禍つ月映え 清明き日影

章之壱 清輝に惑う

壱 少女 [03]

 いつもと変わらぬ級友たち。いつもと変わらぬ校内風景。授業の退屈さまでもがいつも通り。
 窓の外には、久方ぶりに澄み渡った爽やかな空が広がっているのに、忙しないセミの合唱が輝行のやる気をことごとく削いでいた。
 その上、クラスメイトが音読する明治時代の文豪の傑作は、まるで輝行を眠りへと誘う子守り歌のようだった。何度も欠伸を噛み殺し、舟を漕いでは我に返る。
 そんな輝行に、担当教師も気づかぬはずがなかった。
「はい。次、横木君」
「……え、は、はいっ!」
 突然の指名に一瞬で眠気が吹き飛び、慌てて教科書を持って立ち上がる。しかし、ほとんど目も耳も働いていなかった輝行は、どこから読めばいいのかわからなかった。
 咄嗟に隣の席の友人が、こっそりと読むべき箇所を指差してくれる。
 焦りながらも読み始め、段落の切れ目で教師から止められると、ホッと息をついて着席した。が、
「友達が親切で助かったわね。次はちゃんと寝ないで聞いていなさいよ」
「す、すみません」
 にこやかに嫌味をプレゼントされると、教室中から小さな笑いが零れた。
「はい、じゃあ次は――」
 教師の一言で笑いが収まり、授業が元の筋道へと戻っていく。
 焦りと気恥ずかしさですっかり目が覚めてしまった輝行は、素直に教科書を目で追いながら、小さなため息をついた。
 勉強は得意なわけではないが、比較的授業態度は真面目な方だ。その為、今日のように居眠りをして授業中に注意されることは滅多にない。
 にもかかわらず、今日の輝行は一日中睡魔と戦い続けていた。睡眠不足だったのだ。
 原因は夢見の悪さ。昨日の帰り道での出来事の所為で、繰り返し悪夢を見ていたからだった。
 トカゲの化け物に襲われ、しかも夢の中では誰も助けに現れない。もう駄目だと思った瞬間に目が覚め、再び眠りについても同じ夢が最初から始まる。結局目覚ましが鳴るまでそんなことを繰り返していたので、とても眠れたと言える状態ではなかった。
 それでも、常と変わらず朝練にも参加し、授業も耐えに耐え続けたのだが、最終授業まではやはりもたなかったようだ。しかも、よりによって、この現代文の授業の担当は、輝行の所属する陸上部の顧問である。きっと部活時に何か言われるだろうと思うと、ため息を零さずにはいられなかった。
(……でも、本当にあれは現実だったのか?)
 改めて昨日の出来事を思い返しながら、輝行は自分の喉元にそっと触れた。
 今朝歯を磨いているとき、首に全く違和感がないことに気づいた。よく考えれば、怒りに任せて手当ても受けず、常磐事務所から家に真っ直ぐ帰ったのだ。累が触れた時には確かに痛みを感じたし、傷を負っていたことは間違いない。傷が残っていたならば、母親に何か言われてもおかしくはなかった。けれど、母親にも妹にも何も指摘されなかったし、風呂で身体を洗った際にも、沁みるようなことはなかった。
(もしかして、夢だったのかも)
 そう考えた方が自然に思えるほど、昨日の出来事は非現実的であったし、今に残る痕跡もなかった。
 けれども、そう考えると納得のできないことがいくつも出てくる。
 常磐事務所と謎だらけの人物たち、そして意味のわからない幾つかの単語。それほど想像力が豊かではないと自負している輝行には、あれが自分の脳内で生成された出来事とは思えなかった。
「おい、テル! いつまでぼーっとしてんだよ!」
 突然ごく間近から声を掛けられ、輝行は驚いて顔を上げた。いつの間にか授業は終わっており、既に数人の生徒は教室を出ていっている。すぐ側に立つ声の主――親友の宮崎隼人(みやざきはやと)も、既に帰り支度を終え、部活に行く気満々な様子だった。
「もしかして、目開けたまま寝てたのか?」
「寝てねぇよ。ちょっと考えごとしてただけだっつーの」
 反論しながら、輝行も出しっ放しだった教科書やノートをカバンにしまい、席を立つ。
「ほほう? 悩みごとですか、輝行君。では、その悩みごとをずばりこの隼人様が解決してあげようではないか!」
「別に悩みってほどのもんでもねぇよ」
「まずは、何年何組の女子か教えてくれたまえ!」
「……は?」
 あまりにも脈絡のない隼人の言葉に、輝行は思わず間の抜けた疑問を投げかけてしまっていた。当の隼人本人は、どこか得意げにすら見える表情だ。
「だーかーらー! 『陸上が恋人』と言わんばかりの陸上バカなテルにも、恋の季節が到来したんだろ? 奥手な親友のために、この恋愛プロフェッショナルなおれが一肌脱いでやろうって言ってんの!」
「どっからどういう流れでそうなるんだよ。大体、いつ隼人が恋愛のプロになったんだ?」
 呆れとともに溜息を吐き出しながら、また始まったとこっそり辟易する。
 隼人は自他ともに認める女好きで、可愛い女の子を見れば声をかけずにはいられない性質だ。それだけならまだいいが輝行がそれに巻き込まれることも多々あった。その上、何かと輝行の恋愛事情に首をつっこみたがるのが困りものだ。
 輝行自身は現在、恋愛にも異性と付き合うことにも興味がない。もし、想いを告げられることがあったとしても、全て丁重にお断りしていた。しかし、それをどこからともなく聞きつけては、もったいないなどの言葉とともに、あれこれと詮索を始めるのだ。最終的には輝行に叱り飛ばされてやめるのだが、全然懲りている様子はなかった。それどころか、今回のようにまったく恋愛に関係のない話から無理やり結びつけたりと、何かと言えば恋愛話にしたがるのが隼人の欠点だった。
 これさえなければ最高の友達なのに、と何度思ったことだろう。しかし同時に、この性格が無くなったら無くなったで、隼人らしくないと思ってしまうもので、結局全部ひっくるめて隼人という存在が輝行にとっては大切なのだった。
「なーんだ、そうなのかー。テルにしては神妙な顔で考え込んでるもんだから、ついつい恋わずらいかと思っちまったぜ」
「『オレにしては』で悪かったな。どうせいつも能天気だよ」
「能天気さならおれの方が上だけどな! それより、もし本当に好きな子できたら、ちゃんと教えてくれよ! 告白まできっちりサポートしてやるからさ!」
 はいはいと適当な相槌を返しながら、隼人の口にした『告白』のフレーズに、つい二週間前の光景が頭に浮かぶ。それは、輝行にモヤモヤとした思いを抱かせているもう一つの原因だった。

 二週間前の練習終わりのこと。
 その日、輝行は練習後のグラウンド整備の当番になっていた。グラウンドの整備は男女それぞれ三人ずつという決まりだ。
 しかし、その日はたまたま輝行以外の男子の当番が、早退や急用で出られなくなってしまった。どうしても抜けられない用事があるのだと頭を下げた先輩に、「女子もいますから大丈夫ですよ」と快く送り出したのだった。
 だが、練習後のミーティングを終え、整備の為にグラウンドに戻った輝行は、予想外の展開に情けない声を上げた。
「え? 女子はおまえだけ?」
「はい、加西先輩は委員会の急用で、橋本さんは今日欠席だったので」
 控え目な声量で答えるのは、地味な印象の一年生だった。重たい印象を与える真っ黒なおさげ髪に、お洒落にはほど遠い黒縁眼鏡。肌も白くて、陸上部よりも美術部や書道部の方が似合いそうだと思いながら、輝行はその場でこの事態をどうしようかと考える。
 グラウンド全体をレーキで均すことと、倉庫内の練習用具の整理が当番の仕事だ。男女合わせて五、六人もいればさほど手間のかかる作業ではないが、それが二人となると大きく変わる。どれだけ急いでやったとしても、三十分はかかるだろう。
 しかし、今更誰かを呼びに行ったとしても、すでに帰り支度を始めてしまっている部員たちが手伝ってくれるとは思えなかった。それならば、と輝行は指示を待つ後輩に向き直る。
「えっと……。悪い、名前何だっけ?」
「各務です。各務織月」
「んじゃ各務、レーキだけかけるぞ。倉庫整理は今日ナシ」
 勝手に決めた輝行に、後輩の少女――織月は不安そうな表情になった。決められている仕事をしないと、先輩や顧問から叱られるのではないかと思ったのだろう。
「あの、いいんですか?」
「いいっていいって。女子部のヤツが何か言ってきたらオレが説明してやるし、あとでみどりちゃんにもちゃんと説明しとくから」
 織月が少々不安を残しつつも納得したようなので、輝行は作業を始めようと促した。
 グラウンド整備用のレーキをフィールド内からかけていく。ザリザリと土の上を滑るレーキの音だけがグラウンド内に響いた。
「各務って、専門は何?」
 黙々と作業するのも気まずくて、輝行は当たり障りのない会話を持ちかける。大人しそうな織月と会話が成立するのか、少しばかり心配だったが、それは杞憂に終わった。
「先輩と一緒ですよ」
「ってことは短距離か。てか、よくオレの専門なんて知ってたな」
「先輩は有名ですから」
 織月の言うとおり、輝行自身は中学時代から大きな大会で優勝や入賞をしている。陸上部に籍を置いていて、なおかつ同じスプリンターならば、知っていてもおかしくはないだろう。
 それでも、ほぼ初対面に近い相手に「有名だから」と言われると、少々気恥ずかしかった。
「各務も中学の時からやってたんだよな?」
「はい、一応」
 他愛もない会話が続く。そして、少しずつ綺麗に均された部分が拡がっていく。
 やがて、グラウンド全体が整い、二人揃って一息ついた。
「さて、コレ片付けたら終わりだな」
 役目を果たしたレーキを見ながら言うと、織月が輝行の持つそれにそっと手をかけた。
「私がやっておきます。先輩は先に上がってください」
「おいおい、変な気遣うなって。それに、女の子に二本持てるほど軽くねぇだろ」
「大丈夫ですよ」
「大丈夫でも――」
「あっ」
 ひょいと、輝行は織月の持っていたレーキを反対に取り上げる。ニッと笑い、顔で部室の方を示した。
「各務こそ先上がっていいぞ。山村先輩、待たされるの嫌いだしさ」
 部室の施錠は、それぞれ男女の部長の仕事である。もちろん、輝行や織月が整備を終えて部室で着替え、荷物を持って出ない限り鍵をかけることはできない。今も部長たちは二人が当番を終えて戻ってくるのを待っているはずだった。
「あの、でも」
「気にすんなって」
 女子部の部長である山村はかなりキツイ性格だと輝行は知っている。女傑と名高い女子部長相手に、この大人しそうな後輩が整備終了が遅れたことを上手く説明できるとは思えなかったのだ。だから先に帰してやろうとしたのだが、それでも織月は輝行に後片付けを任せることを渋っているようだった。
「いいから上がれって」
「でも、先輩に押しつけたりしたら、怒られるというか、責められるというか……」
「は?」
「もし先輩達にバレたら、あとあと面倒なんです」
「何が?」
 織月の言おうとしていることが、さっぱりわからない。首を傾げていると、織月は困ったように俯いてしまった。
「その、横木先輩は、女子の先輩達から人気があるんで……」
 小さく躊躇いがちに続けられた言葉に、輝行は言葉を失った。
 つまり織月の言い分は、『人気のある輝行に仕事を押し付けたことが先輩に知られると責められるから困る』ということらしい。
 しかし、自分が人気者だという自覚など輝行には一切なかった。
「……誰の話?」
「だから、横木先輩です」
「はぁー? ないない!」
 織月の言葉を真っ向から否定すると、織月はますます困惑したように表情を曇らせた。ついでに言えば、少々苛立ちも混じっているようにも見える。
「あるんですよ。だから困ってるんです」
「いや、ないって。気のせいだって」
「気のせいじゃないです! 私だって……!」
「え?」
 堪りかねたように声を上げた織月に、輝行は反射的に聞き返してしまっていた。
 我に返ったように、織月が口を噤む。その頬が、あっという間に赤く染まっていった。
 そのまま、お互いの間に沈黙が流れる。時間にして僅かなはずの静けさは、実際の何倍もの長さに感じた。
(まいったな)
 織月の様子から、輝行はこの先の展開を予想して気が重くなる。その予想は的中し、織月の強い想いの宿ったまっすぐな視線が、輝行に向けられた。
「私だって、横木先輩のこと、好きです」
 シンプルな飾り気のない言葉だった。けれど、その分だけ真剣な想いが伝わってくる言葉でもあった。
 その純粋な想いが嬉しくないはずがない。けれど――。
「各務、ゴメン。オレ、まだ各務のこと全然知らないし、彼女作ろうとかも思ってないし……」
 今までにも何度か口にしたことのある台詞だった。こういう状況に置かれる度に、下手な断り文句だと思うのだが、それでもこれ以外の言葉が輝行には思い浮かばない。
「今は、走ることばっか考えてたいし」
「わかってます」
 輝行が全部言い切らないうちに、織月はあっさりとそう告げた。まるで、先ほどまでの他愛もない会話たちと同じように。
 経験上初めての反応に、輝行は大いに戸惑った。これまで断る度に、相手の女の子は泣いたり怒ったり、とにかく自分に感情をぶつけてばかりだったのだ。
「答えが欲しかったわけじゃないんです。言いたかっただけなんです」
「各務……」
「ちゃんと聞いてくださって、ありがとうございました」
 ぺこりと頭を下げると、呆然としている輝行の手から織月は二本のレーキを取り上げる。それを引きずりながら、何事もなかったかのように用具置き場へと向かっていった。
 輝行はただ、その背中を驚きと感心に満ちた視線で見送るばかりだった。

 その後、部活で顔を合わせることがあっても、織月は以前とまったく変わりがなかった。それは、告白という衝撃的な事実などなかったのではと思わせるほどの変わらなさだった。
 だから、この日の出来事を輝行は次第に忘れつつあったのだ。昨日、化け物から助けてくれたのが、織月だとわかるまでは。
 そんな織月の告白シーンを思い返しながら、輝行は部室へ行き、着替えを済ませた。その間も、どこにも持っていきようのない感情が、ぐるぐると頭の中で渦を巻いている。
(告白しといて、『知り合いと言えなくもない』って言い方はやっぱりな……)
 まるで、輝行に告白した事実をなかったことにしたがっているかのようだった。もし本当にそうだったとしても、せめて『部活の先輩』とでも言ってくれれば、ここまで悶々とはしなかっただろう。
 はぁと溜息が零れかけたが、慌てて輝行は飲み込んだ。悩む様子を見せれば、また隼人が騒ぎ出すのではないかと思ったからだ。
 しかし、肝心の隼人は他の部員たちと何やら盛り上がっていて、輝行の様子にはまったく気づいていないようだった。少し聞いた限りでは、まだ恋愛談議が続いているらしい。
 よくやるよなと呆れながらも、本来の男子高校生らしい姿はこちらなのかもしれないと思う気持ちも少なからずある。とはいえ、自分は一つのことしかできない不器用な性格だから、陸上と恋愛の両立はやはり無理だった。
 着替えを終えると、隼人たちの会話のタイミングを見計らって声をかける。並んでグラウンドに出ると、一年生たちが練習に必要な用具を準備する姿が目に入った。その中に織月の姿を見つけて、輝行は無意識に凝視してしまった。
 昨日は誰もが見惚れてしまうほどの美少女に見えた織月の今の姿は、どこまでも地味で、どこまでも控え目で、とても同一人物のようには思えない。
「おー? テルは各務みたいな子がタイプなのか?」
 輝行の視線に気づいた隼人が、ニヤニヤ笑いとともに肩を組んでくる。その腕を鬱陶しそうに振り払いながら、輝行はそんなわけないだろうと冷たく返した。
「えー? でも各務可愛いしいいじゃん」
「……どこが?」
 隼人の不思議そうな声に、失礼だと思いながらも本気でそう問い返してしまった。
 輝行の感覚的に、織月の外見は可愛いとはとても言えない。特別に不細工というわけではないが、可愛いというには花が足りなさ過ぎるように思えた。
「わかんないの?」
「だから、どの辺が?」
「各務、めっちゃ顔立ち整ってるぞ? 眼鏡とあの髪型の所為でわかりづらいけど、ちゃんとした格好させたら絶対に可愛い。てか、美人系かな。すらっとしててモデル体型だし。個人的には、もうちょっと胸がある方が好みなんだけどな」
 つらつらと淀みなく並べ立てる隼人の言葉に唖然としながらも、輝行はもう一度考え直してみた。
 確かに、昨日の織月は、思わず息を呑んで見惚れてしまうほどの美少女に見えた。そして、髪や瞳の色が違っていても、顔立ち自体が変わっているわけではなかったから、輝行も彼女だと気づいたのだ。ということは、やはり隼人の言うことは正しいのだろう。
 ただし、素直にそれを肯定してやる義理は、輝行にはなかった。
「おまえさ」
「ん?」
「後輩の女子の、そんなとこばっか見てんのか?」
「お、帆香(ほのか)様だ。やっぱり別嬪さんだねー」
「人の話を聞けっ」
 輝行の指摘を誤魔化すように、わざとらしく隼人が視線をグラウンドの外へと向ける。そこにいたのは、校内でも有名な女生徒だ。
 隼人につられて視線を向けると、その生徒が軽く手を振っているのが目に入った。それに応えているのは、織月だ。

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