禍つ月映え 清明き日影

章之壱 清輝に惑う

参 疑惑 [01]

 大型の観光バスから次々と人が吐き出されてくる。
 ある者は、照りつける太陽を眩しげに、自らの手で遮るようにしながら。ある者は、クーラーで冷え切って固まってしまった体を解すように伸びながら。またある者は、バスに酔ってしまったのか少々覚束ない足取りで、友人に支えられながら。
 そんな彼らはまだ十代半ばといった年頃。そう、久遠学院大学付属高校の陸上部の部員たちだった。
「はーい、みんな道路に出ないでもっと固まってー!」
 降りてきた部員達に、大きな声を張り上げて誘導しているのは顧問の篠川みどりだ。
 部員が全員降りると、今度は中年の男性が運転手に挨拶を告げてから降りてくる。もう一人の顧問の芦田である。芦田はすでにバスでの移動で疲れ切ってしまったのか、部員たちへの指揮は完全にみどりに任せきりだった。
「とりあえず荷物全部出しちゃってねー! バスが帰れないからー!」
 厳しい暑さも何のその、みどりは元気よくてきぱきと指示を与え、さほど時間がかからないうちにバスはその場を後にすることとなった。
 部員たちは各々の荷物を探し当て、みどりの指示に従って一か所にまとまる。
「よし、じゃあ行きましょうか、芦田先生」
「そ、そうだね」
 みどりの溌剌とした促しに、芦田はもう少しゆっくりと休みたそうだったが、それでも渋る様子はなく重い腰を上げる。みどりは荷物のたくさん詰まった自分のカバンを軽々と持ち上げると、もう一声大きな声を響かせた。
「さ、合宿所までほんの五分ほどだから、ちゃきちゃき歩くわよ!」
 久遠学院は全国数ある高校の中でも、五指に入るほどの陸上名門校である。しかし、その部員数は男女各三十人弱。近隣の県からスカウトしてきた逸材もいれば、ただ陸上競技が好きで入部してきた者もいた。
 ただし中途半端な気持ちで入部すると、そこは名門。やはり練習は厳しく、入部して一か月も経たないうちに、初期入部人数の半数近くが脱落し、辞めていく。
 この夏休み突入直後の合宿に参加できる人物は、それなりにやる気や根性といったものを兼ね備えている部員ということに自然となるのだ。おかげで引率をするみどりたち顧問にとっても、指導しやすく助かっていた。
 ある意味精鋭部隊ともいえる部員たちをぞろぞろと引き連れながら、一行が目指す先は陸上部が毎年お世話になっている合宿所。合宿所と言うと小汚く手狭で古臭い印象を持ちかねないが、この建物はまだ新しく、設備も充実していて広々としている。
 合宿所のオーナーは久遠学院のOBで、その好意を受けて好条件の施設を破格の金額で借りられることになっていたのだ。
「なー、テルー」
「何だ?」
 荷物を肩に掛けなおし、額に汗を浮かべながら、隼人は隣を歩く輝行に呼び掛けた。
 輝行も同じく盛大に汗をかきながら答える。
「今年は合宿所に綺麗なお姉さん来てると思うか?」
「……何の心配してんだよ、おまえは」
 どこに行っても考えることは変わらない隼人に、輝行は思わず力が抜け、バッグが肩からずり落ちそうになった。慌てて担ぎなおすが、隼人はその話を真面目な顔で続けている。
「だってさ、合宿は五日間もあるんだぜ? その間にはやっぱり潤いってもんが必要だろう」
「女子ならいっぱいいるだろうが」
「またそれとは別! あーあ、去年みたいに可愛いお姉さんがバイトしてねぇかなー」
 隼人が大いなる期待を込めて呟くのには、ちゃんと理由があった。
 去年の合宿の際、たまたま合宿所でアルバイトをしていた大学生が、美人とまではいかないがなかなか愛嬌のある可愛らしい人物だったからだ。しかも彼女も陸上部経験者だったこともあり、話しかけると気さくに応じてくれる気取ったところのない人物でもあった。
 だから隼人も彼女を気に入って、暇があったら話をしに行っていた。そして何故か毎回当然のように輝行も連行されていたのだった。それを思い出した輝行は、呆れ交じりに前もって釘を刺しておくことにする。
「もしいても今年はついてかないぞ」
「わかってるって。テルにはちゃーんと心に決めた子がいるもんなー」
「……隼人、おまえまだソレ言ってんの?」
 ニヤニヤと笑いながら答える隼人に、輝行はますます疲労感を覚えた。
 隼人は何度言っても、輝行が織月を気にかけていると主張し続けている。もう半分は諦めかけているのだが、あまりに放っておくと隼人が織月に何を言うかわかったものではないので窘めないわけにはいかなかった。
「まーまー、照れない照れない」
「おまえがそういうこと言うのはもう諦めたけど、各務に変なことだけは吹き込むなよ?」
「おおっ! とうとう認めましたな、輝行君!」
「だーかーらー、違うって……」
 端からこちらの言い分を聞く気のない隼人に、輝行は頼むから大人しくしていてくれと心の底から願った。
 さすがに隼人の方も輝行の気持ちを尊重したいとでも思っているのか――そんな気遣いは大きなお世話でもあるのだが――織月と輝行を無理にくっつけようとは思っていないらしいことだけが救いだった。
「さ、着いたわよー! みんな、合宿所のスタッフの方にはちゃんと元気よく挨拶すること!」
 さほど歩くことなく辿り着いた合宿所の玄関前で、みどりが大きな声で呼びかける。それに部員たちはバラバラと返事を返した。
 いくら避暑地として有名な高原にあるこの場所が涼しいとはいえ、夏の暑い盛りである。すでにバテ始めているものもいれば、バス酔いから回復していないものもいて、当然の元気のなさだった。
 しかし、みどりはそんな情けない部員に活を入れる。
「こら! 気合いが足りん! 返事は大きな声で!」
「はいっ!」
 今度はそろって大きな声での返事が返った。普段は明るく気さくなみどりだが、怒らせると怖いことは部員全員が承知していたからだ。気持ちの良い返事に気分を良くしたのか、みどりはにっこりと満面の笑みになると、合宿所の玄関を開いた。
 いよいよ合宿の始まりである。
 合宿所の責任者に全員揃っての挨拶を済ませると、前もって配られていた部屋割どおりに各自移動を始めた。
 予定では一旦部屋に荷物を置き、再び集合して全体ミーティング、そしてその後は男女に分かれてのミーティングとなっている。
「去年も思ったけどさ、あの責任者の人結構若いよな?」
 部屋に向かいながら、隼人が少し声を落として輝行に話しかけてきた。
 代表者は隼人が言うように結構な若さに見える。推測でしかわからないが、二十代後半から三十代半ばあたりだ。隼人の声が聞こえていたのか、同室に向かう数人も話に混ざってきた。
「それ、俺も思った」
「あれくらいの年でこんな立派な場所経営してんだから、結構な金持ちなんじゃねぇ?」
「そうかもなぁ。しかもかなり安い金額で貸してくれてんだろ? 金持ちの道楽ってとこか?」
「ま、お陰で快適な合宿できるんだから、ありがたい話じゃん」
「そうそう。他の高校いった奴に訊いたら、結構どこの合宿所の汚いらしいしな」
 口々に思ったままを口にしているが、やはり感じることは同じらしく、羨ましそうに言いながらも感謝の気持ちの方が大きいようだ。それなりの期間滞在をするのだから、少しでも快適な方がいいというのは当然の意見だろう。
「あ、そういや今年まだ一人もスタッフ見てねぇや」
 思い出したように呟いた隼人に、その場の全員がそういえばと辺りを見回した。しかし、見える範囲ではスタッフらしき人物は見当たらない。
 前回の合宿の時はスタッフが六人ほどいた。これから嫌でも顔を合わすだろうが、隼人が気に掛けているのがそんなことではないとその場にいる全員がわかっている。そして、彼らも全員年頃の少年である。隼人の気持ちは全面的に共感できる事柄だった。
「今年は可愛いお姉さんいても独り占めするなよ、隼人」
「そうそう。去年のおまえひどかったぞ!」
 周りから揃って釘を刺され、隼人は誤魔化すように苦笑いを浮かべた。助けを求めるように輝行に視線を向けるが、自業自得とばかりに輝行は顔を背けて知らないふりを通す。
「ぬけがけ禁止だからな!」
「横木はちゃんと隼人見張ること!」
 わいわいと盛り上がり始めるうちに、輝行は隼人の監視役まで仰せつかってしまった。
 面倒を押し付けられた感もないではないが、言うほど困る内容でもない。むしろこれだけみんなに釘を刺されたら、隼人も去年の様なことを活発に行えないので、巻き込まれる可能性が減って助かったと言えるだろう。
「隼人、日頃の行いだな」
「そういうこと言うかー?」
「ほら、ぼやいてないで、さっさと荷物置いて行くぞ」
「チクショー。横暴だー」
 早くも当初の予定を大幅に狂わされてしまった隼人は、情けなく抗議の声をあげるが、誰一人同情を寄せることはなく、さっさと用意された部屋に荷物を放り込んでいった。
 なおも文句を言い続ける隼人に輝行ははいはいと宥めるような返事を返す。もちろん、真面目に話を聞いてなどなく、完全な生返事だった。
 そうこうしているうちに集合場所である食堂前のロビーに戻ってきた。
 ロビーは何故だか妙に盛り上がった声に溢れている。そして一人を取り囲むように出来た人の群れ。その群衆は不思議なことに二年と三年の部員ばかりで出来ていた。
 しかしすぐにその疑問も解決する。
 群れの中心にいた人物を認めて、輝行は思わず声をあげて駆け寄った。
「基先輩!?」
「よ。久しぶりだな、横木、宮崎」
 片手をあげて応える姿は、輝行も隼人もよく知った姿だった。去年まで同じ陸上部に在籍していた先輩の六条院基(ろくじょういん もとい)だ。基は輝行と同じく短距離の選手で、当時の部内ではナンバーワンの実力を持っていた。そんな基は、輝行にとって憧れの存在に等しい。
「えー? 何で基先輩がいるんすかー?」
「随分な言い草だな、宮崎。いつからそんな偉そうな口きけるようになったんだ? ん?」
「いてっ! 痛いってば、基先輩!」
 にっこりとさわやかな笑顔を浮かべたまま、基は隼人を捕まえるとすばやく左肘の関節を極めていた。そういえば基は陸上だけでなく武道も得意だったことを輝行は思い出す。
 今日の隼人はとことんついてないなと苦笑しつつも、頭の中に浮かんだ疑問を基にぶつけた。
「でも、本当にどうして? もしかしてここでバイトですか?」
「うん、まぁ、そんなようなもんかな? ここのオーナー、オレの親戚だから」
「ええっ!? 基先輩の家って金持ちなの!?」
 基の言葉を受けて、関節を極められたままの隼人が何とも率直な疑問を投げかけた。それに基は気分を害した様子もなく、呆れと溜め息の混じった苦笑を洩らした。
「別に金持ちじゃないって。オレんちじゃなくて、『オレの親戚』がオーナーなだけだから」
「なーんだ。基先輩と結婚したら玉の輿かもとか思ったのにー」
 話を聞いていた女子部員の一人が残念そうに呟くと、他の女子部員も倣ったように残念そうな溜息をつく。
「コラコラ、オレに対する愛情はないのか、おまえら」
「冗談ですよ、基先輩! 私たち皆、先輩のこと愛してますから」
「嘘臭いぞ、その笑顔」
 そう言いながらも、基の表情に不機嫌さはなかった。
 実際、基は陸上部では人気が高く、女の子からモテるという意味でもナンバーワンだったのだ。それを理解しているのか、基は本気で彼女たちの言葉を嘘だとは思っていないようだ。
「さて、もうミーティング始まるんだろ? みどりちゃんに怒られる前にさっさと行けよ」
「はーい! 基先輩、あとでお話してくださいねー!」
「せっかくなんで先輩も一緒に練習しましょう」
 基に促されて、名残り惜しそうに部員たちが一人また一人と食堂へと向かっていく。それぞれが基に声を掛け、基もそれにいちいち応えながら見送っていた。
「基先輩、手が空いたらでいいんで、練習見てくださいよ」
 輝行も例に洩れずそう基に誘いをかけた。
 輝行にとっては尊敬する大先輩がせっかく同じ場所にいるのだ。少しでもいい走りを見つける為のチャンスと言ってもいい。
 そんな輝行の思いを読み取ったのか、基は嬉しそうに満面の笑みを浮かべる。
「いいぞ。おまえにはオレも期待してるからな」
「ありがとうございます!」
「ほら、行った行った。みどりちゃんが恐いぞー」
「はい! 失礼します!」
 嬉しさのあまり、勢いよく頭を下げて輝行は食堂へと走り出そうとして、
「……あのー、基先輩? いい加減おれは放してもらえないんですか?」
 背後から聞こえる萎れきった隼人の声に足を止めた。完全に隼人の存在を忘れてしまっていたのだ。
「あ、隼人……」
「おまえは別にみどりちゃんに怒られてもいいだろ? というよりも、一度豪快に叱られとけ」
「基先輩、そりゃないでしょー!」
 どうやら基は隼人をいじって遊ぶことが楽しくて仕方ないらしく、わざと解放せずにいたようだった。
 哀れにも思えるが、基の言うとおり一度隼人は痛い目を見た方がいいのかもしれないと思っていると――
「基、茉莉が探してるぞ?」
 基を呼びにきた声に輝行は何となし振り返り、そしてその場で絶句して立ち尽くした。
 基は少々残念そうに隼人を解放すると、その声の主の方へと歩み寄っていく。
「もう戻るよ。あ、姉さんも一緒かな?」
「ああ。無駄にはしゃいでるけどな」
「それはいつものことだろう? おっと。んじゃな、横木、宮崎」
 そのまま二人並んで歩き出しかけたが、思い出したように振り返って基は挨拶を寄越す。しかし輝行はそれに反応もできずに、基ともう一人の人物の背中を見送った。
 織月とともに輝行を助けた、門の戻士である、守屋(もりや)亨。
(もしかして、常磐さんの指示で?)
 頭に思い浮かんだのは、常磐累の含みのある笑顔。どう考えても、亨がこの合宿所にいるのは、累の差し金でしかなかった。多分織月一人では荷が重いと思ったのだろうと容易に想像がつく。しかし輝行にとって常磐事務所の人間はあまり好意的には感じることができなかった。
(ま、もう一人よりはマシか)
 自分を守ってくれるためにわざわざ他県まで足を運んでくれているのだ。文句など言えはしない。何より響でなく亨であることが、輝行にとっては少しだけ救いだった。
 たった二回しか顔を合わせたことのない響だったが、輝行の中では印象が最も悪い。
 亨も印象がいいわけではないが、響ほどあからさまな嫌悪を向けられるわけではない。それだけでも充分に心持ちが違った。
「テル? どうかしたのか?」
 いつまでも基たちの消えた方角を見つめている輝行に、隼人が不思議そうに声を掛けた。
「あ、いや。ヤベっ! 早く行こうぜ!」
 隼人の呼びかけで我に返った輝行は、慌てて隼人を促し食堂へと駆け出した。とうの昔にロビーからは人気がなくなっている。間違いなく輝行と隼人が最後だろう。
 案の定、食堂にはすでに部員全員が集合しており、二人が辿り着いた瞬間に烈火の如きみどりの怒りの声が合宿所内に響き渡ったのだった。

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