禍つ月映え 清明き日影

章之壱 清輝に惑う

伍 約束 [03]

 約一週間にわたる総体も、全競技を終了し、無事に閉会式を迎えることができた。
 輝行は優勝を逃したものの、見事に第三位を獲得し、その他にも多くの久遠陸上部の選手が入賞を果たしていた。喜びと悔しさを胸に抱きながら、それでも揚々とした気分で世話になったホテルを後にし、バスにて帰路につく。連日の疲れもあってか、車内ではほとんどの部員が眠りに落ち、解散場所である久遠学院内に着くまで静かなものであった。
 バスを降りて整列し、今後の部活の予定や連絡事項をみどりが説明するのを寝惚け半分で聞き終わると、その場は解散となる。九時間弱もバスで移動をしていた為、青く澄み渡っていた空には既に茜色の雲がたなびいていた。
 あとはもう、家に帰りゆっくりと休むだけである。輝行は移動と大会の疲れで重い身体を引きずるように歩き出した。さすがの隼人も今日は元気がないらしく、「じゃあ、またな」とだけ言い残して大人しく帰っていく。隼人の場合は、大会終盤まで競技が残っていたので尚更疲れが残っているのだろう。
 一方織月はどうなのかと様子を窺ってみると、さほど疲れた様子がないように見えた。そういうところがいかにも彼女らしい。早い日程で競技が終わってしまったこともあるだろうが、それだけでなく織月はあまり他人に自分の弱っている姿を見せようとはしない。たとえ疲れていたとしても、それは表に出したりはしないだろう。常と変わらず、姿勢よく歩いていく背を見送りながら、言葉を交わした翌日の織月の走りを思い出す。
 今までの胸のつかえが取れた所為か、織月は実に伸びやかな走りを見せてくれた。そのことが、自分が入賞したことよりもずっと嬉しかった。しかも、彼女の悩みを軽くしたのは他でもない自分自身だ。今まで一方的に世話になるばかりだった相手に、少し恩を返せたような、わずかな誇らしさが胸に拡がる。
 先程までの疲労で重くなった足取りが、ささやかながら軽くなったような心地で、輝行は我が家へと向かったのだった。

 輝行が家に帰り着くと、まずは四つ年下の妹・陽菜が満面の笑みで出迎えてくれた。
 輝行と陽菜は比較的兄妹仲が良い。普段から一緒にゲームをしたりするので、輝行が家を空けている間は多少退屈をしていたのだろう。
「おかえり、お兄ちゃん。それからおめでとう」
 大会の結果は既にメールで知らせていたため、陽菜から祝いの言葉が飛び出す。
「おめでとうって、三位だぞ」
「三位でも十分にすごいと思うよ! だって全国の高校生で三番目に速いってことでしょ? まず全国大会に出られる人が一握りなんだから、そういうこと言っちゃ駄目!」
 照れ臭さから出た言葉だったが、妹に思わぬお説教をくらってしまい、輝行は苦笑混じりにスミマセンと謝った。すると陽菜はまたすぐに笑顔に戻り、輝行の腕を引く。
「ほら、荷物置いてさっさとお母さんにただいまって言ってこなきゃ」
「わかったわかった」
 陽菜に引っ張られながら、廊下の端に荷物を一旦置くと、台所へと向かう。流しの前に立っていた母・亜紀子は、二人の声が聞こえたのか振り返って迎えてくれた。
「おかえり、輝行」
「ただいま」
「お腹空いてるでしょ。もうすぐご飯できるから」
「今日はねー、私も作るの手伝ったんだよー!」
 横から自慢げに陽菜が口を挟むと、亜紀子はわずかに顔を顰めてコンロの前へと移動する。鍋の中身と火加減を確認しながらボソリとぼやいた。
「今日だけじゃなくて、いつも手伝ってくれたらいいんですけどねー」
「あ、あはは……」
 笑って誤魔化す陽菜に肩を竦めた亜紀子だったが、ふと思い出したように輝行に振り返った。
「ああ、輝行。昨日お祖父ちゃんから電話があってね、近々旅行に行きたいんだけど、足腰が不安だから輝行についてきて欲しいって言われてね。ほら、貴方大会後はしばらく練習も休みでしょ? だからもし大丈夫ならばって話なんだけど」
 祖父からの電話ということに、輝行はすぐに六条院家からの手回しだということに気付く。確かに、身内――しかも年老いた祖父――が一人旅では不安だと孫に同伴を頼むのならばそんなにおかしくはない。しかも、幼い頃から祖父は輝行を可愛がってくれていたこともあり、家族から不審がられることはないだろう。
 とはいえ、二つ返事で了承するのも怪しまれるかもしれないので、詳しく話を聞くふりをすることにした。
「別に大丈夫と言えば大丈夫だけど、一体祖父ちゃんどこに行く気?」
「京都らしいわよ。そういえば、向こうにはお祖父ちゃんの兄弟のお墓もあるはずだったんじゃないかしら。時期も時期だし、お墓参りも兼ねてるんじゃない?」
「いいなー。私も行きたーい」
「陽菜は駄目よ。部活もあるし、お友達と夏祭り行く約束もしてるんじゃなかったの?」
「そうだけどー」
 頬を膨らませながら「お兄ちゃんだけズルイー」と陽菜が拗ねた様子だ。
 ずるいと言われても、輝行にしてみれば今回の大会遠征同様、遊びに行くわけではない。が、本当のことを言うわけにもいかないので、母が妹を窘めてくれることに期待した。
 それに応えるように、亜紀子は料理片手に口を開く。
「それに、陽菜が行ったって楽しめるような場所はそんなにないわよー。京都なんてお寺と神社ばっかりなんだから」
「でも舞妓さんとかいるんでしょ?」
「舞妓さんてのはね、京都だったらどこでも歩いてるってわけじゃないの。大体、お祖父ちゃんが舞妓さんのいるような場所に行くわけないじゃない」
 亜紀子の説明に納得しきれていないのか、陽菜はふくれっ面のままだった。
 確かに遊びに行くわけではないが、輝行は大会などでも他府県に行くことが多い。横木家は家族旅行などにも滅多に行かないので、陽菜が羨ましがる気持ちもわからなくはなかった。仕方ないと言わんばかりに、輝行は妹の頭を撫でてやる。
「ちゃんと土産買ってきてやるから、そんな顔すんなよ」
「ホント? 絶対だよ!」
 途端に破顔する現金な陽菜に「また甘やかすんだから」と亜紀子は呆れ顔。しかし、すぐにそれを収めると、陽菜に向かって食器を準備するように指示を出した。土産の約束が嬉しかったのか、陽菜も機嫌よく母の指示に従って動く。
「輝行、先に着替えてきなさい。それと、洗濯物はちゃんと出しておいてね」
「はーい」
 間延びした返事を返し、輝行は台所を出て荷物を手に取った。そのまま洗面所に向かい、荷物の中から数日分の着替えを取り出す。それを洗濯籠に放り込むと、自分の部屋へと向かった。
 部屋に入ると、見慣れた自分だけの空間に思わず大きな息をつく。やはり自宅が、そして自分の部屋の中が一番落ち着く場所だった。
「ま、また数日後には落ち着かない場所、なんだけどな」
 ゆっくりする間もなく、また未知の場所――しかも六条院宗家の本邸に向かうことになるという事実が、重かった。それでも、それが自分の選んだ道であり、そこから逃げていては危険度が増すだけだということは痛いほどわかる。だから、立ち向かうしかないのだ。
 覚悟を決めた瞳が、スチールラックに立て掛けられた天魁へと向かった。この晄具を、使いこなせるようにならないといけない。その事実が、またプレッシャーとなるが、それ以上にいまだ記憶から薄れない、織月の傷付いた姿が思い出される。
「あんな情けない思い、もうしたくないもんな」
 天魁を握り締め、輝行は自らに言い聞かせるようにそう呟いた。
 布の袋を解き、六条院別邸で渡された時と同じく天魁を手に取ってみる。けれど、予想通りというべきか、残念ながらというべきか、やはり天魁は手の中から姿を消すことはなかった。
「って、こんな簡単に消えるんだったら、最初っからできてるか」
 諦めて袋の中に戻し、置いてあった場所に天魁を戻す。それとほぼ同時に、台所の方から陽菜の「ご飯ができたよー」と呼ぶ声が聞こえてきた。
 輝行は声高に返事を返しながら、慌てて着替えに取り掛かる。ポケットに入っていた携帯電話をベッドの上に放り投げ、他に何も入っていないかを確認してから手早く部屋着に着替えると、今まで着ていた陸上部のジャージを持って部屋を出た。
 再度洗面所に寄り、ジャージを籠へと放り投げると、台所から漂ってくる芳しい匂いに空腹感が刺激され、盛大に腹の虫が鳴り響いたのだった。

 夕食のメニューは、輝行の入賞の祝いと、大会での疲れを癒すことを考えて作られた、亜紀子の愛情たっぷりの内容だった。
 亜紀子は若い頃調理学校に通っていたことがあり、その時に栄養学なども学んだらしい。その経験は常日頃から活かされていて、輝行が大会前などで自分の身体作りに神経質になっている時も大いに助けられていた。
 そんな気遣い満点の食事を目一杯堪能した輝行は、満腹の腹を抱えて自室へと戻った。倒れこむようにベッドに身を投げ出すと、身体の下に何か固いものが当たるのに気付く。
 夕食前に放り出したままの携帯電話だった。折り畳み式のそれを引っ張り出し、仰向けに体勢を変えながら何気なく開く。すると、着信があったことを知らせるアイコンが表示されていた。
 誰からだろうとそのアイコンをクリックしてみると、着信相手の番号が大きく表示された。しかし、それは自分の携帯に登録されているものではなく、ただ十一個の数字が羅列されているだけ。
 誰かが番号を変えたのだろうか。いや、それならばメールで連絡してくるだろう、などと推測していると、手の中の携帯が振動し、着信を伝えた。しかも相手は、その謎の番号からだ。
 輝行自身、自分の信用できると思っている人物にしか番号を教えていない。その為、深く怪しむ事もなく通話ボタンを押した。
「もしもし」
『横木、君?』
「え?」
 聞こえてきたのは、予想もしていない女の声だった。しかし、名前を呼んでいるのだから、間違い電話ではないだろう。
 気を取り直し、輝行は電話の相手に向かって問い掛けた。
「えっと、そうだけど……悪いけど、誰?」
『あ、ごめん。河野です。陸上部の』
 名前を聞いた瞬間に、緊張が走る。隼人の言っていた言葉が脳裏に浮かび上がった。しかもつい数時間前まで同じ場所にいたのだから、普通に用事があるのならその時に済ませていたはずである。タイミング的にも、陸上部の用事で電話してきたというわけではないだろう。
 それに、輝行は河野に電話番号を教えてはいない。どこでそれを知ったのかがまず気に掛かって仕方がなかった。
「河野が何でオレの携帯……」
『横木君、連絡網に載せてるじゃない』
 言われてから、そういえばと納得する。
 陸上部の連絡網では自宅の電話番号を載せている者もいるが、輝行は家族の手を煩わせたくないという思いもあり、自分の携帯番号を載せてもらっていた。部員の全員が携帯を持っているわけではなかったが、持っている場合はほとんどが輝行と同じような理由で携帯番号を登録していた為、特に抵抗もなかったのだ。
 しかしまさか、連絡網以外の私的な用件で使われるとは思いもしなかった。
「そういやそうだった。で、何かあったのか? みどりちゃんの連絡忘れとか」
 そんなわけがないとわかっていつつも、河野の目的が何なのか察したような態度はとることができなかった。
 今までに告白をされたことはあることにはあるのだが、電話というのは初めてのパターンで、どういう態度をとっていいのかがわからない。内心焦りまくっている輝行ではあったが、幸い相手にそれは伝わっていないようだった。
『そうじゃなくて。……あのね、横木君に話したいことがあるの』
「お、おう。何?」
『電話じゃちょっと……。すぐ済むから、ちょっと出てこれないかな?』
「え、今から、か?」
 輝行は窓から外の闇を眺めながら、思わず渋った声を出す。
 陽の完全に落ち切った今は、輝行にとって出歩くことが命取りになりかねない時間帯だ。封咒が施されていても、真の闇の中ではその効果は気休め程度のものだと聞かされている。
 輝行の態度に、電話の向こうの河野が声を震わせながら「駄目、かな?」と問い掛けた。
 そんな声を出されてしまうと、輝行も無下に断ることもできなくなってしまう。短く了承の返事をすると、河野は明らかに安心した声音になり、近所の公園を待ち合わせ場所に指定してきた。その後、二言三言会話を交わし、電話を切る。
 携帯電話を折り畳んだ瞬間、輝行の口からは盛大な溜め息が零れ落ちた。

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