禍つ月映え 清明き日影

章之壱 清輝に惑う

伍 約束 [06]

「あれか……!」
 空けていた距離を一気に詰め、織月に集中している河野の右手に揺光を振り下ろした。が、寸でところで気付いた河野が軽やかに身を翻し、輝行達から飛びずさる。
 ニヤリと、妖しげな笑みを浮かべる表情には、まだ余裕が見えた。
「各務、結を斬れば、妖は離れるんだな?」
「見えたんですね?」
「多分。右腕に変な模様みたいなもんが見えた」
「それで間違いないと思います。私には全く見えませんから」
「何ヲ二人でコソコソしてルノ? 不愉快ネ」
 身を寄せるようにして話す二人に、河野は眉を顰めて不機嫌を露わにする。その表情は、公園に来た時よりも邪悪さを増しているように感じた。否、確実に纏っている気が強くなっている。その証拠に、吐き気にも似た嫌悪感が対峙しているだけでせり上がってきた。
「動き回られると厄介ですね」
「ああ。それに、ちょっと早くしないとマズイ気がする」
「みたいですね。私が、河野先輩の身体を抑え込みます。その隙に、横木先輩は結を……」
 織月の提案に、不安を覚えないわけではない。先程押し倒された時の河野の力は、とても普通の女の子では抑え込めないだろうと思えたからだ。
 けれど、他に手立てがあるようには思えない。いくら素人の振りまわす刃だとはいえ、輝行の方も素人と変わらず、巧く狙いをつけられるわけではなかった。織月の示した作戦が、もっとも的確に成果を上げられるだろう。
「わかった。けど、気をつけろよ」
「先輩こそ、チャンスは何度もないですから、しっかりやって下さいね」
 自信ありげに軽口を叩く織月に、輝行も自然と肩の力が抜けた。胸を占めていた不安がほどけ、すいと汗が引く感覚を覚える。
 輝行が落ち着いたのを確認し、織月は河野に向かって駆け出した。輝行も二人から適度な距離を保ちつつ、機会を窺う。掌の汗を拭い、もう一度しっかりと揺光を握り締めた。
 河野が繰り出すナイフを紙一重でかわし、織月は空いている左腕を取った。そのまま背後に回ろうとするが、力ずくでその腕を引き剥がされる。やはり、妖に憑かれている所為か、尋常ならざる膂力に力負けしていた。
 バランスを崩した織月に、河野の右手が振り下ろされる。咄嗟に河野の背を押して反動をつけ、攻撃をかわす。しかし、未だ体勢を整えられていない織月の状況は、圧倒的に不利だった。
 河野の右腕の赤黒い痣が色濃さを増したように見えた。
(マズイ!)
 今やらなければ、取り返しがつかない。本能的に不吉な予感を察知した。
 河野が更に攻撃を加えようとするところに、輝行は思い切って踏み込む。強引に河野の右手に掴みかかり、そこに揺光を突き立てようとした。だが、振り解こうともがく河野の力は強力で、振り回されてしまう。
 それでも放すまいと必死で食らいつき、輝行は河野の右腕を抱え込む。そのまま、自分の腕越しに、揺光の刃を食いこませた。
 それは、奇妙は感触だった。
 肉を断つような感覚も、斬られるような感覚もない。もちろん、痛みも。
 ただ、ピンと張った糸を斬った時のような、ぷつんとした小さな反動だけが刃から伝わってきた。
(やった、のか?)
 一瞬、気が緩んだ。直後に強くはね飛ばされ、輝行は不格好に土の上に転がった。
「先輩!」
 織月の案じる声が響く。
 だが、織月の心配をよそに、河野はそれ以上の攻撃は見せず、ガクリとその場に膝をついた。その右腕から、硬質な音を零しながら赤く光るリング状の物が落ちる。
 更に、河野の口から苦しげなくぐもった声が洩れると、その身体からおぼろげな人影が分離するように生まれた。それは、合宿の時に見た『妖』の姿と同じく、透けた身体にあやふやな輪郭。
「各務! コイツ、どうしたら――」
「ごくろうさん。後は俺がやるよ」
 突然割り込んできた声は、輝行の待ち望んでいた相手だった。声の方に視線を向けると、基が優しげな笑みを浮かべ、ゆっくりと輝行に近づいてくる。まだ転んだままの輝行に、手を差し出して助け起こした。
「基先輩」
「よく頑張ったな。ここからのは修行始まってから教えてやるから、とりあえず見とけ」
 それだけ言い残すと、今にも逃げ出そうとしている妖を難なく斬り伏せ、かつてと同じように浄化のことのはを紡ぐ。
 清浄な空気が澱みを掃き清めると、それまで輝行が感じていた気持ちの悪さも綺麗さっぱり消えていた。河野はぐったりと地面に横たわり、微動だにしない。
 基は手にしていた天狼を消すと、河野の傍らに跪いた。
「基様、河野先輩は……」
「大丈夫、気を失ってるだけだ。それにしても」
 呟きながら基が拾い上げたのは、河野の右腕から落ちた赤いリングだった。輝行と織月も側まで寄り、基の手の中にあるそれを見つめる。
 ガラスの様な材質で、継目はない。直径は十センチ足らずでビー玉ほどの丸い膨らみが一ヶ所あり、見慣れない紋様が刻まれていた。その紋様部分を横切るように疵が走っている。
「『ヤツら』だな」
「ヤツらって……」
「これは『結具』って言ってな、送魂師が使う独特の呪具だ。依代と妖を繋ぐ結を人為的に作り出す道具だよ」
「じゃあ、河野はたまたま妖に憑かれたわけじゃなくて」
 そうだと基は輝行の言葉にゆっくりと頷く。
「多分、河野の嫉妬心や劣等感を利用したんだろう。河野みたいなタイプは操りやすいだろうしな」
 視線をどこか遠くに投げ、この場にはいない敵に向けるように、基は闇空を鋭く睨んだ。しかし、すぐにその表情を収めると、柔和な笑みを輝行へと向けた。
「でも、悪かったな。また騙すような真似して」
 そう言って悪びれもせずに謝罪を寄越すのに、輝行は今更ながら本来頼みにした相手が基だったことを思い出した。
「そ、そうですよ! 無理なんだったら、最初からそう言ってくれれば良かったじゃないですか!」
「いやぁ、二人の修行がてらいいかなぁっと」
「……つまり、基様は最初からずっと見ていらしたんですね?」
 それまで二人のやりとりを黙って見ていた織月だったが、呆れと疲れの入り混じった声で小さく呟いた。それを聞いて輝行は驚きの声を上げ、織月と基を何度も見比べる。
「まあ、そういうことだな。でも、おまえら結構いいコンビだよ。ついでに、二人に必要な修行もわかったし」
「必要な修行、ですか?」
「闇雲に何でもかんでも詰め込んでも、得手不得手ってもんがあるだろ? ま、それもまたあっち行ってから教えてやるから、とりあえず今日は帰って休めよ。河野は俺が家まで送り届けるからさ」
 そういうと、基は未だに気を失ったままの河野の身体を抱き上げた。そのまま歩き出そうとする基を、輝行は慌てて呼び止める。
「あのっ! 基先輩っ!」
「どうした?」
 戸惑う輝行に、基は不思議顔で振り返った。傍にいる織月も、無表情ながら僅かに首を傾げていた。
「あの、河野って俺や各務を襲った記憶とか、残ってるんですか?」
 彼女が妖に操られていた間の記憶はどうなるか。輝行にはそれが気掛かりだった。もし記憶が残っているのならば、輝行や織月が普通でない能力を持っていることを知られてしまう。それはけして喜ばしいことではない。
 それに、他人に対して暴力を振るおうとしたことは彼女自身を苦しめるのではないのかと、そうも思ったのだ。
 輝行の懸念を読みとったのか、基は安心させるように微笑んだ。
「帰りに累の所に寄るし、その辺は心配しなくていい。ほら、さっさと帰らないと、ご両親も心配するぞ」
 累のところに寄るということが、どう解決に繋がるのかはわからなかったが、基が言うのだから問題はないのだろう。そう納得し、素直に頭を下げて基を見送った。
 隣で織月も同じように基に向かって礼をしている。ほぼ同時に頭を上げると、「帰りましょうか」と織月から促された。短く答え、自然と並んで公園を出る。入口まで来ると、織月はお疲れ様でしたと一礼し、輝行の家とは反対方向へと歩き出した。
「各務!」
 数瞬考えた後、輝行は思い切って織月の後を追いかける。織月は意外そうにしてはいたが、足を止めて追いつくのを待ってくれていた。
「駅までだけでも送ってく」
「大丈夫ですよ。それに、私よりも先輩の方が危ないでしょう」
「大した距離じゃないだろ」
「大した距離じゃないなら、送ってもらわなくてもいいんじゃないですか?」
 自分の発言を逆手に取られ、輝行は返す言葉を失ってしまった。それに苦笑を零し、織月は今度こそ踵を返そうとする。
 反射的に輝行は織月の手を捕まえた。
「……横木、先輩?」
「あ、ごめん」
 思わず掴んでしまったその手を慌てて放すと、織月も困惑したように手を引っ込める。二人の間に、気まずい沈黙が横たわった。
 それを先に破ったのは、輝行の方だった。
「あの、さ……」
「はい」
「河野と、前に何かあったのか?」
 闘いの合い間に聞こえてきた二人の会話が、ずっと引っかかっていたのだ。
 大会のことを話していたようだったが、織月にとっては、つい先日終えたばかりの総体の予選が高校に入ってからの初めてものだったはずだ。『昔の大会』と表現するには近過ぎるだろう。ということは、それ以前――つまり、二人が中学時代から知り合いであり、そこで何か揉めることがあったのだと考えるしかなかった。
 けれど、織月は相変わらずの感情を感じさせない表情で、何も答えない。
 更に確認するように、輝行は続けた。
「大会で邪魔されたって、言ってたよな?」
「……河野先輩は、中学も同じだったんです」
 輝行が引き下がらないことを感じ取ったのか、観念したように織月は口を開いた。その口調は、淡々としてはいるが、苦々しさは隠せないようだ。
「単純な話なんです。河野先輩には、スポーツ推薦のかかった試合で、私は同じ一〇〇mにエントリーしていた。そして、私の方が練習から先輩よりもタイムが良かったんです」
「それで、邪魔って?」
「河野先輩が、他の先輩とグルになって、私が決勝のコールに間に合わないようにしたんです」
 コールとは、競技前のあらかじめ決められた時間に出場確認をする行為のことだ。コールをしなければ棄権したとみなされ、競技に出場できなくなる。それは時間厳守で、相当な理由でもない限り、失格を免れることはできなかった。
 織月を自らの進路の障害と判断した河野は、真っ向から競うことをせずに、陥れることを選んだのだろう。
 それを聞いて、輝行の中には自分のことのように腹立たしさと言い様のないもどかしさが湧き起こる。しかし、反対に織月はそこで穏やかな笑みを見せた。
「その時は、私も悔しくて腹が立って仕方なかったです。……でも、いいんです」
「いいって……、良くないだろ! そんな卑怯なこと――」
「もう二年も前の話ですよ。それに、あれがあったから……」
 当時のことを思い返し懐かしむように、織月は目を細めた。
 その表情には見覚えがある。そう、つい先日まで宿泊していたホテルで、試合前の精神統一について話していた時の表情だった。
「だから私は、今も陸上を辞めずに続けていられるんです」
「え?」
「じゃあ、失礼します」
 そのままの笑顔を輝行に向けると、織月は軽やかに身を翻して歩き出した。今度は輝行も後を追うことができず、そのまま遠ざかっていく後ろ姿を見送るしかなかった。角を曲がり、織月の姿が見えなくなる頃、ようやく我に返って輝行も帰路を歩み出す。
 織月の話を思い返しながら、妙にひっかかるものがあった。
 中学の陸上大会。先輩後輩間での諍い。コール洩れ。どこかで聞いたことがある話のような気がして、足の進みが遅くなった。一歩、また一歩と話の断片を確認するように、十数歩進んだ時、輝行は勢いよく背後を振り返った。
 視界の先には街灯に照らされる仄暗い夜道があるばかりで、人の姿はない。当然、とうの昔に別れた織月の姿も。
 けれど、輝行の脳裏には、先程歩み去った織月の後ろ姿と、それに重なるように映るボブカットのユニフォーム姿の少女が思い描かれていた。
「あの時の子が……」
 大きな樹の木陰で、ひっそりと誰にも知られないように泣いていた。そして、小さな約束を交わした一つ年下の少女。
 驚きと共に、胸に拡がるのはいくつもの小さな喜び。その喜びの欠片が寄り集まり、大きな充足感として輝行の頬を緩ませた。
 ようやく輝行は、織月の素顔を垣間見ることができたような気がしたのだった。

伍 約束 [了]
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