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あだしおもひ

 講義を終えるチャイムが鳴り、教授が口早に締めの言葉を発すると、一斉に様々な音が氾濫しはじめた。テキストや筆記具を片づける音、椅子から立ち上がる音、そして待っていましたとばかりに話しだす学生たちの声。
 私も机の上に広げられていたものをかばんにしまうと席を立つ。
 それと同時に、すぐ隣に座っていた人物から声をかけられた。
「相川、電車だろう? 駅まで一緒に帰ろう」
 そう屈託ない笑顔を向ける彼に、私は首を傾げる。
 彼は大学からほど近い場所に住んでいて、電車を使うほどの距離ではなかったはずだ。だが、すぐにその理由に思い当たった。
「八重子と待ち合わせ?」
「そう。映画観に行くんだ」
 彼はますます笑顔を満開にして答えた。その表情に、いつも八重子に対する愛情の深さを感じさせられる。
 八重子は、私の友人だ。そして、彼は八重子の彼氏。二人が付き合ってもう一年以上経つけれど、仲の良さはいまだに変わらない。
 私とは、まるで正反対。
「ついでに、傘に入れてもらえるとありがたいんですけど」
「忘れたの?」
「今日は寝坊して慌てて出てきたからさー」
「今日『は』じゃなくて、今日『も』に訂正が必要じゃない?」
 へへへと笑ってごまかす彼に、つい溜め息を漏らしてしまう。それを見て彼は捨てられた仔犬のように情けなく眉尻を下げた。漫画だったら、へたりと垂れた耳が描かれていそうだ。
「ダメ?」
「……いいけど」
 渋々了承すると、途端に表情が明るくなった。今度はピンと耳を立て、尻尾をふりふり振っているように見える。本当にわかりやすい性格だ。
「ありがとう、相川! 実は家にビニール傘がたまっちゃってて、これ以上増えると困るなーと思って」
「もうちょっと学習したら? 八重子の苦労がわかる気がするわ」
「それは言わないでってー!」
 私の一言に、困ったように眉根を寄せる。そんな彼に呆れながらも笑みが零れた。
 が、離れた場所から漏れ聞こえてきた声に、すぐにそれを引っ込める。
 ああ、またか。
 そう思って聞き流し、さっさと出ようと彼を促した。この場にいたら、もっと不愉快な言葉が聞こえてこないとも限らない。
 聞こえないふりを貫いて外に出ると、しっとりと水分を含んだ空気が、肌にまとわりついてきた。気温が幾分高めだから、それは酷く不快に感じる。仕方がない。今は梅雨なのだから。
 しかし、梅雨だからと諦めようとしてみても、そう簡単にはいかないのが人の心というものだろう。さきほどの声のこともあって、気分は空模様と同じく下り坂一辺倒だった。
 傘を広げどうぞと促すと、彼は失礼しますと恭しげに隣に並んだ。
 彼の身長はあまり高い方じゃなく、反対に私の方はちょっと高め。ヒールを履いたらほぼ並んでしまうから、私が傘を差すこともそれほど苦ではなかった。
 それに、彼女付きの男に傘を持たせるのは何となくはばかられる。それはちょっとしたポリシーのようなものだった。
「今日は何観るの? この間八重子が言ってた恋愛物?」
「うん。その後、最近見つけたギャラリーに行くんだ」
「ギャラリー? 珍しいじゃない」
「なんか、好きな写真家さんが個展やってるんだって。ほら、花ばかり撮ってる人の」
 それを聞いて納得する。
 八重子は花が好きなのだ。だから種類や育て方、花言葉なんかにも詳しい。毎年私の誕生日には花をくれるのだが、その際には花言葉をはじめとするうんちくも披露するのも忘れない。おかげでこちらまで多少の知識はついてしまっていた。
 前にその話をしたら、彼も同じだと笑っていた。本当に、こちらが呆れを通り越して笑ってしまうほどの花好き。それが八重子を説明するのに一番適切な言葉だった。
「あ」
「なに?」
 突然立ち止まった彼に、私も止まらざるを得ない。その視線の先には古い神社があり、鳥居の奥には微妙に色の具合の違う青が幾つも群れていた。
 あじさいの花だ。霧雨の所為でぼんやりともやがかかっているけれど、遠くからでもそれはよくわかった。
「ちょっと寄ってっていい?」
「いいけど、何するわけ? さすがに取ったりはしないでしょうね?」
「撮るよー。コレで」
 濡れることも気にせずに歩き始める彼を、慌てて追いかけて傘に入れる。
 コレと言って取り出したのは、携帯電話だ。携帯のカメラ機能で撮影するということだろう。
 そういえば、八重子もよく行く先々で見つけた花をファインダーに収めていた。どうやら彼もそれに倣うつもりらしい。
「ここのあじさい、この辺では結構有名なんだって。雨に濡れたあじさいって、よけいにいい雰囲気だと思わない?」
 同意を求められて曖昧に返事をしたものの、実は全く同意なんてしていなかった。
 私はあまりあじさいの花が好きじゃない。むしろ嫌いだ。
 あのもっさりとした感じだとか、どこか陰鬱さを感じる色合いだとか。八重子から花言葉を聞かされて、ますます嫌いになった。
 花の側にかがみ、気に入った角度に収めようと頑張っている彼に傘を差しかけながら、こっそりと溜め息を落とす。幸いにも、雨風に揺れるあじさいの葉の音で、それは彼には届いていないようだった。
「あじさいってさー」
 シャッターを切る音のあいまに、彼が話し始める。
「相川みたいだよね」
 ピクリと、頬が引き攣ったような気がした。嫌いな花にたとえられて、嬉しいはずがない。それでも、それを知らない相手につっかかるわけにもいかず、一呼吸置いてから口を開いた。
「それ、失礼じゃない」
「何で? ぴったりだと思うけど?」
 満足のいくものが撮れたのか、清々しいほどの笑顔で立ち上がる彼。
 さすがにムッとして、言葉も刺々しく言い返した。
「あじさいの花言葉くらい、知ってるでしょ?」
 頭の中に、数刻前に聞こえた声が蘇る。それは、同性からの悪意の籠もった中傷の言葉。
『相川さん、今度は小久保君に乗り換えたの?』
『違うわよ。小久保君の彼女と友達なんだって』
『でも、彼女のことだから、友達の彼氏でも平気で盗っちゃうんじゃないの?』
『あ、それやりそうよねー』
 彼女たちが私をそんな風に言うのには、もちろん私に原因があった。誰かと付き合ってもすぐに別れてしまうからだ。それはこちらからだったり相手からだったり様々だったけれど、回数が重なれば『私が男を弄んでは捨てている』といった噂が流れるには十分だった。
 人の気も知らないで、と思う。私がどういう気持ちで相手と付き合って、どういう理由で別れたのかも知らずに、好き勝手なことを言うな、と。
 けれど、結局彼女たちは他人だ。何を言われても気にしなければいい。そう思って、いつも何も聞こえていないふりをする。
 でも、まさか彼からそれと同じようなことを揶揄されるとは思いもしなかった。
 あじさいの花言葉は、『移り気』。特定の相手と関係が続かず、いい加減な付き合いをしていると咎められているとしか思えない。
 なのに苛立っている理由がわからないとでも言いたげに、彼は目を丸くし首を傾げる。その姿が無邪気な仔犬のようで、なおさら腹立たしさが募った。
 ひとこと文句を言ってやろうと口を開きかけたが、それよりも早く彼が答えた。
「知ってるよ。『辛抱強い愛情』って、まさにそんな感じするんだけど、気のせい?」
「え?」
 何を言われているのかすぐにはわからなくて、私はどこか間の抜けた声を漏らしてしまった。その反応に、彼ははたと何かに気付いたようだった。
「あ、もしかして『移り気』の方だと思っちゃった? ごめんー!」
 目の前で合掌し、頭を下げる彼を、私はただ呆然と見つめていた。
 言われてみれば、花言葉は一つだけじゃない。同じ花でも様々なものがあるし、色が違えば意味が変わるものだってあると八重子も言っていた。
「そんな花言葉も、あったの?」
「うん。確かに『移り気』の方が有名かもしれないけどさ、個人的には冷たい雨の中でも綺麗な花を咲かせるあじさいにはそっちの方が似合うかなーって思ってんだけど」
 でも勘違いされるような言い方してごめん、と彼がもう一度頭を下げる。あまりにも必死に謝るものだから、早とちりして怒ってしまった自分が恥ずかしくなった。素っ気なく、もういいとだけ言うと、ようやく彼は安堵した様子で顔を上げる。
「でも、何で私が『辛抱強い愛情』なわけ? 全然イメージじゃないでしょ」
「そんなことないよ。ほら、今日みたいに陰口言われても、我慢してるし」
「我慢ってほどじゃないし、それに『愛情』とは結び付かないじゃない」
「んー、でもさー」
 少し言い淀み、こちらの様子を窺うように彼が私を見つめる。物言いたげなままでいられるのも居心地が悪いから、でも何よ、と促した。
 すると、まだためらいながらも彼は口を開いた。
「相川さ、本当は好きな人いるだろ?」
 言われた瞬間、鼓動が跳ねた。
 けれど彼は、こっちの心臓の都合などお構いなしに続ける。
「すごく好きな人がいて、その人のことを忘れようとして色んな人と付き合ってるんじゃないかなと思ったんだけど。で、それでも忘れられなくて、結局ずっとその人のこと待ってんじゃないかなーと……」
 違った? と問い返す彼の瞳は優しく、そして案じるような色も含まれていた。
 そんなところを見抜かれているとは思いもしなくて、私はしばらく何も言葉を返せなかった。本当に、図星過ぎる。
 しかも、最後の一言は、私自身でさえ気付いていなかったのに。

 彼の言うとおり、私には好きな人がいる。けれど、その人には既に恋人がいて、私の入る隙間なんてどこにも見当たらなかった。
 諦めようとして、告白をしてきた別の人と付き合ってはみたものの、いつもどこかでつまずいてしまい、すぐに終わってしまう。
 それでも、その人のことは諦めないといけないとわかっていたから、待っているつもりなんてまったくなかったはずなのに。
 本当に、人の心は上手くいかない。

 私が黙り込んでしまったせいか、彼はあーともうーともつかない唸り声を上げて何とかこの場を取り繕うと努力しはじめた。しかし、それは徒労に終わり、次の言葉も出て来なかったらしい。
 その一連の行動が可哀相になるほど滑稽で、そのおかげで私はようやくいつもの自分らしさを取り戻すことができた。
「その妙な鋭さはアンタに似合わないから」
「ひどっ! どうせ鈍感だよ!」
「それに遅刻魔も付け加えときなさい。映画の時間には間に合うの?」
 私に言われて、慌てて彼は持っていた携帯で時間を確認する。直後に、焦ったように傘の下から飛び出した。
「相川、傘ありがとう! 遅れそうだから走ってく!」
「はいはい。こけないようにね」
 持っていた傘を自分の肩に預け、走り去る彼の背中に小さく手を振る。雨は運よく上がり始めていて、彼はそれほど濡れることなく駅に辿り着くことができるだろう。
 必要性の薄れた傘を、軽く水気を払ってから閉じる。
「ほんと、鈍感なくせに、ね」
 呟いた独白に頷くように、露で飾られたあじさいが静かに揺れた。

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