Song for Snow

#12 Congenial Request

 誰もいない一人きりのリビングで、理恵子はぼんやりと膝を抱えてソファーに埋もれていた。
 時計の針はとっくに一日の終わりを告げていたけれど、なかなか眠気は訪れそうにない。安眠効果のあるハーブティーを飲んでみたところで、一向に効果の現れる気配はなかった。
 貴久の帰りは今日も遅い。話し相手すらいない状況では、ひどく時間が経つのも遅く感じるのだった。
 ただ座り込んでいるのも落ち着かなくて、もう一杯お茶を淹れてみたりもするのだが、それでも時間は進んではくれない。
 時計の針の音すら気になってしまい、紛らわせるためにかなり落としたボリュームでラジオの電源をオンにした。適当にチャンネルを合わせると、邦楽のポップスが流れ出す。
 それにようやく僅かな安堵を得て、理恵子はソファーへと仰向けに寝転がった。
 やはり、音楽が好きなのだ。
 かつて熱中したほどではないけれど、音楽は自分に安らぎを与えてくれる物の一つであることに変わりはなかった。
「律野君、かあ……」
 流れるささやかなメロディーに誘われるようにふと思い出したのは、三つ年下の穏やかな笑顔の後輩。
 理恵子は、彼のことが好きだった。
 彼の作った歌を歌いたいと思った。彼と一緒に音楽をやりたいと。
 彼の曲も、ギターも、声も、全てが好きだと思った。
 もっとも今思えば、その想いは律野自身というよりも、過分に『彼の音楽』という部分に占められていたように感じる。それほどに、当時の理恵子は音楽を愛していた。
 だからこそ、律野が選んだ少女の存在はいつまでも心の底から消えなかったというのに。
「……あの子、律野君と別れちゃったのか」
 つい数日前に貴久の店で出会った、『ゆき』と名乗る少女の儚げな笑顔と、かつて律野の隣で屈託なく笑っていた少女の笑顔が上手く重ならない。
 律野の隣で、誰よりも自然にいた。
 律野の歌を、誰よりも理解していた。
 律野に、誰よりも大切にされていた、少女。
『すみません、理恵子先輩』
 あの屈辱の日、律野は理恵子をスタジオの外に促し、深々と頭を下げた。
 それは理恵子にとって、彼女が歌い出した瞬間から予想がついていたことだった。
『俺は、アイツが歌うための曲しか書けないんです』
 真っ直ぐに、何の躊躇いもなく言ってのける律野が、恨めしいと同時に羨ましかった。
 彼ら二人は、きっと音楽の神の祝福を受けているのだろうとそう思ったから。
『誰が何と言おうと、俺の曲は、アイツ以外には歌って欲しくないんです』
 わかってるわよと、強がりでもなく、素直にそう言えた。
 律野のギターと曲、そして彼女の歌は互いに不可欠なのだと嫌でもわかった。思い知らされた。
 自分にはあんな風には歌えない。そう認めざるをえないほど、決定的に。
 そのショックはかなりのもので、帰ってから散々泣いたりもしたけれど。
「……でも、あの子の歌好きだったけどな」
 当時はまだ悔しさが先に立って、そんな風に言葉には出来なかった。
 けれど、あの時、不覚にも聞き惚れてしまっていたのだ。
 そんな自分がまた悔しくて、結局それが音楽を辞める一番の原因にもなってしまった。
 それを後悔はしていない。けれど、自分が歌を辞めるきっかけとなった彼女までもが歌っていないというのは、少しばかり納得できなかった。
「もう、歌わないのかしら」
 律野と離れて歌を辞めたのなら、自分と同じようにもう歌う気はないのだろうとは思う。
 なのに、どこか違和感が拭えない。
 あの二人の間には、傍から見ていてもはっきりと目に見えそうなほどに確かな絆があった。なのに、簡単にそれが断ち切られるとは思えなかった。
 そして、それ以上に――。
「『ゆき』ってどうして……」
 それは『律野』の名だ。彼女の名前ではない。
 彼女自身が律野を『ユキ』と呼んでいたのだ。なのに今はどうして自ら彼の名を名乗るのか。
 考えれば考えるほど、謎は深まるばかりだった。
『では次のリクエストナンバーは――』
 ラジオから、陽気な男性パーソナリティーの声が届く。
 考え込んでいた理恵子の耳にははっきりと聴き取れなかったが、一瞬耳を掠めたバンド名に、思わずラジオの方へと振り向いてしまった。
「今、『Weißer』って言った?」
 答える人はいないのに、問いかけずにはいられなかった。
 既にパーソナリティーは曲紹介を終え、前奏が始まっている。理恵子は立ち上がり、ラジオのボリュームを少し上げた。
 聴こえてくるのは、繊細なギターのアルペジオ。それにベースとドラムの音が重なった次の瞬間、忘れられない歌声が溢れ出した。
 知っている、曲だった。何度も生で聴いた曲だ。自分が歌ったことだってある。
 理恵子自身は知らなかったけれど、律野たちのバンドはメジャーデビューをしていたのだった。
「だったら、尚更何で……」
 わからないと、理恵子は呟く。その間にも、理恵子のよく知る、歌いたくてやまなかった律野の曲は流れ続けていた。
 茫然とラジオの前で立ち尽くしていた理恵子は、曲がフェイドアウトしていっても微動だにできなかった。
『はい、お聴き頂いたのは、「Weißer Schnee」で「Unstoppable wish」でした。さて次は―― 』
 明るい調子のまま、パーソナリティーが番組を進行させていく。
 それでもなお、動けずにいた理恵子の耳に、不意に硬質な電子音が響いた。
 時計を見れば、既に時刻は午前一時を回っている。こんな時間に非常識なと思いながらもディスプレイを覗いた。そして、そこに表示されている名前と番号に更に眉を顰めながらも受話器を取った。
「……何よ、こんな時間に」
『悪い、理恵子。頼みたいことあんねんけど』
 自然と刺々しくなる理恵子の声音に、毒舌の従弟にしては珍しく殊勝な言葉が返った。
 大体、槇野が理恵子に電話をしてくること自体が稀なのだ。その上で頼みごとなどとなると、晴天の霹靂といっても過言ではなかった。
「頼みたいこと? まともな頼みごとでしょうね?」
『当たり前やろ。おまえにとっても悪いようにはせぇへんから』
 そう言われて、ピンと来るものがあった。
 これは、間違いなく、あの少女が絡んでいることだろう。
「とりあえず、話は聞いてあげるわよ」
『スマンな。助かるわ。んで、頼みいうんは――』
 素直に礼を述べる槇野を多少不気味に思いながらも、その頼みごとの内容に耳を傾ける。
 聞きながら、少しずつ理恵子の表情には笑みが浮かんでいた。
「……アンタの考え、賛成してあげるわよ」
 十数分の会話の後、理恵子はそう締めくくって受話器を置く。
 一生のうちに一度あるかどうかという意見の一致に、理恵子はくすりと小さな笑みを零した。
 知らず生まれていた安堵感に、理恵子の口から欠伸が洩れた。
 どうやら安らかな眠りを手に入れられそうな予感を受け、理恵子はラジオを消し、部屋の灯りも落としてベッドに潜り込んだ。