第一幕 あるいは、絵空事 [06]

 跪くキースの肩に、そっと手を置く。頭の中に響いた声のおかげか、先ほどまでの怒りは嘘のように引いていた。
「顔上げてよ。キースが頭下げる必要なんてないんだから」
「ならば、貴様自身が詫びを入れるというわけか」
 にやりと、俺様男が口元だけで嗤う。どう見ても悪役にしか見えないその笑みは、まるで時代劇の悪代官みたいだ。
 刃をつきつけられていたときの恐怖はもう綺麗さっぱり消え去っていた。軽く息を吸い込むと、真正面から長身の不遜な男をキッと睨みつける。
「謝罪なんてしないわ」
「何だと?」
「サクヤ! 何を――」
「キースは黙ってて」
 慌てて私を抑えようとするキースを、低い一言で制した。それまでにない私の気迫に圧されたのか、キースは声を失くす。
 私の態度が変わったことで、その場の空気が一気に張り詰めた。目の前の男の顔からも、もう笑みは消えている。
 けれど、その緊張感がひどく心地よかった。そう、まるで開幕前の板付きのようだ。
 オープニングのSEが板付きの曲へと変わり、真っ暗な中を小さな蓄光テープのバミリを頼りに進んで定位置に立つ。そして幕が上がり明転するまでのあのささやかな時間。私が一番好きな、そして私が『私』でなくなるために必要な大切なひとときだ。
「私に非があるのならば、好きに処分なされば良いでしょう」
 それまでの無礼な私を捨て去り、わざと慇懃な口調を選ぶ。その変化に男は驚いたように目を見開いた。背後からは、キースの息を呑む気配が伝わる。
「例えば、その剣で切り捨てるとか」
 口元に、仄かな笑みを刻む。自嘲に染まった心を覆い隠す為の、柔らかく穏やかな慈愛さえ感じさせるような微笑を。

 ――夢から醒めるにはね、

 頭の中に何度も響く台詞は誰の台詞だったのか、どんなシーンだったのかは、今はもう思い出せない。そして、どうして思い出したのかもわからない。

 ――その夢の中で

 ただ、それが今の私にとっての、『鍵』のような気がした。

 ――死ねばいいんだよ。

 悪夢の世界から抜け出す扉を開けるための、鍵。
「サクヤ、何を馬鹿なことを!」
「だから、うるさいってば」
「うるさいって、おまえさっきも――!」
 キースが窘めるも、私が全く取り合わないという不毛な会話が始まる。キースの言いたいことはわかるけれど、今は何も聞き入れたくなかった。
 すると、それを黙って見ていた男が、さもおかしげに喉を鳴らして笑い出した。耳障りなその声に思わず眉を顰める。キースも訝しむような戸惑った表情をしていた。
 男は私たちのことなど全く意に介さない様子で、手にした刃を鞘に収める。そして私ではなくキースに目線を向けた。
「キース」
「はっ」
「この女が聖廟前に立ち入ったことは不問にする。それから……」
 男の視線がするりと滑るように平行移動する。冷えた湖水のようなアイスブルーの瞳が私を捉えた。ふっと笑みが浮かべられる。嫌味のたっぷりと乗せられた、癪に障る笑みが。
「コイツはおまえが守ってやれ」
 顎をしゃくるようにして言い放たれた言葉の意味が、瞬時に理解できなかった。何がどうなってそういう台詞が生み出されたのかがわからず、私はただ呆然とする。それに男はもう一度ふんと鼻で嗤った。
「サクヤといったか。せいぜい長生きしてみせろ」
「なっ……!?」
 その一言で、わかってしまった。あんな男に、理解《・・》されてしまった《・・・・・・・》のだと。
 唇を噛み締め、固く拳を握り締める。
 苛立ちを覚えた私をよそに、男は蔑むような表情を残して踵を返した。遠ざかっていく後ろ姿を見つめたまま、行き場のない感情が呟きとなって零れ落ちる。
「……サイテー」
「サクヤ!」
 吐き気がしそうなほどの悔しさが全身を覆いつくす。キースの窘める声も耳に入ってはこなかった。
 あの男は、あの一瞬で気づいたのだ。私が死を望んでいることを。
 だから切らなかった。だからこそ『長生きしてみせろ』などと皮肉った。そう言われることが私にとって一番屈辱的なのだと、あの男は判断したのだ。 
「何考えてるんだよ、おまえは! ついさっきもちゃんと話したところだろうが!」
 しっかりしろと言わんばかりに、キースが私の両肩を掴んで揺さぶる。それでも一度落ち始めた私の気持ちは、一向に前向きになんてならない。それどころかキースの気遣いすら疎ましかった。
「キースに迷惑をかけるつもりはないよ」
「そうじゃなくて……ああもう! 何でそんなに――」
「私のことなんてほっとけばいいじゃない。どうせたまたま拾っただけの、何の関係もない人間なんだから」
 どうしてキースはこんな風に必死に構うのだろう。私を助けたって、何のメリットもないのに。キースは追われているところに偶然居合わせただけ。しかも異世界から来たなんて言う胡散臭い人間相手だ。見返りに与えられるものなんて何一つないと知っているはずなのに。
 そこまで言葉にしなくても、私の投げやりな態度からキースには伝わってしまったらしい。ムッとした表情になり、明らかに怒っているのがわかった。
 この人がどれほど博愛精神に溢れていたとしても、さすがに見放されるだろう。それならそれでいい。きっと、見捨てられた方が私は楽になれるから。
「なら、関係のある奴はどうするんだ?」
「関係ある、人?」
 静かに突きつけられたのは、思ってもみない言葉。そしてそれは、医務室で頬を叩かれた以上に目が覚めるような痛みをもたらした。
 さらにキースは低い声音で続ける。
「家族とか、兄弟とか。おまえは『キョウゴ』ってヤツのことばかり考えているが、周りにはおまえを大切に思う人間が他にもいるんだろう?」
「それ、は……」
 今までそんなことを露ほども考えなかったひとりよがりな自分を突きつけられた。
 キースの言うとおり、私には大切な家族がいる。幼い頃に他界した両親の代わりに育ててくれた叔父夫婦。いつも私のことを誰よりも理解し傍にいてくれた半身である双子の兄の藤夜。
 家族だけじゃない。一緒に舞台を作り上げてきた劇団の仲間や、励ましや応援やアドバイスを与えてくれる友人たち。
 みんな大切で大好きで、かけがえのない人たちだった。そして、鏡吾を失ってから誰もが私を支えてくれていた。
 それなのに、私はみんなの優しさに目を瞑り、時には煩わしささえ感じていた。誰も私のつらさなど理解できるはずがないだなんて、悲劇のヒロインぶっていたのだ。思い返すと落ち込まずにはいられないほど、自分本位にみんなの蔑ろにしていた。
「サクヤにとっても、大切なのはその喪った人だけじゃない。そうだろう?」
 今度は幼い子どもに言い聞かせるような優しさでキースが確認する。私は力なく頷くしかなかった。
「ごめん、なさい……」
 消えそうなほど小さく零れた謝罪に、キースは項垂れた私の頭をくしゃと撫でる。その手のあたたかさがまた心を締め付けた。
「それは、帰ってからその人たちに言ってやれ」
「うん」
「ちゃんと、帰してやるからさ」
「……うん」
 穏やかな声に促され、緩みそうになる涙腺を何とか締める。何度も頷きながら、私はこの世界に来て初めて心から思った。
 『帰りたい』と。帰って『謝りたい』と。
 そして、もう一つ。
「キース」
「何だ?」
「ありがとう」
 顔を上げ、しっかりとキースの目を見て伝える。
 助けられてから、キースには何度かお礼の言葉は向けていた。けれどそれは、表面的な形だけもの。
 だからこそ、本物の感謝をどうしても伝えたかった。
 進むべき道も、本当に大切なものも、何もかも見失っていた私を正してくれたことに。
「礼を言われるようなことなんて何もしてないんだがな」
 キースが少し照れ臭そうに笑う。ヘイゼルの瞳が、陽光を受けて少しだけ緑色を濃くしたように見えた。
 もう一度優しく頭を撫でられ、その仕草に大切な人の影が重なる。まだ癒えない傷は疼くけれど、それでも私の心持ちは大きく変わっていた。
 今は、元の世界に帰ることを最優先で考えよう。そう考え直せる程度に。
 
 私の異世界生活はこうして開幕したのだった。

▼栞を挟む


©Shinobu Kiyohisa