禍つ月映え 清明き日影

章之壱 清輝に惑う

壱 少女 [02]

「か、がみ……?」
 気づいた瞬間、吐息のような呟きが洩れた。
 その声を聞いてか、ゆっくりと少女が輝行へと振り返る。妖しくも美しい紫暗の視線を受け止めながら、輝行は確信と疑問をない交ぜにした問いをもう一度ぶつけた。
「各務、なのか?」
 輝行の問い掛けに、驚いたような表情を浮かべたのは、問われた本人ではなく、隣の青年の方だった。
「何? 織月、知り合いなわけ?」
「……まあ、知り合いと言えなくもないけど」
 窺うような視線を向ける亨に、少女――各務織月はさほど表情を変えず、溜め息まじりにそう答えた。
(言えなくもないって)
 織月の突き放したような言い草に、輝行は一瞬ムッとしたものの、我慢するように拳を握り締める。
 各務織月は、輝行の所属する陸上部の後輩だ。特別に親しいわけではなかったが、「知り合いと言えなくもない」と言われてしまうほど、関わりがないわけではない。
 更に、輝行の脳裏には二週間ほど前のある場面が過ぎる。今目の前にいる織月と、その時の彼女とが上手く重ならず、余計に輝行を苛立たせた。
「ちょっと待って」
「お? どしたー?」
 輝行の感情などお構いなしに、織月が無造作に近寄ってきた。
「な、何だよっ!」
 無言で近付く織月が、輝行の側に跪くと、至近距離まで顔を近づける。
 滅多に見ないほど整った顔がすぐ目の前という状況で、輝行は苛立ちも忘れて焦ってしまった。急激に早くなる鼓動を抑えられず、身動きも出来ずに固まってしまう。
 戸惑う輝行をよそに、織月の視線は日に焼けた首筋に注がれていた。輝行が化け物に捕まった際、ちょうど掴まれていた場所だ。強く締めつけられた所為か、それとももがいて擦れた所為か、赤くなって微かに鬱血している。
 しかし、織月が注目していたのは、その表面的な怪我の状態ではなかった。
「亨、響さんは事務所にいる?」
「と思うけどー? って、おい、それって……」
「『付紋(フモン)』されてる」
 織月が秀麗な顔を僅かに顰め、立ち上がった。亨もそれまでのだらけた様子が嘘のように、苦々しい表情で舌打ちを零す。
 何の話をしているのかさっぱりわからない輝行は、織月が離れてくれたことにほっと息をつくだけだった。
「まー、でも、あのクラスだったら、兄貴が何とかするだろー」
「だといいけどね。横木先輩」
 改めて名前を呼ばれ、視線を向ける。織月は再び膝をついて輝行と目線を合わせると、どこか困ったような微笑を浮かべた。
「すみませんが、ちょっと一緒に来てもらえますか?」
「い、一緒に来いって、どこに?」
「それほどお時間は取らせません。怪我の手当てもしないと、このまま帰ってはご家族も心配されるでしょう?」
 言われてみれば、制服は汚れ、首筋には明らかに絞めつけられたような痕がある。襟元のボタンを一番上まで留めたとしても、隠せるものではなかった。何より、この暑い時期にいつもは緩めているボタンをきっちりと留めていたりすれば、母親は間違いなく訝しむだろう。手当てさえしてあれば、言い訳を考えるのもさほど難しくはないと思い、輝行は素直に従うことにした。
 輝行が頷くと、織月は安堵したように軽く息を吐き、立ち上がる。
「じゃあ、行きましょうか」
 一言そう告げると、織月は亨と並んでさっさと先に歩いていってしまった。慌てて近くに落ちていたカバンを拾い上げ、後を追う。
 数歩進んだ時点で、周りの景色の変化に気づいた。無くなっていたはずの路地が、すぐ目の前にあったのだ。
(どうなってんだ?)
 つい数分前までは、四方は完璧な壁で囲まれていた。けれど、この景色が本来の姿なのだとわかる。わかるからこそ、輝行の混乱は深まるばかりだった。
 そんな輝行に追い打ちをかけるように、亨がチラと視線を投げかける。
「そういや織月、何でコイツ、ここにいたんだー?」
「それは私が訊きたいくらいなんだけど。亨、ちゃんと仕事してるの?」
「しっつれいだなー。してますよ、これでも」
「じゃあ、どうして……」
 会話の合い間に、何度も二人は輝行を振り返る。その居心地の悪さに、視線をすぐ横の塀へと逃がした。
 塀の向こうからは、僅かに家の明かりが洩れている。母親が子どもに向かって叱りつけるような声も聞こえた。
 そこではたと気づく。人の気配があるという事実に。路地に入った直後に、静か過ぎると感じたのは、単なる思い過ごしではなかったらしい。今ではささやかではあるが、塀の向こうのそこかしこから生活の気配が漂っていた。
 狐につままれたようとはこんなことを言うのかと思いながらも、輝行はただ無言で織月と亨の後について歩く。二人もそれ以上何も言うことはせず、躊躇うことない足取りで道を進んでいった。

 先に歩く二人に無言で従い、歩くこと十数分。辿り着いたのは、どこにでもあるようなごく普通のマンションだった。
 織月たちは慣れた様子で閑散としたロビーを抜け、エレベーターではなく階段で上がっていく。二回のフロアにつくと、一番手前のドアを亨が無造作に開く。そのドアには『常磐(ときわ)事務所』とだけ書かれた、シンプルな銀色のプレートが取り付けられていた。
 それとなく他の部屋の様子も窺ってみるが、どの部屋にも表札は出ていない。見た目は普通のマンションなのだが、不自然に生活感が欠如しているように感じる。そんな奇妙な場所に来てしまったことを、輝行は少なからず後悔し始めていた。だが、織月から目線のみで部屋へと促され、気が進まないながらも奥に進むしかない。
 しかたなく踏み込んだその先は、その名の通り事務所というより他にない様相だった。いくつもファイルの並んだスチール製のロッカーに、ビジネスデスクが三つ。そのデスクの上にはパソコンが二台あり、いくらかの書類やファイルが整然と置かれていた。しかし、室内に人の気配はない。
「兄貴ー」
 亨がやや大きめの声で呼び掛けると、右手手前のドアが開いた。中から二十代前半と思われる物静かな雰囲気の青年が現れると、二人に向かって穏やかな笑みを浮かべる。
「おかえり」
「ただいま、(ひびき)さん」
「あれ? 兄貴だけ?」
「(かさね)さんは少し出ているよ。すぐに戻ってくると思うけどね」
 纏う雰囲気は正反対であるが、兄弟というだけあって亨とその青年――響の顔立ちはどことなく似ている。そんなことを考えていると、不意に響の視線が輝行へと向けられた。
「で、彼は?」
 穏やかなままの、一般的に好青年と評されるであろう笑顔。けれど、輝行はその表情に言い知れぬ不快感を覚え、思わず眉間に皺を刻んでしまった。
 織月はそんな輝行の様子には気づかず、響の問いに答えた。
「例の『日隅(ヒズミ)』のところで『獣魔(ジュウマ)』に襲われてたから」
「あそこは、この間亨が封じたはずじゃなかったのか?」
「おいおい。まるでおれが悪いみたいな目で見るなよー。ちゃんとしましたよー。草薙(くさなぎ)さんの『封咒(フウジュ)』に何か問題があったんじゃねーの?」
 何やら聞き慣れない言葉がいくつも飛び交う中、響から再び送られた視線に、輝行の不快感は嫌悪感へと変わった。
 一見普通の、むしろ温和に見える態度だが、明らかに響は輝行の存在を歓迎していなかった。その証拠に、笑顔を浮かべてはいるものの、全く目が笑っていない。それどころか、敵意さえ感じるほどに、その瞳は冷めきっていた。
 織月に言われてついてきただけ。自分の意思でこの場に来たかったわけじゃない。そう思いはしたものの、輝行は空き地での出来事の説明と、傷の手当て待つしかできなかった。
「それはともかく、付紋されてるの。視てもらえる?」
「……わかった」
 織月の言葉を受けて、響が輝行の側まで歩み寄る。そうしてあの空き地で織月がしたように、傷ついた首筋を凝視した。
 しばらく静かに見つめた後、忌々しげに響は眉を顰める。
「織月、悪いがこれは俺には無理だよ」
 溜め息とともに吐き出された声は、言葉ほど申し訳なさそうではなく、どこか面倒臭そうにさえ感じた。
「兄貴で無理って」
「織月と同じく、王クラス以上の紋だ」
「じゃあ、あの獣魔は、眷族……」
「そういうことになるね」
 淡々と答える響に、織月の表情があからさまに曇った。亨も驚いたように輝行を見つめている。
「随分と厄介なものを拾ってきたね」
「なっ……!」
 蔑むような響の物言いに、思わず掴みかかろうと一歩踏み出した。しかし、
「拾ってしまったものはしかたがない。捨て猫ではないんだから、『元の場所に戻してきなさい』とも言えないだろう?」
 涼やかな、そしてどこか場違いな声が割って入り、輝行は毒毛を抜かれてしまった。
 声の先は玄関のドアのすぐ側。パーテーションにもたれるように、全身黒の洋服に身を包んだ、漆黒の髪の青年が可笑しそうに目を細めていた。歳の頃は二十代とも四十代とも見える。そして、年齢不詳さもさることながら、その身にまとう空気がどこか妖しさを湛えている。
「累さん」
「織月、しばらく彼の側を離れないようにね」
 漆黒の青年――累は音もなく歩み寄ると、織月の頭を優しく撫でながらそう告げる。そのまま視線を巡らせ、ピタリと止まった先は、話についていけていない輝行の元だった。
「君も、織月から離れないように」
「……は?」
 言われた言葉を理解するまで、少しの間があった。頭の中で累の言葉を反芻し、飲み込めた途端に、それまで忘れていた苛立ちが口をついて出た。
「な、何でオレが各務から離れないようにしなきゃならねぇんだよ!」
「君は狙われているんだよ。横木輝行君」
「狙われてるって、オレが何かしたってのかっ?」
「何もしてはいないね。とりあえず、不運だったと思って諦めてくれればいいよ」
 にっこりと同性でも見惚れてしまうほどに魅力的な笑顔で累は答える。しかし、言っている内容は、何とも乱暴極まりない。当然、輝行は納得できるはずがなかった。
「っざけんなっ! 何でオレが狙われなきゃなんねぇんだよ!」
「うん、そうだね。でも、それを説明すると長くなるから」
「意味わかんねぇだろ、それじゃ! だいたい、あのバケモンといいアンタらといい、何なんだよ!」
「それの説明も長くなるかな」
「馬鹿にしてんのか、テメェは!」
 怒りに任せて怒鳴り立て、詰め寄る輝行だったが、当の累はどこ吹く風といった様子で全く動じない。それどころか、どこか楽しむような風情さえあるのが始末に悪い。
「馬鹿になんかしていないよ。ただ――」
 不意に、累の表情から笑みが消えた。人形のように無機質な顔に、視線だけが刺すように鋭い。周りの空気が一瞬で零下にまで下がったような気がして、輝行はそれ以上言葉を告げられなくなった。
 そんな輝行の喉元を、累の指先が微かに触れる。ゆっくりとなぞるように動かされ、ちりりと微かな痛みが走った。
「下手に君に動き回られると、色々と面倒なことが発生してしまうからね。それを避けるためにも、監視は必要なのだよ。もちろん、君自身のためにもね」
「か、んし……だって?」
 ぞっとするほど冷酷な瞳をした累に、声を荒げて反論したいはずなのに、できない。呼吸一つすら難しいほどに、身体が強張っていた。恐怖のために。
「大人しくさえしていてくれれば、君のことはちゃんと守ってあげるよ」
 輝行の怯えを感じ取ったのか、累はもとの優しげな笑顔に戻る。一瞬で凍てついた空気が溶け去り、それとともに輝行は脱力した。が、すぐに我に返り、目の前の累を睨みつける。
 どう考えても累は、何もわかっていない輝行をからかって遊んでいるようにしか思えなかった。しかも、ここに来てから『監視』だ『面倒』だ『厄介』だと、好き勝手なことばかり言われている。挙句の果てには『守ってあげる』と上から目線な発言だ。
「……冗っ談じゃねぇ!」
 怒り、混乱、恐怖、嫌悪感、不可解さ。様々な感情が輝行の心の中でぐるぐると渦巻き、全く整理がつかないままに言葉となって溢れ出した。
「誰がテメェらみたいな得体の知れねぇヤツらに守ってもらうかよ! 自分の身くらい自分でどうにかするってんだ!」
 早口でまくしたてながら、累、響、亨と順に睨みつける。ピンチを助けてくれた織月にまで怒りを向けるのはお門違いな気もしたが、罵声を止めることはできなかった。
「二度とテメェらの面なんか拝みたくもねぇ! じゃあなっ!」
 言い終わるや否や身を翻し、足早にその場を後にする。
 憤慨して勢いよく出ていく輝行の背中を、四つの視線が様々な表情で見送っていた。
 一人は、さも楽しげで、満足しているかのように。
 一人は、完全に呆れ果て、侮蔑するように。
 一人は、驚きながらも、感心するように。
 そして一人は、どこか困ったように、憂い顔で。
「織月」
 短く、累が呼び掛ける。織月は誰もいない玄関へと向けた視線をそのままに、答えた。
 わかっています、と、ただ一言だけ――。

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