禍つ月映え 清明き日影

章之壱 清輝に惑う

参 疑惑 [03]

 高原の朝は早い。目蓋を刺す強い日差しに、輝行は否応なく目を覚まさせられた。もそもそと枕元を探り、置いていた携帯電話を確認する。
 時刻は朝六時。起床時間よりも一時間も早かった。上体を起こして部屋の中を見回すが、隼人を含む他の部員はまだ誰も起きてはいない様子だ。
「二度寝するにもなぁ」
 残念ながらはっきりと目が覚めてしまっていた。寝直すのが無理なほどに、頭がすっきりとしている。仕方なく周りを起こさないように静かに私服へと着替え、部屋の外へと出た。
 さすがにまだ眠っている人間がほとんどなのだろう。廊下には人の気配もなく、ロビーにおりるまで誰一人出くわすことがなかった。
 そのまま散歩でもしようかと、玄関を出る。まだひんやりとした冷気を残した空気には、森の木々の清々しい香りもふわりと混ざっていた。都会の排気ガスや化学物質に汚染されたものとは比べ物にならないくらいに優しく自然な空気。
 が、すぐにそれらに混ざって異質な匂いが漂ってきた。
 視線を巡らせると何故か亨が一人、イチョウの木に背を預けて立っている。口には火のついた煙草がくわえられ、先ほどの匂いは明らかにその煙草のものだった。
 思わず体に緊張が走る輝行だったが、その姿に気づいた亨はひらりと手を振って笑った。
「おー? 何だ、随分早起きさんだなー」
「……アンタこそ、こんなとこで何やってんだよ」
「空気の美味いところで吸う煙草は格別なの」
 輝行の問いに、亨はヘラっと笑いながら紫煙を吐き出した。弛みきった態度に、一瞬身構えてしまった輝行もすぐに脱力感に襲われる。
「あと、面白そうなもんやってるから、それの見物も兼ねて」
「面白そうなもの?」
 不思議顔の輝行に、亨は煙草を挟んだ指先をすいと並行移動させた。示されたのは広々とした庭の中央辺り。そこには、基と郁が対面して構えていた。
 基が拳を握り、踏み込みながらそれを鋭く突き出す。それを郁は右腕で流しつつ掴み、左肘を鳩尾に叩き込もうとする。しかしその肘を基は左掌で受け止め押し返し、反動で右の裏拳を振るった。それをしゃがんで避けた郁は素早く足を刈るように薙ぎ――。
 まるで演武のような攻防を繰り広げる基と郁の姿に、輝行はしばし見惚れてしまった。
 基が武道を得意としているのは知っていたが、実際にそれを目にするのは初めてなのである。しかも、基に負けず劣らず、郁の動きも流麗だ。
「あいつらねー、アレが日課なんだとさ。変な姉弟だよなー」
「日課って、毎日あんなことを?」
「らしいよー。若いっていいねー」
「アンタもそんなに年変わんねぇだろうが」
 亨の「若い」発言に輝行は呆れたように呟く。するとそれに亨は素早く反応した。
「あ、それとおれ、年上だしね。アンタじゃなくて亨さんと呼びなさい、亨さんと。間違っても織月みたいに呼び捨てとかしないよーに」
「はいはい、亨さんね」
「おー? 何だそのイヤイヤ感満載な態度はー? せーっかくデートの予定潰してこっち来てやってんのにー」
 亨の恩着せがましい言い方に、輝行は思わずむっとした表情で睨みつける。しかしそれを見た亨は、ぷっと吹き出すと盛大に声を上げて笑い始めた。
「な、何だよ!」
「あ。いやいや、悪い。あんまり素直に感情出すもんで、ちょっと面白かったんだよ。その素直さ、少し織月にも分けてやってくれよ、ホント」
 笑いまじりに弁解する亨に輝行は少し呆れてしまうが、その最後の言葉に少し疑問を覚えた。
 輝行はまだ織月を関わるようになって日が浅い。だから織月はあんな風に感情をあまり出さずに接するのだと思っていた。けれど、亨の言い方では、誰に対してもあまり感情的にならないように感じたのだ。
「あのさ、亨さん」
「ん? 何だー?」
「各務って、誰にでもあんななのか?」
 声のトーンが、自然と沈む。
 自分と接する時だけ感情が薄くても嫌だが、誰に対してもそれが変わらないのもまた嫌なのだと輝行は思った。亨は輝行のそんな思いを知ってか知らずか、少しだけ表情を改める。
「あんなって?」
「だから、あんまり感情的にならないっていうか、淡々としてるっていうか……」
 年相応の少女ならば、もうちょっと感情豊かなのではないかと輝行は思う。
 もちろん、そういったものは個人差があるのはわかっているのだが、それにしても織月は感情を抑え過ぎているように感じていたのだ。
「ふーん、織月のこと、気になるのかー」
「べ、別に気になるとかそういうんじゃなくて……!」
 気にならないと言えば嘘になるのだが、素直に認めてしまうには気恥ずかしいものがあり輝行は慌てて否定する。
 しかしその輝行の態度に、亨はやたら瞳を輝かせ、嘘臭い笑みを浮かべた。
「若人よ、青春してるんだねー」
「どこのオッサンだよ、アンタはっ」
「あ、そうだー。一個忠告しとくの忘れてたなー」
「今度は何だよ!」
 亨のマイペースなテンポに輝行は苛々とさせられ、次第に語気が荒くなっていく。
 それに構わず、亨は少しだけ輝行に顔を近づけて囁いた。煙草の匂いが、少し濃くなる。
「……敵は、案外近くにいるようだ」
「え?」
 表情は相変わらずヘラヘラとやる気のなさそうな亨だったが、その瞳だけは真剣な光を宿している。
 輝行は無意識に息を詰めて亨の次の言葉を待った。亨の指先から、短くなった煙草が離れ、地面に落ちる。
「いくら信用できると思っている人物でも、気を許すな。それが累さんからの忠告だ」
「それって、誰のことを……」
「そこまではおれも聞いてない。ただ――おわっ!?」
 言葉の途中で、亨と輝行の顔の間を何かがすごい勢いで通り抜けた。正確には、亨の顔の位置目がけて飛んできたのだが、間一髪亨が避けていたためその物体は背後にあったイチョウの幹に突き刺さっていた。
「おい! 殺す気かっ!?」
 亨がそう非難の声をあげたのも無理もない話だろう。
 何故なら今目の前の木の幹に刺さっているのは、小振りのナイフだったからだ。
 けれどそれを投擲しただろう人物は穏やかな笑顔を湛えたままで、そばまで歩み寄ると、そのナイフを無言でしまう。そして、足元に落ちている亨の吸っていた煙草の吸い殻を踏み消すと、見せつけるように亨の目の前に突き出した。
「守屋亨君。私はポイ捨てが嫌いと言いましたよね? えぇ、言いましたとも」
「は、はい。仰いましたね……」
「では、これは何でしょうか? 十文字以内で答えてみて下さい」
「おれの捨てた吸い殻」
「はい、十文字ピッタリ、正解です。ということで正解者の守屋亨君には、あーら素敵、わたしから超豪華プレゼントを――」
「わかった! 悪かったって! ちゃんと灰皿に捨てるから!」
 満面の笑顔でにじり寄る郁に、亨は何やら強い恐怖を覚えたらしく、悲鳴にも似た声で答える。
 それに納得したのか、彼女は穏やかに微笑んだ。しかし、
「……よろしい。次見つけたら」
 そう言いながら、軽く指を鳴らす。暗に先ほどの見事な技の数々を亨相手に実践すると言いたいのだろう。
「基! この人どうにかしろ!」
「あ、それ無理。姉さんいる前でポイ捨てした亨が悪い」
 焦る亨が基に助けを求めるが、基は即答でそれを拒否した。どうやら、基も郁には逆らえないらしい。
「やあね、守屋亨君。私は別に貴方に暴力を振るおうなんて思ってないですよ? ちょっとばかり肉体労働してもらおうと思ってるだけなのですから。ほら、行きましょう?」
 どこまでもさわやかなで、周りから見れば見惚れてしまいそうなほどの笑顔なのだが、郁のその目は一切笑っていない。彼女は逃げようとする亨の腕を取り、引きずるように歩き出した。
 必死に抵抗する亨だったが、どうやら軽く関節を極められているらしく、時折悲痛な声を洩らしながら遠ざかって行く。
 そのまま、二人は合宿所の中へと消えていった。
「早いな、横木」
 亨と郁とのやりとりを――というよりも大半は郁の所業をだが――呆然と見送っていた輝行だったが、基の声で我に返る。
「あ、何だか目が覚めちゃって……。基先輩こそ」
「オレはいつもこんなもんだよ。姉さんの日課に付き合うようになってからずっとな」
 日課という言葉に輝行は先ほどの二人の組み手を思い出した。生で迫力ある武術を見るのは初めてだった輝行にはなかなか衝撃的なシーンだったのだ。
「見てましたよ、さっきの! すごいですね、基先輩もお姉さんも」
「別にすごかないって。物心ついたときからずっとやってるだけだから」
 少し興奮気味な輝行に、基は照れるでもなく、かといって驕った風でもなく、ごく自然に笑う。そして今までに見たどの基よりもずっとリラックスしている表情に気づいた。
 もともと固いイメージがあるわけではないのだが、基は常に人を寄せ付けない空気を微かに放っている。誰とも社交的に話しているようで、ある一定以上のラインを誰にも超えさせない。それが輝行の持つ基の印象だったのだ。
 けれど、今の基からはその踏み込みがたさがあまり感じられない。それは輝行の予想でしかないのだが、郁の存在が大きいのだろうと思えた。
「仲いいんですね、お姉さんと」
「うん? まぁ、そうかな。姉さんはオレにとっては恩人だし」
「恩人?」
 思いがけない単語に引っかかりを覚える。
 弟が姉を『恩人』などと称することなど滅多にない。奇妙な違和感を抱いた輝行に、基は更に強い意志を言葉にのせる。
「そう。だからオレは姉さんの為なら何だってするよ。そう、どんなことだって、ね……」
 そう言って微笑みを向ける基に、輝行はぞくりと背筋に冷たいものを覚えた。
 まっすぐに自分に向けられている瞳には決然としていて、毅い。そして、どこまでも深く、冷たかった。

『敵は、案外近くにいるようだ』

 亨の言葉が瞬時に蘇る。
(まさか、基先輩が……?)
 そんなはずはないと、頭に浮かんだ嫌な想像を振りきろうとする。けれど、なおも頭の中には亨の残した言葉が繰り返されていた。

『いくら信用できると思っている人物でも、気を許すな』

 基のことは一年の頃から尊敬していて、憧れている。基の方も輝行を気に入って可愛がってくれていた。それなのに、もし基が敵に回るようなことにでもなったら……。
 次々に溢れだす不快で受け入れられない想像は、自分の意志では止められそうになかった。
「あ、そうだ。おまえ姉さんに何か吹き込まれてないか?」
 明るく問い掛ける基の声で、ようやく思考は途切れる。
 基には先ほどのような冷淡な印象はどこにもなく、いつも通りの明るい先輩の姿でしかなかった。気の所為だったのだと無理やり納得し、輝行は基の問いに答える。
「……あ、そういえば、社がどうとか言われましたけど」
 意味のわからない、何だか気になるようなことだけ残していった郁の姿を思い出した。
 やはり何かあるのかと思っていたが、予想外に基は呆れとともに大きなため息を吐き出す。
「やっぱりな。ソレ、気にすんなよ? いかにも何か出そうな雰囲気の場所だから、気になるように仕向けて、そこに行ったら脅かそうって魂胆なだけだから」
「え? じゃあ何でもなかったんですか?」
「そう。あの人いたずら好きだから、あの辺に何か仕込んでたんだよ。誰かが何も知らずに来ても可哀相だからこっそり仕掛けは全部外してきたんだけど」
 困ったもんだと苦笑しながら基は肩を竦める。入念に計画をしてまで人を驚かすことにかける郁の情熱はなかなか熱いモノのようだった。
「……ちょっと失礼かもしれないですけど、変わった人ですね」
「だろ? だからあの社には何もないし、気になって見に行ったりしなくてもいいぞ」
「わかりました」
 輝行はホッと息を吐いて笑顔を浮かべる。
 しかし、安心したのは社のことがわかったからではない。
(やっぱり、基先輩は優しいじゃん)
 自分を気遣ってくれている。それがわかる。だから、基が自分に危害を加えるなんてありえない。そう結論付けることができたからだ。
「さて、そろそろ戻った方がいいんじゃないのか? 他の奴らも起き出す頃だろ?」
「あ、そうですね。朝飯の準備もやらないと」
「じゃ、オレは庭掃除と水撒きあるし」
「はい、失礼します!」
 勢いよく頭を下げて、輝行は玄関に向かって走り出す。
 頬を掠める高原のさわやかな空気が、後押しするように輝行の気分を軽くした。先ほどまで疑っていた自分自身が馬鹿馬鹿しくすら思えるほどに。

 輝行が戻っていく背中を見つめながら、基はくっと喉の奥で噛み殺したような笑いを小さく洩らした。
「……ホント、横木は単純で扱いやすい」


 久遠学院大付属高校陸上部の夏合宿が始まり、すでに四日目に突入していた。明日の夕方にはこの合宿所を後にし、本格的な夏休みに突入する。
 しかし、七月末から高校総体が始まるため、浮かれた気分になる暇もなく、むしろ練習にも熱が入る一方だ。
 輝行ももちろんこの四日間練習に没頭していた一人だった。亨に言われた言葉も気になってはいたのだが、何事もなく過ぎていくうちに徐々に頭の片隅に追いやられていた。
 一瞬疑ってしまった基は相変わらず優しく面倒見もよく、手が空いた時には練習を見てアドバイスも与えてくれる。疑ってしまった自分に馬鹿馬鹿しさを覚えるほどだった。
 何も変化がないおかげで、織月と話す機会も全くない。しかし、安心していられたのは昨日までで、今日はどうしても織月に相談しなければいけないような状況が差し迫っていた。その為に今、輝行は昼の自由時間を利用して織月の姿を探していた。
 けれど、探しながらも輝行はどうやって自然な流れに持ち込もうかと考えなければならなかった。
 あまり表立って話しているところは見られたくはないし、かといって周りがみんな関係者という中では誰にも見られずにというのも無理な話だ。困り果てながらも、探す足を止めるわけにもいかずに歩きまわっていると、二階の廊下に見知った顔を見つけた。そして、その隣には探していた人物までもがいる。
「基先輩」
「おう、横木。どうしたんだ?」
「あ、いや、ちょっと人を探してたんですけど」
 そういってちらりと織月を見る。織月はそれに気づくが、何の表情も変えずに黙っていた。
 織月の態度に特に疑問を抱きはしない輝行だったが、基と織月が一緒にいることは流石に少々不思議だった。
「何で、基先輩が各務と?」
「ああ、ちょっと気になったから話聞いてたんだ」
「気になったって……」
 ほんの一瞬、輝行に訝しげな表情が滲んでしまったのか、基は少し呆れたように笑って言葉を付け足す。
「練習見てて、だよ。宮崎と一緒にするなよな」
「し、してないですよ!」
 言葉では否定しつつも、その考えが僅かながら輝行の頭に浮かんだは事実だった。以前の自分ならば明らかにそんなことは考えもしなかったが、実は織月が整った容貌の持ち主であると知った今、隼人が気づいたのと同じく、基が気づいたとしても不思議はないと思えたのだ。

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