Short

終わらぬ夜の揺籃歌

 どこまでも、見渡す限りどこまでも、遥か遠くまで続いている、白く、黒く、灰色の世界。
 空は、重く濁った澱のような黒雲に覆われ、今が昼なのか夜なのかもわからない。磁場の狂った世界では、時計の針は凍りつき、流れているはずの時を正確に知る術はなかった。
 静かだった。ただ、ひたすらに静かだった。コールタールの空から降り注ぐ絶望の雪が、発する全ての音を吸い取ってしまっているかのようだった。
 かつて世界一の電波塔と誇った瓦礫の上。かろうじて体裁を保っている展望台だった場所に一人腰掛け、私は刻一刻と眠りゆく世界を眺め続ける。眼下に広がる、灰色に雪化粧し崩壊したコンクリートの海を、眺め続ける。
 そう、海だ。もう密林ではなく、沈みゆくこの世界を深く飲み込もうとする海。
 政治の中心として多くの討論が交わされた場所も、流行の最先端を走っていたファッションの発信地も、この国の経済を支えていたオフィスビル群も、何もかもが静寂の海へと沈みゆく。
 そして、それは死の海。
 本来なら海は生命を生み出すはずのもの。けれど、この海は何も生み出さない。生み出すどころか、奪い続けるのだ。全て朽ち果てるまで、ずっと……。
 この目に見える範囲に、一体どれだけの生命が残っているのだろうか。とうの昔に探す気力など失くしてしまったけれど、もしかしたら自分と同じような存在が、まだ残っているのかもしれない。
 けれど、例え見つけられたとしても、それもやがては潰えてゆく。今この世界に存在する生物は全て、一つの例外もなく。
 私自身も、例外でなく。

 カツンと、背後から瓦礫の欠片を蹴る音が聴こえた。振り返ると、見知った青年がふわりと微笑んでいる。
「やっぱり、ここにいた」
「やっぱり、見つかった」
 相手の言葉をなぞるように、私もくすりと小さく笑う。
 彼は隣に並んで座り、私と同じようにモノクロームの世界を見下ろした。
 触れた肩が、ほのかな温もりを伝える。彼からはいつも、忘れかけている緑の香りが微かにして、ほんの少しの安らぎを得ることができた。少し前にそれを伝えたら、「偽物の匂いだよ」と笑われた。けれど、すでに本物も無く、偽物すらも作ることができなくなった今、彼のささやかな香りはどこまでも懐かしく愛おしい。
「いつからいたんだ?」
 彼は香りと同質の優しい手つきで、色素と艶を失った私の髪から、灰色の雪を払い落した。そう言う彼の短い髪にも、それがまとわりついている。自分では見えないけれど、私の髪も同じ有様だろう。
 いや、それ以前に、今いる展望台の屋根は、その機能を果たしていないのだ。ただ、無惨な骨がむき出しになり、この世界の無機質さを助長していた。
 雪は、いつまでも降り注ぎ、私達の身体に蓄積されていく。同時に目には見えない汚染物質も。
 付着し、蓄積し、侵蝕されていく。
 いずれ、その体内に溜まったその毒達は、私達のキャパシティーを超えるだろう。
 いつ?
 そんなものはわからない。
 静かに眠りについていった家族や友人達と、今ここにいる私達との間に、どれほどの違いが横たわっているのかなんて、計り知ることはできなかった。
 それに、それを知ったからといっても何も変わらない。私達の未来は、いっそ清々しいまでに残酷で、絶望以外に相応しい名前が見つからなかった。
「キオウが、呼んでる」
 抑揚のない声でぽつりと零した彼に、私は同じく変化のない声で「そう」とだけ返した。
 立ち上がる気には、なれなかった。
 違う。立ち上がる気になれなかったんじゃない。
 ――立ち上がれなかった。
 コトリと、隣の彼の肩に、頭を預ける。緑の匂いが、少しだけ強くなった気がした。
 ごく近くから、名を呼ぶ彼の声がする。柔らかなその声が、染み込むように鼓膜を震わせた。
 ああ、良かった。隣に彼がいて。
 そんな想いが、静かに押し寄せる暗闇に、ぽっかりと浮かんだ。


 色んな大きさに砕けて、焼け溶けたガラスの欠片を踏み締めながら、ひび割れた階段を上り切る。
 そこは今、僕たちが移動できる範囲の中で、一番高い場所だった。
 彼が彼女を呼びに行ってから、もうかなりの時間が経っていた。といっても、正確な時間などとうの昔にわからなくなっている。ただ、自分の感覚で『遅い』と感じただけだった。
 見晴らしの良い、けれど景観が良いとはとても言い難い展望が、目の前に広がる。
 元は入り口だった四角い金属製の枠が、カメラのフレームを覗いているような錯覚を覚えさせた。その白黒写真のような光景の真ん中には、朽ちた鉄骨にもたれ、寄り添い合って座る二人の後ろ姿がある。その髪や背中、肩など、見える限り全てが、灰色の雪に覆われていた。
「ミキ? トウセ?」
 半ば予想はしながらも、僕は二人の名を呼んだ。
 そして、その予想は見事に的中する。
 僕の声に、二人は身動ぎ一つしなかった。
 ああ、独りになった。
 身を寄せ合うようにして、残された時間を暮らしていた仲間は、とうとう僕一人だけを残して、みんな逝ってしまったのだと知った。
 けれど、僕の中から湧き上がってきたのは、涙ではなく、本当にささやかな微笑。
 二人の静寂の世界を壊してしまわないように、そっと、踵を返す。崩れそうな瓦礫の塔の階段を、静かに静かに下りながら、小さく小さく呟くように歌い慣れたメロディーを口ずさんだ。
 それは、幼い頃に寝つきの悪かった僕に、姉がよく歌ってくれた優しい歌。今はそれを、眠りについた仲間達に向けて歌う。
 一度も振り返らずに階段を降りきると、開け放したままになっていた重い扉に手を掛けた。錆びて変色した鉄製の扉は、悲鳴を上げて塔への道を塞ぐ。
 これでもう、誰もこの場所には踏み込めないだろう。それ以前に、『誰か』がいるとも思えないけれど。

 さあ、今度は僕の番だ。
 どこへ行こうか。
 どこで、眠ろうか?
 できれば、二人と同じように、見晴らしのいい場所がいい。

 終わりのない夜空を見上げると、遥か遠くに赤く尾を引く流星が見えた。
 これでまた、この星に残された時間が削られてしまうのだろう。といっても、いまさら削られて困るものでもない。
 自らの紡ぎ出す旋律をBGMに、僕はゆっくりと歩き出した。灰雪を踏み締める音と、吹き抜ける風の音が、連れ添うように歌ってくれる。
 最後の詞に二人への想いを込めて歌うと、祈るように瞳を閉じた。

 ――おやすみなさい。

【悲劇企画】参加作品
テーマ楽曲:科学の夜 Do As Infinity