禍つ月映え 清明き日影

章之壱 清輝に惑う

弐 揺光 [03]

 廊下を駆け抜ける足音。あちらこちらで上がる笑い声。
 輝行にとってはごく見慣れた風景だった。けれど、今日は校内に行き交う生徒の誰もが、何となしに浮かれているように思える。
 それもそのはず。明日から待ちに待った夏休みに突入するのだ。
 今日は一学期最後の日。嬉しさと緊張の混じる終業式。勿論、嬉しさは休みが始まるということに対して。そして、緊張は成績表が渡されるということに対して。
 もっとも、輝行にしてみれば、休みが始まることよりも、成績表が返されることよりも、もっと気になっていることがあった。
 それは夏休みに入って間もなく行われる、陸上部の夏合宿だ。そして、それを楽しみにしているのは輝行だけではなかった。
「今年も去年と同じところだよな」
「いいんじゃねぇの? あそこ綺麗だし、湖とかあって泳いだりも出来るしさ」
 雑談飛び交う教室内で、輝行と隼人の頭の中は既に合宿のことでいっぱいだった。学校には勉強より何より部活の為に来ているといっても過言でない二人にとって、合宿は楽しみ以外の何物でもない。明日には、合宿用の買い物に行くつもりでいた。
「今年は女の子も多いし楽しみだよなー」
「やっぱりそっちか」
「え? だって、どうせなら可愛い子が一緒の方が張り合い出るだろ?」
「まぁ、男ばっかりでむさ苦しいよりはいいけどさ」
 相変わらずの女の子好きな隼人の発言に、輝行は呆れた笑いを洩らす。と、丁度その時だった。
 突然流れ始めた音楽に、輝行は慌てて自分の携帯を探った。マナーモードにし忘れていたのだ。
 ディスプレイを見ると、そこにはつい最近メールアドレスを教えてもらったばかりの相手の名前。
「テル、ちゃんと音切っとかないと担任うるさいぞ?」
「ああ、今切った」
 隼人に言われるまでもなく、サイレント設定に切り替え、さっさと携帯をしまう。輝行の様子を見て、隼人は少し不思議そうに首を傾げた。
「……いいのか?」
「何が?」
「メールの中身、見てないだろ?」
 隼人の鋭い指摘を受け、一瞬言葉に詰まるが、輝行はすぐさまそれを否定した。
「したした。短い文だったから、すぐ読めただけ」
「ふぅん? 返事は?」
「後でいいような内容だしな」
「そっか? 別におれのことは気にしなくていいんだぞ?」
 親切なのか、興味本位なのか、隼人が妙に今のメールを気にしているのが気になる。今までこんな風に言われたことは一度もなかったからだ。
「別におまえに気を遣ってるとかそんなんじゃねぇよ。どうしたんだ、一体」
「いやぁ、何か最近さー、先に帰ったり、用事あるとか言って付き合ってくれなかったりとかすること多いだろ?」
「え、別に、そんなこと……」
 口では否定を唱えつつ、輝行は内心冷や冷やしていた。
 もしかしたら、自分が妙なことに巻き込まれていることを隼人に勘付かれてしまったのだろうか。
 どうやって誤魔化そうかと、理由を探し始める。が、なかなか上手い言い訳が見つからなかった。
(正直に話したって、信じてもらえるはずないだろうしな)
 それに話すとなれば、織月のことも話さなければならなくなる。そうなると、色々と面倒くさい。相手が隼人だけに、余計に。
「なあ、テル、正直に言えよ。おまえ、何か隠してるだろ?」
「そ、そんなことねぇって」
「嘘だ。怒ったりしねーからはっきり言えって」
「怒る?」
 真剣な顔つきで訊いてくる隼人の言葉に少し違和感を覚えた。どうやら、隼人が疑っていることは、輝行が知られることを危惧しているような内容でないようだ。
「……彼女、できたんだろ?」
「はぁっ!? 何でそんな話になるんだよ!」
 隼人の大いなる勘違いに、輝行は思わず声を上げた。その大きさに、一瞬教室中の視線が集中する。
「あ、ははは…。何言ってんだよ、隼人くーん」
 気まずい空気を苦笑でぼかして、輝行は少し頭を抱えた。それに隼人は少し残念そうな表情になる。
「何だー? 違うのかー?」
「んな暇あるわけねぇだろうが」
「そうか? 同じ部活なら、毎日顔合わせるし」
「……おい」
「おれ的にはウチの一年ではピカイチだと思うし」
「コラ、隼人」
「何たって、性格的に尽くしてくれそうじゃね?」
「だからっ! 誰のこと言ってんだよっ!」
 訊きつつも、輝行の胸の内には朧げに嫌な予感が湧き上がっていた。すると思った通り、隼人はニンマリとからかうような笑みを浮かべる。
「誰って、各務に決まってんじゃん」
「どこをどうしたら各務が出てくるんだよ」
 呆れたような不満げな表情をしてはいても、実際は輝行の心は穏やかではなかった。
 別に本当に輝行は織月とは何の関係もない。いや、全く関係がないと言ってしまえば、嘘になってしまうが、ただの陸上部の先輩後輩の間柄であることに変わりはない。
 ただ、輝行を狙う魔という存在が介入してくると、その存在が不可欠になる。織月は、今の輝行にとって大事な存在であることも確かだった。
 けれど、隼人が言うような関係を疑われるような素振りは、全く見せていないはず。そう思っていたが、隼人にはそう見えなかったらしい。
「だってテル、最近よく各務のこと見てるじゃん」
「え? オレが?」
「あ、もしかして無意識ですかー? 輝行くん」
 ニヤニヤと笑う隼人に、輝行は思わず顔が熱くなってくる。
 確かに、織月のもう一つの顔を知ってから、気にならないとは言えなかった。けれど、そんな風に隼人に指摘されてしまうほど、彼女を見ていたつもりはなかったのだ。
「べ、別に、見てねぇよ!」
「いや、見てますよ」
「見てねぇって!」
「いいねー、若いって」
「隼人っ!」
 まるで年寄りのような隼人の言い方に、輝行は必死になって否定する。それが余計に怪しさを抱かせるとは、露ほども気付いていない輝行だった。


 太陽が天頂から少し退き始めた頃。
 輝行は一人、曖昧になりつつある記憶を辿りながら、ある場所に向かっていた。目的地は、ただ一度だけ行ったことのある場所。
(……ってかよ、同じ場所に行くなら、どっかで待っててくれてもいいんじゃねぇの?)
 心の中で、つい数時間前にメールを送ってきた人物に悪態をつく。
 そう。陸上部の後輩である、各務織月に。
《先に常磐事務所に行っています。食事を済ませてからでいいので来てください》
 そんな簡潔な文章が、織月らしい。そう思いはしたのだが、すぐにそれは不満にとって代わられた。
 たった一度だけ、しかも頭の中が混乱しまくっている状態でただ後ろについていっただけの道筋を、はっきりと覚えているわけがなかったのだ。
 案の定、道に迷ってしまった輝行は、途方に暮れていた。仕方がないので、織月にメールを送り返すことにする。
 ポケットから携帯を取り出していじり始めた途端――。
「うおっ!?」
 突然鳴り響いた着信音に、思わず間抜けな声が出てしまった。
 少々怪しい自分の行動に、周りに人がいないか確認する。運が良いことに、この周辺は人通りが少ないらしい。ほっとして携帯電話に視線を移すと。
 液晶に映し出されたのは「各務」の二文字。
 とりあえず、通話ボタンを押し、
「どっかでまた見てんのか?」
 輝行はそう、辺りを見回しつつ第一声を発した。
『はい? 何を言ってるんですか?』
 意味のわからない様子の織月が、訝しげに訊き返す。それに尾行されていたわけではないのだと納得し、いや、とだけ返した。
『もしかして、場所わからないですか?』
「もしかしなくてもそうだよ」
『今、どの辺りにいますか?』
「どの辺りって、近くには目印になりそうなもんもないし……」
 織月の問い掛けに、もう一度辺りを見回すが、目立った店や看板などがない。周りを取り囲むほとんどが普通の住宅なのだ。
『困りましたね』
「あんまり困ってなさそうな言い方だな」
 淡々とした口調の織月に、思わず輝行は嫌味を言ってしまう。電話の向こうからは苦笑混じりに否定の声が返った。
『いえ、困ってますよ。……え? あ、はい』
「おい? 各務?」
 突然、織月が話の流れに沿わない返事をする。よく聴くと、背後で誰かが話しているような、遠い声が聞こえた。しばらく、織月の返事が返ってこないので、輝行はその場で立ち尽くす。
『……先輩、少しそこで待ってて頂けますか?』
「待ってろって、場所わかんねぇんだろ?」
『大丈夫ですから。じゃあ』
「え? おい!?」
 ようやく話が戻ってきたと思ったら、織月は言いたいことだけ言って電話を切ってしまった。もちろん、輝行はその場で呆然とするしかない。
「……何か各務、オレの扱いひどくねぇか?」
 ぽつりと呟き、またも思い出すのは、織月の告白。
 初めて魔に襲われた時にも夢だったのかと思ったが、今になってみるとあの日のことの方が、よっぽど夢のようだった。
 手持無沙汰になった輝行は、携帯を片手に時間を潰すことにする。慣れた手つきで無料のソーシャルゲームにログインし、いつもやっているゲームを始めた。仲間と協力して魔物を倒していく、カードゲーム形式のもので、内容はそれほど凝ったものではない。けれど、アイテムをコンプリートしたり、自分のカードを強く育てていくと達成感があり、それなりにハマるものだった。そう、少し前までは。
 画面に現れた魔物を数十秒とかからずに倒しながら、その呆気なさに溜息が零れる。
 輝行の目の前に現れた化け物は、こんな簡単には倒せない。現実はもっと理不尽で不公平だった。
「つまんね」
 一言呟くと、終話ボタンでゲーム画面を消し、携帯をしまった。
 その輝行の目の前を、ひらりひらりと白い蝶が横切る。住宅街には不似合いなその存在は、輝行の周りを馬鹿にするかのようにひらひらくるくると舞っている。
「白い……揚羽蝶……?」
 その蝶の姿は、よく見るとかなり奇妙だった。大きさや形は、どう見ても揚羽蝶なのだが、色は紋白蝶よりも真っ白だ。そんな蝶の種類は聞いたことがない。
「すみません、お待たせしました」
「各務?」
 蝶に気をとられていると、背後から声を掛けられた。勿論、そこにいたのは織月だ。すでに着替えを済ませ、今日も私服姿になっている。
 織月は側まで近寄ると、おもむろに輝行の周りを飛ぶ蝶に手を伸ばした。すると、蝶は重力に従ってはらりと落下する。そのまま織月の手の平に収まった。
「え? それ……」
 織月の手に落ちた蝶は、もはや蝶の形をとっていなかった。
 そこにあるのは、真っ白なレース素材のハンカチが一枚だけ。明らかに女物のそのハンカチは、やはり何度見てもただのハンカチでしかなかった。
「おまえ、そんなことまでできたのか?」
「いえ。これは借り物です」
「借り物?」
「その話もまた後で。とりあえず、人を待たせているので行きましょうか」
「あ、ああ」
 疑問を後回しにされたのは不服だったが、どこかもわからないような場所で話すのもどうかと考え直す。輝行は、素直に織月と並んで歩き出した。
 輝行が迷っていた場所は、思っていたよりもずっと常磐事務所に近かったらしく、数分歩いたところで見覚えのある小奇麗なマンションの姿が見えた。織月の説明によると、輝行は一本曲がる筋を間違えていただけらしい。
 前と同じように人気のないロビーを抜け、階段で二階へと上がる。事務所のドアを織月はノックもせずに開けると、促すように一度だけ輝行を振り返った。
 前に響や累と会った、いかにも事務所らしい部屋を抜け、その右手奥にある木製のドアの前で織月は立ち止まる。軽く拳を作り、コンコンコンと三回ノックをした。
 中からそれに答える声が聞こえると、織月は静かにドアを開く。
「織月です。戻りました」
 その部屋は、応接室なのだろう。
 落ち着いた茶色の革張りの、二人掛けソファーが一脚、一人掛け用が二脚。その間にはガラス製のローテーブルが据えられていた。
 壁には淡い色合いで描かれた風景画が掛けられ、薄いブルーのカーテンが揺れる窓際には、紫色の花が生けられている。
「ご苦労様、織月。それから……、横木君、わざわざご足労だったね」
「……いえ」
 一人掛けのソファーから累が立ち上がり、穏やかな笑みとともに二人を迎え入れる。
 その笑みがやはり嘘くさく感じて、輝行は思わず不快感を表しそうになったが、何とか堪えた。それよりも、気になったことがあったのだ。
 二人掛けソファーの、累が座っていた丁度正面に位置する辺りに、もう一人の人物の姿があった。
 白大島に藍染めの帯をきっちりと締め、こちらの様子を楽しげに見つめている妙齢の女性。淑やかで、お茶やお花が似合いそうな風情だ。
「宵子(しょうこ)さん、ありがとうございました」
 織月がその女性――宵子に向かって、先ほどの白揚羽のハンカチを手渡す。宵子ははんなりとした笑みとともに、それを受け取った。
「いえいえ、お役に立てたようで良かったわ。それで……」
 不意に、宵子の視線が輝行へと向けられる。それは輝行にとって、この事務所で出会った人物で初めてと言える好意的なものだった。
「貴方が、噂の『横木輝行』君?」
「え? は、はい」
「そう」
 にっこりと微笑む宵子は、そのまましばらく何も言わずに輝行を見つめている。
 ただ、じっと。
 無言で見つめられる居心地の悪さに、輝行は助けを求めるように織月に目線を送ろうとすると、
「やっだー! 織月ちゃん、ヒットよ、ヒット!」
 突然上がった黄色い声が、輝行には誰のものか咄嗟には判別できなかった。

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