禍つ月映え 清明き日影

章之壱 清輝に惑う

壱 少女 [01]

 じっとりと湿り気を帯びた熱気が、身体中にまとわりつく。夜空に白く浮かぶ円い月を包み込む薄雲が、まるでそれを具現化しているようだった。振り払うように足を速めても、涼が得られるどころか、余計に暑さを助長するだけ。
 早く家に帰りつきたい。横木輝行(よこぎてるゆき)は切実にそう思っていた。
 時節は、いよいよ夏が本格化しようとしている七月。時刻はもうすぐ午後八時になろうという頃だ。
 昼間はうだるように暑く、それに耳障りな蝉の鳴き声などもあいまって、とても授業など聞いてはいられなかった。夕刻を過ぎても暑さが緩む気配はなく、陽の完全に落ち切ったこの時間でさえ、まだ余熱を多分に残している。
 ここ数日、天候が優れなかった所為で湿度も高く、それに比例して不快指数も上昇する一方だった。風が生温く湿気を含み、部活を終えて汗をかいた身体に、より一層の不快感を付け加えていた。
 陸上部のキツい練習で疲れ切った身体を叱咤しながら、輝行は黙々と自宅へ向かって足を動かす。
 とにもかくにも先ず風呂に入り、この気持ちの悪さを払拭したい。そして料理上手の母親が作った夕食を腹いっぱい食べ、その後は好きな音楽でも聴きながら、ベッドに寝転がって漫画でも読もう。そんなことを考えながら、急ぐ足を更に速めたが、すぐに少しばかり後戻りをした。
 目線の先には、街灯の光も届かない細い裏路地。当然、人気も全くない。
 その路地の先は、長く空き地になっていて、そこをつっきると自宅のある団地の裏庭に出ることができるのだ。いわゆる『近道』である。
 その空地は私有地なので、入っていいわけはない。だが、今の輝行の理性には、風呂と食事への欲求に打ち勝てるだけの力はなかった。
 こんな時間ならば、誰かに見つかることもないだろう。そう軽く考えて、暗い路地へと足を向ける。
 それが、輝行の今後の人生を大きく変える選択になるとは、その時は微塵も思っていなかった。

 細長いその道は、もともと私道のようだった。街灯などはなく、両脇の家々も塀に囲まれているため、予想以上に圧迫感がある。更に、つい先ほどまではささやかながら朧げな光を零していた十六夜月も、今は完全に厚い雲の陰に姿を隠してしまっていた。
 周囲の明かりは皆無に等しい。それでも暗闇に充分目が慣れていた輝行は、しっかりとした足取りで先を急いでいた。しんとした闇の中、自分の足音とカバンの中身が揺られる音だけが、規則的に響く。
 だが、次第にその静寂が奇妙に思え、輝行は歩みながらも辺りを見回した。
 この辺りは住宅街で、周りもほとんどが民家のはず。すぐ横に続いている塀の向こう側にも、誰かが生活しているはずなのだ。
 そのはずなのに――静かすぎる。話し声が聞こえない。テレビの音も聞こえない。風呂の音や、台所の音も。
 そんなことを思い、不安を感じたその瞬間。
 ――ひた。
 奇妙な音が、耳に届いた。足音、と言えなくもない。
 ――ひた、ひた……。
 否。紛れもなく、足音だった。そしてそれは「靴音」ではない。プールサイドを裸足で歩くような、どこか濡れた音だった。
 背中にそれまでとは違う冷たい汗が流れる。暑くて堪らなかったはずなのに、悪寒が身体中を駆け抜けていた。
 背後から近づいてきているだろうナニカに、振り返るなと本能が危険信号を送っている。
 振り返ってはいけない。同時に、焦ってもいけない。できる限り自分を落ち着かせるように言い聞かせながらも、輝行は少しずつ足を速めた。すると足音も、合わせるように歩調を上げる。むしろ、追いつかんばかりに、一気に速まったように感じた。
(ヤバいっ!)
 追いつかれたらどうなるかなどわからない。けれど、ろくでもない結果しか輝行の頭には浮かばなかった。
 背中越しに伝わってくる言い様のない不気味な気配に、押し出されるように走り出す。そして、恐怖に堪え切れなくなった輝行は、背後を一瞬確認した。確認、してしまったのだ。
(な、んだよ、アレ……)
 我が目を疑った輝行は、再度背後に視線を向け、今自分が置かれている状況を激しく否定したくなった。
 二足歩行のトカゲ、とでも言えばいいのだろうか。しかし、身長は輝行よりもずっと高く、ゆうに二メートルを超えているだろう。黒光りする鱗に覆われた皮膚、腕や肩は逞しく盛り上がり、手には鉈のような凶器を持っている。それが、輝行と同様のスピードで追ってきていた。
(ちょっと待てよ! こんなの夢だろ!)
 現実ではありえないこんな事態も、夢ならばおかしくはない。よくやるゲームにも、これに似たモンスターなら出てくる。
(夢ならさっさと覚めろよ!)
 誰に向けられたのかもわからない罵倒を頭の中で繰り返しながら、ようやく路地を抜け、空地へと辿り着く。家まではあとわずかの距離。このまま逃げ切れれば、と思った直後――背後で地を蹴るような音。暗い影が真上を過ぎったかと思うと、トカゲの化け物が輝行の行く手を塞いでいた。慌てて方向転換し、出てきたばかりの路地へと戻ろうとする。が、
「え?」
 目の前にあるはずの路地が、消えていた。確かに、ほんの数秒前に通ったはずなのに。
 振り返ると、巨大トカゲがじりじりと距離を詰めている。焦って周囲を見回すも、どこにも出口はない。四方がぐるりと壁に覆われてしまっていた。
「う、ぁ……」
 声が震える。悲鳴にも言葉にもならない。
 一歩、また一歩と輝行が退くと、一歩、また一歩と異形も近づく。やがて輝行の背中が壁につき、トカゲはすぐ手の届く位置で立ち止まった。ぬっと鋭い爪を備えた左手が、輝行の喉元へと伸びる。逃れようと振り払っても、頑強な手はびくともせず、容易に輝行の首を捕まえた。
「うぐっ」
 呻き声をあげる輝行に、トカゲは観察するようにグッと顔を近づける。
《コレハ、ナカナカノ拾い物ダ》
 生臭い息と軋んだ声が、輝行の顔吹きつけられる。
 言葉を喋れることは驚愕だったが、息苦しさがそれを上回っていた輝行は、必死にトカゲの手を放させようともがいた。けれど、圧迫された喉から、酸素を求めるヒューヒューと頼りない音が洩れるばかり。トカゲの手は一向に緩まなかった。
《『あの方』ヘノ良い土産ガデキタゾ》
 満足そうな化け物の声を聞きながら、徐々に意識が薄れていく。なおも呟くよう声がするように思えたが、白み始めた頭では何も認識できなかった。
(オレ、死ぬのかな……)
 遠くなる意識の片隅で考えたのは、そんなこと。そして、その後はどうでもいいようなことばかりが、脈絡もなく思い浮かぶ。
(隼人に借りてた漫画、返してねぇや。そういや、明日整備当番だけど、誰か――)
 そのまま気を失いかけた瞬間、気味の悪い呻き声が輝行の聴覚を刺激した。それとほぼ同時、乱暴に地面に投げ出された痛みで、完全に意識を取り戻す。喘ぐように空気を取り込みながら、何が起こったのかと顔を上げた。
 目の前にいたトカゲは、苦悶の表情を浮かべながら、右手で左腕を庇うように抱いている。そして、本来あるはずの肘から先がなかった。
 いや、あることにはある。輝行の倒れている場所から少し離れた地面の上に。
 何が起きたのか状況が飲み込めないでいると、
「こんなに月が明るいのに、出てくるなんて不用心」
 嘲りと憐みを含んだ声が、耳に届いた。
 弾かれたように化け物が声の方向へと振り返る。輝行もごく自然にそちらへと視線を向けていた。
「……お、んな?」
 少し離れたブロック塀の上、不敵な笑みを浮かべた少女が一人佇んでいた。その容貌を明らかにするように、雲の切れ間から皓々と輝く月が現れる。
 月光が曝け出したのは、輝くような銀髪。妖しく笑みを形作る唇は紅く、挑戦的で意志の強そうな瞳は、魔性を帯びた紫暗だ。
 僅かな月明かりの中でもはっきりとわかる、人とは思えないほどの美貌に、今の状況も忘れて見惚れてしまった。
《キ、サマッ!》
「遅いよ」
 怒りに任せて武器を振るうトカゲをからかうように、少女は軽やかに攻撃をかわす。そのまま跳躍して、輝行を背に庇うように立ちはだかった。
「少しの間、大人しくしててくださいね」
「え?」
 短く告げられた言葉が、自分に向けられているのだと理解した時には、少女は既に駆け出していた。その細く白い手には、少女の髪と同じように輝く銀色の刃がある。
「ちゃんと、元の姿に返してあげる」
 冷たく簡潔に、少女は告げた。
《クッ……コンナ小娘風情ニ!》
「小娘だからって、『戻士(レイシ)』を見縊る時点でそっちの負け」
 たじろぐ化け物に、少女は冷淡かつ妖艶な笑みを向ける。体勢を立て直そうとするトカゲだったが、声すら出せない様子で、不自然に固まった。その足元には、いつの間にか放たれた小さな刃が、取り囲むように六つ、等間隔で打ち立てられていた。刃は微かに発光し、それぞれの点と点を結んだ図形が地面に浮かび上がる。
《ヤ、メ……》
「悪いけど、そのお願いを聞いてあげる義理はないの」
 最期の悪足掻きのような懇願を断ち切って、少女は優雅に右手を舞わせた。白銀の煌きが、空を裂き、化け物の身体を貫く。刃はそのまま弧を描いて、少女の手に戻ってきた。
 それが合図であったかのように、化け物の身体は乾いた砂のように崩れ去り、サラサラと風に流されてゆく。断末魔の声が上がる暇すらなかった。後には、白銀の光を帯びた陣の中央に、青白い朧な光の塊が残っているだけ。
 一部始終を、輝行は呆然と眺めていた。まるで映画やドラマでも見るように、非現実的な感覚で。ほんの数分前まで、自分が当事者であったにも関わらず。
 ふわりと優しい風が輝行の頬を撫でる。同じ風が少女の銀髪も揺らしていく。その姿はひどく幻想的で、月の女神のようだと非常に自分らしくない比喩が頭に浮かんだ。
 そんな輝行を気にかける様子もなく、少女は唐突にくるりと振り向いた。つられて輝行も同じ方に目を向ける。目線の先は、少女が最初現れた辺りだ。
「(とおる)、いつまで寛いでるつもり?」
「あー? 終わったら呼んでって言ったでしょー?」
 いつからそこにいたのか、くわえ煙草の青年が何ともだるそうな様子でブロック塀にもたれかかっていた。軽く塀を蹴った勢いでその場を離れると、両手をポケットに突っこんだままで少女の方へと近寄ってくる。
「いつものことだけど、やる気なさ過ぎ」
「織月(しづき)さんはいつもやる気あり過ぎですねー」
「馬鹿にしてるでしょ」
「シテナイシテナイ」
「……とにかく、さっさと終わらせてくれる?」
「ほいさー」
 緊張感の全くない様子で、亨と呼ばれた青年は、織月の側で今なお淡い光を零している六本の刃の陣へと向き直った。
 自分の存在を完全に無視された形の輝行だったが、かける言葉も見つからず、ただただ二人のやりとりを眺めるばかり。
 けれど、何かが妙にひっかかる。その『何か』がなかなか掴めず、もどかしかった。
「ソハジョウ、コハケン。カイセシモンニ、キセルコン――」
 流れるように亨が紡ぎ出す言葉は、聞いたことがないものだった。けれど、すぐにそれが特殊な呪文のようなものなのだとわかった。
 光の陣の六つの辺が徐々に狭まっていき、中央の陽炎のような光の塊が飲み込まれてゆく。やがて光は漆黒へと塗り変わり、何事もなかったかのように夜闇に溶け込んでいった。
「はい、オシマイー」
「まったく。もっとてきぱきやってくれる?」
 呆れように呟く少女の姿を、輝行は身動きも忘れて見つめていた。
 そして、ようやく気づいたのは、少女が身につけているその衣服。白いポロシャツに緑を基調としたチェックのスカートは、輝行が今身に着けている制服と揃いの物だった。
 更にまじまじと見つめて、あっ、と小さな驚きの声を上げた。
 銀髪と紫の瞳という日本人離れした二点にばかり気を取られていた。けれど、覚えのある声と顔。そして、名前。

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