風にゆれる かなしの花

第一幕 風にゆれる かなしの花 [09]

 どれほど泣いていたのだろうか。気が付くと窓の外は闇に覆われ、幾つもの星が光を投げかけていた。泣き疲れて眠り込んでしまうだなんて、幼子のようだと自嘲が口元に刻まれる。
 何も言わずに部屋に戻ってしまった所為で、アルあたりは心配しているかもしれない。さてどうしようかと思いつつ、机の上に置かれたランプに火を入れた。
 明日には自宅に戻る。その前にジェラルド様にはきちんと挨拶をしておかなければならない。それなら、今のうちに行っておいた方がいいだろうか。それとも、明日城を出る前に済ませる方が手を煩わせなくて済むだろうか。
 しばらく思案した後、明日に回すことに決める。今から行っては仕事の手を止めさせてしまうかもしれないし、朝議の前に手短に済ませば余計な人にも会わなくて済む。それに、今行けばジェラルド様から婚約破棄についての話をされるかもしれない。問題を先送りにしているだけとわかっていたけれど、私にはまだそれを受け止めるだけの覚悟はできていなかった。
 食事を取っていなかったけれど、食欲はない。ただぼんやりしていても余計なことばかり考えそうで、それならと荷物をまとめることに決めた。だが、実家に帰れば必要なものはほぼ揃っている。荷作りと言ってもせいぜい読みかけの書物や日記、普段使いのハーブオイルくらいしかないことに気づいた。
「……やること、なくなっちゃったな」
 手持無沙汰になったところで、ドアが控えめにこつこつと鳴る。部屋にわざわざ来る人物などアルくらいしか思い当たらなくて、当たり前のように返事もせずにドアを開けた。
「アル、小言なら――」
「アルヴィンじゃなくて悪かったな」
「……レオンさん」
 不機嫌そうな翡翠の瞳に見つめられ、反射的に視線をそらした。
 どうして、レオンさんがここに来たのか、予想がついて逃げ腰になる。
「何の用ですか?」
 それでも精一杯平気な振りをしてしまう自分のプライドの高さが嫌になった。
 本当に可愛くない。こんな女を妻にしたいと思うような男がいるはずないのだ。
「俺の顔など見たくないとでも言いたげだな」
「そう思われるようなことをした自覚はないんですか?」
 こんな恨み言を言いたいわけじゃない。けれど、こんな風に強気な態度を取っていなければ、今にも泣き崩れて醜態を晒してしまいそうだった。
「この間のことなら謝る。本当にすまなかった。頭に血が上っていたとはいえ、あんなことをされれば誰だって腹を立てることくらいわかる」
「もういいです。終わったことですから。お話がそれだけなら失礼します」
 この間というのが何を差すのかその場ですぐに理解できていなかったけれど、これ以上話したくなんてなかった。このまま話していたら、きっとレオンさんの口から直接婚約破棄を言い渡される。そんなことをされたら、強がることすらできなくなってしまう。
 強引に話を打ち切り、部屋に戻ろうとすると、阻むようにドアノブを握る手に大きな手の平が重なった。
「セラ、待ってくれ」
 名前を呼ばれただけで、鼓動が跳ねた。今までに一度だってそんな風に呼んだことなどないくせに、縁を切るときになって初めて呼ぶなんて酷すぎる。
「……馴れ馴れしく呼ばないでください。レオン様と私は、そんな風に呼ばれるような間柄ではないですから」
 震える声を押し隠して吐き捨てると、レオンさんの――レオン様の手を乱暴に振り払った。そのまま顔も見ずに扉を閉めると鍵をかけ、瞼を閉じ、息を詰める。
 しばらく、扉の前から人の動く気配はなかったけれど、そのうち諦めたのかゆっくりと遠ざかっていく足音が聴こえた。
 一歩、また一歩と離れていく長靴(ちょうか)の音。音が小さくなるにつれ、もう戻れない過去に戻りたくなる。
 カノン様が現れなければ、きっと私はあの人の婚約者でいられた。愛されることはなくても、それなりに大切にされただろう。
 けれど、そんなもしもの話をいくら夢見ても、現実は変わらない。現実が変わらないならば、自分が変わるしかないのだ。
 もっと強かに、もっと感情を殺して。それはきっと、騎士を続けていく上でも役に立つはずだ。
 そうだ。もともと私は騎士として生きることを望んでいたじゃないか。結婚だって望んでなどなかった。だったら、騎士として生き抜こう。結婚など必要ない。幸い私には兄がいるのだし、家を継ぐ必要もないのだから。
 唯一縋れるものを見つけた気がした。
 騎士として生きる道さえあれば、もうそれでいいのだと必死で思い込もうとしている自分を、どこか冷めた目でもう一人の自分が見ていることに気づきながら。



 自宅で療養を初めて三日が経った。
 傷の痛みはもうほとんどなく、そろそろ剣を振りたいなと思い始めたけれど、母に見張りをつけられていてはさすがに大人しくするしかない。
 服装もいつもなら動きやすいものばかりだが、半ば強制的に貴族の子女らしい裾の長いドレスを身につけさせられた。しかも髪まできっちり巻かれて綺麗に結い上げられてしまった。一体、どこの夜会に連れていく気と嫌味を言うと、いい機会だから淑女としての振る舞いを覚えなさいと返されてしまう。
 こんな生活が続くのは耐えられないので、意地でも早く怪我を直して騎士団に復帰したくなった。
 私に許された数少ない運動の一つである庭の散歩から戻ると、母がやけに機嫌よく私を出迎えてくれた。
「母様? どうされたんですか?」
「貴女にお客様よ」
「お客様?」
 わざわざ私を訪ねてくる人なんてと思いかけて、嫌な予感がわずかによぎる。
 まだ私は、正式な婚約破棄を言い渡されていないのだ。あの馬鹿がつくほど真面目な彼ならば、わざわざ家にまで訪ねてきて改めて婚約破棄を言い渡してもおかしくはない。
 そして、きっと謝られるのだ。そんなことされても惨めになるだけだというのに。
「応接室にお待たせしているから、早く行ってきなさい」
「……わかりました」
 有無を言わせぬ母の声に、覚悟を決めて応接室に向かう。扉の前で一呼吸おいてから、拳を軽く握りノックした。
「失礼いたします」
 返事も待たずに中に入ると、予想通りの人物がこちらに振り向く。
「お待たせしました。私にどういったご用件ですか?」
 レオン様は、振り向いた姿勢のまま、驚いたように目を見開いて何も答えない。それは、初めて騎士団で顔を合わせたときを思い出させた。
 あれからまだ数か月ほどしか経っていないのに、随分昔のことのように思える。そして、今の私の態度も、あの頃の私とそっくりだ。
「レオン様? 婚約の解消を言い渡しに来たのでしょう? それならお受けしますからもう帰っていただけますか?」
「……セラ?」
「何ですか? いまさらまだ何かおっしゃりたいことでもございますか?」
 これ以上話すことなどないのに。婚約の破棄は受け入れると言っているのに。それでもこの人はまだ私を追い詰めたいのだろうか。
「メレディス様の娘の名は、フィーナじゃないのか?」
「は? ああ、呼び名のことですか? フィーナなんて恥ずかしい呼び方をするのは家族くらいで――っ!?」
 言い終わる前にぐいと両腕を掴まれ、レオン様に至近距離で見つめられる。翡翠の瞳にはやけに熱が込められているように見えて、こんなときなのに胸が鳴る自分が悔しかった。
「本当に、セラが俺の婚約者なのか?」
 本当に? どういうこと? 頭の中が混乱に陥りそうになりながらも、信じられない考えが浮かぶ。もしかして――
「……レオン様は、私が婚約者だとご存知なかったんですか?」
 普通に考えればそんなことはありえない。十二のときに、父は釣書きも肖像画も贈ったと言っていた。けれど、今目にしているレオン様の態度からは、それ以外に当てはまりそうな答えがない。
 そして、私の問いに対する答えは、言葉にされるよりもわかりやすくレオン様の顔に出ていた。
 申し訳なさそうな、決まりの悪い表情。居心地悪そうに視線を逸らし、けれど私の腕を掴む手の力は緩まない。
「その……、親が決めた婚約者のことなど、知らなくていいとずっと思っていた。だから、釣書きも肖像画も、渡されたときのまま開封もせずに実家に置きっぱなしで……」
「でも、それなら何故、初めて修練場で会ったときあんなに驚いていたんです? 深窓の令嬢だなんて噂ばかり出回っていた私がいたからじゃないんですか?」
「そ、それは……その……驚いていたんじゃなくて、だな……」
 語尾が小さくなるにつれ顔が紅潮していくレオン様が、消え入りそうな声でぼそぼそと呟く。いくら距離が近いとはいえ、聴きとるには無理がある音量だった。
「何ですか? はっきり仰ってください」
「だから! 君が綺麗で……見惚れていた、だけで……」
 俯きがちに頬を赤らめるその姿はまるで恥じらう乙女のようで、女として完璧に負けているなと思う。なのに、伝染したかのように顔が熱くなっていくのが自分でもわかった。このままでは心臓がもたないと掴まえられている腕から逃れようとするが、逆に力強く引き寄せられ、腕の中に閉じ込められる。
「あの日、修練場で剣を振るう君に一瞬で心を奪われた。けれど、君が信頼するのも頼るのもいつもアルヴィンで、俺の入る隙などどこにも見つからなくて……。それでも、君を喪うかもしれないと思ったとき、もう誰にも譲りたくないと思ったんだ」
 紡がれる言葉は想像もしなかったものばかりで、にわかには信じられない。けれど、抱き締められる腕の強さと、耳元で囁かれる声の甘さが、嘘ではないことを告げていた。
「セラが好きだ。そして、親の決めた婚約など関係なしに、セラ自身に俺を望んでほしい。アルヴィンのことが忘れられないなら、いつまでだって待つから……」
 真摯な愛の言葉に涙が零れそうになっていたが、後半を聴いて一気に引っ込んだ。
「ちょ、ちょっと待ってください! アルを忘れられないならって何ですか!?」
 無理やり腕を引きはがして見上げると、レオン様は切なそうに微笑む。
「『かなわぬ恋』とは、アルヴィンのことを言っていたのだろう?」
 レオン様はずっと私がアルを好きだと勘違いしていた?
 そういえば、アルを嫌うような発言をしていたことを思い出す。つまり、あれはアルに対して嫉妬をしていたということだったの?
「……冗っ談じゃないです! アルは確かにいい奴ですけど、男としては最低の部類に入りますからね!? あっちこっち声をかけてはとっかえひっかえ……。何度私がフラれて泣いている女性を慰めたことか……。それだけならまだしも、逆恨みされて嫌がらせされたことだってあるんですから!」
 積み重なっていた鬱憤が、勘違いされていた腹立たしさに触発されて一気に噴き出す。
 私の剣幕に圧倒されたレオン様は、茫然としながらもそうか、などと相槌を打っていた。
 吐き出すだけ吐き出すと、妙にすっきりして冷静になった。すると今度は声を荒げてしまったことが恥ずかしくなり、誤魔化すように咳払いする。
「なら、あれは誰のことを言っていたんだ?」
「それは……レ、レオン様こそ、カノン様に赤いアネモネを渡されていたじゃないですか!」
 答えに窮して、ふと思いついた疑問を逆に投げかける。レオン様の告白が嘘だとは思わないけれど、アネモネともう一つ、クワドラートの二つの出来事はどう考えてもカノン様に対する想いの表れとしか思えなかった。
 けれど私の考えとは逆に、レオン様は恥じらうように頬を染めながらポツリポツリと話し始める。
「あの時は、カノン様にセラが元気ないという話をしたら、花でも飾れば気分も変わるだろうと言われて……。何がいいかと訊かれた時、近くに咲いている赤いアネモネが目に入ったんだ。セラの赤い髪に似ていると思ったから、気に入ってくれるかもしれないと……」
「私の、髪?」
「それに母に昔言われたことを思い出した。赤いアネモネは想う相手に贈るものだと。本当は直接君に渡したかったが、そんな勇気はとても持てなかったから、セラが一日の大半を過ごすカノン様の部屋に飾ってもらえば、見てもらえると思って……」
 そんな回りくどいやり方で、わかるはずなんてないじゃないかと責めたくなる。けれど、レオン様は見たこともないほど萎れていて、そんな頼りない姿が可愛いとさえ思ってしまった。
「クワドラートを渡した理由は何だったんですか?」
「クワドラート? それならここにあるが?」
「え?」
 さも当たり前のように、レオン様は襟元から銀のチェーンを手繰り寄せ、翡翠の嵌まったクワドラートを見せられる。しかも、つけられているチェーンは私が押し付けたもののままだった。まじまじと見つめてしまった私に、レオン様はまた恥ずかしそうに目を伏せると、すまないと謝罪を零す。
「ずっとチェーンを返さなければと思っていたのだが、君が身に着けていたものだと思うと手離すのが惜しくて、つい返しそびれてしまった」
 ならば、カノン様がクワドラートを受け取り、そして黒曜石の嵌まった新しいそれを贈ろうとした相手は別にいた? 
 私の覚悟なんてまったく無意味で、ただ徒にレオン様を傷つけていただけだったの?
「それで、セラの想い人がアルヴィンでないなら誰なんだ? まさか……クラウスか?」
 苦しそうに、それでも何とか笑おうとするレオン様に、どうしようもなく愛おしさがこみ上げる。この人は、自分が想われているなどとは微塵も考えなかったのだ。私が、自分でそう思っていたように。
「レオン様は、まるで私みたいですね」
「セラみたい? どういう意味だ?」
 どれほど士官学校で優秀な成績を修めていても、剣術や魔術の腕を磨いてみても、色恋に疎いのはどうしようもない。そもそも、今まで異性にそんな気持ちを抱いたことすらなかったんだから、想う相手の気持ちを推し量るなんて高等技術を持てるはずがなかったのだ。だから、お互い間違えた。
「好きな人が、自分を好きでいてくれる可能性を考えたりしなかったんでしょう?」
「好きな人が、自分を……?」
 すぐには理解が及ばないレオン様の背中に両腕を回し、広い胸板に頬を押し当てる。唐突に抱きつかれたレオン様の口から、動揺したように名を呼ぶ声が零れた。両手は行き場所に迷って右往左往しているようだ。
「貴方の婚約者のままでいさせてもらえますか?」
「……それは……、その、セラも俺と同じ気持ちでいてくれたと自惚れてもいいのか?」
 この期に及んで自信のなさげな発言に、さすがに少しばかり腹立たしくなって抱きついたまま彼の顔を睨み上げる。
「無粋なこと訊かないでください。レオン様が婚約を破棄したがってると知って、……どれだけ泣いたと思ってるんですか」
 あの時のことを思い出して思わず鼻の奥がつんとした。それを抑え込むように唇を噛み締めると、戸惑いを忘れた両の手の平が私の頬を優しく包み込む。まるで、宝物をすくい上げるかのように。
 そうして微かに雫の滲んだ眦に、そっと触れるだけの口づけが落ちた。包み込むような抱擁とともに、甘さと熱の籠った誓いが耳に響く。
「もう泣かせない。絶対に。だから、傍にいさせてほしい」 
「……仕方ないので、いさせてあげます」
 わざと尊大に返したその声が、微かに震えていたことにレオン様も気づいていたのだろう。わずかに抱き締める腕が強められ、困ったような呟きが零れた。
「泣かせないと言ったところなのに、な……」

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