禍つ月映え 清明き日影

章之壱 清輝に惑う

伍 約束 [05]

「河野?」
「……各務さんは?」
「え?」
 突然織月の名前を出されて、うろたえる。もちろん疚しいことなどないのだが、輝行の態度は河野を刺激するには充分な要素だったらしい。低く押し殺した声で、「各務さんは例外なのね」と続けられた。
「い、いや、例外とかそんなんじゃなくって! あ、隼人が言ってたけど、大会の時のこと勘違いしてるんだったら、ほんと誤解だから! あれはたまたま――!」
 焦って早口でまくし立てる輝行だったが、言葉の途中で感じた不気味な気配に声を詰まらせた。
 独特の重苦しい、じっとりと身体にまとわりついてくるような空気には身に覚えがある。それも、それほど遠くない過去に。
 じゃり、と、足元の砂を鳴らして、わずかに後ずさりした。
「河野、おまえ……」
 呼び掛けても、今なお河野は俯いたままの姿勢を崩さない。だが、その身には、明らかに異質な気配を滲ませていた。
「あんな暗い子ノ、ドコがいいのヨ」
 河野の発する声が、奇妙にひび割れている。億劫そうな仕草で顔を上げたその瞳は虚空のように昏かった。
 その瞬間、悟らざるを得なかった。河野は、妖にその身体を奪われてしまったのだと。
 妖に襲撃されたこと自体はあったが、生身の人間が妖の器とされている姿を初めて目の当たりにし、輝行はその想像以上のおぞましさに背筋が粟立つのを感じた。しかも、よりによって器とされてしまっているのは、自分の同級生であり、陸上部の仲間なのだ。
 ゆっくりと後ずさりを続けるが、河野もそれに合わせるようにゆるやかな足取りで前に進んでくる。彼女の右手には、いつの間に取り出されたのか、カッターナイフが握られていた。二人の間の距離は、ほんの一メートル強。輝行より小柄な河野が切りかかっても、充分に届く距離だった。
「ねェ、私じゃ、ナンで駄目ナノ? 暗くて地味な各務サンの何が良かったノ?」
「だ、だから、各務とはそんな関係じゃねぇって」
「もしかシテ、合宿のトキ? 肝試しの時ニ、言い寄られたノネ?」
 じりじりとにじり寄りながら、河野は輝行の反論にまったく耳を貸そうとしない。彼女の頭の中には、既に輝行と織月の恋愛関係が出来あがっており、自分がフラれる理由も織月の存在があるからなのだと決めつけているようであった。その為だろう。言葉の端々から織月に対する憎悪と嫉妬が溢れている。
 河野の織月に対する言い草に、輝行は心の内では腹が立っているのだが、それを口にしてしまうことは状況を悪化させるにことにしかならない。
(……基先輩!)
 既に待機してくれているはず基が、頼みの綱だった。だが、その基は一向に姿を現さない。これほど近距離に迫られている状況では、もしかしたら基も踏み込むに踏み込めない状態なのかもしれないと、自分でも意外なほど冷静に分析できた。
(何とか、河野に隙を作って、間合いをとらないと)
 早くなる鼓動を治めるように、わずかに深呼吸して気持ちを落ち着かせる。河野から視線は外さないまま後ずさりを続け、意識をほんの少しだけ右手に集中した。
「何度も言うけど、各務は関係ない。ただの後輩だ」
「嘘ヨ。あんなに楽しそうニ話してタじゃナイ」
「陸上の話をしてただけだ。お互い走るの好きなんだから、その話を楽しそうにしてたっておかしくはないだろ?」
 言い聞かせるような輝行の話しぶりに、河野の足がピタリと止まる。もしかすると、まだ話を聞いてくれる余地があるのかもしれないと、微かな期待が頭をもたげた。
「じゃあ、何で……」
 消え入りそうなか細い声。その儚げな声は、電話先で聞いた震え声と同じで、河野本来のもの。我に返ったのかと、思わず駆け寄りそうになるが――。
「……ナンでワタシじゃ駄目なのよォッ!」
 そう叫ぶとともに、ナイフを握る右手が振りかざされた。
「『揺光』っ!」
 身を翻しながら、貸し与えられたままになっていた短刀の銘を叫び、召喚されたそれで刃を弾いた。衝撃でカッターナイフは河野の手を離れ、弧を描いて地面に突き刺さる。それでも油断はできない為、更にニ、三歩飛び退いて距離をあけた。
 河野はさほど表情を変えず、受けた衝撃を治めるように右手をさすっている。
「痛イじゃナイ。ナンでコンなコトするノ? ソンナにワタシが嫌イ? ソレでワタシを殺すノ?」
 思いがけず向けられた『殺す』という言葉に、輝行の身体はその場に縫い止められたように動けなくなった。
 もし、この刃を河野に向け、そしてそれで彼女を傷つけた場合、彼女はどうなるのか。改めて考えると、身体の奥から震えが湧き起こってくる。
 合宿の時に出くわした妖は実体を持っていないものだ。だから、基が斬り捨てた時にもホッとするばかりでそれ以上のことは何も考えたりはしなかった。
 けれど、今は違う。目の前にいるのはつらい練習を共にしてきた相手で、生身の人間だ。手の中に確かな質量を持って存在する揺光が、河野の身体を傷つけないとはとても思えなかった。
「ねェ、ワタシをソレで刺すノ? ソンナことしたら、横木君は『ヒトゴロシ』ネ」
 輝行の迷いを見透かすように、河野は嘲笑う。音になって耳に届くと、その響きがますます重くのしかかった。
 このままでは、自分の身が危ないことは充分に理解している。けれど、自己防衛の為に他人を傷つけていいわけではないということも、それと同じくらいにわかっていた。
 躊躇いが、隙となって現れた。輝行の揺光を構える右手が、僅かに下がる。それに素早く気付いた河野の足が、地を蹴った。輝行の右腕を自らの両腕で絡め取るように封じ、そのまま体当たりする勢いで輝行の身体を押し倒す。とても同年代の女子とは思えない力だった。衝撃で、輝行の手から揺光が零れ落ちる。
「捕まエタ……ッ!」
 そのまま馬乗りの体勢になろうとしていた河野が、何かを感じたように輝行の上から飛び退いた。その直後、輝行の斜め横の地面に、数本の小刀が突き刺さる。見覚えのあるそれに驚いていると、土を踏む音と共に、銀髪の少女が現れた。
「大丈夫ですか、横木先輩」
「か、がみ……、どうして……」
「基様から連絡がありました。自分は間に合いそうにないから、先に行って先輩の警護を頼むと」
 輝行と河野の間に立ち、背を向けたまま淡々と説明する織月に、輝行は複雑な思いを抱きながらも何とか立ちあがった。手から零れた揺光は、少し離れた場所に転がったままだが、不用意に取りに行くこともできない。隙を見て拾い上げるしかないようだと判断し、視線を河野に向けると、今まで以上に昏い気を放っているのがわかった。
「マタ……、貴女ナノ……?」
 憎悪に彩られ澱んだ瞳は、まっすぐに織月に向けられていた。織月はその言葉を受けても、微動だにせず、静かに開陽を構えている。
(『また』って、どういう意味だ? それに……)
 織月の姿が常とは違うにも関わらず、河野は彼女が誰なのかわかっているようだった。その上で、出てきた『また』という言葉が妙に引っ掛かった。
「どうシテ、いつも邪魔をするノ? アノ時も、今も……!」
 ギリギリと口唇から血が滲みそうなほど噛み締め、河野は織月を睨みつける。それでも織月は表情を変えることなく、ただ黙って河野を見つめ返していた。
「横木先輩、揺光を」
「ああ、わかってるけど、下手に動けば……」
 揺光は、河野と織月の間に転がっている。僅かながらこちら寄りではあったが、それでも河野から充分な距離が離れているわけではない。
 今ここにいるのが織月ではなく基だったならば、そんなことを考えなくても良かったのにと思いはしたが、いないものを嘆いても仕方がなかった。
「私が河野先輩を引きつけておきます。その間に拾って下さい。私では、河野先輩に憑いている妖を返すことはできないですから」
「……わかった」
「大丈夫です。まだあの妖は、完全に河野先輩と同化しきってない。晄具で斬りつけても、河野先輩自身に傷はつきません」
 輝行の懸念に気付いていたのか、それだけ言い残すと、織月は河野に向かって駆け出していった。まだ手にして間もない開陽を閃かせると、河野もそれをひらりひらりと避けていく。河野の身体に潜む妖が、彼女の運動能力を高めているのだ。
 輝行は急いで、けれど焦りは見せずに揺光を拾い上げ、織月達の後を追った。
(揺光で斬っても、河野は傷つかない。けど……)
 後を追いながら、それでもまだ迷いは晴れずにいた。気にかかっていることはただ一つ。
(今の俺に、ちゃんと妖を浄化させることができるのか?)
 自らに妖の戻士としての血が流れていることは確かだが、その能力をどうやって発揮すればいいのかなど、誰にも教わっていない。むしろ、それをこれから修行していくところだったのだ。
 もし、自分がちゃんと浄化することができなければ、河野は完全に妖に身体を奪われてしまうだろう。織月の口振りからいけば、完全に同化してしまったならば、河野は助からないのだと推測するしかなかった。
「だったら、何とかやるしかないってことだよな」
 迷いが綺麗に消えたわけではない。けれど、今のこの状態では、埒が明かない。基を待つという手もあるが、その間に状況が悪化しないとは言い切れなかった。覚悟を決めて、輝行は揺光を握り直す。前方に、対峙する二人の姿が見えた。
「貴女サエ、いなけれバ……!」
「お言葉ですが、昔の大会のことを言っているなら、邪魔されたのは私の方ですけど?」
「うるサイッ!」
 聞こえてくる声から、織月と河野の間には以前から何かの因縁があったようだった。河野が輝行と織月の関係を疑って、嫉妬混じりの怒りを向けたのも、その過去があったからなのかもしれない。
 輝行が追いついてきたことに気付いた織月は、視線は河野に向けたまま、輝行が側まで来るのを待っていた。
「……大丈夫ですか?」
「何とか。それより、どうすれば河野に憑いてる妖を倒せるんだ?」
「妖には魔のように核となるものがありません。その代わり、妖と憑かれた側の人間を繋ぐ為の媒介となるものがあるんです。それを『結』と言います。まずは、その結を見つけてそこを揺光で斬れば、あの妖は河野先輩から離れざるを得ないはずです」
「その結って、各務にはわかってるのか?」
「いえ、私には見えません。けれど、きっと先輩なら見えるはずです」
 一瞬だけ視線を寄越す織月の瞳が、自信を持てと言っていた。それに励まされるように、輝行は鋭い視線を河野へと向ける。
 自分がやるしかない。じっくりと注意深く、河野の様子を探っていく。
「どうしタノ? 横木君。そんな怖イ顔しテ。まさか、私を殺ス覚悟でもシタ?」
 再度輝行を揺さぶるように、河野が『殺す』という言葉を口にした。わざとらしく、哀しそうな表情まで浮かべている彼女に、傷つけることはないのだと理解してはいても躊躇いが生まれる。
「先輩」
「大丈夫だ、わかってる」
 揺光を握る掌が、じっとりと湿り気を帯びていた。額や背中にも、緊張から吹き出した汗が伝う。河野の身体を傷つけることはないのだと、惑わされるなと、自分自身に言い聞かせ、輝行は目を凝らした。
 ゆらりと、揺れるように一歩踏み出した河野に、織月と輝行は回り込むように距離を取った。織月は妖に対抗する能力がない為、輝行をサポートするように間に入る。
「先輩、見えますか?」
「ちょっと待ってくれ、今、何か……」
 輝行が答える前に、河野が再度襲いかかってきた。いつの間に取り出したのか、先ほどとは違った小振りのナイフを手にしている。
 織月は振るわれたナイフを開陽で受け止め、押し戻す。織月は攻撃には転じず、河野の一方的な攻撃を上手くかわし、受け流していた。さすがに戦い慣れている織月と、ごく普通の女子高生に過ぎない河野では、実力の差が歴然としている。
 織月が引きつけてくれている間に、輝行は間合いを取りながら先程一瞬見えかけた何かを確認しようと、ますます神経を集中した。
 暗闇の中、輝行の瞳が赤みを帯びた紫の光を宿す。闇雲に振りまわされるナイフを持つ右手首に、禍々しい血のように赤黒いラインが見えた。更に目を凝らすと、まるで手首から肘のあたりに向かって、まとわりつく蛇のように痣がある。

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