Song for Snow

#14 Tolerant Revenge

 久しぶりにすっきりと目覚めの良かった理恵子は、隣で眠っている貴久を起こさないようにそっとベッドから抜け出した。
 貴久は昨夜も仕事で、明け方近くに帰ってきたのだろう。理恵子の行動にも全く気付かない様子で、身動ぎすらしなかった。
 着替えを済ませ、キッチンへと向かい、コーヒーメーカーに豆をセットする。コーヒーが出来るのを待つ間に、理恵子はリビングの本棚の片隅に差し込まれていた、クリアファイルを取り出した。
 その中には大学時代のサークル名簿が入っている。
 個人情報が掲載されているということもあり、また時々元サークル員からの連絡があったりするものだから、捨てるに捨てられなかったのだ。しかし、それが今となっては幸いしたと思っている。
 学年毎に並べられた名前の中から、二つの名前に蛍光ペンでラインを引いた。
 一人は斎藤修(サイトウ オサム)。もう一人は渡瀬佳野(ワタセ ヨシノ)
 どちらも理恵子と一時組んでいて、後にゆきと一緒にバンドを結成したメンバーだ。
 律野に直接連絡をとる方法も考えたのだが、ゆきの態度からそれは拙いような気がした。それよりも周りのメンバーから情報を集めてからの方が良いのではないかと思ったのだ。
 コーヒーの香ばしい香りが鼻腔をくすぐる。カップに移し、ミルクだけはたっぷりと注いで口に含んだ。その温かさが、空腹の胃に染みる。
 時計に目を遣ると、まだ七時を過ぎた頃。いくら後輩とはいえ、特別に親しいわけでもないので、電話を掛けるには少々早過ぎるように思えた。
 しかし、テレビをつけたら、貴久を起こしてしまう可能性がある。他に何か時間を潰す方法はないかと考え、届けられているはずの新聞をまだ郵便受けから取り出していないことに気付いた。何とかそれで時間を潰せそうだと判断し、玄関まで足を運ぶ。
 コンパクトに畳まれて差し込まれている新聞を抜き取り、ダイニングテーブルに戻ってそれを広げる。
 しばらく細かい活字を目で追っていると、カチャリとドアの開く音が耳に入った。
「あら、思ったより早く起きたのね」
 寝間着姿のままの貴久が、ダイニングに顔を出したのだった。しばらくは起きないと思われたが、そうでもなかったらしい。
 貴久はそのまま理恵子の正面の席に腰を下ろす。
「理恵子こそ、今日はいつもより早いんじゃないか?」
「久しぶりに気持ち良く目が覚めたから。二度寝しちゃうともったいないでしょ?」
 笑顔でそう返し、新聞を畳んでテーブルの脇に置く。それから貴久の分のコーヒーを淹れる為に理恵子はキッチンへと向かった。
 残っていた分のコーヒーでカフェオレを作り、貴久へと手渡す。再びテーブルへと腰を落ち着けると、理恵子は新聞を読み始めている貴久に訊ねた。
「ねえ、貴久」
「うん?」
「あの子と一緒にいるのは、幸緒(ユキオ)ちゃんと似てるから?」
「理恵子……」
 単刀直入な問いに、貴久は返す言葉を失う。理恵子が自分とゆきの関係に気付いているのは槇野の話からわかってはいたのだが、まさかそこまで見透かされているとは思わなかったからだ。
「あのねー。これでも私は貴方の奥さんよ? それくらいわかるわよ」
「……おみそれしました」
 見くびっていたという思いと同時に、その理解の深さから改めて理恵子の愛情のほどを感じる。少し茶化した風に答えはしたものの、貴久の言葉に偽りはなかった。
「でもね、あの子、幸緒ちゃんとは違うわよ」
「わかってるよ。けど……、ほっとけなくてね。こんなことしたって、ユキへの償いにはならないとはわかってはいるんだが……」
「償いも何も、貴久は何も悪いことしてないじゃない」
「何もしてないのが駄目だったんだよ。俺は、もっとユキの側にいてやるべきだったんだ。俺がちゃんとアイツの寂しさに気付いてやれれば……」
 貴久の妹・幸緒は、三年前に病気で亡くなった。
 もともと病気がちで入退院を繰り返していたのだが、ある日を境に治療を拒むようになり、そのまま亡くなってしまったのだ。
 貴久は当時仕事で忙しく、病弱な妹にあまり構ってやれなかった。幸緒には恋人がいて、毎日見舞ってくれていたため、安心しきっていたということもある。
 しかし、貴久の知らぬうちにその恋人は幸緒の元を去り、あろうことか幸緒の友人の一人と恋人同士になっていた。それを知った時には、もう手遅れなほどに病状は悪化していた。
 貴久は、今でも幸緒がこの世を去る数日前に言った言葉が忘れられずにいた。
 病院の白いベッドに横たわり、青白い顔で幸緒は微笑みながらこう言ったのだ。
『お兄ちゃん、私、名前の通りにはいかなかったね。それとも、あの人の幸せを結んで上げられたから、間違ってはいないのかな?』
 幸緒。
 娘が幸せと上手く結び付けられますように、という両親の願いが込められた名前だった。
 けれど、その時の幸緒にはその名前が皮肉に感じられたのだろう。自分と結ばれるはずだった恋人は、自分が縁で知り合った友人へと気持ちを向けてしまったのだから。
 それでも、幸緒は恨み言一つ零さず、ただ静かだった。静かに、諦めきっていた。
 そんな幸緒に、貴久は何も言うことができなかったのだ。
 妹を失ってから、後悔ばかりが浮かんでくる。
 もう少し側にいてやれれば、恋人に裏切られた傷を癒してやれたかもしれない。友人に裏切られた傷を癒してやれたかもしれない。それができなくても、無理やりにでも治療を受けさせることが出来たかもしれないのに、と。
 ゆきに初めて出会った時、彼女の笑顔に幸緒の微笑みが重なった。
 だから放っておけなくて、奇妙な、説明のしがたい関係を始めてしまったのだった。
「あのね、あの子、バンドでボーカルやってたのよ」
 徐に、理恵子がゆきの話を始める。前後の脈絡のなさに、貴久は戸惑いながらも頷いた。
「槇野から聞いた。理恵子からヴォーカルのポジションを奪い取ったんだろう?」
「そう。それがね、あの子の本当の姿だと思うわ」
「そうなのかな。俺には未だに想像できないんだが……」
 貴久には幸緒と同じく儚げで壊れそうな、そんなゆきの印象しかない。
 激しさや情熱的といったものとは、全く無縁にしか思えなかった。
 しかし首を捻る貴久に、理恵子はふふと自信に満ちた笑みを浮かべる。その表情は、どこか勝ち誇っているようにも思えた。
「あの子はね、私よりももっとずっと音楽と、それも律野君の音楽と離れられないはずよ。貴方は聴いたことないからわからないでしょうけど、あの子たちの音は、互いに必要不可欠なんだもの」
「随分、ゆきのことを買ってるんだな」
「当然よ。私を引退に追いやった子よ? あんなの目の前で見せつけられたのに、歌うのは辞めましたとか言わせないんだから」
 ゆきが歌うのは義務だとでも言わんばかりの理恵子の言い草に、貴久は思わず苦笑を洩らしてしまった。
 我が妻ながら、理恵子は逞しい。いや、逞しくなったのかもしれない。これから生まれてくる小さな命の為に、少々のことで動じているわけにはいかないのだろう。
「だからね、私はあの子を元の場所に返してあげたいの」
「その方法が、それ?」
 理恵子の大学時代のサークル名簿。新聞を手に取った際に、その下に置かれていた為、その存在に気付いた。目線で示されたそれに、理恵子はゆっくりと頷く。
「多分、律野君とあの子の間で、何かがあったんだと思う。そうでなきゃ、あの子が歌っていない理由がわからないから。だから、他のメンバーに訊いてみようと思うの。どっかの傍若無人なバー店員にも頼まれたしね」
「槇野も意外に可愛いヤツだよな」
「可愛いー? 貴久、それは大いなる勘違いよ! あの馬鹿が可愛いだなんて、絶対に有り得ないんだから!」
 槇野の話になった途端に、それまで優しさに満ちた笑みを浮かべていた理恵子の表情が一変する。どうやら、今回の件を機会に仲良くなるわけではないらしい。
 そこは変わらないかと、溜め息まじりに苦笑を零しつつ、とりあえず理恵子を宥めた。
「俺からも頼むよ。何とかしたかったけど、俺だけの力じゃどうにもならないような気もしてたしね」
「ただ、ね。もしかしたら、二人の関係は修復のしようがない可能性もあるわ。そうだった時は、……もうちょっとあの子の側にいてあげてもいいわよ」
「理恵子」
「もちろん、そうでないことを祈ってるけどね」
 寛容すぎるとも思える理恵子の言葉に、貴久は感謝の言葉しか思い浮かばなかった。
 そして、その言葉でも足りないほどに。
 立ち上がり、座っている理恵子を背中からそっと抱き締める。
「俺には出来過ぎた奥さんだな」
 耳元にそう囁くと、当たり前よ、と少し照れた声と微笑みが返った。