Song for Snow

#16 Anastasia

 気がつけば、貴久と初めて出逢ってからもう一年半ほどが過ぎている。
 そう思ったゆきの口からは、自ずと溜め息が零れていた。

 数日前、貴久の妻である理恵子が、『Anastasia』に訪れた。滅多にないことに、普段と変わらぬ様子を装ったものの、内心では驚いていた。
 理恵子は、自分たちの関係に気付いている。
 何となくではあったけれど、そう確信した。
「そろそろ、潮時かな」
 槇野に知られ、早川にも知られ、そして理恵子にまでも知られてしまった。
 理恵子の性格を詳しくは知らないけれど、多くの場合、妻は夫の浮気など許さない。そうなってしまっては、貴久に申し訳ないことになってしまう。いくら、声をかけてきたのが貴久の方であっても。
 つまり、ゆきの選ぶべき道は、すでに一つしか残されていないのだった。
 ちょうどタイミングのいいことに、今日は貴久からドライブの誘いがあった。
 約束の時間まではあと三十分ほど。身支度はとうに出来ている。
 あとは、ただ、自分の気持ちの整理をつけるだけだった。



 約束通りの時間に貴久が到着し、二人を乗せた車はたいしたあてもなく走り出していた。
 いつも、そうだった。
 最初から目的を持って出掛けるのではなく、いつもその時の気紛れ――主にゆきの――であちらこちらに車を走らせる。貴久の好きなジャズをBGMに、他愛もない話をしながらドライブするのが常だったのだ。
「ゆき、どこ行きたい?」
 そう貴久が問い掛けるのも、耳慣れたものだった。
 ゆきは窓の外を見つめたまま、どこがいいだろうと考える。
 別れに、一番相応しい場所はどこなのかを。
 けれど、そんな場所はすぐには思いつかなかった。
「思いつかないなら、俺の行きたいところ行っていい?」
 黙ったままのゆきに、貴久が提案をした。
 珍しいと思ったけれど、特に反対する理由もなかったので、素直に頷く。
 それに、最後なのだから貴久の望む場所で別れるのもいいのかもしれないと思えた。

 車は静かに走り続け、街中を抜け、やがて山道へとさしかかった。
 車内の会話はほとんどなく、ゆきはただ、流れる音楽に身を委ねていた。
 が、曲が切り替わり、新たにギターの音色聞こえてきた瞬間、
「止めて!」
 突然の叫びに、貴久は車を路肩に停めた。助手席のゆきを見ると、真っ青な顔で両耳を覆っている。
「ゆき」
「音、止めて! 何で、何で貴久さんがこの曲……!」
「槇野にもらった」
「嘘! そんなはずない! だってこの曲は――!」
「ゆきたちの、曲だから?」
 ゆきよりも先に、貴久がその答えを口にした。
 そう、カーステレオから流れてきたのは、ゆきがかつて『リツ』と呼ばれていた頃、『ユキ』に一番に歌って聴かせると母校のグラウンドで約束した曲。
 そして、約束も果たせぬまま、置き去りにされた曲だった。
「綺麗な曲だな」
 貴久は、ポツリとそれだけ呟くと、再び車を発進させる。
 何も言うべき言葉が見つからず、ゆきは混乱したままただ耳を塞ぎ、助手席で蹲っていた。
 ほどなく車は駐車場に入り、停車する。
 貴久はエンジンを切ると、「着いたぞ」と短くゆきに声を掛けた。
 ゆきはエンジンとともに曲が止まったことに安堵するが、貴久がどうしてあの曲をゆきに聴かせようとしたのかがわからない。
 それだけでなく、どうやってあの曲を手に入れたのか。
 槇野にもらったと答えたけれど、そんなはずはない。
 あの曲を持っているのは、自分が一緒にバンドを組んでいたメンバーだけ。他にはまだ聴かせてすらなかったはずなのだから。

 貴久は相変わらず詳しい説明もないまま、車を降りた。
 ゆきはしばし悩んだものの、このまま車に残っていても仕方がないので、貴久の後に続く。
 そこは、霊園だった。
 見晴らしは良く、昼間は眼下の街並みが、夜ならば見事な星空が臨めそうではあったけれど、男女の逢瀬には少々そぐわない。
 貴久が何のためにここに連れてきたのか、それもわからなかった。
 前を歩く貴久は、迷うことのない足取りで、まっすぐにコンクリートで舗装された通路を進んでいく。
 立ち並ぶ墓石の隙間を縫って歩くこと数分。
 一つの墓の前で、貴久は足を止めた。
 墓石はまだ新しい部類に入るだろう。正面には、『澤田家之墓』と彫られていた。
「貴久さん?」
 無言で墓石を見つめる貴久に、ゆきはようやく声を発することができた。
 けれど、やはり、何と問えばいいのかがわからない。
 ただ、刻まれている文字から、この墓が貴久の血縁のものだということだけはわかった。
「……『ゆき』の、墓なんだ」
「え?」
 一瞬、何を言われているのかと戸惑った。
 貴久が『ゆき』と呼ぶ人物を、ゆきは自分以外に知らない。だが、今貴久が指している人物は、自分ではなかった。
「妹。名前は『幸せ』にへその緒の『緒』って書いて『ゆきお』。俺はずっと『ゆき』って呼んでた」
 こんな風に貴久が自分自身のことを話し出すのは、初めてのことだった。
 今までは、互いのことをあまり話題にしたことはない。
 ゆきは自分のことを話したくなかった。だから、同時に貴久のことをあまり詳しく訊くのは申し訳ないと感じていたからだ。
 貴久もそれを感じ取っていたのか、自らのことは話そうとしなかったし、ゆきのことをしつこく訊こうともしなかった。
 そして、ゆきにとってはその空間がとても居心地が良かったのだ。
 なのに、突然ここにきて貴久が話し始めたことに驚きを隠せなかった。
 それと同時に、貴久はどんな気持ちで『ゆき』と呼んでいたのだろうと、重苦しい気持ちに苛まれる。
「初めてゆきに……って言うとややこしいな。君に初めて会ったとき、『ゆき』に似てるって思った。消えてしまいそうな雰囲気も、諦めきったような笑顔も、全部が全部、俺が最期に会った『ゆき』とかぶって、ほっとけなかった。要は、『ゆき』を死なせてしまった後ろめたさから、解放されたかっただけなんだけどな」
 自嘲の笑みを浮かべる貴久に、ゆきは何も言えなかった。
 貴久が自分に誰かを重ねていることは薄々気付いてはいたのだが、それほど深く考えてはいなかったのだ。
 それに、ゆき自身にとっても、貴久はある意味身代わりだった。

 貴久の声は、『ユキ』とよく似ている。初めて聴いた時、あまりのそっくりさに、思わず『ユキ』と呼び掛けてしまったほどだ。
 まったく目覚める兆しのない『ユキ』と同じ声が聴けることに大きく心が揺らいだ。
 また会いたいと言われても、断ることができなかった。
 そして、周囲に黙って引っ越しをし、もう『ユキ』と会わないと決めた後も、貴久と会うことはやめられなかった。

 『ユキ』を忘れたい。
 『ユキ』と過ごした『リツ』を消してしまいたい。
 そう思い、会わないことを決めたはずなのに。
 『ユキ』の声を聴いていたい。
 『ユキ』の存在を消してしまいたくない。
 そんな矛盾した想いが、心の中でせめぎ合う。
 成り行きで『ゆき』と名乗ったことになってしまったことは、ゆきの中の矛盾を上手く消化してくれていた。 

 そんな時、アルバイトの面接先で思いがけずに貴久に出くわしてしまった。
 ゆきにとって好都合な条件が多く揃っていたから選んだだけで、まさか貴久の店だとは露ほども思わなかった。
 貴久のプライベートをほとんど訊いていなかったことが災いしたらしい。
 貴久も驚いてはいたが、穏やかな笑顔でごく普通に面接をしてくれた。
 けれど、ゆきの履歴書を確認した瞬間、更なる驚きを伴って、貴久はゆきを穴が開くほど見つめた。
『名前……』
『ごめんなさい』
 言い訳することも出来ず、ゆきはただ謝罪を口にしながら、頭を下げた。
 騙すつもりで名乗ったわけではなく、思わず『ユキ』と呼び掛けてしまったのを貴久が誤解しただけなのだが、それを訂正しなかったのはゆき自身だ。結果的に、騙したことに代わりはない。
 貴久は、怒るでもなく責めるでもなく、ただ静かに頷いた。
『戸枝ゆき、でいい?』
『え?』
『もう一人のバイトに紹介するの。今更違う名前じゃ呼びにくいしね。それに、「六花」って雪のことだから、あながち間違いでもないだろう?』
 思いやるように提案する貴久に、涙が零れそうになった。
 いつか雪のグラウンドで聞いた話。それと同じものが、同じ声で繰り返された。
 『ユキ』が、すぐ傍にいる気がした。


「俺は『ユキ』君にはなれないよ」
 過去に想いを馳せるゆきを現実に戻すように、貴久が呟いた。その声は穏やかだったが、厳しさも併せ持っていた。
「貴久さん……、知って、るの?」
 貴久はゆっくりと頷いた。面接の時と同じように、ただ静かに、慈愛に満ちた表情で。
「全部聞いたよ。斎藤君と渡瀬さんから」
「何で……理恵子さん?」
 貴久とシュウ達との繋がりを疑問に思うも、すぐに気付いた。
 理恵子はシュウやユキと同じ大学だし、連絡先を知っていたとしても不思議ではない。
 けれど、だからといって今更理恵子が彼らと連絡を取ろうとすることが奇妙に思えた。自分が加入する前、一時組んでいたとはいえ、それほどシュウ達と親しげにしているようには見えなかったからだ。
 その疑問が表情に出ていたのか、貴久は説明に口を開く。
「理恵子はね、君に歌を辞めて欲しくないらしいよ」
「でも、私は……!」
「『ユキ』君がいないと、歌えない?」
 率直過ぎる貴久の言葉に、ゆきは唇を噛んだ。
 その通りなのだ。
 自分は、ユキがいないと歌えない。
 ユキの作った歌があって、ユキが隣でギターを弾いてくれて初めて、自分の歌には魂が籠もる。再会した時にそれを思い知らされたのだから。
「……『六花』」
 貴久が、初めてゆきの――否、リツの本当の名を呼んだ。
 その力強さに、貴久も今日、リツと同じ決意をして会いに来たのだと理解する。
「俺はね、ゆきが一人で苦しんでいる時に、傍にいてやれなかった。本当の死に際も、看取ってやれなかった。今はそれを、すごく後悔してる」
「ユキが死ぬみたいに言わないで!」
 思わず叫んでから、リツは我に返った。
 ユキを見捨て、忘れようとしたくせに、ユキが死を迎えるかもしれないことを拒絶している。何て勝手なのだろう。辛いことからは全て逃げているくせに。
「そうだな。ユキ君は眠ってるだけだしな」
 相変わらず気分を害した様子もなく、貴久は淡々と続ける。
 しかし、それがかえってリツの心の重石を増加させた。
 ただ眠っているだけ。けれど、このまま一生目覚めないかもしれない。
 ほんの半年ほどでもその状況に耐えられなかったのに、一生なんて無理に決まっている。
 だからこそ、ユキの母親もリツに『雪央のことは忘れた方が』などと言い出したのだ。
「なあ、六花。こんな話があるんだ。ポーランドの人でね、植物状態だった人が十九年後に目覚めたことがあるらしいよ」
「そんな奇跡みたいな話、いつでも起こるわけじゃ」
「他にもね、ある病院の調査結果で、充分なケアをすれば、六割の人が植物状態から回復したっていうのもあるらしい。三年以上経ってから、話せるようになった人っていうのも何人もいたらしいよ」
 貴久が並べる事柄一つ一つが、リツの胸を抉る。
 それが本当であれば、嬉しいし、希望だって持てる。
 けれど、確率は100%ではない。ユキが成功例の側に必ず属せるのだとは、誰も言い切れないのだ。
「ユキ君はまだ一年半ほどだろ? 諦めるには早いんじゃないか?」
「でも、このままずっと目覚めないかもしれない」
「確かにそうだけど、傍にいなくて六花は後悔しないのか?」
「こう、かい……?」
 貴久のいう後悔が何に対してのものかわからずにいると、「酷なことを言うけど」と前置きをしてから貴久は語り出した。
「確かに目覚めないかもしれない。けれど、ただ目覚めないだけじゃなく、容体が悪化して亡くなってしまう可能性だってあるだろう。さっき六花は『ユキが死ぬみたいに言わないで』って言ったけど、その可能性はゼロじゃない。もし、そうなった時、六花は傍にいなくて後悔しないのか?」
 改めて残酷な事実がつきつけられ、リツは言葉を失った。
 心のどこかで、ユキは眠っているだけ、目を覚まさないだけで生きているという事実に甘んじているところがあった。
 けれど、貴久の言うとおり、その状態はいつ生と死のどちらに転んでもおかしくないほど、不安定なものでもあったのだ。
「俺は六花に、俺と同じような思いはしてほしくない」
「貴久さん……」
「ま、キツイこと言ったけど、そんなことにはならないと思ってるんだけどね」
 少し強張っていた表情を和らげ、貴久はそっとリツの頭を撫でた。
 今まで、一度として触れようとしなかった貴久が、初めてリツに自らの意思で触れた。
 その手の平は少しごつごつとしていて、リツの知っているユキの手とは、まったく正反対だった。
「ユキ君のところに、帰りなさい。きっと、ユキ君は君のことを待ってるよ」
「でも」
「君の友達も、ユキ君のお母さんもまだ諦めてないんだよ。なのに、ユキ君が一番必要としてる人が、真っ先に投げ出していいのか?」
 ユキの、一番必要としている人――。
 そう言われることが、嬉しかったはずなのに、辛い。
 ユキを見捨てた自分を、ユキはまだ必要としてくれるのだろうか?
 そんな想いが、リツの足を竦ませる。
「ちゃんと気持ちを伝えたら、びっくりしてユキ君も目を覚ますかもな」
 冗談めかして笑う貴久が、もう一度頭を撫でた。
 まるで、幼い妹をあやすような仕草だった。
 堪えていた涙が、想いとともに溢れ出す。
「大丈夫。俺の勘は結構当たるんだから。それにあの歌、六花の声で聴いてみたいな」
 ユキに似た声に後押しされるように、リツはゆっくりと頷いた。


「ここでいいか?」
 一年前まで、毎日のようにリツが通っていた病院。その手前の交差点脇で、貴久は車を止めた。
 どうやら駐車場は満車のようで、空き待ちの長い列ができている。
 貴久自身が病院に用があるわけではないので、中に入れなくても問題はない。ここまで送ってもらえただけでも十分だった。
 リツは頷くと、助手席から降り、貴久に向き直る。
「貴久さん、ありがとう。それから、理恵子さんにも」
「あと、槇野にもな。アイツが色々画策してたところあるから」
「まっきーが?」
「可愛い奴だろ」
 この場にいない相手をからかうような笑みを浮かべる貴久に、リツの頬を自然に緩んでいた。
 随分と遠回りをしたけれど、自分はまた元の場所に戻ることを決めた。
 それはきっと、出逢えた人達の優しさのお陰だと言い切ることができるだろう。
「じゃあ」
 けれど、いつまでもその優しさに甘えて、逃げ続けるわけにはいかない。
 リツは、ゆっくりと大切な人の待つ場所に向かって歩き出した。


 遠ざかる背中を見つめながら、貴久は達成感の中に僅かばかりの寂寥感に感じていた。
 六花と過ごす時間は、居心地が良かった。
 自分が幸緒に与えてやれなかった時間を、六花といることで埋め合わせできるような気がしていた。
 存在が支えとなっていたのは、六花だけではなかったのだ。
 そして、日に日に六花の諦めに満ちた瞳をどうにかしてやりたいという思いが膨れ上がった。六花が立ち直ることが、幸緒への償いのように思えた。
 もっともそれは、ただの自己満足で、自分が罪の意識から救われたかっただけなのだと今はわかる。
 けれど、たとえ偽善でも、六花が元の居場所に戻ったことは、素直に良かったのだと思えた。
 けっして楽な道ではないだろう。たとえユキが目を覚ましたとしても、かつてと同じように身体を動かすことが簡単ではないことも容易に想像がつく。
 それでも、あの二人は一緒にいた方がいいのだ。そう言い切った自分の妻の言葉を信じたかった。

 後ろ髪を引かれるような想いを断ち切るかの如く、携帯が鳴った。
 着信は理恵子からだった。
「もしもし」
『どう?』
「今、病院まで送っていったところだよ」
『そう。お疲れ様。今日はお店休みにして、家でゆっくりしたら?』
「いや、別に休むほど疲れてはないよ」
『でも、ヘコんでるでしょ?』
 いつもと変わらぬ調子で話していたはずなのに、ずばりと図星を指され、貴久は言葉に詰まってしまった。
 それを見透かしたように、理恵子はころころと軽やかに笑う。
『今日は休めばいいじゃない。その代わり、明日からは家族三人分がっつり稼いでくれないと。幸緒ちゃんのことをいつまでも悩んでいる暇はないわよ』
 逞しい理恵子の台詞に、貴久は小さく苦笑を洩らした。
 その通りだ。いつまでも戻らない過去を悔んでいても仕方がない。
 六花も前を向いて歩き出した。ならば、自分も前に進んで行かなくてはいけないだろう。
「わかった、今から店に貼り紙だけして帰るよ」
『そうね。ついでに馬鹿従弟には連絡しなくていいわよ。店に行ってから気付けばいい気味だわ』
 そこまで聞いて、理恵子が実は自分を気遣ってくれたのではなく、槇野に嫌がらせをしたいだけなのではないかと思えてしまった。
 そんなことはないはずなのだが、あまりにも楽しそうな理恵子の様子に、思い過ごしとも思えない。
「おいおい、槇野の協力があったからあの子も戻る気になったんだろう?」
『協力って、斎藤君達から借りたMDから曲移してCD-R焼いただけじゃない』
「もとはと言えば、槇野がおまえに電話してきたから、おまえも動く気になったんじゃないのか?」
『そんなんじゃないわよ。私はあの子に歌を辞めて欲しくなかっただけ。馬鹿に言われなくても、斎藤君に連絡するつもりはあったわ』
 あくまでも槇野の功績は認めないつもりの理恵子に、貴久はとうとう反論を諦めた。
 これ以上槇野の肩を持てば、間違いなく理恵子はへそを曲げてしまうだろう。そうなると、機嫌取りに大量の労力を要することは目に見えていた。
 そういうことにしておくよと、会話に一区切りをつけようとした瞬間。
 貴久の目の前を小さな白い欠片が横切った。
 フロントガラスには、くしゃくしゃと皺の寄った一センチほどの花弁が転がっている。風に揺られて飛ばされた、街路樹のサルスベリの花だった。
 また、風が吹くと、はらはらと幾つかの花が空を舞い、地に降り立つ。見れば、その辺りの道路はサルスベリの花びらで白く染まっていた。
 まるで、淡雪が舞い降りたかのように。
「なあ、理恵子」
『なあに?』
「俺もあの子の歌、聴くことできると思うか?」
 六花には強く言い聞かせたものとは打って変わった気弱な声に、貴久は自分自身で呆れてしまった。
 もし、六花がユキを失えば、本当にもう二度と歌わなくなるだろう。
 そうなってしまう可能性は、それなりの確率で――貴久が調べた限りでは四割ほども――存在した。
 それは、一緒に調べてくれた理恵子もよくわかっていることだった。
 けれど。
『当然じゃない』
 何を馬鹿なことを、と言わんばかりの明快な返事が耳に心地よく響いた。
『きっと、あの子たちの歌はこれから日本中に響いてくれるわよ』
 ありがたいほど強く言い切ってくれる自分の妻に、貴久は悲観的な己の心を遥か遠くへと蹴飛ばす。
 彼女たちの絆の強さを信じてやろうと、想いを新たに塗り替える。
 乾いた風が、また、祝福するように白い花を散らせた。