夢のあとさきそめし朝
第一話 エピローグにはまだ早い 01
さわさわと頬を撫でる風が心地いい。柔らかくて、慈しむようで。まるで子供をあやす母親の手のようだ。
そういえば、よく『彼』も寝ている私の頬や髪を撫でていた。その手のぬくもりが離れるのが惜しくて、私はいつも目が覚めていても寝たふりを決め込んでいた。でも多分、私の狸寝入りは彼にもバレていたのだろう。起床を促す声で今目覚めたばかりのふりをする私を、笑いをかみ殺した表情で見つめていたのだから。
彼の声の代わりに、鳥の鳴き声が私を覚醒へと導いた。少しずつ浮上する意識と共に疑問も浮かび上がる。
どうして、風が吹き抜けているのだろう。どうして、鳥の声がこんなに近いのか。私はつい先ほどまで千秋楽の舞台上にいたはずなのに。
湧き上がる疑問とともに目蓋を開けると、視界に飛び込んできたのは眩しい光だった。
地明かり用のシーリングライトなどではなく、本物の日光。
それを少し遮るように石柱の残骸のようなものが見える。
「……はい?」
しばらく呆けたようにその景色を眺めたあと、かろうじて出てきた言葉はそれだけだった。がばっと腹筋を使って勢いよく起き上がり、ぐるりと視線を巡らせる。
いくつも並ぶ壊れた石柱。ベンチのような長細く四角いたくさんの岩。私自身がいるのは階段状になっている石造りの舞台のような場所だった。
「何、ここ……」
まるで外国の遺跡のような風情だった。
いや、異国どうこうよりも、どうして自分はこんな場所にいるのだろうか。はっきりと思い出せる最後の記憶は、舞台上だった。もちろんこんな石舞台ではなく、馴染みのある劇場の舞台だ。
千秋楽の本番を終え、カーテンコールも終わり、舞台上はバラシ作業に入っていた。衣装のままでは作業ができないから、私を含む役者陣は一旦楽屋に戻って作業着に着替えようとしていたのだ。
そこで思い出す。
私は、落ちたのだ。本来開いているはずのない奈落に。
あの時、どうしてそこが開いていたのかはわからない。けれど多分、誰かが幕やバトンのスイッチと間違えて、奈落の開閉ボタンを押してしまったのだろう。
エンディングで大量に焚かれたスモークで足元は見えにくかったし、何より私はかなり意識が虚ろになっていた。だから、気づかずに落ちてしまったのだ。
けれど、そこまで思い至ってもまだ腑に落ちない。
試しに自分の身体を動かして確かめる。手、足、首、腰、背中や頭。全て問題なく動くし、特に痛みも感じられない。本当に落ちたのなら、最低でも打ち身くらいはあるはずだろう。なのに、青痣や腫れもないようだった。
「どういうこと?」
何より、この場所が不可解すぎる。落ちて意識を失ったのなら、病院に運び込まれることは確実だ。救急車待ちだとしても、到着まで屋外に運び出されることはないだろう。そもそも、そんな緊急事態に誰も傍についていてくれないなんてありえない。
なのに、ここは見たこともない屋外だ。もちろん、劇場の付近にこんな奇妙な場所はないし、本来いるはずの劇団員たちの姿が全く見えなかった。
慎重に立ち上がってみる。やはり痛みはなく、眩暈を起こすこともない。
もう一度、前後左右上下と見回す。壊れた石造りの建物に天井はない。劇場のようにも見えるけれど、私のいる場所の後方には、演壇のようなものがある。さらにその奥には、女性らしき朽ちた石像が壁に寄りかかるようにして立っていた。
「教会みたい」
何となく発した自分の言葉に、妙に納得した。石像はマリア様ではなさそうだし、十字架とかもないけれど、雰囲気は教会のそれとよく似ていたのだ。
とはいえ、ここはどこなのか、どうしてここにいるのか等々の問題は何一つ解決していない。
私は履いたままだったヒールの低いパンプスを脱ぐと、両手に一つずつそれを持った。そこでふともう一つ気づく。
「てか、これ衣装のままだ。汚したら姉さんに怒られるな」
姉御肌の衣装担当スタッフの、満面の笑みで怒りを表す顔が思い浮かんだ。怖い怖いと呟きながら、パンプスを右手にまとめて持ち替える。真っ白なロングワンピースの裾を手繰り寄せると、多少は歩きやすくなった。本当は裾を結んでしまいたいけれど、皺が残りやすい生地でそんなことをしては自殺行為だ。例のお姉さまから鉄拳制裁が飛んできかねない。
足元の岩の尖りに気をつけながら、その舞台のような場所からゆっくりと降りる。床や階段はかなり損傷した石畳だったが、無数に走ったひび割れから柔らかな雑草が伸びているおかげで足を傷つけることはなさそうだ。
しかし、どれくらいの間ここは放置されてきたのだろう。厳かな雰囲気が残っているだけに、より一層侘しさが強調される。
そんな感想を抱きながら、私は舞台の反対側に見えるアーチ形の出入り口のような場所を目指した。
「それにしても『ここが天国でした』なんてオチじゃないよね?」
あまりにも現実感が乏しい現状に、そんな冗談が口をついて出る。
仮に死んでしまっていたとしたら、身体に異常がないことだとかいきなり知らない場所にいることだとかも納得できる気がしたのだ。
「でも、足あるしなー。あれ? けど足だけの幽霊とかもあるか。そもそも幽霊に足がないってどこが起源なんだろう」
現状を解決するのに全く関係のないことをとりとめもなく考えながらアーチをくぐる。
そして、その先に広がっていた光景に目を疑った。
「森、ですか?」
見渡す限りの鬱蒼とした樹々。新緑の季節なのだろうか、芽吹いた緑の香りが風に乗ってくる。この建物の周囲だけは少し拓けているけれど、どう考えても人里離れた場所にしか思えなかった。
あちらこちらに木漏れ日が落ちる中、チチチと鳥のさえずりが聴こえる。目覚めるときに聴いたのはこの鳥の声だったのかもしれないとどこか夢見心地で思った。
「ほんとに……どうなってんの?」
ますます失われていく現実感に途方に暮れてしまう。まったくもってわけがわからない。頼むから、誰かこの状況を説明してほしい。本当に、誰でもいいから。
「何をしている」
突然低い声が間近から聴こえたかと思うと、ぐいと腕を捕まえられた。反射的に振り返ると、短く刈った金髪のちょっといかつい男が一人。日に焼けた無骨な手が、私の腕をがっちりと掴んでいる。
「えっと、あの、怪しい者では……」
「どこから来……、おまえ――!?」
鋭く射貫くような男の視線が、何故か唐突に驚きで見開かれた。掴んでいた手の力が緩んだのに気付き、思い切り振り払って駆け出す。
何となく、捕まらない方がいい気がする。見た目で判断しては悪いけど、どこかの民族衣装みたいな見慣れない格好をしているし、目つきもよろしくない。ヤのつく人たちの、さらに言うならその下っ端のような雰囲気を持っているのだ。
捕まるとろくなことにならないと直感が告げていた。
「おい! 待て!」
怒りと焦りが混じり合ったような男の声が追いかけてくる。ちらと背後を振り返ると、その声に呼び寄せられたのか、さらに数人の男たちが現れていた。
持っていたパンプスを申し訳程度の牽制で投げつける。幸いにもこの靴は私物だ。衣装スタッフにも怒られはしない。
地を蹴るたびに落ちている小枝や縦横無尽に這う樹の根が、容赦なく私の足裏を傷つける。痛くないわけがないけれど、そんなことに構ってなんかいられなかった。少しでも早く、一歩でも遠くへ。久しぶりの全速力で、私は森の中を駆け抜ける。
しかしその逃亡劇は、数分も走らぬうちに呆気なく終わりを迎えた。
前方に立ち塞がるように現れた人影。挟み撃ちだ。足が止まる。
絶体絶命、四面楚歌、袋のネズミ。そんな言葉がいくつも頭に浮かんだ。
この状況を打開するにはどうすればいいのだろう。迷っている間にも、背後の男たちは近づいてきている。だが、よく考えれば前にいるのは一人。圧倒的にこちらの方が突破できる可能性が高い。ならば――。
「大丈夫か?」
思い切り勢いを付けて体当たりでもかましてやろうと思った直後、予想外の気遣うような声音が届いた。前方からだ。
私は目の前に現れた人物を改めてちゃんと確認しようとした。が、その瞬間、何も言えずに固まってしまう。
追ってきている男たちも奇妙な格好だと思ったけれど、今目の前にいる男の人もちょっとびっくりする外見だったのだ。
明らかに日本人ではないだろう彫りの深い整った顔立ちに燃えるような赤い髪。白地に赤いラインの入った裾の長いコートのような上着を身に着けている。その下には黒のハイネックのインナーを着て、ボトムは同じく黒だ。腰には立派な剣を携えていて、まるでゲームや漫画に出てくる騎士のようだった。緊迫した状況も忘れて、「コスプレですか?」なんて訊きたい衝動に駆られる。
「おい?」
私が呆気にとられて何も答えられないでいると、その騎士っぽい人は訝しげな表情ですぐ傍まで近寄ってきた。見た感じ、こちらに危害を加えようという意図は見えない。かといって、素直に信用するわけにもいかずに躊躇っていると、背後から追ってきた男たちの声が届いた。
あとから増えた分も加えて、全部で四人。男たちは、私の傍に立つ赤い髪の人を見るなり、表情が一気に硬化した。
「聖帝の犬か……」
憎々しげに、最初私を捕まえた男が吐き捨てる。それに応えもせず、赤髪の人は私を庇うように前に出た。
「さがっていろ」
すらりと引き抜いた長剣をぴたりと構え、短く告げられる。先ほどまでとは明らかに違った、肌がひりつくような空気をその人は放っていた。言われるまでもなく自然と後ずさる。なのに頭の中は妙に冷静で、芝居の一場面を見ているようだなんてどこか非現実的に感じていた。
殺気立った男たちが、一斉に赤髪の人に襲いかかる。四対一なんて圧倒的不利で無謀すぎると、これから起こる惨劇に固く目を瞑った。
一瞬後、聴こえてきたのは呻き声、悲鳴、そして、何かが倒れるような重い音。
恐る恐る目を開けると、先ほどより少し離れた場所に何事もない様子の赤髪の人が立っていた。自身の持つ髪と同じ色の雫をまとった長剣を一振るいし、鞘に収める姿がとても様になっている。
そして、呼吸一つ乱していないその人の周りには、夥しいほどの赤が飛散し、変わり果てた姿の男たちの姿があった。
むっと噎せ返るような、鉄臭い匂いが押し寄せる。地面に広がる赤に、未だ生々しさを残す嫌な記憶が重なった。
「うっ……」
せり上がる嘔吐感に、口元を押さえしゃがみこむ。視界が、大きく揺らいだ。
赤、紅、緋――目の前に拡がるアカ。
あるはずのない光景が、眼前に浮かび上がる。
泥の混じった水溜りを侵食していく大量のアカ。雨音に混じる悲鳴と慟哭。鼻腔を侵す血とガソリンの匂い。
『あの日』の記憶が鮮明に蘇るに比例して、指先から全身へと震えが広がり、意識が遠のいていく。
『サクヤ……』
薄れていく意識の中で、もう二度と聴くことの叶わない、愛おしさを隠しもしない彼の声が囁いた。
「キョウ、ゴ……」
――叶うなら、このまま私を連れて行って……。
梅雨入り宣言があったばかりのその日は、まさに梅雨に相応しいじめじめと気分が滅入りそうな天気だった。
けれどそんな外の様子とはうらはらに、私は上機嫌だったのだ。
毎日舞台の稽古とバイトに追われていて、私も鏡吾もろくな休日がない。今日はそんな中でようやく合わせることのできた休日だった。ほぼ毎日稽古で顔を合わせるけれど、二人きりで過ごせる時間は特別だ。だから前々から計画を練りに練っていた。観たいと意見が一致した映画と、気になっていたカフェでのランチ、それから雑貨屋と書店巡りやウィンドウショッピング。一人でだってできることばかりだけど、二人なら余計に楽しいに決まっているとテンションは上がりっぱなしだった。
映画を観終え、相合傘で予約していたカフェへと向かう。鏡吾が濡れないようにと肩を抱き寄せて、傍から見たらバカップルそのものだっただろう。
けれど、そんなことは欠片も気にならないほど私は幸せだった。
世界で一番、幸せだと思っていた。
その幸せは、ほんの一瞬で砕け散った。
信号待ちの交差点脇、突然甲高いブレーキ音が鼓膜を引き裂かんばかりに飛び込んできた。と、ほぼ同時、真横から思い切り体を突き飛ばされ、歩道に倒れ込む。咄嗟に受け身は取ったものの、背中や腰を強かにアスファルトに打ち付けられ顔を顰めた。
痛みを堪えて何とか体を起こすと、視界に入った光景に愕然とする。
ひしゃげたガードレールと、大破した車。そして、その間に挟まれるような格好になっていたのは――。
「――うご……!」
自分の叫ぶ声で目が覚めた。伸ばした手の先には、見覚えのない天井があるだけ。
「大丈夫か?」
間近から届いた声に、ゆるゆると目線を向ける。先ほど私を助けてくれた騎士っぽい赤髪の人が案じるような表情で私を覗き込んでいた。
問いかける声には応えず、視線を少し巡らせる。私が横になっているベッドの他にもいくつか同じものがあり、何となく病院っぽい雰囲気を醸し出していた。けれど、私とこの人以外に誰かいる様子はなく、ベッドは全て空だ。病院というより保健室に近いかもしれない。
寝転がったままでいるのも失礼な気がして、ゆっくりと体を起こした。眩暈や吐き気はもうない。震えも治まっていた。
「無理しなくてもいいぞ」
「平気です」
赤毛の騎士が気遣いの言葉を寄越したけれど、実際にどこかを怪我したわけではない。ちょっとした発作のようなものなのだ。少しだけまだ体がふらつくけれど、それもじきに治まると知っている。
「すまなかったな。少々こちらの配慮が足りなかった」
「いえ。……ありがとうございました」
申し訳なさそうに微笑むその人に、視線も合わせず短く礼だけを返した。
助けられたのは、紛れもない事実だ。けれど、助けてもらったことが本当に幸運だったのか、未だに測りかねていた。
あの人相の悪い男に捕まったとき、本能的に逃げ出していた。痛い思いをしたくはなかったし、最悪殺されるかもしれないとも思った。
でも、冷静になった今、あそこであのまま殺されていた方がよかったのかもしれないという思いがじわりじわりと心を蝕み始めていた。
瞬間的に殺されたくないと思ったくせに、危険が過ぎれば「やっぱり……」などと簡単に考えが変わってしまうなんて、何と身勝手なのだろうとも思う。それでも、それは甘美な誘いのようにも感じるのだ。
ただ、それとは別にどうしても気になることがあって、それを確かめずにはいられなかった。
「あの、一つ訊いてもいいですか?」
「何だ?」
「ここは、どこですか?」
「それは安心していい。ここは帝都にある宮城内の医務室だ」
「テイト? のキュウジョウナイ?」
聞き慣れない言葉だった。とりあえず、キュウジョウというのが野球の方の球場でないことはわかる。
疑問を全開にした私の態度に、赤髪の人も訝しげに眉をひそめた。
「サンベルティって言ったらわかるよな?」
この人はわかりやすく言い換えたつもりなのだろう。しかし申し訳ないけれど、私にとってはますます知らない言葉だ。恐らく地名だとは思うけれど、外国でそんなところあっただろうか。考えてみても似た都市名すら出てこなくて、もう一度まじまじと目の前の人を観察した。
間違いなく日本人ではないだろう赤い髪。瞳は淡褐色だけど、よく見るとときおり光の加減なのか緑がかって見える不思議な色だ。そういえば、こんな虹彩の色をヘイゼルというんだっけ。顔立ちは彫りが深く鼻筋も通っていて、欧州系かそのハーフの人っぽい。モデルにでもなれそうなイケメンさんだ。
思い返せば、最初私を捕まえようとした男は金髪だった。それも、染めているようには見えない自然なブロンド。顔も厳つかったけれど、凹凸はしっかりしていたように思う。
日本人離れした顔立ちの人々に見慣れぬ異文化圏っぽい服装。そして聞いたこともない地名。考えられる可能性は一つだけ。
ここは、日本ではないということだ。
「おまえ、どこから来たんだ?」
無言で見つめるばかりだった私に、警戒するような鋭い視線が向けられる。問われるまま、力なく呟いた。
「日本」
「ニホン?」
今度は相手がわからないといった表情に変わる。その顔を見つめながら、私の中に限りなく確信に近い考えが浮かんだ。
大元を辿れば、劇場にいたはずの私があの変な遺跡だか教会だかのような場所にいたことからしておかしいのだ。私が真っ先に疑問に思ったのもそのことだった。
そして思ったのだ。「ここが天国でした」なんてオチじゃないだろうなと。
当然、天国なわけがない。私は死んでも天国に行けるとは思えないし、そもそも天国なんてものを信じていない。
けれど、明らかに日本ではない。
いや、私が知っているどの国でもない気がした。
「どうしてあの場所にいたんだ?」
「知らない。気づいたら、変な石の舞台みたいなところにいて……」
さらに重ねられた問いに答える声が、次第に掠れていく。
どうしてなんて、こっちが訊きたいくらいだ。私は舞台の上にいた。日本の、馴染みの小劇場の、その舞台の上に。それがどうして、気づいたら全く知らない場所なのか。
まるで、よくあるファンタジー小説みたい――そうだ。私が今まで触れてきた物語の中には、こんな話がいくつもあった。
ウサギを追いかけて知らない世界に迷い込んだ話。古びた本を開いたら、本の中に吸い込まれた話。突然知らない男の人に迎えに来られて奇妙な世界に連れて行かれた話。他にもこんな話はいくらでもある。
けれど、それはあくまでも物語であって、現実には起こり得ないはずだった。
そのはずだったのに、起きている。
ここは、私のいた世界とは違う。それなら、目の前の赤毛の騎士や私を捕まえようとした男たちの姿にも説明がつく。ここが異世界なら、コスプレなんかじゃなくて彼らの方が普通なのだ。
そして異質なのは、むしろ私の方。
そこまで思い至って、あることに気づいた。
気づいてしまった途端に、どうしようもなく笑いがこみ上げてくる。
「……ふ、ふふふ……あはははは……」
いきなり笑い出した私に、赤髪の騎士が怪訝な視線を寄越す。
それでも私は笑い続けた。
なんて馬鹿馬鹿しい話だろうか。この状況は、私の『望み』が叶えられただけ。
――鏡吾のいないこの世界なんて、生きてる意味がないんだから。
落下しながら、私はそんなことを思ったまま意識を手離した。生きることを諦め、穴の底で手を広げているだろう死に憧れさえ抱いた。あの世界で生きていくことに絶望していたのだ。けれど――。
「どっちにしろ、いないじゃない……」
笑い声が、醜く歪んだ。
日本にいたって、鏡吾はいない。けれど、辿り着いたこの世界にだって、鏡吾がいるわけではないのだ。どこを探したって、もう鏡吾はいない。
それは、不愉快なほど確かな、唯一無二の真実。
「おい」
項垂れる私の肩を掴み、覗き込むように赤髪の騎士が窺う。けれど、私には目の前の男の顔など見えていなかった。何も、見たくなどない。
「ここにだって、鏡吾はいない」
声に出してしまえば、その言葉が刃となって自分自身を貫く。
「馬鹿みたい。大人しく死んでればよかったのに」
奈落に落ちたあの時に。もしくは、あの男たちに捕まって、そのままに。きっと、それが一番楽だった。
「それは、どういう意味だ?」
肩を掴む男の手が強くなる。声音にも強い非難の色があった。私の言葉が気に障ったのだろう。
けれど、私にとってこの人にどう思われようがどうでもいいこと。訊かれるままに淡々と答えた。
「そのままじゃない。あのままアイツらに殺されてれば良かったのよ。鏡吾との『約束』だって私は守り切った。だったらもう、無理して生きてたって何の意味も――」
乾いた音と頬に走る痛みに邪魔をされ、その先を言い切ることはできなかった。ぶたれたのだと気づいたのは、その数秒後。
「ふざけるな。何があったかは知らないが、死にたくなくても死んでいくヤツは山ほどいるんだ。死ねば良かったなんて、軽々しく口にするな」
激しい口調ではないけれど、その言葉には明らかな怒りと責める響きがあった。
言われたことは至って正論だとわかる。けれど、その言い草が不愉快で堪らなかった。顔を上げ、キッと彼を睨みつける。
「じゃあ、アンタはどうなの? あの男たちを簡単に殺したじゃない」
言った途端、騎士の表情が凍りついた。
「確かにアイツらは私を捕まえようとした。捕まってたら、きっとろくでもないことにしかなってないだろうってことも想像できる。だけど、アイツらのしようとしたことがこの国ではどの程度の罪になるかは知らないけど、殺していい理由になるの? 罪を犯した人間は、殺されて当然なの? だったら……」
そこまで言ったところで、泣きながら私を罵った人の顔が思い浮かぶ。きっと私と変わらない、いや、私以上に鏡吾を愛していた人の泣き叫ぶ顔。
『人殺し! 貴女がいなければ、鏡吾は死なずに済んだのよ!』
その言葉に、私は何一つ反論できなかった。鏡吾は、私を庇ったが為に命を落としたのだから。
私が、鏡吾を殺したのだ。
「だったら、私こそ殺されるべきじゃないっ」
堪え切れずに零れ落ちる涙が忌々しい。今までずっと、私には泣く資格などないと戒めてきたのに。
そして、涙とともにとめどなく湧き上がってくるのは、胸の奥底に封じ込めてきた後悔の念。
何故あの時、私は鏡吾を守ることができなかったのか。
何故あの日あの場所に、二人で出掛けてしまったのか。
何故……。
そんな今更どうしようもない思いばかりが溢れ返る。
潤み滲んだ視界では、今目の前の騎士がどんな表情をしているのかなんてわからない。けれど、空気の動いた気配がした。その直後、ふわりと優しい腕が背中にまわされる。そのまま抱き寄せられ、大きな手の平が慰めるように髪を撫でた。
「そんなに自分を責めるな」
まるで私の抱えている過去を全て見通しているかのような、慈しみに満ちた声。先ほど私を叱責したときの厳しさは、そこにはない。
どこまでも穏やかで、いつまでも塞がらない傷をそっと真綿で包むような声だった。
触発されるように、抑え切れなくなった嗚咽が零れ落ちる。
そうだ。ずっと私は、許されたかった。
鏡吾の家族でも劇団の仲間でもなく、私自身に。誰よりも私が、何もできなかった私を許せなかったから。
なのに、何故かこの人の声が私を絡め取っていた自責の鎖をするりと解いてしまった。まったく事情も知らないはずなのに、この人が許しをくれた気がした。
そうして私は、しばらくそのまま彼の腕の中で泣き続けたのだった。
ひとしきり泣いた後、私が落ち着いたのを見計らったのか抱き締める腕がそっと解かれた。そうして、涙の痕の残る左頬に節くれ立った指先が触れる。
「悪かったな。殴ったりして」
返す言葉もなく、私はただ無言で首を振った。殴られはしたけれど、その後私が投げつけた暴言は耳を塞ぎたくなるようなものだったと思う。この人は私を助けるために剣を振るっただけなのに、あんな風に詰るのは筋違いだ。あれは完全にただの八つ当たりで頑是ない子供の癇癪と大差なかった。
「だが、自ら死を望んだって何もいいことなんてない。二度とその大切な人に会えなくなるだけだぞ」
「……どういう意味?」
言っている意味がよくわからない。死んでしまった人にはどう足掻いても二度と会えないのだ。会えるとしたら、それは私が死んだ時だろう。
いや、もしも死後の世界が天国と地獄のように分かれているならば、会えない可能性のほうがずっと高い。私は鏡吾と同じ場所に行けるとは思えないから。
「そうか、この国の者じゃないなら知らないのも無理はないか。聖典には『自らを滅する者、彷徨し、辿り着くは無なり』って言葉があってな」
聖典ということは、この世界の宗教の教えなのだろう。剣一本でならず者数人をまとめて斬り伏せるような人が、聖典なんてものを引っ張り出してくるとは思いもしなかった。見かけによらず信心深いらしい。
言葉の意味は、何となくわかる。わかるけれど、理解できるわけではなかった。
「そんな風に自ら死を呼び込むようなことをしたら、おまえは生まれ変われない」
真剣な表情で騎士が訴えるのは、いわゆる輪廻転生の思想のようだった。
けれど、私は生まれ変わりなんて信じてない。
そりゃあ、お盆にお墓参りもすれば新年には初詣にも行く。舞台の初日前にはいつも劇団員揃って近所の神社に成功祈願なんてものもしていた。
ただしそれは、慣れ親しんだ習慣のようなものだ。神様も仏様も本気でいるとは思ってないし、願いを聞き入れてもらった覚えもない。願いが叶ったとしたら、それは自分自身の努力や周りの支えがあったおかげだ。神頼みの結果じゃない。
そんな冷めた考えだから、この人の言葉を安易に受け入れたりできなかった。けれど、
「何もかも擲ってしまいたいと思い詰めるほど大切な相手なんだろう? なら、もう一度めぐりあいたいと思わないか?」
なおも真摯に投げかけられる言葉を、絵空事だと笑い飛ばそうとして、できなかった。
まっすぐに向けられるヘイゼルの瞳から目をそらせない。
「叶うことなら、まためぐりあって添い遂げたいと願ってみるのは、馬鹿馬鹿しいか?」
重ねて確かめる声にはどこか切なさが滲んでいて、じんわりと染みこむように私の心に直に届く。
気づけば、彼の瞳と声に促されて、私はゆると頭を振っていた。
私の中には鏡吾と一緒にいたい気持ちがずっとある。鏡吾と気持ちが通じ合ってからずっと、ともに生きていきたいと望んできた。
その想いは、鏡吾がいなくなった今でもまだ頭の片隅から追い出せずにいる。
私は、神も仏も生まれ変わりも、何一つだって信じてはいない。今知ったばかりの宗教の教えなんてなおさらだ。
でも、何故だろう。彼の言葉は違った。聖典の説教臭い言葉ではなく、彼自身から生みだされたものだったからだろうか。
「だったら、死に惹かれるな」
駄目押しのように力強く告げられる声に、今度はしっかりと頷いた。それを見て、彼は満足そうにニッと笑う。
「名前、聞いてなかったな。俺はキース。一応この国の白騎士団に所属している。おまえは?」
「サクヤ」
「サクヤか。変わった名前だな」
キースに言われて、つい苦笑を洩らしてしまった。異世界とはいえ欧米系っぽい名前の人からすれば、日本人の名前などみんな珍しいだろう。むしろキースが太郎とかそういう名前じゃなくてちょっと安心した。
けれど、私の表情を違う意味に取ったらしく、キースはすぐに表情を改める。
「悪い、貶しているわけじゃなくてだな」
「あ、別にそういうんじゃなくて。女らしい名前でないことは確かかなと思って」
「そうか? 綺麗な響きだし、よく似合っていると思うぞ」
あまりにも自然にキースがさらりと褒める。ほんの少し前まで厳しい表情をしていたのが嘘のような柔らかい笑顔だ。その所為か素で聴いていたら恥ずかしくなるような台詞を言われているのに、素直に受け取って「ありがとう」と礼を返していた。
「じゃあサクヤ、悪いがちょっと歩けるか? 詳しい話を聴きたいんだが、さすがにここじゃあな」
室内を見回しながら、キースが当たり前のように私に手を差し伸べてくれる。もう体の不調は感じなかったけれど、大人しく掴まってベッドを下りた。
床に足をつけると、鈍い痛みが伝わる。
逃げていたときは必死でそれほど感じなかったけれど、落ち着いてしまうと今まで忘れていた分まで痛むようだった。処置はしてくれているようだけれど、掴まっていないとさすがに歩くのがしんどい。それを見越した上で手を貸してくれたのだと遅まきながらに気づいた。
足元には布製の靴が置かれていて、勧められるままにそれを履いて歩き出す。靴の中には柔らかくて厚めの中敷きが入れられていた。痛みがかなり緩和され何とか歩けそうだ。
医務室を出ると、石造りの広い回廊だった。磨き上げられた床石は覗き込めば顔が映るんじゃないかと思えるほどピカピカのツルツルで、キースの長靴の音が高く反響する。
通り過ぎる人はキースと同じような服装の人が多い。他には揃いの濃紺のワンピースを着た女の人も何人かいた。その誰もが、キースの姿に気づくと会釈していく。
そういえば、キースは『キュウジョウ』という言葉を口にしていた。周りの様子を見るに、『宮城』――つまりお城の中にいるのだと理解する。
「どこまで行くの?」
「俺の執務室までだ。足がつらいか?」
「ううん、大丈夫」
俺の執務室ということは、キース個人の仕事部屋だ。色んな人から頭を下げられ、お城の中に専用の部屋まであるのだから、もしかしなくてもキースは結構地位の高い人なのだろう。
そういえば、右肩辺りに揺れている勲章のような装飾品も、大きな宝石がついていてかなり立派なものに見えた。
そんな風に観察を重ねながら歩くこと数分。重厚な造りの両開きのドアの前に辿り着いた。キースはノックもせずにそのドアを開け、私を中へと促す。部屋の中央に置かれたソファーに私を座らせると、少し待っていてくれと言い置いて部屋を出ていった。
天井まである本棚を見て羨ましいと思っていると、本当に大した時間も待たずにキース戻ってくる。向かいのソファーに腰掛けると、「さて」と軽く息をついた。
「改めて確認するが、サクヤはこの国の……ベルティリア帝国の民じゃないんだよな?」
「ベルティリア、帝国……」
キースのこの問いが、決定打だった。ほぼ確信はしていたけれど、やっぱりなと心中で溜息をつく。
「キース、その、それ以前の問題が……」
「それ以前の問題って?」
おずおずと口を開いた私に、キースが不思議そうに問いを重ねた。
信じてもらえないかもしれない。というか、正直私が一番信じられないと思っている。けれど、今の状況で頼れるのは目の前にいるこの人だけで、どうしても信じてもらないといけないのだ。その為にも、私は慎重に言葉を選ばなければならないんだけど、上手く話せる自信は皆無だった。
「私、この世界の人間じゃない、と思う」
「この世界の人間じゃ、ない?」
ヘイゼルの瞳が、驚きに見開かれる。予想の範囲内の反応だった。
「私が住んでいたのは、さっきも言ったけど『日本』って名前の島国なの。国土としては小さいけれど、それなりに知名度のある国だと思ってる。でも、キースは知らないんでしょ? そして、それと同じように私は『ベルティリア』なんて国、聞いたことがない」
「それだけで判断できるのか? 世界が広いことは俺だって理解している。名前を知らない国だってあるだろう」
これも、想定内の返答だ。当然、私だって全ての国の名前を覚えているわけじゃない。けれど、これだけは知っている。
「私のいたところは、もう世界中どこを探したって『帝国』は存在してないんだよ」
私は勉強ができる方ではなかったから、歴史だとか地理だとかにはあまり明るくない。
けれど、現代にもう帝国が存在していないことは、劇団の脚本家さんと話しているときに耳にしていた。フィクションではよく出てくる帝国というものが、現代には一つも存在していない。その事実に少なからず驚いて、前後の繋がりはすっ飛ばしてその部分だけしっかりと覚えてしまっていたのだ。
キースは眉間に皺を寄せ、口元に手を当てて深く考え込んでいる。
「私も今のこの状況は信じられない。でも、あの変な石造りの遺跡みたいな場所で気がつく前は、日本で公演を終えたばかりの舞台に立っていたの。そこで転落して意識が飛んだから、どうやってこの世界に来たのか全くわからない」
「けど、言葉」
「え?」
「言葉は、通じるんだな」
思いもよらない指摘に、絶句してしまった。
確かにそうだ。キースとは何の不自由もなく会話できている。キースだけじゃない。私を捕まえようとした男たちの言葉も、回廊を歩む途中ですれ違った人々の言葉も、全て理解できた。私の耳には『日本語』として聴こえていたのだ。
「……全然、気づいてなかった」
突拍子のない出来事の連続だった所為か、自分で思うよりも混乱していたのかもしれない。真っ先に疑問を持っていいはずのことに、微塵も違和感を抱いていなかった。
とはいえ、言葉が通じることは好都合だ。こんな得体のしれない場所で言葉まで通じなかったら、途方に暮れるどころの話ではすまされない。
「まあ、とりあえずそれは置いておくとして。異世界、か……」
「やっぱり、信じてもらえない?」
またも考え込んだキースに、不安がわきあがる。私が別の世界から来たことを証明する方法なんてない。私の証言しかないのだ。
それに、立場が逆なら私は素直に信じられないだろう。もし日本でキース拾って異世界から来ましたとか言われても、劇団のみんなのドッキリかなと絶対に思うに違いない。
「……証拠になるものがあればいいんだけど、私物とか何も持ってなかったし」
「いや、サクヤが異世界から来たというのは信じる」
「え? 何で?」
「場所が場所、だからな」
「場所?」
それは、私が目を覚ましたあの朽ちた石造りの建物のことだろうか?
それとも、あの森自体とか?
「それで、これからどうするつもりだ?」
「どうするって……」
場所云々について訊こうとしたら、先にキースに別の質問を投げかけられてしまった。
でも、本当にどうすればいいんだろう。考えてみても答えは簡単には出そうにない。
今の私には何もないのだ。お金も地位も人脈も。それに加え、何かをしようという気力自体もあまりないかもしれない。
「とりあえず、しばらくは俺のところにいればいいけど。元の世界に帰る方法も探さないと駄目だろうしな」
「え?」
思わず疑問の声を洩らすと、キースは肩を竦めて口元を緩めた。安心しろとでも言いたげな表情だ。
「そんなに驚かなくてもいいだろう。サクヤからしたらここは全く未知の世界なんだし、そんな人間を一人で放り出すような真似はしないって」
キースの思いやりは本当にありがたい。けれど、私が訊き返したのは面倒をみてくれることに驚いたからじゃない。「元の世界に帰る」の部分だ。私の頭の中には元の世界に帰るという考えが、ほんのわずかも浮かんでいなかったから。
「あの、私って帰れるの?」
「そりゃあ、来ることができたんだから、帰ることもできるのが普通じゃないのか? それに、サクヤだって帰りたいだろう?」
さも当たり前のようにキースが続ける。その問いかけに私は素直に頷けなかった。
帰れるかどうかは別として、帰りたい気持ちが起こらない。もし帰る方法がわかったとしても、もう向こうの世界に鏡吾はいない。どう足掻いても変えられないその事実から目をそらし続けていたかった。