風待ち

 見上げれば、そびえ立つ高層ビルの群れの隙間から、真っ青な空が覗いていた。
 眩しく目を刺す陽光の鋭さが、訪れつつある季節を予感させた。

 貴女はこの空の下で、どんなふうに過ごしているのだろうか――。


 クールビズとは言うけれど、ノーネクタイだろうがジャケットがなかろうが、この暑さでは大差がないとしみじみと実感させられる。確かに、Tシャツと短パンとかならば、格段に涼しいだろう。エアコンの設定温度を一度や二度上げてもそんな薄着なら何とか凌げる。
 しかし、実際はそんな恰好はできるはずもない。いくら夏用でもスラックスは暑いのだ。それにこの季節、半袖のYシャツを肌着も着けずに着るのは、気持ち悪い。結局肌着とシャツの重ね着となる。靴だって蒸れることこの上ない革靴を履かなければ、服装から浮いてしまうだろう。
 ――本当にクールビズとか謳うなら、みんなTシャツ、短パン、ついでにサンダル履きでいいじゃないか。
 実践できるわけもないのに、そんな怒りにも似た感情が湧いてくる。第一、自分の仕事は『営業』なのだ。様々なところを回って自社製品を売り込むのが仕事である。そんな仕事でそんな格好をしていたら、「ふざけている」と怒られるのが当然だろう。
 そんな何の生産性もないことを考えて、思わず溜め息が漏れる。
 溜め息をつくと幸せが逃げるらしいが、そんなことには構ってはいられなかった。
 額から流れ落ちる汗を拭い、ふと見上げる先。幾つも立ち並ぶコンクリートの塔の合い間に、晴れ渡った空があった。
 こんなにも、天気がいい。清々しいというに相応しい、高く澄んだ空。
 けれど今は、照りつける太陽を遮る為の雲を呼んで欲しかった。
 ――せめて、風でも吹けばな……。
 望んでも、雲も風も訪れない。仕方ないと呟き、ゆっくりとまた歩き出した。


 仕事を終え、一人で暮らすアパートに帰りついたのは、日付が変わる一時間ほど前だった。
 さんざん就職活動した末、滑り込みのように今の会社に入って四カ月弱。少しずつ仕事にも慣れ、周りの環境にも慣れ、一人暮らしにも慣れてきた。
 好きで選んだ仕事ではなかったけれど、それでも思っていたより自分の性には合っていたらしい。確かにノルマはキツイし、この不況だから仕事を取ってくるのも難しいけれど、その分上手く商談がまとまった時の達成感はひとしおだった。
 だからこんなに遅くの帰宅になっても多少は我慢できる。
 少しばかり、そう自分に言い聞かせている部分もなきにしもあらずだけれど。
 帰宅途中にある定食屋で遅い夕食を済ませていた為、あとは寝るだけだ。
 外回りで汗をかいたから、とりあえずカラスの行水よりマシな程度にシャワーを浴びる。
 風呂場から出て、ほんの少しの涼でも得られればと窓を開けた。
 このアパートは特別にいい物件でもなかったが、唯一良かったと思える部分がある。それは風通しがいいことだ。ワンルームの手狭な部屋なのに、ベランダ側だけでなく玄関側に小さな窓がある。小窓の方を少しでも空けておけば、存外に爽やかな風が入ってくる。
 今も、窓を開けた瞬間に夜風が柔らかく頬を掠めていった。
「……夏だなぁ」
 思わずぽつりと呟く。
 時節がら涼しいというほどの冷やかさはない。けれど、シャワーの後の火照った体には十分に気持ちの良い風だった。
 そこに、ほんのりと漂うのは、夏の匂い。
 明確に何の匂いだとかは言えないけれど、夏の夜特有のするりとした匂いだ。
 ベランダにもたれかかり、大学時代に覚えた煙草を一本くわえる。百円ライターで火をつけると、夏の匂いにキャスターマイルドの匂いが混じり込んだ。
 深く肺まで紫煙を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。吐き出しながら、目の前に暗い窓ガラスに映る自分自身に気付いて、少しだけ笑いが零れた。
「あーあ、なーにやってんだ、俺」
 煙草を持ったままの右手で、軽く頭を抱える。

 何をしているんだろう。
 何をしたいんだろう。
 仕事? 仕事はそれなりにやりがいを感じ始めている。
 けれど。
 けれど、それだけだ。
 それこそ機械的に、事務的に、仕事をこなしているだけだ。
 だから、こんな顔をしている。

 こんなに、疲れた顔をしている。

 少し前まで、もう少し肉付きが良かったと思う。表情も明るいというほどでもないけれど、健康的ではあった。
 けれど今、ベランダの窓ガラスに映る自分は、滑稽なほど疲れている。自分で今まできづかなかったけれど、確かに疲れているのだ。
 当然だろう。好きなことは、やりたいことは、別にあった。
 けれどそれは不安定で不確かで、将来的に親の面倒を見なければいけない長男の自分には許されない道で。
 否、本当はそうでなかったのかもしれない。
 正直に、その道に進みたいと両親に相談すれば、二人は応援してくれたかもしれない。
 でもそれをしなかった。できなかった。
 何故なら、それをやっていける自信がなかったからだ。
 だから、長男であることを理由にして、一般企業への就職を決めた。
 その就職にしたって、ある程度自分がやってみたいと思う職種はことごとくフラれた結果で、妥協の産物だ。それでも、就職難の今では就職できただけでもありがたいと思っている。思ってはいるが――。
「あー、仕事辞めてぇ……」
 辞めたってどうしようもないとは知っている。次の就職先が簡単に見つかるとは思えないし、結局また妥協しなければならないだろう。
 そういえば、少し前に会った友人は会社を辞めたと言っていた。次の就職先を探しているが、やっぱり厳しいとも。そんな話を聞いていたら、やっぱり辞める勇気すら湧かない。
 せめて、と紫煙を一緒に吐き出す。
「せめて……、アイツに会えたならなぁ」
 零れ出た声は、懐かしさに滲んでいた。
 煙草をくわえ、目蓋を閉じる。
 夏の香りに混じるキャスターマイルド。
 脳裏に浮かぶのは、人をくったような笑みだ。
 

 アイツは、出逢った時からそんな笑い方をするヤツだった。
 特別に仲が良かったわけではない。
 ただ、たまたま気に入った場所が、アイツにとってもお気に入りの場所だったというだけだ。
 自分の地元は少しばかり鄙びた小さな町だ。
 田舎というほど田舎すぎるわけではないけれど、今暮らしているこの街に比べればやっぱり田舎としか言いようがない。
 そんな故郷には町全体を見渡せるような展望台があって、それは高校の帰りに少し回り道をすればすぐに寄れるような場所でもあった。
 初めてアイツに会ったのは、二年の夏休み前。
 学校帰りにたまたま気分転換で寄ったその場所で、アイツは実に美味そうに煙草を吸っていた。
 幸か不幸か、ばっちりと目が合う。
 その瞬間、悪びれた様子もなく、口角を少し上げあの笑みを浮かべた。
「吸う?」
「え?」
「口止め料」
 くわえ煙草のままクスリと笑うと、アイツはこちらに向かってキャスターマイルドのソフトパックを差し出した。
「いや、俺煙草吸わないから」
 それ以前に未成年だろうと注意すべきだったのかもしれないけれど、あまりにも堂々としているアイツにそんな言葉は無意味に思えた。
 何より、そんなことをいちいち注意するほど、自分は正義感に溢れた人間じゃない。いつもつるんでいる連中の中にだって煙草を吸っているヤツはいたし、わざわざアイツにだけ注意するものおかしいと思ったからだ。
「何だ。共犯にしようと思ったのに」
「黙ってたら結局共犯と一緒だろ」
「んー、確かにそうだね。ありがと」
 自分の返事から言いつけたりしないという意思を感じ取ってくれたのだろう。今度は少し無邪気な笑顔を見せて礼を述べた。
「で、何でここに来たの? ここ、滅多に人来ないよ?」
「別に。何となく。そっちこそ、何でこんな場所にいるんだよ」
「んー? ここで吸う煙草が一番美味しいの」
「へえ……」
 それから、とりとめもない会話を幾つか交わした。そして、適当な時間に適当に別れを告げて家に帰った。
 その数日後、また何となく思い立ってあの展望台に行った。アイツはいなかった。
 吹き込む雨風でかなり色褪せた水色のような薄緑のようなベンチに腰掛け、ぼんやりと町の景色を眺める。
 ――何でこんなことしてるんだろう?
 疑問に思ったけれど、まあいいかと少し一人で笑った。
「あれ? また来たんだ?」
 背後から掛けられた声に、のっそりと振り返る。アイツが今にも吸おうと煙草を口にくわえたまま、少し驚いたような表情で立っていた。
「風、気持ちいいし、何かここ落ち着くから」
 言ってから自分の言葉で気付く。ああ、そうか。落ち着くのか。
 そう納得して、また同時に気付いた。もしかしたらそれはアイツも同じなのかもしれないと。
「邪魔だったか?」
 恐る恐る聞いてみる。最初にこの場所にいたのはアイツの方で、新参者の俺がいたら煩わしいと思われているかもしれなかったから。
 けれど、予想に反してアイツは笑みを伴って答えた。
「ううん。アンタはうるさくないから平気」
「そっか、なら良かった」
 アイツはもう一つ置いてあるベンチに腰掛け、煙草に青いライターで火をつけた。
 吸い慣れているらしく、その仕草が妙に様になっている。
「なあ、それって美味いの?」
「うん? まあ、そうかな。人によりけりだと思うけど。それよりさ、アンタ変だよね」
「変? 何が?」
「アタシが陰で何て言われるか知ってるでしょ?」
「あー、まあ、そうだなぁ」
 誤魔化すわけではないけれど、それに似た苦笑が漏れた。
 アイツは所謂問題児で。
 けれど、特別に素行が悪いというわけでもないと思う。俗に言う不良集団とつるむわけでもなく、髪を派手に金や赤に染めるわけでもなく、ケバい化粧をしているわけでもない。少し明るめの髪と、一応校則違反のピアスくらい。
 それなのに、妙に目立つのだ。あの人をくったような笑みだとか、達観したような視線だとか、人を寄せ付けない空気だとか、そういうものの所為だろう。
 人を寄せ付けないから、日常があまり見えない。そうなると根も葉もない噂を立てるヤツもいるわけで、アイツはそういう噂の恰好のネタになっていた。そしてアイツ自身もその噂を否定も肯定もしなかった。
「面倒臭いのか?」
「面倒?」
「どこまで本当かわからない噂を放置してんの」
 そう言うと、きょとんとした表情でアイツは止まり、一瞬後にくすくすと笑いだした。
「俺、何か変なこと言った?」
「ううん。あ、いや、やっぱり変かな」
「どこが?」
「色々。説明すんの面倒だから省略ね」
「何だよ、それ」
 憮然としつつもアイツの笑い声は耳に心地よかった。
 さらりと頬を撫でる、涼風のようだ。
 柔らかで、穏やかで。そして、掴みどころがない。
 そんなことを思いながら、またその日もしばらく他愛もない会話をして別れたのだった。

 それから、何度となくあの展望台に足を運ぶようになった。
 雨とか雪とか関係なく。卒業するまでの二年弱の間。ただ、気が向いた時に。
 アイツがいない日もたまにはあった。それならそれでぼんやりと一人で過ごすだけだったが、大半がアイツと一緒だった。
 だからといって、校内で顔を見掛けても話しかけたりなんてしなかった。アイツも話し掛けてはこなかった。
 あの展望台でだけ。互いに気が向いた時にだけ。
 その時間はひどくあやふやで不確定なのに、とても居心地が良かった。
 むしゃくしゃした気分の時ですら、あの場にいけば安らかな気持ちに塗り替えられていった。まるで、清風が全てを流し去ってくれるように。

 その関係を何と名付ければいいのだろう。
 友達ではない。恋とも違うと思う。
 どうも的確な表現が見当たらない。
 ただ一緒の時を過ごし、些末な日常を語り、時にはただぼんやりと沈黙に身を委ねる。
 必要以上に相手のことを聞いたりはしなかったし、そんなことをしようとも思わなかった。
 そんなふうに、不思議なくらい言葉を交わした最初の距離感のまま、自分たちの関係は変わらなかったのだ。

 卒業前に進路について少し話をした。
 アイツは地元で就職をするのだと言っていた。
 もしかしたら今も、あの展望台に行っているんだろうか?
 あそこから町の景色を眺め、キャスターマイルドの味を堪能し――。
「明日、行ってみるか」
 ポツリと呟いて、短くなった煙草を室外機の上に常備してある灰皿に押し付ける。
 夏の夜風が、微かに残った紫煙と混じり、懐かしい匂いを漂わせてから夜闇に溶けた。
 ベランダの網戸を締め、部屋の明かりを落とす。
 布団に横になって、呆れるほど低い可能性にもかかわらず、アイツに会った時の言葉を考えた。
 美味そうに煙草を吸いながら、何となくやってきたアイツに言ってやる。
「吸う?」
 って。
 アイツは、何て言うだろうか。
 ああ、簡単に想像できる。
 きっとあの変わらない笑みで、「ありがと」って短く……。

風待ち [fin.] テーマ楽曲:風待ち GRAPEVINE


©Shinobu Kiyohisa