禍つ月映え 清明き日影

章之壱 清輝に惑う

伍 約束 [01]

 一年のうち、もっとも暑い季節が訪れる。それは輝行にとって大きな意味を持つものでもあった。
 全国高等学校総合体育大会陸上競技大会。学校対抗で行われるこの大会に、陸上強豪校として全国的に有名な久遠学院大付属高校も出場することになっていた。
 輝行はもちろん男子一〇〇mと同時に四×一〇〇mのリレーの選手に選出されている。また隼人は五〇〇〇mの選手、そして輝行は総体直前まで気付いていなかったが、織月も女子の四×一〇〇mリレーの選手になっていた。
 その他の競技に出場する選手だけでなく、出場しない部員も全員がサポート役として参加する遠征試合。合宿よりも更に長距離での移動ということで、新幹線を利用し遠く離れた西の地に赴いた。
 既に大会初日を終え、輝行と織月はリレーの予選を終えていた。翌日には、それぞれリレーの準決勝と、男子の一〇〇mが控えている。その日の全ての競技が終了し、宿泊先のホテルに戻った部員たちは、明日の競技に備えて最後の指導やマッサージを受けていた。
 さすがに全国大会常連校で、更には中学時代から大きな大会を経験している者が多いことから、必要以上に緊張している空気はない。しかし、緊張感が全くないというわけでもなく、口数が減る者も少なからずあった。
 輝行は一人になりたいと思い、同室の部員に声を掛けてから部屋を出た。
 緊張しているから、ではない。ただ、大会前、特に個人種目に出場する前は昔から一人の時間が欲しくなるのだ。誰の邪魔も入らない静かな場所で、トラックに立つ自分を想像し、最高の走りが出来るようにイメージする。その瞬間は必要不可欠であり、同時にとても好きな時間でもあった。
 その為の場所を探してホテルの中を歩き回っていると、ロビーから中庭へと繋がるガラス製のドアに気付いた。中庭と言ってもかなりの広さがあり、少し奥まった先にはほのかな明かりでライトアップされたガラス張りの建物がある。しかし、神秘的な雰囲気を漂わせている割に辺りに愛を語り合うような恋人同士の姿もなく、それ以外にも全く人気はない。イメージトレーニングをしても邪魔は入りそうにないのではないかと思えた。
 ただ、勝手に中庭に出ても良いものかが悩むところではあったので、フロントスタッフに声を掛けることにする。
「あの、スミマセン」
「はい、何でございましょうか?」
 濃いグレーの制服に身を包んだフロントの女性が、柔和な笑みと共に応えてくれる。輝行は、中庭へと続くドアの方を指差しながら、あそこから外に出ても大丈夫なのかを尋ねた。
「大丈夫ですよ。ただ、夜の十時を過ぎますと、ライトアップされている照明が落とされますので、少々暗くなってしまうとは思いますが」
「あ、大丈夫です。それまでには部屋に戻りますから」
「では、お足元にお気を付け下さいませ」
 丁寧なスタッフの応対に自然に笑みが零れる。輝行は気持ちよく礼を言って頭を下げ、先ほどのドアへと向かった。
 中庭へ出ると、ガラス越しに見るよりもはっきりと外の建物が見えた。
 どうやらそこは結婚式の行われるチャペルのようで、建物まで続くタイル張りの通路以外は一面緑の美しい芝生が植えられ、時折飛び石のように大小の天然石が配置されている。近くには、結婚式のセレモニー用と思われる小さな釣鐘が下がっていた。
「結婚式場かあ。さすがにオレにはまだまだ縁がないなぁ」
 高校生だからというだけでなく、見事に恋愛から遠ざかっている自分に苦笑じみたものが浮かぶ。だが、それは自分自身で仕向けたことであり、陸上最優先で考えてきたことを後悔したことなど一度もなかった。
 気を取り直し、ドアからより離れた建物の裏側へと回る。出来る限り人目に付かず、誰も来ないような場所でなければ、せっかくの集中も途切れてしまうだろう。
 だが、そう思って回り込んだ先には、思いがけない人影があった。
 織月、だ。
 闇に溶け込むように密やかに、織月は膝ほどの高さの岩に座り目を閉じていた。その姿は、今から自分が行おうとしていたものと酷似している。そう思うと迂闊に声を掛けられず、輝行は静かにその場を立ち去ろうと踵を返した。が、
「うわっ」
 最悪のタイミングで、足元の小ぶりな岩に躓いてしまった。今更ながらに、フロントの女性の「お足元にお気をつけて」という注意が頭を過ぎる。持ち前の反射神経で何とか転びはしなかったが、思わず上げてしまった声に、案の定織月は気付いてしまった。
「横木先輩?」
「あ、わりぃ。邪魔するつもりなかったんだけど……」
 恥ずかしさを誤魔化すように空笑いすると、思いの外穏やかな笑顔が返った。どうやら気分を害してはいないようである。
「大丈夫ですよ。私はもう戻ろうと思っていたところなんで」
「そ、そっか。各務も明日準決あるもんな」
「先輩こそ、一〇〇があるじゃないですか。その為にここに来たんじゃないんですか?」
 ずばりと自分の行動パターンを読まれていることに驚いたが、その言い草から織月もやはり、同じようにイメージトレーニング、もしくは精神統一をしようとしてこの場を選んだのだと確信できた。
「各務、いつもこういうことやってんのか?」
「いつもというか……、そうですね。昔、ある人に教わったんです。走る前に、自分の一番の走りが出来るように想像しておけって。そうしたら、本番ではよりいい走りが出来るからと……」
 どこか懐かしそうに語る織月は、いつになく柔らかな空気を纏っている。語る言葉の端々からも、その教えを受けた相手に対する強い信頼が、そしてそれと共に陸上に対する真剣さが窺えた。
 じゃあ、と言い置いてその場を譲ろうとする織月を、輝行は慌てて呼び止める。
 昼間、競技場にいる時から少し気にかかっていたことがあったのだ。今までそれは気の所為かもしれないと思っていたが、今この状況を目の当たりにして、はっきりとした疑問の形を取っていた。
「何ですか?」
 呼び止められた理由のわからない織月は、不思議そうに首を傾げる。
「……各務さ、走るの好きだよな?」
 あまりに当たり前と思える質問に、織月はますますわからないといった表情だ。
「好きじゃなきゃ、陸上部なんて入ってませんよ」
「じゃあ、何で最後で力抜くんだ?」
 そう言われて、織月は息を呑み、表情が一気に固くなる。
 輝行の疑問。それは、リレーの予選で見せた織月の走りだった。
 部活では男女の練習がわかれている為、今までじっくりと織月の走っている姿を見たことはなかった。だが、予選での織月の走りはバトンを受け渡す手前で不自然に減速したように感じたのだ。それは周りから見てすぐに気付くものではないほど些細な違いではあったが、輝行には何故かはっきりとわかってしまった。
 しかし、織月は輝行と同じようにちゃんと陸上を好きで、真剣に取り組んでいるように見える。だから、どうしても手を抜くことが納得できなかったのだ。
「各務さ、本気出せば一〇〇の代表にだってなれるだろ? 合宿で妖に襲われた時の走りからみても、おまえもっと走れるはずだ」
「それは……」
 織月から返る言葉には、いつもの力強さも自信もない。それは、輝行の言葉を肯定していることを示していた。
「目立つのが困るとかいうのがあるからか?」
「……それもないとは言いません」
「じゃあ、他には何なんだよ?」
「……私は、『戻士』です」
「んなこと知ってるって」
「戻士は、その血の所為で普通の人間よりも運動神経に優れるんですよ?」
 その言葉の意味を察し、輝行は言おうとしていた言葉を飲み込むしかなかった。
 戻士だから、運動神経に優れる。自らが望んでその血を受け継いだわけではないが、明らかに異質な血を持つが故に好成績が出せるのだとしたら、それはある意味ドーピングと変わらないのではないか。織月はそんな風に考えていたのだ。
「私も、昔はただ走ることが好きで、無我夢中で練習してました。大きな大会にも出場しましたし、より良い成績を出せるようにいつでも全力で走ってました。でも……」
 織月の戻士として力が目覚めたのは、中学の後半だった。そして、必要な知識を得るに従って、本気で走ることへの抵抗が生まれ始めた。本気で陸上に取り組めば取り組むほど、自分が全力で走ることに対して罪悪感が生まれる。それは、日を追って強くなる一方だった。
「意識して、力を抜いているつもりはないんです。ただ、いつもゴールに近づくにつれて妙に冷めた目で自分自身を見つめているもう一人の私がいて、気がつけば力をセーブしてしまっているんです」
 淡々と語ってはいたが、その声音には明らかな苦痛の色があった。そして、輝行は同じことがそのまま自分に当てはまってしまうことを見て見ぬふりはできなかった。
(じゃあ、今までオレが成績出せてたのも、この血の所為、なのか?)
 輝行もまた、覚醒はしてないものの戻士の血を引いていることは確かだ。だとしたら、他の高校生たちよりも運動能力に優れているのも当然だと言えるのだろう。今まで、努力で勝ち取ってきたと思っていたものが、実は生まれつき持っていた『血筋』の所為だとしたら――。
「すみません。今の話は忘れて下さい」
 輝行がショックを受けていることに気付き、織月は今更と思いながらも謝罪を口にする。織月としても、輝行にこんな話をするつもりはなかった。言えば、輝行が気にしてしまうことは易々と想像できたからだ。
 しかし、思う存分走れないことに対する鬱憤が、心のどこかに溜まっていたのだろう。そして、同じく戻士であるのに、心底走ることを楽しんでいる輝行を羨む気持ちがあったことも事実だった。
 放心したような表情の輝行から返答はなく、しばらくそのまま沈黙が続いた。
 何も大事な試合の直前に言わなくても良かったのにと、心底自分の浅はかさを後悔していると、各務、とようやく輝行が口を開く。
 その瞳には、先ほどよりも幾分しっかりとした光が宿っていた。
「はい」
「戻士の血筋持ったヤツってさ、オレたちの他にもいるよな?」
「そうですね。血の濃い薄いはありますけど、先輩の親戚の方だって戻家筋ということになりますし」
「じゃあさ、そこまで自分を抑えつけなくたっていいんじゃないか?」
「え?」
 にこと屈託なく笑う輝行に、織月は呆気にとられる。先ほどまでショックを受けていたようにはとても思えないほどに晴れ晴れとした笑顔だったのだ。
「ほら、外国人だって、日本人より身体能力高いだろ? 黒人選手とかすげぇじゃん。けど、日本人じゃないからって日本人に遠慮するわけじゃないし。それに、いくらオレたち戻士が身体能力高いって言ったってさ、結局は同じ人間じゃん」
「それは、そうですけど……」
 あまりにも乱暴なまとめ方に、織月はそういう問題ではないと思うのだが、それを反論する暇もなく輝行は語り続けた。
「確かに戻士の血のおかげで今まで勝ってきたのかもしれない。けど、オレだって全力出して負けたことはあるし、各務だってそうだろう? それに、オレみたいに戻家筋だって知らずにいる人間だって世の中にはいっぱいいると思ったらさ、遠慮すんのもおかしくねぇ?」
 真剣な表情でそう同意を求める輝行の姿に、織月はしばし呆然とした後、プッと小さくふき出し、そのままくすくすと笑い出した。
 今までの悩んでいたことが馬鹿馬鹿しく思え、ついこみ上げる笑いを堪えられなくなったのだ。一年以上ずっと悩みながらも陸上を辞められずにいたのに、この目の前の人物はたった数分で何とも前向きな答えを出してしまった。そして、その答えはいかにも輝行らしく、それでいて意外に説得力のあるものだった。
「先輩のポジティブさには敵いませんね」
「あ、おまえ、馬鹿にしてんだろ」
「してないですよ。ある意味尊敬に値します」
「……絶対嘘だ」
 なおも笑いながら答える織月の言葉を、輝行は真っ向から否定する。だがそこには不機嫌さはなく、織月の胸の内の葛藤を和らげることができたことに対する満足が滲み出ていた。以前に亨や郁が織月のことを「真面目すぎる」と評していたが、陸上に関しても真面目すぎるが故に悩み続けていたのだろうと思うと、それが吹っ切れたことが純粋に嬉しい。
「先輩、ありがとうございます」
 笑いをおさめて織月が晴れやかな笑顔を見せた。今までに見た中で、一番清々しさを感じる表情に、輝行も自然に顔が綻ぶ。
「礼なんかいいからさ、これからは全力で走れよ」
「はい」
 輝行に向かってしっかりと頷き、織月はおやすみなさいと残して踵を返した。その後ろ姿を眺めながら、輝行はもう一度一人笑む。
 織月の姿が見えなくなると、先ほどまで織月が座っていた場所に腰掛け、静かに瞳を閉じた。その瞬間から脳裏には、もはや真っ直ぐに伸びるトラックの平行線と、その先に見えるゴールだけ。ただ、自分の思うような走りが出来るように、イメージするだけだった。

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