Short

Room & Rose

 君がいない。
 ただそれだけのこと。
 なのにどうしてこの部屋はこんなにも寒々しく、広々と感じてしまうのだろう――。


 どんよりと、室内の空気が重い。
 窓越しに見える空には、暗い雲がのってりと横たわり、霧雨のような雨がますます視界を暗くしていた。
 けれど、天候の所為で空気が重いわけではない。
 原因のほとんどが、この部屋の中の惨状にあった。
 さほど広くはない、2DKの間取り。
 キッチンには洗われていない食器や調理器具がいくつも置かれていて、料理のできるような状態ではない。
 二つある洋室は、片方は洗濯物やゴミに埋もれ、寝室として使っているもう一方は、寝るためだけにしか使われないはずなのに、本やCDなど様々なものが散乱していた。
 部屋中、散らかり放題である。
 そして窓際に、それらとあまりにも不似合いな鮮やかに赤い薔薇の花が挿されていた。
 けれどそれもすでに色褪せ始めている。

 もう、『彼女』がいなくなってからどれほどの時間が経ったのだろうか?
 日付を数えることすらしていない。
 あの日から、僕の生活は何も変わっていない。
 部屋の中はあの日のまま、ただ薔薇がホコリをかぶりくすんでいくことだけが、時間の流れを教えていた。
 何がいけなかったのだろうと、何度も自問自答を繰り返す。
 僕たちはあんなにも互いを必要としあっていたのに。
 いつの間に、『彼女』は僕を必要としなくなっていたのか……。
 知らずに漏れた吐息が、寒さに白く色づいては、すぐに消える。
 それがまるで、『彼女』と過ごした日々までもが儚く消える夢であったと教えるかのように思えて、ますます暗い気分へと落ち込んでいった。
「……てかさ、いい加減その不気味な独白やめてくれない?」
 不躾な言葉が突然ぶつけられる。僕はのろのろと声のした方に視線を巡らせた。
 そこには、あの薔薇と同じく鮮やかな赤のワンピースの上に、雪の様に白いジャケットを羽織った不機嫌な表情の女性。
 僕のとてもよく知った人物だ。
 そう、かつての恋人と呼んだ存在なのだから。
「だーかーらー! その不気味な独白やめろって言ってるのよ!」
「お? おおっ? 声に出ていましたか?」
「残念ながら全部出てたわよ。相変わらずの変な癖ね」
 心の底から呆れきった元恋人の言葉に、僕は苦笑するしかなかった。
 どうも昔から思っていることが知らないうちに声に出てしまっているのだ。
 どんな状況でもそれが変わらないため、よく彼女には「恥ずかしいからやめてよね」と怒られたものだった。
「それで、どうしたんですか? わざわざ一年前に振った男のところに来るなんて、君らしくないでしょうに」
「近くに来る用事があってここを通りかかったから寄ってみたのよ。そしたらチャイムおしても返事はないし。鍵が開いてたから中でくたばってるのかと思ったら独り言ブツブツ言ってるし」
「ははは……。すみません。あ、お茶でも淹れましょうか」
 億劫に思いながらも僕は立ち上がる。しかし、すぐに彼女がしかめっ面でそれを制した。
「いいわよ。座ってなさいよ。アンタに任せたら、片付くものも余計に散らかるわ」
 そう言って持っていた高級ブランドのバッグを何とか空いていたスペースに置き、ジャケットをその上に重ねた。
 久しぶりに会った彼女は、やはり綺麗でかっこいい。
 今になっても、どうして過去に彼女は僕のようなうだつの上がらない男と付き合っていたのかが不思議だった。
「仕方ないでしょ。アンタほっといたら死んじゃいそうなんだもの」
「おっと。また口に出ていましたか」
「ホント、治らないわね。そのクセ」
 重ねられた言葉には、呆れとともに懐かしさも含んだような笑みも添えられていた。
 そのまま彼女はキッチンに向かい、溜まっている洗い物を始める。
 その後ろ姿にかつての姿が重なり、自然と笑みが零れた。
「そういえば、何でこんなに部屋が荒れてるのよ。アンタ、『彼女』の為に結構マメに片付けようとはしてたじゃない」
 彼女の発する『彼女』という単語に、僕はひととき忘れかけていた痛みを思い出した。
 彼女の言う『彼女』とは、もちろん彼女自身ではない。
 先ほどまで僕が物思いに沈んでいた相手の、つまりは最近ここから出て行ってしまった『彼女』のことだ。
「もう、『彼女』はいませんから……」
「え?」
 僕の沈んだ声音に、彼女が驚いたように振り返る。
 信じられないものを見るような瞳だ。
「出ていきました。僕の知らない間に」
「あんだけアンタにべったりだったのに? 外にオトコでも出来たのかしら」
「何を言うんです! 『彼女』に限ってそんなこと!」
「わっからないわよー? 今頃ポコポコ子供産んでるかもねー」
「うわぁー! そんなの嫌だー!」
 彼女の意地悪な言葉に、僕は頭を抱えて蹲ってしまった。
 水音に混じって、楽しそうな彼女の忍び笑い。
 完全に彼女は僕をいたぶる為に来たのだと理解した。
 頭の中で、先ほどの彼女の言葉がぐるぐると巡る。
 僕の知らないうちに『彼女』には恋人ができ、更には子供まで出来ているなんて、考えるだけでも眩暈を起こしそうだった。
 もし本当にそうだとしたら、僕は『彼女』のことを誰よりも理解しているつもりで、本当は全く何にもわかっていなかったのだ。
 『彼女』が甘えてくれることに安心しきって、『彼女』を理解しようとすることを怠った僕自身の罪。
 僕は、『彼女』に見限られても仕方のない男なのだ。
「あーもう! 鬱陶しいわね。これくらいのことでそこまでへこまないでくれる?」
「君には僕の心の痛みなんてわからないんです」
「はいはい、わかりませんよ。大体、そんなに大袈裟にしなくたって、お腹がすいたらまた戻ってくるわよ」
「『彼女』を食欲魔人みたいに言わないで下さいよ」
 ムッとして言い返すが、彼女は薔薇のように鮮やかで余裕のある笑みを崩しはしなかった。所詮僕ごときが何を言っても彼女には通じないのだろう。
「さて、とりあえず使える程度には洗えたし、次はこっちね」
 適当に洗い物を切り上げた彼女が、今度は僕のいる部屋の方へと向き直った。
 どうやら部屋の片づけもするつもりらしい。しかし、さすがにそこまでやらせてしまうのは申し訳なかった。
「え、いや、あの」
「何よ? 文句でもあるの?」
「いえ、文句はないですけど、せっかく来てくれたのに洗い物に掃除って、家政婦じゃないんですから」
「この状況じゃ落ち着いてお茶も飲めないじゃない。さ、どいてどいて」
 少しばかり憤然とした口振りの彼女に、確かにそうだと納得をした。
 彼女は僕とは違って綺麗好きだったし、この惨状は数分の滞在でも我慢できるレベルではないのだろう。
 まずは部屋中の窓を解放し、空気の入れ替えを始めた。
 それからてきぱきと散乱しているゴミや衣類、本などをまとめ上げると、様々なものに埋もれていたローテーブルとソファーが顔を出す。
 ホコリの薄く積もったローテーブルは布巾で綺麗に拭き、洗面所から持ってきた固く絞った雑巾でこちらもホコリまみれのソファーを座れる程度に回復させた。
 本格的な掃除ではなかったが、一時的に一部分だけが本来の機能を取り戻す。
 それにとりあえずは納得をしたのか、彼女はキッチンへと戻ってやかんを火にかけた。どうやらお茶を入れるつもりなのだろう。
「すみませんね、何から何まで」
「いいわよ、これくらい。これだけ派手に散らかってりゃ逆にやりがいあるわ」
 座ってなさいよと促され、僕はおずおずと綺麗になったばかりのソファーへと腰掛けた。
 すると、ちょうど目の前に赤い薔薇の花が窓から入る風に揺らされていた。
 ぼんやりと暗い外の景色を背景にすると、いくらくすんでいようともその赤は鮮やかだ。
 そういえば、この薔薇を買ってきたのは彼女だったと思いだした。あまりにもこの部屋が殺風景過ぎるからという理由だった。
「何ぼーっとしてんの?」
 そう問いかけながら、彼女はすぐさま僕の視線の先の赤い薔薇に気づいた。
 そして大きなため息に呆れを乗せて吐き出す。
「アンタまだ残してたの? 別れた女が置いてったものなんて捨てなさいよ。しかも百円ショップ製よ、アレ」
「君からもらったものを捨てられるわけないじゃないですか」
「何よ。そんな怯えなくても祟ったりしないわよ?」
「いや、そういう意味じゃなくて」
 彼女が的外れな言葉を返すのに、思わずつっこむような口調になってしまった。
 彼女は笑うかもしれないが、僕は今でも彼女を好きなのだ。
 もちろん、『彼女』とは違う意味で。
 だから大好きな彼女が置いていったものは大切で捨てられない。たとえ、百円で購入された造花の花だとしても。
「だったら、ホコリくらい払いなさいよ、もう」
 彼女は薔薇をひょいと取り上げると、窓の外で軽くはたいてホコリを落とした。その後、先ほどソファーを拭いていた雑巾で軽く汚れを拭う。
 くすんでいた薔薇はそれだけで随分と鮮やかさを取り戻した。まるで、彼女がこの家に持ってきた頃のように。
「あ、お湯沸いたみたいね」
 彼女は美しさを蘇らせた薔薇を元の一輪挿しへとなおすと、お茶を淹れるためにキッチンへと戻っていった。
 しばらく待つと、紅茶の仄かな香りが漂ってくる。
「はい、私が淹れてあげたんだから高くつくわよ」
「え、お金取るんですか?」
「金なんか取らないわよ。どうせアンタたいして持ってないんだから」
「は、はあ、確かにそうですけど……」
 甲斐性なしとストレートに言われるとさすがに堪えるが、彼女のはっきりとした物言いが僕は結構好きだったりする。
 付き合っている間もさんざん貶されてきたが、不思議とそれで気分を害したことはなかった。
 それにしても高くつくとはどういう意味なのだろうかと思案していると、彼女は僕の隣に腰掛けた。隣に座ったのには別に他意はないだろう。何故なら、この部屋にソファーは一つしかないのだから。
 しかし、久しぶりに近い距離に女性がいるということに今更ながら少々緊張してしまった。それに『彼女』とは違い、彼女とはあまりベタベタと甘ったるい付き合い方をしていたわけではないのだ。
「それで、何で『彼女』が出ていったのか見当はついたの?」
「い、いえ。お恥ずかしながら、まったく……」
 前触れなく『彼女』の話題になり、僕は慌てて答える。面目なさそうに頭を掻く僕に、彼女は容赦なく冷たい一言を発した。
「アンタね、あんだけ心配してたんならもっといろいろ考えなさいよ」
「す、すみません」
「保健所に連絡とかは? あと、近所の人に訊いたりとかした?」
「い、一応は……」
 そう返答した瞬間、コトリと窓際で何かが動く音が聞こえた。僕たちは揃ってそちらに視線を向ける。
「あら」
「エ、エリー!」
 いなくなったはずの『彼女』がそこにいた。
 雨に濡れた滑らかな純白の毛並みをペロペロと舌で拭いながら。
 そう、『彼女』は僕が溺愛している白猫だった。
 僕が傍まで行きゆっくりと手を伸ばすと、甘えた声ですり寄ってくる。そっと抱き上げると、雨滴で冷えてはいるものの確かな温もりを感じた。
 ソファーから彼女が立ち上がり、一旦部屋から出ていき、すぐさま戻ってくる。その手にしていたのは『彼女』専用にしていたタオルだった。それを広げて、濡れた『彼女』を優しく受け取り、水分を拭き取ってくれる。
「もう、やっぱり戻ってきたじゃない」
「ええ、ええ。本当に良かったです! エリー、もう勝手に出て行っちゃ駄目だよ?」
「だったら戸締りもしっかりとしときなさい! 帰ってきたからいいものの、車に轢かれたりしてたらどうすんのよ。最近は動物に対して平気で虐待するような人間だっているんだから」
「は、はい。すみません」
 もっともな言葉に、ただただ同意するしかなかった。
 けれど同時に、『彼女』の為に僕を叱ってくれる彼女に笑みが零れる。
「何笑ってんのよ。アンタ人の話聞いてる?」
「はい、聞いてますよ」
 頷きながらも、笑いたい気分は止まらなかった。
 何だかんだと罵倒しながらも、彼女は僕のことを心配してくれているのだ。
 とっくの昔に縁は切れたと思っていたのに、もしかしたらとあらぬ期待を抱いてしまう。
「あのですね」
「何よ」
「『彼女』も戻ってきてくれたことですし、いっそのこと君も戻ってきてくれませんか?」
「……はぁ!?」
 突拍子もない僕の提案に、彼女はそのまましばらく固まっていた。
 何でそうなるのかがわからないと言いたげだ。
「……あのね、アンタの中で私は家出した猫と同じわけ?」
「君も気紛れなので、ある意味猫ですよねー」
「雨の所為で脳味噌湿ってカビ生えてんじゃないの?」
「酷い言い方ですね」
 痛烈な台詞に、僕は苦笑いになる。
 やはり夢を見過ぎたかと少し自分の思い込みの強さを呪いたくなった。
 彼女は呆れきってしまったのか、それとも機嫌を損ねてしまったのか、『彼女』をタオルごと僕に渡すと、置いてあったジャケットとバッグを脇へ抱え込む。
「帰るわ」
「あ、駅まで送ります」
「いいわよ。アンタは『彼女』との甘い再会を堪能してなさいよ」
 どれだけ言おうと、きっと彼女は僕が送っていくことを断るだろうと思えた。
 完全な拒否態勢だ。
 せっかくの再会なのに、思いあがった発言をしてしまった自分に情けなさが生じる。
「ちょっと、見送りの時くらいそんな不景気な顔すんのやめてくれる?」
「ああ、すみません」
「それと、次に来るときまでにはもうちょっと部屋片付けときなさいよね」
「はい。……え?」
 返事を返してしまってから、彼女の言葉の意味を消化して、思わず彼女の顔をマジマジと見つめ返してしまった。
「まぬけヅラね」
 彼女の評価通り、まの抜けた表情をしていた僕に彼女は鮮やかで悪戯心に満ちた小悪魔のような笑みを浮かべる。
 僕の期待は、裏切られてはいなかったのだ。
 もしかしたら、彼女も長い間僕と別れたことを悔やんでくれていたのかもしれない。
 ならば、先ほどの「高くつく」というのはもしや体で払えということだろうか!?
 それならもっとわかりやすく言ってくれればいいものを……。そういう部分だけ回りくどく言う彼女がまた可愛いとも思うのだが。
「ちょっと、都合よく妄想しないでよ」
「お? おおうっ? ……またやってしまいましたか」
「もう、そんなんだから危なっかしいだけよ。それにこんな汚い部屋だったら『彼女』が可哀想でしょ? 綺麗にしてるか検査しに来るだけだからね。わかった?」
「はい、わかりました」
 僕の素直な返事に、彼女はもう一度ニンマリと笑うと、霧雨の煙る外界へと姿を消してゆく。
 彼女の背中が見えなくなるまで見送ると、僕はもう一度綺麗になったソファーに腰を下ろし、クスクスと笑みを零した。
 彼女との鮮やかだった生活の頃と同じ姿に戻った薔薇を見つめながら。
 戻ってきた『彼女』は、そんな僕と薔薇の花を不思議そうに交互に眺めるが、やがて僕の膝の上で居心地よさそうに丸くなって眠りについた。


テーマ楽曲:Room チェッカーズ