Song for Snow

#8 Declared Permission

 涼やか且つ軽やかなドアベルの音が耳をくすぐるのとほぼ同時に、印象的な、独特の雰囲気を持った声に「いらっしゃいませ」と迎えられた。
 ハスキーなのにどこか透明感を漂わせる、硬質なのに柔らかさを内包した声。
 嫌でも耳に残る声だと、理恵子は思った。
 昔歌をやっていた所為か、つい特徴のある声は分析してしまう。そんな自分の習性に苦笑を洩らしながらも店内に足を進める。
「あれ? 珍しやん。どないしたんや?」
 たまたまホールに出ていた槇野には理恵子の姿が見えたらしく、入り口まで迎えに来てくれた。
 確かにこの店に来るのは久しぶりだった。貴久と結婚してからは、多分、一度来たきりだったと思う。
 頭一つ分以上高い位置から見下ろしている槇野の顔が、どこか興味津々な風に見えるのは自分の先入観からだろうかと思うが、すぐに考え直す。純粋に好奇心の塊なのだ、この四つ年下の従弟は。
「うるさいわね。別にアンタに逢いに来たわけじゃないわよ」
「エライ機嫌悪いなぁ。ブッ細工な顔してんで、自分」
 相変わらず口の減らない従弟にむっとしつつも、まともに相手をしていては時間の無駄だと割り切って反論を諦めた。
 槇野の脇をズカズカと不機嫌丸出しですり抜け、カウンターへと向かう。
「……理恵子さん?」
「あらお久しぶり、脩一さん」
 カウンター席には理恵子もよく知る夫の親友・早川脩一の姿があった。
 その向かいには小柄な女の子がいて、二人で話していたのだろうと理恵子は推測する。
「珍しいね。こっちに来るなんて。……あ、トエちゃん、この人」
「店長の奥さんでしょ?」
 早川の言葉の途中で、その女の子が答えた。
 ふわりと浮かべた笑顔が、はきはきとした口調とは対照的にどこか危うげな雰囲気を併せ持っている。
 そんな彼女を見て、理恵子は心中で一人納得していた。
「あれ? 会ったことあるの?」
「ないですよ。でも、店長からもまっきーからも聞いてますから。名前でわかっちゃいました」
「何だ、そうか。理恵子さん、彼女は戸枝ゆきちゃん。みんな『トエ』ちゃんって呼んでる」
「初めまして」
 早川の紹介に、ゆきは笑顔を作り、頭を軽く下げる。その笑い方がまたどこか壊れそうだった。
 何だかひどくアンバランスな子だと思っていると、精算をしにきた客の対応でその場を離れていってしまう。
「何だか、独特の雰囲気持った子ね」
 接客している横顔を見ながら素直な感想を述べると、早川もゆきを見つめて頷いた。その視線には好意的という以上の感情が窺える。
「だなぁ。だからトエちゃん、人気あるんだけどね」
「ふうん。脩一さんも?」
「な、何を……」
「脩一さん、わかり易すぎよ」
 あからさまに好意丸出しの早川に、理恵子は呆れ混じりの苦笑を返す。早川は照れ隠しでタバコをくわえ火をつけようとしたが、すぐに何かに気づいたようにタバコを箱へと戻した。
「あら、お気遣いアリガト」
「いえいえ。貴久に厭味言われたくないんでね」
「理恵子になんか気ぃ遣わんでええねんで、ハヤさん」
 空いたグラスや皿を持った槇野が、戻ってきた途端にそう言った。
「ほんっと、アンタむかつくわね」
「そんなん言われたら照れるやん」
「褒めてないっての」
 理恵子と槇野のやりとりに、くすくすと笑う声が聞こえた。
 ゆきが接客を終え、すぐ傍まで戻ってきていたのだ。どうやら理恵子と槇野のやりとりをずっと聞いていたらしい。
「まっきーって、やっぱり誰にでもそんななんだね」
「俺様やからな!」
「いや、自慢すんなよ、槇野」
 まさしく俺様な槇野の発言に、早川がすかさずツッコミを入れる。楽しそうな三人の会話から、いつもこんな感じなんだろうなと思いながら、理恵子はもう一度ゆきを窺った。
「トエ、だいぶ客減ったし、今のうちに休憩しときや。俺は後でもらうし」
「サンキュー、まっきー。一杯だけコーヒー飲ませてもらうよ」
 不思議なトーンの声。耳ざわりのいい、一度聴いたら頭に残る――。
 店に入ったときの印象をもう一度持った。そして、それは以前にも聴いたことがある気がどうしてもして、理恵子は必死に記憶を探った。
「ねぇ、アナタ、どこかで……」
「え?」
 問いかけながら、理恵子はいつのことだったかと記憶のページを早戻しでめくった。
 そんなに最近ではない。
 多分、まだ自分が歌っていた頃の。
「あ、そうよ! 律野君のバンドにいた子でしょ?」
 ノドの奥に刺さった魚の小骨がようやく取れたような、そんな感じがした。
 もっとも、理恵子にとってあまり嬉しくはない思い出までも、引っ張り出してしまったのだけれど。
 ゆきは、理恵子の言葉に絶句していた。
 その愕然とした表情から、理恵子はゆきが自分のことを思い出したのだと思った。
 思い出してもらわないと、理恵子としても立つ瀬がない。あんな衝撃的なものを見せつけられたのだから。
「え? トエ、バンドなんてやっとったんや?」
「……うん、ここで働くよりももっと前にね」
「へぇ、意外。何やってたの?」
「上手かったわよ、この子。数回しか聴いたことなかったけど」
 過去を思い出しながら、理恵子はそこで奇妙なことに気づいた。
 もし、自分の記憶が確かなら――。
「あれ? でも、確かリ……」
「昔の……!」
 疑問を口にしようとした瞬間、思いがけない強い声に遮られた。
 ゆきは、感情を押し殺すように俯いている。
「トエ?」
「もう、昔の話ですから」
 そう言いながら上げた顔は、今まで以上に作り上げられた笑顔だった。その無機質な笑顔は、ささくれた傷痕のようにじわじわと鈍い痛みを伴っている。
 ゆきにとっても、あの頃のことは楽しいばかりの思い出ではなくなっているのだと、理恵子は遅れて気が付いた。
 少し意地悪をするつもりが、予想以上に彼女を傷つけていたらしい。
「……そ、そうね、ごめんなさい」
「いえ。私こそすみません。大きな声出して」
「気にしてないわっ! で、でも、懐かしいわね。律野君、元気?」
 努めて明るい雰囲気に戻そうと思って慌てて次の話題に移る。
 ゆきと律野はまるで恋人同士のように仲が良かったことを思い出して、そう言ったのだった。しかし、
「わかりません。会ってないですから」
 返ってきたのは、ますますその場の空気を凍りつかせる一言。
 ゆきは、無表情で自分で入れたコーヒーをカップに注ぐと、槇野を見上げた。
「ゴメン、まっきー。私休憩もらうね」
「あぁ」
 槇野もかける言葉がないのか短く了承の言葉だけを吐き頷く。
 奥に引っ込むゆきの背中を三人揃って息を詰めて見送った。
「な、何か、マズイところに触れちゃったみたいね」
「理恵子ー」
「驚いたなぁ。あんなトエちゃん、初めて見た」
 ゆきが姿を消した途端、三人は同時にそれぞれの思いを溜め息とともに吐き出す。
 槇野と早川にしてみれば、笑顔のないゆきになどお目にかかったことがなかったので尚更驚いたのだった。
「おまえ、考えたらわかるやろ。昔の話やゆうて話題終わらせてんのに」
「だってぇっ! あの子と律野君、ホントに仲良かったんだもん! 絶対彼女だって思ったんだから!」
 言い訳する理恵子に、槇野は更に特大の溜め息をつく。
「せやから、おまえはアホやねん、理恵子」
「何よぉ!」
「そのバンド辞めた理由が、律野ちゅうヤツと上手くいかんようになったからとか思わんのか?」
「……あ、なるほど」
 いかにも、「納得です」という表情の理恵子に、今度は早川まで揃って溜息をついた。
 そんな二人に理恵子は子供のようにむくれる。
 槇野は子供じみた年上の従姉に呆れつつも、彼女の好きなカンパリオレンジの代わりにオレンジジュースを出す。
「今日はトエにケンカ売りに来たんか?」
「うるさいわね」
「おいおい、理恵子さんがトエちゃんにケンカ売る理由なんて――」
「あるわよ」
 早川の台詞を一刀両断して、理恵子はオレンジジュースを一気にあおった。
 ぐびぐびと音の出そうな勢いで飲み干して、タンッ、と叩きつけるようにグラスを置く。
「やっぱりなぁ。おかしい思たわ、理恵子が店に来るなんて」
「ったく! 何であんたはいっつもそうやって人のこと見透かしてんのよ!」
「理恵子の考えそうなことくらい余裕でわかるっちゅうねん。心理学専攻をナメたらアカンで」
「お、おい、何の話を……」
 理恵子と槇野の話に、一人取り残された早川が焦ったように割って入る。話はわかっていなくても、不穏な空気だけは感じていたようだ。
 そんな早川に今度は理恵子と槇野が揃って溜息をつく番だった。
「ハヤさん、理恵子は気づいとってん」
「気づいてって」
「あの子でしょ? 貴久の相手」
「なっ、り、理恵子さん……」
 そう、理恵子は気づいていたのだ。貴久が誰かと付き合っていることを。そして貴久の性格や仕事の性質から、同じ職場のゆきに見当をつけた。今日はそれを確認しようと思って、店に顔を出したのだ。貴久がいないときを狙って。
「怖いなぁ、女て」
「別に、彼女だって確信持って来たわけじゃないわ」
「でも」
「確信したのは来てから。見た瞬間にわかったわよ。おかわり!」
 苛々とグラスを押し遣る理恵子に、槇野はやれやれと新しくジュースを注ぐ。
 早川はといえば、未だに状況を飲み込み切れていなかった。
「貴久が、いかにもほっとけそうにない子じゃない」
「で、何や? 宣戦布告でもしよう思たんか?」
「違うわよ! そりゃあ、ちょっとは意地悪言っちゃおうかなって思ったけど……」
「『ちょっとは』て、俺には傷口抉っとるように見えたぞ?」
「あぁー、もうっ! うるさいってば!」
 確かに、悪気がなかったとは言い切れない。けれど、理恵子は貴久とゆきを無理矢理別れさせようとか、そんなことを思ったわけではなかった。
 貴久が、自分を大切にしてくれていると十分に承知している。言葉にすると陳腐だが、「愛されている」とちゃんと感じている。
 だからこそ、そんな貴久が気にかける女性というのが、どんな人間なのか興味を持った。
 そして会ってみて一つだけ確信できたのだ。
 二人の間には恋愛感情も男女の関係もないのだと。
 ゆきは似ているのだ。貴久にとって大切だった存在と。
 槇野は知らないだろう。早川ももしかしたら知らないのかもしれない。
 けれど、理恵子は知っていた。貴久の大切だった『妹』を。
「……帰るわ」
 理恵子は、二杯目のジュースに手をつける前に席を立った。
 自分がここにいれば、ゆきは出てきづらいだろうと思ったのだ。それに理恵子自身も少々罪悪感があり、顔を合わせにくい。
「ええんか、宣戦布告は」
「しないわよ、そんなこと。ま、あとちょっとくらいなら、貴久のレンタル許してあげるわ」
 ふっと、笑みを浮かべてそう言うと、珍しく槇野が驚いたような表情を見せた。
 理恵子はそれに少しばかり満足感を得る。が、やっぱり槇野は槇野で、
「何や、変に寛大やな。俺、普通のジュースちゃうもん出したんか? オレンジ腐っとったんかー?」
「違うわよ!」
 満足感はすぐに潰されてしまった。理恵子はこの一癖も二癖もある男が従弟であることを心底恨めしく思った。
「ジュースはアンタのオゴリね!」
「はいはい」
「あ、理恵子さん、途中まで送ってくよ」
 辛うじて槇野に小さな腹癒せをして入り口に向かう理恵子の後を早川が追う。
 揃って店を出て行く二人を見送った後、槇野はぐるりと視線を巡らせた。
 視線の先は、奥のスタッフルームのドア。
 一度息をついて、ゆっくりと、槇野はそのドアへと向かった。