Song for Snow

#13 Dead-end Tomorrow

 悪夢のような日々は、終わらない――。

 病院からの帰り道、シュウは落ち込んでいるヨシノを誘って小さなコーヒーショップへと向かった。
 ユキの事故から一週間。
 奇跡的に一命は取り留めたものの、未だユキの意識は回復の兆しを見せなかった。
 毎日病院に通っているが、いつも全く様子の変わらないユキの姿に落胆する。
 外傷がかなり回復しているだけに、その姿は本当にただ眠っているとしか思えない。今にもその瞼が開きそうな気さえした。
 だからこそ逆に、今日こそは、ユキの笑顔を見られるのではないかという期待は、一日ごとに色褪せていった。
 そして、リツは――。
「ねえ、シュウ。リッちゃんどうにかならないのかな?」
「そうだな。あれじゃリツの方が先に参っちまう」
 ヨシノの問い掛けに答えながらも、シュウ自身にも良い案など全く浮かばなかった。
 代わりに思い浮かぶのは、日に増すごとに顔色の悪くなっていく、リツの表情。
 目を覚まさないユキの元にリツは毎日通い続け、トイレ以外に席を立つこともほとんどなく、面会時間の終了ぎりぎりまで側を離れない。更に食事もほとんど口にしていない様子だ。
 ヨシノが食事に誘っても、「ユキがいつ目を覚ますかわからないから」と、リツは頑なに側から離れるのを拒む。
 事故を知って駆け付けたユキの母親――晴恵も、リツがあまりにも思い詰めた様子なので心配しているほどだった。
 リツにとって、ユキの存在は何よりも大きい。
 それは、二人をずっと近くから見守ってきたシュウとヨシノには、わかり過ぎるほどに明白な事実だ。
 そのユキがリツの目の前で事故に、いや、正確に言うと殺されそうになったのだ。
 そんなことがあったのに、リツが平気でいられるはずがない。
 ユキに危害を加えた二人組は、すでに警察に身柄を拘束されているらしい。
 けれど、そんなことは何の救いにもならなかった。
「シュウ、どうしよう」
「おい、ヨシノまで泣くなよ」
 泣きたい気持ちは誰もが同じだったけれど、シュウはそう言わずにはいられなかった。
 ヨシノが涙を拭いながら、「だって」と言い訳する。
「リッちゃん、やっと前向きになるつもりだったんだよ?」
「前向き?」
「ちゃんと言うって……、ユッキーに、ちゃんと告白するんだって、言ってたの……」
 それを聞いて、シュウはヨシノが自分以上に落ち込む理由がやっと理解できた。
 リツとユキは、二人を知る誰から見ても両想いだった。けれど、恋人同士という関係になることを、リツは怖れていた。
 詳しい原因をヨシノ達は知らないけれど、かつて第三者も含めた恋愛で揉め、二人は疎遠になっていたらしい。
 リツが男っぽい言葉使いや振る舞いをするのも、ユキに女であることを意識させない為なのではないかとヨシノは思っている。
 そこまでして徹底的に「仲間」であることに固執し続けたリツが、ユキと揃っての里帰りから戻った直後にヨシノに一大決心を告げたのだ。
 帰郷の際にリツに心境の変化を与えるような出来事があったのだろう。
 リツとユキに幸せになってほしいと心から願っていたヨシノは大喜びではしゃいだ。
 それが今や、遠い過去の話のようにすら思える。
 シュウの胸の内にも、忌々しい思いが広がっていた。
 ヨシノと同じように、シュウも二人が上手くいくよう願っていたのだ。
 この事件さえなければ、今頃二人はこれまで以上に仲睦まじく、そして二人で作り上げた新曲を、リツは自信満々に皆の前で披露していたはずなのに。
 「くそっ」とシュウの口から誰に向けたわけでもない悪態が零れる。
 頭の中に過ぎるのは、担当医師から聞いた、ユキの状況。
『最善は尽くしますが、意識が戻る可能性は、あまり高くはありません』
 冷静に、けれど苦渋を滲ませて担当医はそう告げた。さらに、厳しい言葉は続く。
『もし、意識が回復したとしても、身体に障害が残る可能性もあります』
 その障害の可能性は様々で、一概にどうなるとは言い切れないようだったが、最悪の場合は半身不随になる可能性まであるらしい。
 どこまでも暗い未来しか想像させてくれない医師に、怒りをぶつけたくもなった。
 しかし、それは単なる八つ当たりでしかない。今現在も、病院側は努力を続けてくれているのだから。
 何もできないことがこんなにも歯痒い。
 ユキに対しては勿論、リツに対してさえも。
 結局二人は、注文した物に手をつけることもなく、ほぼ無言で店を後にした。
 テーブルには、ただ静かに熱を失っていくコーヒーだけが残されていた。



 そんな日々が積み重なり、心の中に重苦しさだけが増していく。
 気付けば、ひと月ほどが過ぎていた。
 相変わらず、ユキの意識は戻らない。晴恵にも疲れが色濃く影を落とし、かろうじて見せる笑顔にも力がなかった。
 リツは、見るからにやつれていた。
 それでも倒れずに済んだのは、ヨシノが無理矢理に食事を取らせたからだろう。側を離れようとしないのならばと、お弁当を作って持っていき、食べさせたのだ。
 さすがにリツもそれを無下に断ることもできなかったらしく、大人しくヨシノに従った。

 今日もまた、ヨシノはお弁当を持参して、シュウと共に病院を訪れていた。
 面会受付を済ませ、すでに通い慣れてしまった病室への廊下を歩く。
 小さくノックをした後、「失礼しまーす」と、ヨシノは控えめに声を掛けてから病室のドアを開けた。
 ベッドの上には、様々な管や機械に繋がれたユキ。
 その傍らには晴恵の姿しかなかった。
「こんにちは。リッちゃんはお手洗いでも行ってるんですか?」
 リツがユキの側にいないことは珍しい。しかし、今までにも偶然席を外していたことがあった為、ヨシノは軽い気持ちでそう問いかけた。
 ところが、晴恵は不安げな表情で首を横に振る。
「今日、六花ちゃん来てないのよ。だから貴方達と一緒に来るのかと思っていたんだけど……」
「え? 来て、ないんですか?」
 有り得ない。
 即座にヨシノとシュウの頭にはその言葉が浮かんだ。
 どれだけ体調が悪くても、リツはユキに会いに来ていた。あまりにも具合が悪そうなので、そのまま病院で診察を受けさせたことだってあるほどだ。
 家に強制送還したことはあっても、リツの意思でここに来なかったことは一日だってない。だとすると、それはリツが来られないだけの理由があるとしか思えなかった。
「ちょっと電話掛けてきます」
 いてもたってもいられなくなり、ヨシノは携帯だけを持って病室から離れた。
 走ることはできないので、出来る限り早足で院内を抜け、中庭の隅でリツの携帯電話の番号へと掛ける。
 しかし、数秒のラグの後、コール音の代わりに聞こえてきたのは無機質な音声ガイダンス。それはヨシノを愕然とさせるには十分過ぎるほどのものだった。
「な、んで……?」
 それ以上の言葉が出てこない。
 何故なら、そのガイダンスがリツの携帯番号が現在は使用されていない旨を告げていたからだ。
 もちろん、番号を変更した連絡なども受けてはいない。
 すぐに思い立って、今度は別の番号へと電話を掛けた。リツの一人暮らしの部屋につけられているはずの固定電話だ。
 しかし、こちらも同じく番号未使用のガイダンスへと切り替わってしまった。
 泣きたくなるのを堪えて、ヨシノはユキの病室へと戻る。シュウならきっと、この状況を打破してくれるのではないかと、か細い期待を込めて。
「ヨシノ? どうしたんだ?」
 戻ってきたヨシノに、シュウは明らかに不審そうな眼差しを向けた。
 それは当然だろう。電話を掛けると出ていった時以上に、ヨシノの表情は悲壮感を増していたのだ。
「リッちゃんの携帯、解約されてるの」
「解約? 家は?」
「そっちも。ねえ、シュウ、リッちゃんまさか……」
 誰もが最悪の事態を想像してしまう。
 晴恵の身体がぐらりと傾ぎ、側にいたシュウは慌ててその痩躯を支えた。
「大丈夫ですか?」
「六花ちゃん……まさか、私があんなことを言ったから……」
 シュウに支えられながら、晴恵が自らを責めるように顔を覆ってしまう。
 リツに何を言ったのかを問い質すと、涙混じりに晴恵は答えた。
「雪央が目を覚ます可能性は本当に低いと、この間改めてお医者様に言われたの。だから、六花ちゃんはもうこの子のことを忘れた方が幸せなんじゃないかって」
「そんな……」
「私だって、そんなことは思いたくないわ。でも、六花ちゃんは昔から元気で明るくって。この間一緒に帰ってきた時だって、二人とも本当に仲が良かったから、このままずっと一緒にやっていってくれればと思っていたのに……」
 何度も涙で声を詰まらせ、取り出したハンカチで何度も目元を拭いながら晴恵は続ける。
「今の六花ちゃんは見ていられなくて。雪央も、六花ちゃんには幸せに笑っていてほしいんじゃないかと考えたら……」
 幼い頃からの二人を知っている晴恵にとっては、ユキが目覚めないことだけでなく、リツが思い詰めてしまっている姿が苦しくて仕方がなかったのだろう。
 母親だからこそ、ユキなら今の状況をどう考えるのかが想像できた。だからこそ、言いたくもない言葉をリツに向けたのだが、それがこんな風な音信不通状態に陥るとは思いもしなかった。
「おばさん、私、今からリッちゃんのマンションに行ってきます」
「渡瀬さん」
「だからおばさんも、そんな風に考えるの辞めません? ユッキーは、絶対目を覚ますって信じましょうよ。ね?」
 ヨシノにそう言われて、晴恵は更に涙を溢れさせ、顔を覆いながらも何度も頷いた。
 前向きな発言をしたのは、ヨシノ自身の不安の表れでもあったのだが、それでも晴恵が考えを改めてくれたことには少し救われる思いだった。
「ヨシノ、行くか」
「うん。あ、おばさん、これみんなで食べようと思って作ってきたんです。少しだけいいんで食べて下さい。おばさんもちゃんと食べないと、倒れちゃいますよ」
 今日は大人数で食べると思って、いつもよりずっと多く作ってきたお弁当を晴恵へと手渡す。明らかに晴恵一人では食べきれない量ではあったが、晴恵は素直にそれを受け取った。何より、ヨシノの心遣いが、晴恵には有り難かった。
「ありがとう、渡瀬さん。六花ちゃん見つかったら、教えてちょうだいね。私、ちゃんと謝りたいわ」
「はい。すぐ連絡します。シュウ、行こう」
「おう。じゃあ、失礼します」
 二人揃って晴恵に頭を下げ、病院を後にする。目指す先は、リツが一人暮らしをしているワンルームマンションだ。
 悠長にしている気分ではなく、タクシーを拾い直接目的地へと向かう。
 築年数の割に綺麗なのだとリツが自慢していたマンションの前でタクシーを下りると、真っ直ぐにリツの部屋の前へ。
 鍵は、当然かかっていた。
 インターホンを押して少し待ってみたものの、何の返事もない。
 出掛けているのか? それとも、中にはいるのだが無視をしている可能性もあるし、もっと最悪の可能性すらあった。
 しばらく考えた挙句、二人は一階に住んでいる管理人の元を訪ねることにしてみた。
 もしリツが中にいて、更に彼女の身に何かあったのだとしたら、どちらにしても管理人の協力が必要になる。そう判断しての訪問だった。
 しかし、そこでもまた二人は新たな衝撃を受けることとなった。
「305の戸枝さんなら引っ越しなさったよ」
 初老ののんびりとした雰囲気を纏った管理人は、これまたのんびりとそう告げた。
 しかし、それを聞いた方はのんびりとなんてしていられない。
「引っ越したって……いつですか!?」
「昨日の夕方ですなぁ。急だもんでこっちもビックリしたんだが、『来月分の家賃も払いますから』言うて、解約書と一緒にお金も置いていきなさって……」
 それ以上、聞く必要はなかった。二人は管理人に礼を言って、マンションを後にする。
 完全に、リツを捕まえる為の手がかりがなくなってしまった。
「シュウ、どうしよう……」
「……ごめん。俺もどうしていいかわかんねぇ」
 途方に暮れた二人には、もう新たな道を探す力は残されていなかった。

 こうして、リツはメンバーの前から、そしてユキの側から姿を消したのだった。