Short
過ぐる夢見月に思ひあへず
拳と拳を軽くぶつけ合い、貴女はニッと笑って一言放った。
「『約束』、忘れんなよ」
忘れてないよ、私は今も――。
幾つも積み上げられた段ボール。そしてゴミ袋。
既に生活するには困難な状況下の部屋で、私は大量の書籍や衣類と格闘していた。
「終わんないよー」
纏めても纏めてもなかなか終わらない作業に、思わず弱音が零れる。
新しい就職先のごく近所に自分好みのマンションを見つけ、嬉々として契約を結んだまでは良かったのだけれど、ここまで引っ越しの荷造りが面倒だとは思いもしなかった。
前に引っ越ししたのは、大学へ入学した時。
その時は家から必要なものを持ってくるよりも、引っ越してから買い揃える物の方が多かった。だから自分の衣類だとか、気に入っている本やCDなど、大した荷造りをする必要もなかったのだ。
けれど、大学四年間の間に何かと物が増え、たった一人で引っ越しの荷造りをする時になって初めて狼狽えた。
こんなに荷物があったのかと、改めて実感させられたからだ。
もちろん、不要なものはどんどん処分するつもりだったのだけど、それにしても多い。
何よりも嵩張るのが、ありとあらゆる本の類だった。
私は本を読むのが好きだ。
小説や漫画だけにとどまらず、エッセイや詩集、授業などで使った専門書なども結構好きだったりする。
好きな本は手元に置いておきたい性質なので、買ってくることはあっても捨てたり売ったりすることがない。当然、増える一方の本たちは、引っ越し準備の私を大いに苦しめていた。
「あー、こんなもんまで出てきた」
一人部屋で愚痴りながら、新たに発掘してしまった物を膝の上に置く。
それは高校時代の教科書だった。見ると、高校の物だけでなく中学の物まである。
「さすがにもう教科書は要らないよなー」
呟きつつ、どうしてこんなものまで持ってきているのか不思議だった。高校の教科書ならば、まだ一部大学の授業の基礎になる部分もあるけれど、さすがに中学の勉強では知識として大雑把すぎる。
パラパラとめくってみると、昔の自分の字で書き込みがされていたり、蛍光ペンでラインが引いてあったりする。
懐かしく思いながら更にめくっていくと、眉間に皺を寄せ額に青筋を立てているデフォルメされた女の人の落書きが目に入った。その横には、私の字とは違う丸っこい文字で『家庭科の山内ババァ』と添えられている。
思わずプッと吹き出してしまった。
「やだ、コレ、真希の落書きじゃない」
真希というのは、私の中学時代の親友だ。もちろん、今でも親友だと思っている。
イラストを描くのが得意で、教科書を貸すたびに色んな落書きが増えて却ってきていた。これもその一つで、ガミガミとやたらこうるさい家庭科の女教師の似顔絵を描いたのだろう。よく特徴を捉えていて、怒った時の表情そっくりだった。
私は面白くなって、他にも彼女の描いた落書きを探しながらページをめくり始めた。
真希の落書きは本当に色んなところに散りばめられていた。
余白の部分に描かれている物から、歴史的人物の肖像画に落書きして改造していたり、風景画などに教師や友人たちを登場させていたり。
それぞれに笑いの要素もあって、当時のやりとりを思い出しては笑みが零れた。
そして私は気付いた。
何故この教科書を持ってきていたのか。
どうしても捨てられなかったのだ。大切な親友の落書きがあったから。
「真希、今でも描いてるのかな……?」
懐かしさとともに、会いたいという気持ちが膨らんでくる。
中学を卒業して別々の高校に入学してから、私は真希と会う機会がぐっと減った。
それでもしばらくは連絡を取り合ってはいたのだけれど、大学に入学してからはほとんどなくなってしまった。
彼女の家庭事情が複雑だった為に、住む場所がよく変わっていたこともある。
両親が離婚し、父親の元に残ったものの父親と折り合いが悪くなり、結局母親の方に引き取られた。けれど、今度は母親の再婚相手と上手くいかなくて、結局は仲の良く既に独り立ちしていた兄の元で暮らすことにしたと、そんな連絡をもらったのが大学入学当初。
その後、携帯電話を変えたのか、メールや電話をしても繋がらなくなった。
だから今、彼女がどこで何をしているのか、まったくわからない。
そんな彼女と、私は昔ある『約束』をした。
彼女は絵が得意だったこともあり、漫画家を目指していたのだ。そして私は昔から小説を書く趣味を持っていた。
『私がデビューしたら、原作書けよ! 反対に山崎が先に作家デビューしたら、挿絵描くから!』
今考えたら、そんなに簡単にいくはずのない、夢の語り合い。
それでも、当時はそんな風になればいいなと半ば本気で思っていた。
卒業式には、拳と拳を軽くぶつけ合い、約束を忘れないことを誓い合ったりもしたのだ。
現在の私は、あくまでも趣味程度に物語を綴ってはいる。けれど、夢見る頃を過ぎた今、ごく普通の企業に就職を希望し、作家になりたいなどと冗談でも言えなかった。
「『約束』、忘れたわけじゃないんだよ……」
ただ、現実を見ているだけだと言い訳じみた思いが胸を過ぎる。
小さく呟いた瞬間、パソコンデスクの上に置いていた携帯電話が鳴った。
折りたたみ式のそれを開けると、液晶画面には大学の友人の名前が浮かんでいる。
「もしもし」
『あ、恵? どう? 引っ越し進んでる?』
「ぜーんぜん。美鈴こそどうなの?」
『あははー。私もー』
電話先で苦笑を洩らす友人――美鈴に、そうだよね、と同意の溜め息を漏らした。
美鈴は同じ学部で一番仲が良かった。そして私と同じように本好きであり、小説を書く趣味まで一緒だ。蔵書もかなりの物があるから、彼女もなかなか片付かないでいるだろうことは簡単に予測できた。
『ねえ、家で食事するの面倒でしょ? ゴミも増えるし、荷物も片付かなくなっちゃうし』
「そうね。一緒にどこかで食べる?」
『うん。そう思って電話したんだ』
同じく引っ越し準備に追われている美鈴の申し出をありがたく受け、時間と場所を待ち合わせて家を出る。
予定通りの時間に待ち合わせ場所に辿り着くと、既に美鈴は着いていて文庫本を読み耽っていた。
「お待たせ!」
「あ、うん。あと五秒待って」
適当すぎる返事が返り、美鈴は活字から目を離そうともしなかった。どうやらキリのいいところまでもう少しらしい。
他人が見れば美鈴の態度は失礼だと思われるかもしれないけれど、私は思わない。逆のパターンもたまにあるので、怒れないのだ。
宣言通り、美鈴は五秒ほどで本にしおりを挟み、バッグの中へとしまった。
「さて、こっちこそお待たせ。何食べに行こうか?」
「うーんとね、第一候補は『西洋亭』。第二候補は……」
「『西洋亭』賛成!」
私が全部言い切る前に、美鈴が声高に同意したので、あっさりと目的地が決定してしまった。
「はやっ」
「だって、もうすぐここから離れるんだよ? だったら食べ収めじゃない」
「……そうだね。もう食べ収め、かぁ……」
美鈴の言葉にしんみりしてしまう。
『西洋亭』は私たちの通っていた大学の学生たちにはなじみが深い、こじんまりとした個人経営の洋食屋さんだ。
安価で美味しく、無料で大盛りにもできるから男子学生でも満足できる。店主のおじさんとおばさんも気さくで話しやすく、みんなから慕われていた。
私たちもこのお店が大好きで、よく長居して小説談義をしていたものだった。
そんな大学生活の思い出が沢山あるお店なのだ。
「ついでにおじさんたちにも挨拶しないとね」
「うん、そうだね」
胸に浮かんだ物淋しさを振り切って、私たちは大好きで思い出深い洋食屋さんへと並んで歩きだした。
店に入り、店主のおじさんに笑顔で挨拶を向け、一応メニューに目を向ける。
注文を取りに来たおばさんに、もう卒業であることを告げると、「淋しいわね」といつも笑顔の丸い顔が少し曇った。
「じゃあ、今日が最後になるのねー」
「また近くにきたら寄りますけどね。私は煮込みハンバーグ定食」
「そうそう。絶対にまた来ますよ! えっと、鶏カラ海老フライ定食で」
「ありがとうね。ふふっ。二人とも最後までいつもの定食なのね」
『だって大好きですもん!』
思わず同時に叫ぶと、おばさんは一瞬目を丸くし、それから嬉しそうな笑顔へと戻った。
どうやらおばさんに淋しそうな顔をさせたくないと思ったのは美鈴も同じだったらしい。二人顔を見合わせ、クスクスと笑みを漏らす。
「じゃあ、卒業祝いも兼ねて、デザートおまけしちゃうわ。ゆっくりしていってね」
「はーい」
「おばさん、ありがとー」
おばさんが注文を伝える為に厨房へと戻っていく。その後ろ姿を見送ってから、私は運ばれていた水を一口含み、喉を潤した。
「それで、恵はいつが引っ越しだっけ?」
「えっと、十日かな? 卒業式終わって三日後」
「じゃあ、私の方が先にいなくなるんだね」
しみじみと呟く美鈴に、私の胸には淋しさが再び押し寄せる。
私の就職先は関東。美鈴は確か岡山だったはずだ。たとえ近くても就職してしまえば会うことはかなり難しくなってしまうというのに、これほど距離があるとなおのこと厳しいだろう。
(美鈴も、真希みたいに離れちゃうのかな……)
頭に過ぎるのは、そんな思い。
けっして疎遠になりたいわけじゃない。むしろ、ずっと仲良くしていきたいと思っている。けれど、現実としてそれが難しい場合も多いのだ。
恋愛でも友情でも、距離が離れると気持ちも離れやすいと、昔姉が言っていたなとふと思い出す。確かに、そうなのかもしれない。
「恵? どうしたの?」
「え、あ、うん。ちょっと……っていうか、すごく淋しいなぁと思って……」
随分と後ろ向きなことを考えていたとは言えず、誤魔化すように私は笑顔を浮かべる。
けれど、美鈴は納得できないのか、少しばかり顔を顰めた。
「うーん、その割には考え込みすぎな気がしたけど? 恵って結構ネガティブだから、余計なこと考えてたんじゃないの?」
さすが親友と言うべきか、私の性格を美鈴はしっかりと把握しているようだった。
観念して、ついさっきまで考えていたことをポツリポツリと話し始める。
真希という親友がいたこと。二人で誓った約束のこと。今は連絡も取れずにいること。そして、美鈴ともそんな風に関係が途切れてしまうのではないかと危惧していたこと。
途中、おばさんが注文した料理を持ってきてくれたけど、それに手をつけもせずに美鈴は黙って話を聞いてくれていた。
そして、私が話し終えるのを確認すると、「まずは食べようか」と柔らかい笑みで食事を促した。
頷いて大好きな定食に箸をつける。食べ慣れた鶏カラ海老フライ定食は、いつも通りに美味しくてますます淋しい気持ちに拍車を掛けた。
「ねえ、恵。その友達……真希ちゃんだっけ? 今でも会いたいと思ってるんだよね?」
「え、うん。会いたい、な。会って、今までの分色んな話したい」
「じゃあ、いつか会えるんじゃない?」
あまりにも楽観的な美鈴の言葉に、私は少しばかりびっくりしてしまった。美鈴は確かに私よりも楽観的だけれど、こんなに根拠のないことを言う性格でもない。
「それ、何か根拠あるの? ってか、ないでしょ?」
「ないこともないよ。恵は会いたいと思ってるんでしょ?」
「思ってるけど……、でも、真剣に探そうとしてるわけじゃないよ? 真希の実家に連絡とったりだとかしてないし」
実際、私は何か行動をしたわけじゃない。
多分、実家に訊けば何らかの情報は得られただろう。けれど、私はそれをしなかった。
真希の家庭事情が複雑だったこともあるし、また彼女の両親があまり好きじゃなかったからだ。
そんな消極的な私なのに、美鈴が会えると言う理由がやっぱりわからない。
「たかが落書きを捨てられないくらい大事な友達なんでしょ? だったらきっとどっかで繋がってるよ」
「でも……」
「それにちゃんと探してるじゃない」
「え?」
探しているつもりなんか全くないのに、美鈴はそう言ってハンバーグを頬張る。
海老フライをつまんだまま茫然としていると、美鈴は少し呆れたように呟いた。
「おかしいと思ってたんだよねー。恵さ、よく投稿雑誌のイラストコンテストとか漫画の新人賞とかチェックしてるでしょ? 小説書くのは好きでも絵は苦手って言ってた恵が、なーんで漫画やイラストの賞をチェックしてるのかなーって。アレって、その真希ちゃん探してたんじゃないの?」
「……美鈴、そんなところ気づいてたの?」
確かに、たまに書店に行くと、そういったもの自然とチェックしていた。
勿論、真希はペンネームを使っているだろうし、今でも描いているかどうかすらわからないから載っている可能性だって低い。
けれど、一応かつて使っていたペンネームは知っているし、例えそれが変わっていたとしても絵を見ればわかると心のどこかで信じていた自分がいた。
そう。美鈴の言うとおり、決して直接的ではないけれど、私は真希を探していたのだ。
一緒に書店に行くことも多かった美鈴だけど、まさかそんなところに気付いているとは思いもしなかった。
美鈴は更に冗談まじりに苦笑を添えて続ける。
「ちょっと妬けちゃうなー。真希ちゃんはそんなに必死に恵に探してもらえるんだもんなー」
「何言ってんのよ。美鈴だって大切だから真希みたいに連絡取れなくなること心配してるんでしょ?」
どちらかがより大切だなんてことはないのに、そんな風に言う美鈴に少しばかり苛立った口調で返す。すると美鈴はプッとふき出し、ケラケラと笑い出した。
「何よ。人がせっかく真面目に言ってんのに」
「ゴメンゴメン。わかってるって、恵が私を大事に思ってくれてるのは。だから……」
笑いを堪えつつ答える美鈴が、そこまで言ってようやく一息つく。
そして、真っ直ぐに私を見据えると、ふわりと穏やかな微笑を浮かべた。
「私は途切れさせるつもりはないから」
強い意思を感じさせる瞳に、思わず胸が熱くなる。
大切だと思っている友達に、大切だと思われる、幸せ。
そう。ずっと関係を続けていきたいと思っているのならば、繋がっていられるはずだと今なら信じられる。
「こら恵ー。泣くなよー」
「な、泣いてないもん!」
鼻の奥がツンとして、不覚にも涙腺が緩んでしまったけれど、私はすぐにそれを呑み込んで笑顔を作った。
「真希ちゃんと、また会えるといいね」
「うん。真希も会いたいと思っててくれればいいんだけどな」
「思ってるでしょ、あんな約束するくらいだもん」
そう言って笑ってくれる美鈴の言葉に、何だか私もまた真希に会えるような気がしてきた。
当然、連絡先もわからない今、私から探すとなると簡単にはいくはずないことはわかっているけれど。
それでも、いつか会えると信じていたい。
「真希ちゃんと会えたら、私にも紹介してね」
「当然。真希も美鈴も私の親友だもん」
満面の笑みを交わし合い、大学生活最後の二人の晩餐を楽しむことに専念する。
それからはいつもと同じような小説談義や新しい生活、職場に関して気が済むまで話し込んだ。
美鈴と別れ自分のマンションに辿り着いたのは、夜の十時を回る頃だった。
玄関ロビーを抜け、集合ポストの前を通り過ぎようとして、不格好にはみ出たピザ屋のチラシやダイレクトメールの存在に気付く。
どうせちゃんとした郵便物は皆無だろうと思いつつ、はみ出ている分を抜き取り、隙間から中を覗いた。
その視界にちらりと映ったのはカラフルな絵葉書。
私はダイヤル式のロックを外してその葉書に書かれた丸っこい字を確認した瞬間、持っていたチラシ達をバサバサと床に落とし……。
――涙を、零した。
『Dear 山崎
久しぶり! 元気か?
ずっと連絡できなくてゴメン。
私は……――』