Song for Snow

#17 Song for Snow

 リノリウムの床を、一歩、また一歩とゆっくり歩みを進める。
 病室は、一年前と変わっていなかった。
 軽く拳を作り、ドアをノックしようとして、わずかに躊躇う。
 病室の中には、眠ったままのユキと、ユキの母親の晴恵がいるだろう。
 晴恵は逃げ出した自分をどう思うだろうか。今更何をしにきたのだと、詰るのではないだろうか。
 そう思うと、ドアをほんの数回叩くことが酷く怖かった。
 それでも、ここまで来たからにはもう引き返せはしない。覚悟を決めて、緩みかけた拳をもう一度握った。
「リッちゃん?」
 握った拳をドアにぶつける前に、驚きに震えた声が鼓膜を震わせた。
 ゆっくりと、声の方向へと振り返る。
 そこには、ヨシノとシュウが並んで立っていた。
 どんな表情を作ればいいのかわからずにいると、駆け寄ってきたヨシノに力いっぱい抱き締められる。
「馬鹿っ!」
「……ヨシノ」
「リッちゃんの馬鹿! めちゃくちゃ心配したんだからね!」
「ごめん」
 返す言葉など、リツには思い浮かばなかった。ただ、謝罪を繰り返すことしかできず、ヨシノの言葉を素直に受け止める。
 自分の気持ちを見失い、周りに心配をかけてしまったことは、本当に馬鹿と言われても当然のように思えた。
「謝らなくてもいいからさ、さっさとユキヒロに会ってこい」
 ヨシノに抱き締められたままのリツの頭を、シュウはそう言いながらガシガシと乱暴に撫でる。
 けれど、リツはそれにすぐさま頷くことができなかった。
 ユキと会うことも怖い。けれど同時に、晴恵に会うのも怖いのだ。
 確かにリツが姿を消したきっかけは、晴恵にあった。
 けれど、それだけでなく、この辛い状況から逃げ出したいという自分自身の弱さもあったのだ。
 晴恵は、今更自分がユキに会うことなど望んでいないのではないだろうか。否、それ以上に、ユキに会うことを許してはくれないのではないだろうか。
 リツは、一度ユキを見捨てているのだから。
「何やってんの、リッちゃん! ユッキーに会う為に戻ってきたんでしょ? ほら!」
「ヨ、ヨシノ……っ」
 黙りこくってしまったリツだったが、ヨシノはさっさとドアを開け、病室の中に押し込んだ。
 相変わらずの強引さは、心の準備などさせてはくれないようだ。
 転びそうな体勢を何とか整えると、ベッド脇に置かれていた椅子から、人の立つ気配が伝わった。
 晴恵、だ。
「六花ちゃん?」
「あ」
 それ以上、声が出てこなかった。
 伝えたいはずの言葉は喉の奥で詰まり、息苦しさばかり覚える。
 晴恵の顔を直視することすらも出来なくて、ありったけの想いを込めて頭を下げた。
 今更ムシがいいことはわかっている。けれど、やはり許して欲しかったのだ。
「六花ちゃん、顔を上げて」
 痩せて節くれだった手が、静かに肩に置かれた。その手に軽く押されて、リツは恐る恐る頭を上げる。
 目の前には、皺の目立つ目元に微かな雫を浮かべながら、それでも温かな笑みを浮かべた晴恵がいた。
「おば……ちゃ……」
「謝らないといけないのは、私の方だわ。本当にごめんなさい。貴女を追いつめるようなことを言ってしまって」
「そんなことない! おばちゃんは昔から優しいもん! あの時だって私のことを考えてくれたから……!」
 自分を責める晴恵の姿に、リツは慌てて否定した。その瞬間、それまで喉につかえて出てこなかった言葉が、堰を切ったように溢れ出す。
「おばちゃん、ごめんっ。私ばっかり楽な方に逃げて、ユキのことも忘れようとして……。おばちゃんだって辛いのに……」
 伝えたい思いばかりが先走り、リツは上手く言葉を整理できなかった。ただ、思いついたまま声に変換していくだけ。
「無理だったのに……。私から約束したのに、それを投げ出して……。でも、やっぱり……、やっぱり、ユキの側にいたい。ユキと一緒に歌いたい」
 何もかもを投げ出し、偽りに身を包んだけど、結局最終的に捨てることも誤魔化すことも出来なかったこと。
 それは、『ユキの隣で歌うこと』、だった。
 遠回りした結果、それがリツの見つけた真実。
「おばちゃん、私も一緒に、ユキを待ってていい?」
 いつも間にか溢れ出した涙が、リツの頬を濡らしていた。けれど、その濡れた瞳には、以前にはなかった強い意志が宿っている。
 晴恵は、未だ目覚めずベッドに横たわる息子の姿に視線を向けた。
「いつ起きるか、わからないのよ」
「……うん。知ってる」
「このまま目が覚めないかもしれない」
 母親として絶対にそうなっては欲しくない、口に出すのも厭いたくなる状況。
 けれど同時に、それを考えずにはいられない状況でもある。
 リツ自身も嫌というほど感じていたし、つい数分前に別れた貴久の口からも出てきた言葉だった。
 けれど、それでも――。
「それでも、ユキがいない生活より全然いいよ」
 例え、目を開けてくれなくても、声を聴かせてくれなくても、手を伸ばせば触れられる場所にユキがいる。
 触れれば、その肌にはまだ温もりが宿り、胸の奥には確かな鼓動を刻んでいるのだ。
 それならやはり、ユキは『生きて』いる。
 生きている限り、目を覚ます可能性だって残され続けるだろう。
「それに私、ユキと約束してるんだ。ユキは約束を破るような性格じゃないって、おばちゃんが一番知ってるでしょ?」
 リツは精一杯の笑顔で、晴恵に問い掛けた。
 強がりでもあり、自分に言い聞かせる為の言葉でもあったけれど、晴恵はただ静かに頷いてくれたのだった。



 ユキの元に戻ったリツは、かつてのように毎日病院へと通う日々を送っていた。
 とはいえ、以前とは決定的に違う部分が幾つかあった。
 一つは、新たに夕方から飲食店のアルバイトを始めたこと。
 貴久としっかりと明確に話し合ってはいないが、『Anastasia』での仕事は辞めたことになっているだろう。
 元の場所に戻ると決めた以上、逃げ道のような場所を残しておくわけにはいかない。
 何より、いくら理恵子に理解があるとはいえ、やはり申し訳ない気持ちがあった。その上、近い将来貴久達には子供が生まれる。
 これ以上、あの夫婦の邪魔をしてはいけないと思えた。
 だから、あの店に戻るわけにはいかなかった。
 そうなれば当然、生活の糧が無くなるわけで、それを稼ぐためにアルバイトを始めるのは当然の流れだった。
 昼間は病院で晴恵とともにユキの看護にあたり、夕方になるとそのまま出勤する。日付が変わる頃に仕事を終えて自分のマンションに戻り、翌朝また病院へ向かう。
 悲嘆に暮れ、病院と自室の往復をまるで拷問のように繰り返していた頃に比べると、前向きで健康的な生活になっていた。
 その所為か、ヨシノからも「前よりずっと顔色が良い」と褒められたりもした。
 二つ目は、アルバイトのない日に、かつて世話になっていたボイストレーニングスタジオにまた通い始めたことだ。
 プロとしての仕事を始めた時、須藤からも勧められてレッスンを受けるようになっていた。しかし、ユキの事故の後からは一切行っていない。
 担当してくれていたインストラクターは、須藤からバンドの状況を聞いていたらしく、思いのほか快く再レッスンを引き受けてくれたのが救いだった。もちろん、口添えしてくれた須藤の人望もあっただろう。
 いつ、もう一度ユキのギターで歌えるようになるのかはわからない。
 けれどリツは、ユキが目覚めた時にいつでも歌えるようにしておきたかった。
 ユキに歌ってと望まれた時、みっともなく掠れた声など聞かせてしまうわけにはいかないのだ。
 本格的に声を出すことは久しぶりで、再開当初は声の出なさに落ち込みそうにはなったが、同時に歌う心地良さを思い出すことができた。
 以前ほど悲観的にならずに済んだのは、トレーニングのお陰もあっただろう。
 そして、最後に。
 リツは、毎日ユキに話しかけ続けた。
 それは特別珍しい光景ではなく、また難しいことでもなかったけれど、かつては途中から挫折した行為であった。
 いくら話しかけても、ユキからの答えが返らない。その事実が日を追うごとに息苦しさと諦めを呼び寄せ、少しずつ話しかける言葉が減り、やがてほとんど何も言わず、ただユキの寝顔を見つめて溜め息をつくばかりになってしまったのだ。
 けれど、今は違う。
 返事がないのは変わらないが、リツは毎日色んな話をし続けた。
 レッスンのこと、アルバイトのこと、それ以外にも自分の見たこと聞いたこと……。
 いつも並んで歩いていた時のように、とりとめもなく語り続け、時には質問を投げかけた。

 そんな日々は無情にも瞬く間に過ぎていく。
 数か月過ぎても、ユキの容体は良くも悪くも変わらなかった。
「今日は冷えるわね」
 ユキの傍らで編み物をしながら晴恵が呟いた。
 病室から見える空は、寒々しい灰色の雲で覆われていて、太陽の光を遮っている。木々を揺らす風がカタカタと窓を鳴らしていった。
 もう、すっかり冬模様だ。
「うん。天気予報見てたら、雪降るかもって言ってたよ」
「私も見たわ。でも、こっちは白峰ほど降らないでしょうね」
「白峰と比べちゃ駄目だよ、おばちゃん。シュウに写メ見せたら、『豪雪地帯じゃん』って言われたんだから」
 二本の編み針を使って着々と編み上げていく晴恵の手元をぼんやりと眺めながら、リツは肩を竦めて笑う。つられるように晴恵は微笑むと、一旦手を止めて紙袋に編みかけのものを戻し、立ち上がった。
「それでも昔に比べたら、随分と降らなくなったんだけどね。あら、ポットのお湯がもう無かったわ」
「あ、じゃあ私が」
 そう言ってリツが席を立とうとする前に、晴恵は「いいわよ」と素早く制した。
「今日はレッスンの日でしょ? 行くまでのんびりしてなさい」
 言葉は穏やかだったが、有無を言わせぬ空気をまとって晴恵はそう言い残すと、さっさとポットを持って病室を出ていってしまう。
 どうやら、最近の仕事のシフトがキツイことを気遣ってくれたらしい。
 連日のアルバイトと病院通いに加え、休みの日にはレッスンを入れているリツにとって、正直なところ、休息が不足していた。昨日も常より客数が多く、定時よりも一時間近く遅れての退勤となっていたのだ。
 それでも、毎日面会できる時間を目一杯使って病院には来たかった。ほんの数分でも長く、ユキの傍にいられることをリツは選んでいた。
 その結果、当然削られるのは睡眠時間となる。
 今も、ほんの少し気を抜くと、目蓋が落ちてきそうになっていた。
「ユキー、めっちゃくちゃ眠いよー」
 椅子に座ったまま、ぼふっとベッドに頭を預ける。そんな体勢になると、尚更眠気が増したように感じた。
「あー、今三秒で寝れそう。ボイトレ中に立ったまま寝るかもー」
 既に目蓋は下がり切り、閉ざされた視界の奥でユキが笑った気がした。
『リツは電車でも立ったまま寝てたもんね』
 そんな風に、少しからかうような声まで聞こえてきそうだった。
 もちろん、そんなはずはないけれど、ほんの一瞬垣間見た夢の中で、懐かしい笑い声を聞いた気がして――。
 刹那、空気を裂く激しい音に、リツは飛び起きた。
 部屋にはまだ晴恵は戻ってきていない。意識がとんでいたのは、わずか数分のことだったようだ。
「びっ……くりしたぁー」
 音の正体は、どうやら雷のようだった。その証拠に、今もまた低い唸り声のような音が響き、時折稲光が走る。雲の色は更に暗さを増していた。
 窓辺に寄ると、リツの目の前をひらり。
 白い欠片が横切った。
「あ、ホントに降ってきた。ユキ、雪だよ。初雪」
 そう言いながら、いつかのグラウンドのようにユキへと振り返る。
 ユキは、穏やかな表情のまま、静かに眠っていた。
「……あのさ、ユキ。私ね、あの歌詞ちょっと書き直したんだ」
 構わずリツは話し始めた。目の前のユキが、まるで聞いていてくれるかのように。
「あの時と今とじゃ、また気持ちが違うから。とか言っても、最初の歌詞はユキにもまだ教えてなかったんだし、比較できないだろうけどさ」
 ユキの代わりに、窓ガラスを鳴らす風が相槌を打つ。頼りない薄片は数を増やし、外界を白銀に染め始めていた。
 この冬最初の雪を見つめながら、リツは約束の歌に想いを馳せる。
「こんな日に、ぴったりの歌になったと思うんだ」
 ゆるやかに、ひそやかに、世界を塗り替えていく白い雪。
 そんな風に気付かぬうちに、自分の世界はユキの色に染まっていったのだ。
 音で。声で。その全てで。
 その想いが、歌となって零れ出す。
 リツの澄んだ歌声が、病室内に拡がった。
『ちゃんと気持ちを伝えたら、びっくりしてユキ君も目を覚ますかもな』
 歌いながら、貴久が励ますように放った言葉を思い出す。
 リツにしてみれば、この歌がユキに対する告白と同意だ。
 もし、この歌がきっかけで目を覚ましたら――。
 そんな夢物語のような奇跡を、ほんの一瞬期待した。
 けれど。
「……はい、ここまで」
 自分自身でリツは曲を打ち切り、宣言する。
「聞こえてるかどうかわからないから、起きてから最後まで聴かせるね。ってことで、聴きたかったらさっさと起きろよ、ユキ」
 眠ったままのユキの額に軽くデコピンをくらわせ、リツは挑発するように笑った。
 同時に、都合のいいことを考えてしまった自分に苦笑する。
 お伽話のように簡単にはいかないのが現実だ。
「さてと、おばちゃん遅いな。もしかして、また看護婦さんに捉まってんのかな?」
 晴恵は人が良い所為か、話し好きの中年看護師によく捉まっていた。今日もその口だろうと思い、話を途中で辞退できない晴恵を救いだそうとリツはドアへと向かった。
 その一瞬、視界の端に何か動くものがあった気がした。
 反射的に振り返り、動いたと思われる辺りに目を向ける。
 そこにあったのは、ユキの左手だった。けれど、力なく投げ出されたその手は、ピクリともしていない。
「錯覚、か」
 お伽話とは違うと思った直後に、期待を捨て切れていない自分が少しばかり恨めしい。
 焦っても仕方がないんだからと自らに言い聞かせ、病室を出ようとドアの取っ手に手を掛けた。
 スライド式のドアは、通常より軽い力であっけなく動いた。片手にポットを下げた晴恵が目の前にいる。偶然にも、二人同時にドアを開いたらしい。
「あ、おばちゃん、今迎えに行こうと思ってたんだ」
「ごめんなさい。また捉まっちゃったわ」
 恥ずかしそうに笑う晴恵を奥へと通し、リツはドアをゆっくりと元に戻す。
 背後で、晴恵がポットをセットする音が聞こえ、その後、
「雪央?」
 短い呼び掛けが聞こえた。
 いつもと違う声の調子に、リツは慌てて二人の側へと駆け寄る。
 ユキを覗き込むように見つめる晴恵が、震えた声を洩らした。
「雪央、あなた……」
 うっすらと、けれど、確実に、長きに亘って閉ざされ続けた瞳が開いていた。
「ユキ……!」
「雪央、わかる? お母さんよ! 六花ちゃんもいるのよ!」
 晴恵の必死の問い掛けに応えようとしたのか、ユキの唇が微かに動く。けれど、それは声にはならず、微かな吐息が洩れただけだった。
 それでも、何かを伝えようとユキの口はゆっくりと動き続けた。
 視線も、確実に晴恵とリツを捉えていた。
「私、先生呼んできます!」
 ユキに呼びかけ続ける晴恵を置いて、リツは病室を飛び出した。
 「走らないで下さい」と注意を投げかけてきた看護師をそのまま強引に捕まえ、溢れ出しそうな涙を必死の思いで堪えて告げる。
「ユキが……、律野君が、目を覚ましました。先生、呼んで下さい!」
 驚き目を見開く看護師だったが、すぐさま我に返ると「わかりました」と急ぎ足に踵を返す。
 リツはそのまましばらくその場に座り込み、生まれて初めて、信じてもいない神様に感謝の言葉を捧げたのだった。



「聴こえてたよ、ずっと」
 以前と同じように話すことが出来るようになったユキは、リツと二人きりになった瞬間、突然そんな告白をした。
 リツは何のことだかわからずに、不思議顔で首を傾げる。
「聴こえてたって、何が?」
「全部。リツ達の会話も、話しかけてくれる言葉も、それから、歌も」
「え?」
 リツはユキではないから、確認のしようがないし、嘘だと否定も出来ない。
 けれど、ずっと眠り続けていたのに、全てが聴こえていたなどとは、にわかには信じられなかった。
「全部聴こえて、リツや母さんが辛そうなのもわかってて、でも身体は何一つ言うことを利いてくれなかったから、もどかしかった」
「ユキ……」
 もし本当にユキの言った通りなら、一番辛かったのはユキ自身だったのかもしれない。
 ユキには耳を塞ぐことも、リツのように逃げ出すこともできなかったのだから。
 そして思うのは、病室に来なくなったリツをどんな風に思っていたのか。それを考えると、リツは自分の罪深さを改めて感じてしまう。
「……それで、続きは?」
「続きって?」
「『Song for Snow』の。目が覚めてからって言ってただろう? ついでに言うと、動けない人間にデコピンはどうかと思うよ」
 結構痛かったんだから、と少し拗ねたように抗議するユキに、リツは思わず顔を覆った。そのまま、ユキの横たわるベッドに突っ伏してしまう。
「リツ?」
「ホントに……聴こえてたんだ」
「そうだって言ったでしょ」
「すっげぇ、恥ずかしい」
 そう言ったリツの声は、微かに震えていた。
 それはもちろん、恥ずかしさからではなく。
 簡単に逃げ出した自分の不甲斐なさに対する怒りとあさましさ。そして、そんな情けない自分の歌をちゃんと聴き、何も言わず許してくれているユキへの感謝と愛しさ。その他様々な感情がない交ぜになり、涙となって溢れ出した。
 そんなリツに気付いているのかいないのか、ユキは素知らぬ顔で話を続ける。
「お陰様で、今俺の頭ん中は『Song for Snow』のアレンジと新曲の構想でグルグルだから。ちゃんと責任とってよ、リツ」
 まるでリツが歌ったことが問題だったとでも言うようなユキの口振りに、「他人の所為にして」と心の中でだけ苦情を言う。けれどそれはけして本気の不満ではなく、くすぐったさを感じるような甘さが含まれていた。
 そのまま、リツはしばし考え込み、気付かれないように涙を拭うと、ゆっくりと顔を上げた。
 未だ横たわったままのユキを真っ直ぐに見つめる。
「……いいよ。一生かかるかもしれないけどね」
 プロポーズ紛いの台詞に、珍しくユキが面食らったような表情を見せた。
 けれど、それはゆっくりとほどけると、幸せそうな微笑みへと変化した。
「ああ、いいね、それ。一生かけてもらおう。手始めに、最後まで歌ってもらおうかな」
 見つめ合う互いの顔には、もう、共にあることのできる喜びしかなかった。
 リツは座っていた椅子から立ち上がると、姿勢を正す。
 そっと瞳を閉じると、耳の奥には鮮やかに蘇る旋律があった。
 風に鳴る窓の音をカウント代わりに、リツの心に寄り添うギターの音色が溢れ出す。

 ゆったりと空気を胸に招き入れると、取り戻したばかりの大切な人への想いを、一つ一つ確かめるように紡ぎ始めた。

Song for Snow [fin] Conclusion:2010.11.29