。どんな手を使ってでも、少女を取り戻したかった。
 なのに、目の前の少女を連れて逃げることは、限りなく不可能に近いのだと一目見てわかってしまった。

 少女は、その身を神聖樹に捧げていた。
 比喩でも何でもなく、文字通り自らの身体をタラクシャンディラへと捧げていたのだ。
 足から腰の辺りまで幹に埋まり、両腕も指先から肘の辺りまで囚われている。残された上半身は蔦に絡め取られ、まるで蜘蛛の巣にかかった蝶のよう。
 たとえ青年の持つ鉈が鋭利な刃を持っていたとしても、この重厚な神聖樹の檻から少女を救い出すことは叶わないだろう。試すまでもなく、そうと悟ってしまった。
 しかも、少女の身体は成長していたにもかかわらず、その肌は透き通るように青白く、精気が感じられない。自らの指先も凍えきっているのに、触れた頬から伝わる熱はなかった。
「そんなに、泣かないで……」
 壊れそうに儚い笑みが、青年へと向けられた。
 こんな状況にもかかわらず、少女の微笑は青年に対する深い愛情と慈しみに満ちていて、神子姫に相応しい神聖ささえ湛えていた。
 だから尚更青年は、涙を止めることができなくなる。
「もうすぐ、私は役目を終えるわ。数日のうちにこの命は消え、あとはタラクシャンディラに全て取り込まれてしまうでしょう」
「そんなっ!」
「いいの。もう、私の身体のほとんどに、この樹は根を張っているわ。どう足掻こうと、ここから抜け出すことはできないの。私を……」
 そこまで言って、少女は言葉を途切れさせると、愁いを含んだ瞳でふわりと微笑んだ。
「私を、殺しでもしない限り」
「君を……殺、す……?」
「でも、それは許されないことだわ。次の神事までは、私がタラクシャンディラの神子として仕えなければいけない。新しい神子姫が来る前に、命が途絶えてしまえば、この樹は狂ってしまう」
「神聖樹が、狂うって……」
 そうよ、と少女は顔だけ上げて、頭上に広がる枝葉を見つめる。青年もつられるように、その視線を追った。
「神聖樹は、天を支え、大地を繋ぐ楔。この世界の全ての均衡を司っているの。そして、神子姫はそれが正しく行われる為に自らの身を捧げ、祈り続けなければいけない。神聖樹が神子姫を失えば、この世は崩壊に向かい始めるわ」
 だから、いいのよ。
 そう少女は諦めきった笑みで青年に言い聞かせた。
 だから、もう私のことは忘れてと、言外に含ませて。

 青年は彼女の冷たい頬をそっと両手で包み込む。
 重厚な幹と絡み合うように這う蔦の所為で、少女を抱き締めることの叶わない今、そうすることが精一杯だった。
「もう、行って。……貴方に逢うことができて、良かったわ」
 互いの口唇が触れそうなほどの距離。けれど、その口唇は重なることはなく、まずは青年の右手からゆっくりと離れた。次に左手が、滑るように少女の頬から首筋へ、そして項へとまわる。
 名残りを惜しむかのような青年の指先に、少女はそっと目蓋を伏せ、最期の幸せを噛み締め――。

 不意に我が身を襲った衝撃に、大きく目を見開いた。
「……ど……して……」
 驚愕の声と共に、少女の口から赤い雫がゆっくりと糸を引いて顎へと伝い落ちる。
 そのまま首筋を経て胸元の薄布に染み込むと、腹部から徐々に広がった別の赤と重なり合った。
 青年の鉈を握る右手も深紅に染まり、柄から落ちた雫が清らかな泉に薄朱の波紋を生み出す。
「君のいない世界など、滅びてしまえばいい」
 涙に濡れた青年の瞳は、ひたむきに少女だけを見つめていた。
 そこにあるのは、どこまでも純粋で真摯な愛情。
 世界と少女を秤にかけ、少女を選んでしまうほどに。

 徐々に霞んでいく少女の視界が最期に捉えたのは、今までに見たどれよりも愛おしげに少女を見つめる青年の笑顔だった。

 がくりと、少女の首が垂れる。完全に息が絶えたのだと確信すると、青年は項に置いていた左手を再び頬へと戻し、その顔を上げさせた。そのまま深緑の髪をかき上げると、滑らかな額を押さえつける。
 そうして右手を掲げると、力の限り白い喉元へと鉈を振り下ろした。
 二度、三度と。
 その度に飛び散る鮮血が青年を、少女を、タラクシャンディラを濡らす。溢れ出した大量の血液が、澄み切っていた泉の中央を赤く染め始めていた。
 その様は、まるで神聖樹が血を流しているかのようだった。
「これで、君は永遠に僕のものだ」
 切り離された少女の頭部を、宝物を扱うような手つきで包み込むと、青年は血塗れの口唇に自分のそれを押し当てる。
 うっとりと、何度も何度も繰り返し……。
「永遠に、僕のもの――」
 神聖樹を覆う蔦達が、一つ、また一つと剥がれ落ち、翡翠色の葉が涙となって舞い降りては水面を隠す。風はやみ、木漏れ日は徐々に翳んでゆく。
 この世界の、破滅への序曲を奏でながら。

 その旋律にも構うことなく、青年は鮮血の泉の中に膝を折り、蹲り、ようやく取り戻した最愛の恋人との永久の誓いを交わし続けた。
 滅びを迎える、その時まで――。