風にゆれる かなしの花

第二幕 きみに捧ぐ かなしの花 [02]

 息が止まるかと思った。いや、実際に息を詰めて、ただ一人の人物に目を奪われていた。
 新人たちよりも遅れて入った修練場内を見渡すと、真っ先に視界に飛び込んできたのは緋い髪。誰よりも洗練された動きで訓練用の木剣を振るうのは、周りを取り囲む者たちよりも幾分小柄な女性だった。
 華麗で優雅な剣さばきは、聖祭で神に捧げられる舞のよう。けれど的確に相手の守りづらい箇所を狙い、生じた隙で急所をつこうとする。対処しきれなくなった相手の新人騎士が木剣を取り落とすと、彼女は自らの木剣を寸止めし、一礼してその場を別の者に明け渡した。
 彼女の所作の一つ一つが美しかった。毅然とした横顔にも、どこか猫を思わせるような大きな瞳にも、余計な甘さや媚びた色はない。
 その意志の強そうな瞳が俺の姿を捉える。と同時に少しばかり不愉快そうな色が浮かんだ。
「何か?」
 冷え冷えとした問いかけに、ようやく自分が不躾ともとられかねないくらい彼女を見つめていたのだと気づく。
「あ、いや……。君がセラ・アステートだな? 私は君の指導係になったレオン・アクアスだ」
 慌てて自己紹介をすると、彼女は先ほどまで見えた不満げな表情をひっこめ、よろしくお願いいたしますと丁寧に頭を下げた。申し訳程度に浮かべられた笑みに、鼓動が跳ねる。それを誤魔化すように話題を探した。
「士官学校を首席で卒業したと聞いたが噂以上の腕前だな」
 素直な感想だったのだが、彼女はまた一瞬ピクリと頬を引き攣らせる。そんなに気に障る言い方をしただろうかと不安になっていると、すぐさま答えが返された。
「レオン様に言われるとお世辞にしか聞こえませんが」
「え?」
「昨年の首席卒業は貴方じゃないですか。しかも歴代で類を見ないほどの好成績だったと窺っておりますが」
 にっこりと満面の笑みを浮かべる彼女の表情を直視できなくて視線をそらす。嫌味も含まれているのだろう。それくらいはわかるのだが、笑うと意外にあどけなく見える彼女にどうしようもなく胸が鳴った。
「どこで、そんなことを……」
「士官学校に在籍していたら嫌でも耳に入りますよ」
「そ、そうか」
 淡々と切り返され、それ以上言葉が続かない。他に話すべきこと、伝えなくてはならないことはたくさんあった。ここに来る前に何度も確認していたはずなのに、残念ながらまったく出てこない。
 そうこうしているうちに彼女は俺に一言断りを入れ、同期の男を捕まえてもう一度手合わせに向かっていってしまった。俺はそれをまた、どこか夢見心地のように眺めるしかできなかったのだった。

「おまえ、見惚れてただろ」
 今日一日の職務を全うし、寄宿舎に向かおうとしているその背後から、笑いをかみ殺した声が投げかけられた。振り返らなくてもわかる、唯一の友人の声だ。
「何の話だ」
「セラ・アステート」
 誤魔化したものの、彼女の名前を耳元で囁かれ、歩いていた足が自然に止まりそうになる。
「……そんなわけないだろう」
「そうか? アルヴィンの言う通り、なかなかの美人だったじゃないか。それに剣術も見事なもんだった」
「首席なんだ。腕が立って当然だろう」
「笑うと結構可愛いよな、セラちゃん」
 突然気安く名を呼ぶクラウスに、顔が引きつるのがわかった。馴れ馴れしく呼ぶなと言いたくなるのをぐっと堪える。
「おい、レオン。そんなおっかない顔するなよ」
「この顔は生まれつきだ」
 突き放すように返すと、本気で不快感を抱いているとクラウスも悟ったようだ。揶揄するような色は控えてすまないってと軽く謝って寄越す。俺もいつまでも大人げない態度を取るわけにもいかず、一旦大きく息を吐いて気持ちを切り替えた。
 毎度のごとくクラウスは俺の部屋までついてくる。クラウスの部屋は俺の部屋よりも手前にあるのだから先に着替えに戻ればいいものを、何故かいつもそのまま部屋に押し掛けてくるのだ。
 部屋の鍵を開けると、俺よりも先にクラウスは室内に入り、当たり前のようにベッドに腰掛けた。まったくどちらが部屋の主なのかわからない。
「でも、どうするんだ?」
「どうするって何を?」
「婚約」
「婚約?」
 どうしてこの話の流れから婚約の話が出てくるのだろうと訝しんでいると、クラウスは逆に不思議そうな表情になった。
「ジェラルド様から、『好きな相手ができたら、白紙に戻していい』って言われてるんだろう?」
 クラウスの言わんとしている意味を理解した途端、顔の熱が一気に上がる。追い打ちをかけるようにクラウスが、なかなか似合いだななどと冷やかす。
「だから、彼女はそういうんじゃない! さっさと部屋に戻って着替えろ!」
 強引にクラウスの腕を掴んで部屋の外へと追い出す。笑みを含んだぼやき声をドア越しに聴きながら、先ほどまでクラウスの座っていたベッドに勢いよく腰を落とした。
 顔に上った熱はすぐには冷めず、隠すように片手で覆ってみても手の平にその熱が移るばかりだ。
「……セラ・アステート、か」
 ぽつりと零れた呟きに、今まで自分が抱いたことのない種類の感情が込められている自覚はある。
 自分自身でも信じられないことだが、クラウスの言う通り俺は彼女に対して特別な好意を抱いてしまっていた。
 ただ単純に彼女の見目が美しかったからではない。容姿だけの話ならば、貴族のご令嬢方の中にはもっと肌や髪の手入れも充分に行い、自らの美しさを魅せる方法に長けているものはいくらでもいるだろう。
 けれど、彼女にはそういった令嬢方とは根本的に違う毅い意志の輝きがあった。騎士であることの誇り、潔さ、そして重ねてきた努力とそれによって生まれた自信。彼女の振るう剣技にそれらが現れていて、同じ道を生きるものとして惹きつけられずにはいられなかった。
 そして、同時に酷く落胆させられてもいた。
 彼女は俺に対して媚びた態度は取らない。それは好ましいことなのだが、代わりに微かな反感、いや対抗意識とでも言えばいいのだろうか。そういったものが感じられた。貴族の令嬢方のように蔑むような色は見えないことは救いだったが、正直彼女からそこはかとなく漂う冷たい感情は胸に痛い。
 少しでも距離を縮めたい。そのためにもまずは頼れる先輩であろうと、今日一日できる限り丁寧に指導を行ったのだが、成功している自信は全くなかった。
「まいったな」
 今日会ったばかりの女性に、どうしようもなく翻弄されている。
 色恋など騎士には必要ないと思っていたし、こんな風に異性を意識して思い悩むことなど有り得ない、馬鹿馬鹿しいとすら思っていたのに。ただ父の望むように用意された婚約者と結婚し、子を儲ける。それが家の為であり、将来的には自分の為にもなると思っていたのに。
「婚約、か……」

 ――『好きな相手ができたら、白紙に戻していい』って言われてるんだろう?
 
 クラウスの声に、かつての父の声が重なる。
 親同士が勝手に決めた婚約だ。そこには俺の意思も婚約相手であるフィーナ嬢の意思も反映されていない。
 だから、心から想う相手ができたならば、それをなかったことにしてもいい。大事なのは当人同士の気持ちなのだからと父は穏やかに切れ長の目を細めて微笑んだ。
 言われた当時はそんな存在が現れるとは考えもしなかったから、無駄な心遣いだと思いながらも頷いていた。
 だが、今の俺の状態はどうだ。指導の際に彼女との距離がほんの少し近くなっただけでも動揺してしまう。女性に慣れていないことは確かだが、それでも苦手なご令嬢方相手に適当に笑顔であしらったり、そつなくエスコートできる程度にはなっているはずだったのに。
 そこでふと大事なことに気づいた。
 彼女は爵位のある家かもしくはそれなりに由緒ある騎士の家筋の娘のはずだ。ということは、俺と同様にもう婚約者がいたとしてもおかしくはない。もしいなかったとしても、そもそもの家格が釣り合わない可能性もあった。
「……アステート家なんて聴いたことがないな」
 ただ似たような家名なら一つ知っている。レジアステートという建国の祖の右腕とされた騎士の家筋だ。もし彼女がレジアステート家の娘で、何らかの理由があってその家名を隠していたならば――。
 そんなことまで考えてから、自分はどれほど先走っているのかと苦笑が洩れた。
 家格が釣り合うかどうかとか以前に、彼女は俺に対して何の好意も抱いていない。それどころか全く正反対の感情を持っているだろうことを今日一日ずっと感じていたではないか。それが簡単に覆るとは到底思えなかった。
 だからきっと、俺は生まれたばかりのこの気持ちに蓋をするべきなのだろう。そうして、予定通り決められた婚約者と結婚し、子を生す。それがアクアス家の継嗣として最善なのだと自分に言い聞かせた。

 ――はずだったのだが。
 恋愛感情というものがこんなにも厄介なものだとは想像だにしていなかった。
 気持ちを殺し、ごく当たり前の先輩としての振る舞いをするのだと決意して登城した翌朝、彼女の姿を確認しただけで固かったはずの決意は淡雪よりも脆いものだったと知った。
 姿勢よく歩く姿を見ただけなのに気持ちが浮き立ってしまう。相変わらずの冷たさを漂わせているのに挨拶をされれば自然と頬が緩んでしまう。ついつい真面目に職務を全うしようとする真剣な横顔を盗み見てしまっていた。
 自分自身の感情のはずなのに、欠片も制御できていない。それどころか、ともに過ごす時間が積み重なるにつれ、彼女にますます惹かれていくのを止めることができなかった。
 どうすれば、彼女は俺を認めてくれるのだろう。一人の男として意識してくれるのだろう。忠実に職務をこなしながらも、そんな風に頭の片隅で彼女の目を意識してしまっている自分に嫌気が差すほどだった。
 それでも、そんな女々しい感情を悟られてはますます嫌われてしまうだろうことくらいはわかる。表面的にはできるだけ常と変わらぬ態度を貫き、せめて仕事の上だけでも頼られる先輩であろうと努めた。
 自分自身の感情と折り合いをつけながら過ごして数日。その日の職務を終えて部屋に戻ると、窓の外から何者かが話す声が聞こえてきた。その声に聞き覚えがある気がして、そっと窓を開ける。細く開かれた隙間から先ほどよりも幾分大きく聞こえてきたのは、想いを寄せる後輩騎士のものに違いなかった。そして、合間に聞こえるのは同期の女タラシの声。
 予想した通り、二人は知り合いだったのだろう。そっと外を窺うと、少し離れた樹の陰で人目を憚るように会話をする二人が見えた。
 内容はほとんど聴き取れないけれど、二人の様子はひどく親密に見える。その証拠に、彼女の表情は遠めから見てもくるくるとよく変わった。怒ったり、嘆いたり、落ち込んでみたり。そして普段一緒にいるときには一度たりとて見たことがない素の笑顔まで。
 それだけではない。アルヴィンはごく当たり前のように彼女に触れる。彼女の肩に、髪に、手に。彼女もそれを拒むことなく受け入れていた。
 二人がどんな関係なのかは知らない。けれど、明確にわかることが一つだけあった。
 彼女はアルヴィンを信頼し、親しみを持っている。俺が向けられたいと望む感情を、アルヴィンは無条件に受け取ることができるのだ。
 突きつけられた現実に胸が塞がれたように重い。誰かを羨むようなことなど今までほとんどなかったのに、アルヴィンが彼女の信頼を得ているというだけで羨ましくて妬ましく恨めしかった。
「狭量過ぎるな。嫌われて当然、か」
 こんなにも醜い感情を持つ俺が、まっすぐで清らかな彼女に相応しいはずがない。やはり諦めるべきなのだ、この想いは。
 そうわかってはいても、もう理性では抑え込めないほど、彼女への気持ちは大きく成長していた。

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