Song for Snow

#4 Irritative Smile

「トエ、これ5番さん」
「了解」
 カウンターに置いた料理を、慣れた手つきで運んで行く後ろ姿。小柄で華奢な体つきの割に、よく動き、よく働く彼女の顔には、いつも穏やかな笑みが浮かべられている。
 槇野はそんな彼女――戸枝ゆきを見て、疑問に思うことが多々あった。
「トエちゃんは今日も頑張ってるねー」
 カウンター席を陣取る常連の早川が、同じようにゆきの働く姿を眺めながら、感心したように呟く。それに槇野は溜め息で応えた。
「働くんが好きとか言うてましたけどね。ホンマ物好きやわ」
「おまえももっと見習えよ。トエちゃん、どんだけ疲れててもあの笑顔だぞ?」
 早川の指摘する通り、槇野はゆきの笑顔以外の表情をほとんど見たことがない。
 それは接客業に携わる者としては確かに見習うべきものではある。
 しかし、槇野はそんなゆきの笑顔を見ていると、苛々することしきりだったのだ。
「槇野ももう少し笑顔ってもんを身につけたらどうだ」
「可愛いお姉さんにやったら喜んで」
「客を選ぶなよ」
 呆れる早川に、槇野はニッと口の端だけで笑ってみせた。
 それを目にした早川は、少しばかり顔を顰める。
 槇野の笑顔は、ゆきのようにほっと心を和ませるものではなく、どこか不適で不遜に見えたからだ。
「前言撤回。客減るからやめとけ」
「ハヤさんが笑え言うたくせに」
 ひどい言われ様だと抗議する槇野に呆れたような苦笑を零し、早川はカウンター奥のバックルームを覗きこむように窺う。
 その表情から、早川が誰を気にしているのかはすぐに察することができた。
「店長なら、今日は休みやで。締めは俺がやるように言われとるし」
「あ、そうなのか」
 槇野の先回りした答えに、早川はひどく落ち着かないような、居心地の悪そうな、そんな態度だった。
 その原因に心当たりはあったのだが、あえて気付かぬふりで槇野は話を続けた。
「ハヤさん、店長に何か話あったん?」
「ん……、話っていうか、まあ、何だ……」
 歯切れの悪い早川の視線が、ほんの一瞬ホールを歩いているゆきに向けられた。
 それに、やはりと思いながら、声のトーンを少し落とす。
「トエとのこと?」
「槇野、おまえ……」
「知っとるよ、あの二人のことは。トエも俺が知っとるってわかっとる。ハヤさん、どっかで一緒のとこ見たん?」
 早川は軽く頭を抱え、自らを落ち着かせるようと、クールマイルドを取り出した。銜えたそれに火をつけると、溜め息と同時に紫煙を吐き出す。
「仕事の出先だ。だから理恵子さんに見られるようなことはないだろうけど」
「なら、ええやん」
「ええやんって、おまえな」
「まあ、とにかくちょっと、ほっとったって。俺も何とかせなアカンとは思っとるから」
 有無を言わせぬ口調で、その話を終わらせる。早川はなおも何か言いたげだったが、客からの注文を受け取ったゆきが戻ってきたため、断念せざるをえなかった。
(悪いなぁ、ハヤさん)
 ゆきが伝えに来た注文を受け、厨房で材料を軽やかに刻みながら、心の中で謝罪をする。
 できれば、理恵子以上に早川には知られたくないと槇野は思っていたのだ。
 それは、早川のゆきを見る視線の所為だった。
 早川はゆきに好意を抱いている。さすがに目の前で口説こうなどとはしないが、来店する度にゆきを気にかけているのは明らかだった。
 だからこそ、ゆきと貴久の関係は知られたくはなかったのに。
 こっそりと小さな嘆息を洩らし、手早く作り上げた料理をカウンターへと持っていく。
「は、7番さんのサラダ」
「了解」
 変わらぬ笑顔で受け答えするゆきの背中を見つめながら、閉店後を思って少しばかり気が重くなる槇野だった。


 最後の客を見送り、表の看板を照らすライトを落として、ゆきがカウンター前まで戻ってくる。その目の前に、槇野はコーヒーカップを差し出した。
「ブラックでよかったやろ?」
「気が利くね、まっきー」
「ええ男やろ?」
「自分で言わなきゃね」
 槇野の本気と冗談半分半分の言葉に、ゆきは楽しげな笑いを零し、カウンターチェアに腰掛ける。仕事中よりいくぶん素に近いけれど、それでもどこか感情が伴っていないように感じる笑みだった。
 その笑顔を見つめながら、槇野はいつもと変わらぬ調子で話を切り出した。
「ハヤさんが、トエ見たって」
「へぇ。どこで? 声かけてくれればいいのに」
「そら無理やろ。店長と一緒におるんやから」
 ピタリと、コーヒーを口元に運ぶ手が止まる。が、すぐに思い直したように、そのままカップに口をつけた。少しだけ苦そうな表情は、コーヒーの所為だけではないだろう。
「そっか。早川さんに知られちゃったか」
 ぽつりと呟く声に滲む色で、ゆき自身も早川には知られたくないと思っていたことが窺える。
「おまえさ、そろそろやめた方がええんとちゃうんか? 店長と付き合っとったかて、何もええことあらへんやろ」
 ゆきがこの店の店長である貴久と付き合っていると知ったのは、三か月ほど前。
 たまたま店が休みだったその日に、貴久とゆきが二人でいる姿を遠出した先で見つけた。
 人目を気にするように地元から離れた場所で会っている二人に、当然疑問を覚えた。それと同時に怒りに似た感情も。
 貴久は既婚者だ。そして、その妻である理恵子は槇野の従姉にあたる。
 世間的に見たらどうしても不倫にしか見えない二人の関係は、槇野を不愉快にさせるに充分だった。
 ただ、一つだけ腑に落ちなかった。
 貴久は傍から見てもわかり過ぎるほどに理恵子を大切にしているし、不倫できるような性格でもない。
 ゆきにしても、掴みどころはないのだが、火遊びするようなタイプでもなく、スリルを求めるような性格でもない。
 何より、二人の間には男女間の恋愛感情だとか、ましてや身体だけの関係だとか、そういった雰囲気が一切ないのだ。不倫という言葉がどこまでも不似合いなほどに。
 後日、槇野は貴久でなくゆきに確認した。
 するとゆきは、あっさりと二人で何度も会っていることを認め、けれど不純な関係ではないと言い切ったのだ。
 それを聞いて、ますますどうしようもないような気分にさせられた。
 けっして不倫関係ではないといわれても、周りはそう見ない。バレたら最終的に傷つくのは、ゆきの方だろう。
 そう思ったからこそ、何とかしてやりたいと思った。
「いいこと、ね」
 ゆきが指先でコーヒーカップを玩びながら、槇野の言葉をくり返す。
「せや。既婚者やし、金持ちでもないし、マンション買ってくれるわけでもないやろ? まぁ、優しいんは認めたるけど」
「……『ゆき』って」
「え?」
「貴久さん、『ゆき』って呼んでくれるから」
 ゆきは、そう微笑んだ。
 それまで作っていたものとは違う、感情の籠もった微笑。
 今にも泣き出しそうな、切なそうな、儚い笑み。
「それだけだけど、私にとって、『いいこと』なんだよ?」
 時折見せるゆきの笑顔は、いつも痛くて、見ていて癇に障る。
 槇野は言いたいことははっきり言うのがポリシーだから、以前に直接そう言ったこともあった。
 するとゆきは、また困ったような苦笑を浮かべ、「ごめんね」と一言だけ零したのだった。
「名前で呼んで欲しいなら、俺かて呼んだるがな」
「まっきーじゃ駄目だなぁ。『声』が違うし」
「ゼイタクモンが。こんなセクシーヴォイスの槇野様を捕まえておいて」
 槇野の台詞に、ゆきはくすくすと微笑った。けれど、どこか虚ろで、目線もあらぬ方向。
 誰もいないはずのその方向に、誰かがいるかのように。
「なぁ、トエ。おまえ、いっつも何処見てんのや?」
「何処って?」
「店長といてても、店長を見てるわけちゃうやろ?」
「貴久さんも、私を見てるわけじゃないよ」
 淡く笑みを浮かべて、ゆきはまた甘くないコーヒーを一口飲む。
 槇野はただ、溜め息を零すばかりだ。
「まっきー」
「何や?」
「アリガト」
「何の礼やねん、それは」
「ん? いろいろ」
 そう誤魔化すように、ゆきはまた、いつものあの遠くを見るような目で笑った。

 遠くの誰かを見るように。
 穏やかに、切なげに――嗤った。